第18話 「エスプレッソですからね」

【幕間】


 白磁のポットから、挽きたてのコーヒーがなみなみとカップに注がれる。


「どうぞ。熱いですよ」

「ありがとう。いただこうか」


 温かなカップを手にすれば、そのかぐわしい香りが鼻に抜け、多忙で混迷極まる日々にささくれだった心を癒してくれる。

 革張りの椅子にどっしりと腰かけ、窓より望むは都市エルドレムダの変わりなき──否、民が戦い勝ち取った平和な街並み。

 差し込む陽光に輝くサングラス、その奥の深淵たる眼が見通すのは、果たしてこの国の未来か、それとも──


「あっっっづぅっ!!」

「だから言ったじゃないですか、熱いって」

「限度があるよ君……私は猫舌だと、前にも言っただろう」


 監察局の長、ブレンデッド・マドラーは本部〈セブンス・ヘヴン〉の執務室にて、副官の女性と午後のわずかな小休止を過ごしていた。

 カップに何度か息を吹きかけて、局長がおっかなびっくりコーヒーをすする。


「しかもこれ、ちょっと苦すぎないか? 私は微糖派なんだが……」

「エスプレッソですからね」

「なんか普段より量も多いし」

「エスプレッソでしたからね」


 給仕用ティーテーブルの横で、実行犯の副官がすまし顔で告げる。


「もしかして君……怒ってるのかね?」

「……自分には、納得できません」


 副官は苦々しそうに、視線を下に落とす。それを聞き、局長はまぶたを長々と閉じて、深く椅子に座りなおした。

 デスクのソーサーにカップを戻し、肘をついて局長の両手が組まれる。


「君は、局長判断に異を唱えるのか?」

「あ……当たり前です! 神聖なる宝物殿に踏み入り、あまつさえ秘宝を盗み出した国賊をなど……女神エルドがお許しになるはずありません!」


 局長の発するプレッシャーに気圧されながらも、副官は敬虔なエルドの信徒としてもっともな怒りを吐き出した。

 マリアンジュ・リングを含め、かつてこの夢天界には七つの秘宝が存在した。しかし、その内の二つは既に戦禍で失われ、残存する秘宝も今では各国の厳重な管理下にある。

 夢天界の中心国家であるエルドレムダが秘宝を三度失ったとなれば、国威は地に落ち、女神エルドを信ずる民たちの人心は荒むだろう。

 太古の時代、女神エルドに賜ったとされる七つの秘宝には、エルド教徒にとってそれだけの重みがあるのだ。


「なぜ娘さんを、キルシェ・ヒリングを捕まえ、取り返しに動かないのですか! ……親の情なら、それは公私混同というものです!」


 副官がデスクを叩き、局長に詰め寄る。カップが揺れ、何滴か溢れたコーヒーの雫が近くの書類に染みを作った。


「私の意志ひとつで、占星評議会の連中を黙らせられるはずがなかろう」

「ですが、現に評議会は決定を……!」

「いいかね、君。この夢天界は、なぜ今も無事でいると思う? 現人の夢に蟲が蔓延はびこれば、簡単に十三年前のように滅びかねない、そんな儚く危うい我らが世界が」


 局長はデスクの引き出しからガラスのシュガーポットを取り、フタを開ける。

 話を逸らされ、副官が鼻白む。


「……それは、エルドの加護の下、我々〈監察官〉が蟲を滅し続けているからで……」

「違う。正確には、蟲を“滅して“はいない。ただその力を奪い、存在を圧縮し……小さく押し固め“封じて”いるだけだ。天使……いや、ネフェルを除いてはな」


 シュガーポットに詰め込まれた角砂糖を、局長が一個つまみ上げ、指先で転がす。


「言葉尻を掴まないでください! ……馬鹿にしているんですか?」

「違う。私が言いたいのは、その“蟲の種”を真に滅することが可能な者に、我々は依存しているということなのだよ。封印しかできないのなら、種は積み上がる一方だからな」


 ぽちゃりと角砂糖がコーヒーに沈み、また別の角砂糖を局長が容器からつまみ上げる。一個、また一個と、コーヒーにいくつもの角砂糖が入れられていく。

 苦虫を噛み潰したような顔で、副官がそれを傍観する。

 銀のティースプーンでかき混ぜられ、多量の角砂糖が溶け切ったコーヒーを局長は一息に、喉を鳴らして飲み干した。


