灯り

やまとピース

子供時代

彼女の名前はアカリ。


スターリンによる恐怖政治が敷かれていた1937年にレニングラードに生まれた。タタール人の母とユダヤ系ロシア人の父を持ち、7つ上にシシという名の兄がいた。アカリには赤ちゃんの時の記憶があって、寝かされていたベッドの縁の柵やシーツの柄、時々風に揺れるカーテンや天井にぶら下げられたクルクル回るおもちゃまで、古い映画のシーンの様に思い出す事ができた。それを聞いた大人はいつも笑って相手にしてくれなかったが、名の知れた文豪も同じような記憶があることを知って、アカリはそれが自分の稀な文学的才能の証拠の様な気がして誇らしかった。


歩き始めてからの記憶もあるのだろうが、その頃の事を思い出そうとすると必ず思い浮かぶ場面が邪魔をする。彼女が3歳の時、ドイツ軍がソ連に侵攻し、レニングラードは包囲されたのだ。そこからヒトラーによる飢餓計画の下、生活に必要な水道、ガス、電気施設だけでなく食糧庫なども破壊される中、1944年1月に開放されるまで市民は2年以上もの間抵抗し続けた。多くの人々が餓死する中、アカリのお父さんは配給された少量のパンをきっちり4等分して、それらをまた注意深く3食分に分けた。アカリは外の事はよく分からなかったが、お皿に乗せられた一切れの薄いパンの事はよく覚えている。アカリはいつもお腹が空いていて、出されるなり慌てて口に入れるけど、驚くほどあっと言う間にパンは消えて無くなるのにお腹はちっとも満たされなくって、ゆっくり食べている母親のパンを見られずにはいられなかった。


お父さんはそんなアカリを見て、「アカリ、お母さんを見ちゃいけない。お母さんはお前が大好きで、そんなに見ると、お母さんのパンをお前にあげたくなるだろう。でも、そしたらお母さんはお腹が空いて明日死んでしまうかもしれない。死んでしまうとお母さんに会えなくなる。そんなの嫌だろう。」、と優しく言った。『会えなくなる…』という言葉に驚いて、母親を見た。母親は、「ごめんね…」と、きれいに折りたたまれた小さな花柄のナプキンで目元を抑えた。それからアカリは食べ終わったら、皆が食べ終わるまで俯いて待つ様になった。いい子にしていると、食事の後、父は決まって大きな本棚の前に立ち、時間を掛けてその日のための一冊選んで、アカリを隣に座らせると感情豊かに読んでくれた。お話を聞いている時だけはお腹が空いたのを忘れた。


そうやって、アカリの家族は一日、一日と過ごし、奇跡的に4人揃って包囲戦を生き抜いた。家族全員が生き残った例は皆無に等しかったから、近所の人はみな口を揃えて何か悪事を働いて優遇されていたのだろうと陰口をたたいた。戦争が終わって、ようやくある程度食べ物が手に入る様になってからも、アカリの食は細くてあまり食べられず、いつになっても小さく痩せっぽちのままだった。ある日、心配した叔父がやってきて、家族と一緒に食卓についた。少し食べて、もうお腹が一杯と言うアカリを見て、叔父さんはポケットからキレイな色の紙に包まれた飴玉を一つ取り出した。

「アカリはいい子だから、今日は特別にお土産を持ってきたんだよ。でも、デザートは食後って決まってるんだ。お皿のご飯、ちゃんと食べられるかな?」

デザートと聞いて、甘い味なんて覚えていないはずの口の中にジュワっと唾が溢れた。アカリはどうしてもそれが欲しくて、その日初めて、出された食事を完食した。それを見て、家族は手を叩いて喜び、アカリは家族の笑顔と飴玉の甘さを一緒におぼえて、嬉しくなった。叔父さんも嬉しそうに「偉いな、アカリは!今度来る時また持ってきてあげようね。」、と約束したけれど、次の飴玉はなかなか現れなかった。それでも、その日からアカリは出された物はちゃんと頑張って食べるようになった。


そうして、ようやく平和な日々が戻ってきたと安心した矢先、家族を優しく強く励まし守ってくれていた父が突然逮捕されて、十年の強制労働の刑に処せられて遠くシベリアの矯正収容所に送られてしまった。褒美目当てに誰かがスパイだと密告したらしかった。長年に渡る父親の収監中、アカリと母親と兄の三人は先の見えない苦しい暮らしを余儀なくされた。そんな中でも兄のシシはアルバイトで家計を支えながら勉学に励み医学部に進学した。ソ連時代は学費が無料だったから努力さえすれば貧富に関わらず大学の門は誰にでも開かれていた。そして、彼女が高校生の頃には医者になって一家の頼もしい大黒柱となった。同じ頃、スターリンが急死して、多くの囚人が解放されて、刑期満了までまだ数年あった父が帰ってきた。父は変わらず優しかったが、口数が少なくなっていた。収監中の話はほとんどしなかったが、唯一笑顔で見せてくれたのはシベリアで知り合った日本人抑留者から貰ったという小さな置物だった。日本という国が遠いアジアの端っこにある事は知っていたが、それまで特別な感情はなかった。でもその置物を見て、父親の笑顔を見て、寒いシベリアの牢屋を想像し、初めて日本に住む人の事を思った。祖国を離れる時に持ってきた大切な物を、なぜ何もお返しのできない囚人にあげてしまったのか。興味が湧いて日本の小説の翻訳版を探して読むようになった。父が帰ってきた事で少し広めのアパートが支給されて年金も入るようになった。兄はほどなくして結婚し実家を出たけれど、必要な時は奥さんに内緒で援助してくれていた。ようやく暮らしが少し上向いた。


平穏な暮らしがようやく訪れて、アカリは時々親に嘘をつくようになった。それまでは母親に隠し事などした事がなかったけど、大人になり始めたアカリの心は少しずつ自由を求め始めていた。


「恋ね。恋が私が籠の中の小鳥だった事を気付かせたの。籠の中は危険もないし、そりゃ快適よ。でも、ハラハラする事もドキドキする事もないじゃない?恋をすると、空がそりゃぁ綺麗に見えるのよ。でも親が苦労して作り上げた安心を急に否定して悲しませる事なんて出来っこないでしょ。だから、どうしたって、嘘は必要になるわ。思い遣りの嘘がね。」

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