「ふむ……君のエスプレッソも、たまには良いな」

「……そんなことしてたら、そのうち、病気になっちゃいますから」

「構わんさ……それで、だ。かの英雄は既になく、矮小な我々が頼れるのはもはやあの御方ただ一人、というワケだ。その御言葉を無視できる者が、この世にいるかね?」


 局長が空のカップを置き、背もたれに腰を預ける。

 副官は眉間に皺を寄せ、ハッと目を丸くした。


「ま、まさか……」

「──〈巫覡帝ふげきてい〉が、目覚めたということだろう。局長殿?」


 副官の後ろで、執務室の扉が音もなく、静かに開いていた。

 まるで気配を感じられず、副官は声を聞いて初めてその少年に気付いたほどだった。


「そういうことだ……カルダ君」


 監察局の超新星ルーキー、ローブ姿のカルダ・レンジヒルがそこにいた。

 副官は気配を察知できなかったことに恥じ入りつつ、彼をやんわりと咎めた。


「カッ、カルダ。入室時は連絡しなさいと、何度言えば……」

 

 つまらなさそうにカルダは左手を上げ、その小言を受け流す。

 扉がひとりでに閉まり、多少の沈黙を経て、カルダが話を切り出した。

 

「なるほど。陛下の命令とあれば、いかに占星評議会の愚物共でも分をわきまえる……では、例の“黒翼の天使”は本物だったと、陛下は認めたんだね?」

「そうだ。“天命の英雄が再臨に、決して手を出すこと罷りならん”と仰った。帝はキルシェとネフェルのせがれを、真の後継者と定められたよ」

「ま、“黒翼”なんて聞いたこともないからね。そうでもしないと信用は得られないだろうし、あんたがにでも陛下を目覚めさせるほかなかったのも頷ける。やれやれだよ」


 カルダが前髪を弄り、溜め息をついて嘆く。その発言に、副官は聞き捨てならないと渋い表情をして怒った。


「あんた、だなんて……! 失礼ですよっ!」

「まあまあ、待ちたまえ。君は笑顔の方がずっときれいだ」

「……それ、本気で言ってるんですか?」

「本気じゃなかったら、長く仕事を共にしていないさ」

「えへへへへへ……」


 局長に言いくるめられ、副官がニヘラと笑い、頭をさすって身をよじる。

 その間、蚊帳の外のカルダは所在なさげに明後日の方向を見ていた。

 仲良く笑っていた局長が咳払いをし、キリッとサングラスの位置を直す。


「……で、今日はなんの用かね、カルダ君」

「──本当に、やれやれだよ」


 カルダがフードを脱ぐ。その絹糸のような、細く艶あるアッシュグレーの髪が揺れた。

 色白い肌、どこか女性的な淫靡さを併せ持つ面立ちと、冷たく無機質な瞳。

 口元には薄く、妖しげな笑みが浮かんでいた。


「報告なら、後になさい。あなたにも後日詳細を──」


 食器類を片付けようと、副官がカルダに背を向けた……その直後だった。


「──! 君、どけろ!!」


 唐突に局長が叫び、相当な重量があるはずの大型デスクを──軽々と蹴飛ばした。

 咄嗟に副官が身体を丸め、避ける。 


「きゃあああああっ!!」

「チィィィィィッ!!」


 真っ二つに斬り裂かれ、分かたれたデスクが部屋の壁へ激突する。

 吹き飛んだ銀のティースプーンは床を跳ね、食器類とシュガーポットが割れて、破片と角砂糖を辺りに散乱させた。

 局長は自身に向けて振り抜かれた巨大な刃を、骨と床を軋ませながら拳で防いでいた。

 

「これが君の用事かね……カルダ・レンジヒル!」

「そうさ……あんたは邪魔なんだよォ! ブレンデッド・マドラァァー!!」


 瞳孔を開き、心からの嗜虐的な笑顔を見せて、カルダは哄笑する。

 大剣〈天賦装サイン・クレイモア〉が禍々しい黒紫色の瘴気を纏い、じわじわと局長の拳に食い込み、血を滴らせる。

 局長はその拳を力強く握り込み、喝声を上げる。一点で一気に増幅された夢素は激しい光を放ち、カルダを大剣ごと強引に押しのけた。

 カルダは自らの足元に突風を巻き起こすと、崩れた姿勢から猛烈な速度で上段回し蹴りを仕掛ける。幾重もの旋風の刃を伴った蹴りがモロに入り、局長は壁際の書架をへし折りながら本に埋もれた。

 副官が悲鳴を出し、カルダは大剣に付いた血を払って不愉快そうに鼻を鳴らした。


「親子揃ってバケモノかい? あんたたちは」

「まいったな……これ、私の任命責任じゃないか」


 崩れ落ちる本の山の中から、局長が破れた上着を脱ぎ捨てて起き上がる。

 肌着一枚になったその筋骨隆々な肉体には、初手で拳についた創傷と数多の古傷以外はこれといって目立った負傷が無かった。

 局長はサングラスを正し、身体を覆っていた燐光を数倍に膨張させる。

 そして半身に構え、左の拳骨を前に突き出した。


「今ならまだ、許してやるが?」

「舐めるなァーッ!!」


 大剣に溜め込まれ凝縮された夢素を、カルダが解放した。鋭利な風の渦の槍と化した竜巻が生み出され、敵を貫かんとして加速する。

 局長が悠然と、腰を落とす。右の拳をグッと引き絞り、腕の血管が脈打ち浮き立つ。


「【牛吼拳タウルス・マッシャー】」


 技巧など無い、単純、ゆえに洗練された動き。右の正拳突きが竜巻と衝突し、その暴威を跡形もなく霧散させる。

 拳から発された、巨大なエネルギーの奔流は風の渦を穿ち抜き、カルダを呑み込んだ。


「うぉぉおぉおぉぉぉぉ!!」


 大剣が粉砕される。防御も叶わず、カルダは絶叫した。羽織るローブが破れ、千切れ飛ぶ。今度はカルダが壁掛けの絵画に打ち当たり、砕けたガラスの雨を浴びた。

 おびただしい量の血を流し、カルダは絵画を背にしてずるりとくず折れた。

 涼しい風が局長の頬を抜ける。局長は周辺を見回し、腰の抜けている副官の無事を確かめて、彼女に指示を出した。


「おーい、君! 警備兵を呼んできてくれないか?」

「……えっ、あ、はい!」


 茫然自失だった副官が立ち直り、扉に向かう。そのふらつきぶりに苦笑しつつ、局長はカルダに近づき、うつむく彼を見下ろした。


「さて、何か申し開きはあるかね?」

「ない。僕はずっと、この仕事が嫌いだったんだ。人の夢を守る? 夢天界を守る? 冗談じゃない。そんなくだらない物のために、なぜ命を張る必要がある?」


 渦巻く星空の描かれた絵画を、カルダは憎々しげに見上げる。

 局長がやり切れない顔で、拳に力を込めた。


「…………そうか。残念だ」


 カルダは口元から血を垂らし、その造り物のごとき整った顔を歪め、笑う。


「だから消すんだ。全ての夢をね」

「……何?」


 局長が訝しむ。すると、鈴を転がすような少女の声が執務室に響いた。声に反応し、局長の注意がそちらに移る。


「はーいはい、オイタはダメなの。局長さん」


 そこへ現れたのは、ローブ姿の少女──監察局の超新星ルーキー、その二人目だった。

 彼女は出入り口の扉の手前で、副官の下半身を土で固め拘束していた。

 

「っ、ぐう……! このっ、放しなさい……!」


 囚われた副官も脱出を試みてはいる。だが、あまりの強度に歯が立たないようだった。

 

「……二人とも、とはな。君たち、人質でも取るつもりかね?」

「はぁ~っ。そんなダサい真似しないの」


 棒付きキャンディを口の中で転がし、少女は頬を膨らませる。そして、もぞもぞと懐から何かを取り出し──彼女が両手いっぱいに抱えたその物体に、局長は驚愕した。


「ちょびっとコレを、身体に入れちゃうだけなの」

「バカな……!! “蟲の種”!?」


 淡く光を放つ、細長いレモン型の“種”を大量に抱えて、少女は無邪気に身体を左右へ揺らす。リズムに乗って楽しそうに鼻歌を口ずさむ少女に、副官が怯えた顔を見せた。

 戸惑い、焦り、局長が脇目もふらず、駆けだす。


(蟲の種だと……!? そんな、そんなものが身体に入れば……!!)


 一度は封じられた“種”が、再び人の身体と接触し、侵入する。その意味を、危険を知っていればこそ、局長はそれを食い止めんと駆けた。駆けだしてしまった。


「かかったね、マドラァーッ!!」


 カルダが笑い、機を逃すまいと背後から手をかざす。出入り口の扉が開き、強烈な“吸い込む風”が局長の全身を襲った。


「こっ、これはっ!?」


 踏ん張りが効かず、局長の身体が宙に浮く。開け放たれた扉の先には廊下ではなく、眩い白い光が満ちていた。床に散乱していた本や破片、重いデスクまでもが吸引されて、白い光の中へと消えていく。

 局長は理解した。この光は、誰かの〈星域〉に通じているのだ。


「ハァーハハハハ!! 喜びなよ、女の夢で踊れるんだからさぁぁっ!!」

「ぬっ……ぬおぉぉおぉおぉぉぉぉおぉおお!!!!」

「局長ぉぉーっ!!」


 泣き喚く副官に、あざ笑うカルダ。彼の操る突風に抗い切れず、局長の姿は扉の遥か向こうへ吸い込まれ、消えていった。

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