夢現なるはマリアンジュ

湯丘来知

キルシェの章

第一幕

第1話 「また、夢で逢えたら──」

 それは、おおきな蟻であった。


 見上げた視線の先、アンティークな時計塔の文字盤にへばりついた巨大な“それ”は、長針の動きを阻み、ミシミシと音を立てていた。尖塔の最上部にあるはずの鐘楼は、辺り一帯の空を覆う奇怪な濃霧に包まれ、窺い知ることはできない。

 錆びれたブリキのような、くすんだ銀灰色の外殻に身を包んだ蟻。そうとしか言いようのない化け物を前に、煉瓦造レンガづくりの家の物陰から様子を伺っていた、栗色の髪の少年が思わず息を呑む。


「おいおい、ありゃあ新人にゃ荷が重いんじゃないっすか……?」


“今回の獲物”を指さし額に脂汗を滲ませながら、背後にて隊列を成す仲間に声をかける。他のメンバー四名──男二人と女二人の内、そこから返って来たのは、ひと際大柄な男の白い目と冷ややかな声だった。


「ウィル、おまえ養成校を出て何年になる?」

「い、一年しか経ってないっすよ!」

「一年“も”だ。おまえは学校で七年間、眠ってたのか? あの程度の蟲すら倒せなきゃ、この先ずっと下級の監察官に甘んじることになる。任務失敗となれば尚更だ」


 怒気を孕んだ声色にウィルは半笑いの顔を歪め、わずかに思案したのち、ハッとしたように隊列の最も後方、その大男のミッドナイト・ブルーの隊服の陰に隠れていたもう一人の“メンバー”に水を向ける。


「なあ、ジン。お前はどう思う?」

「……そうだね。視た感じ、あの蟻型を倒すことは、できなくはないと思う。グルト先輩の言うように、もう倒せなくちゃいけない、そういう敵だよ。……でも、だけど──」


 ジンと呼ばれた小柄な少年──ともすると薄倖の少女かと見誤る、華奢で陰気な枯れ尾花のような男──が目深に被ったボロ布を脱ぎ、傍目には前が見えているのかどうかも分からない程度に伸びた、黒々とした前髪を覗かせる。その奥で目が泳ぐより先に、グルトが彼をキッと睨みつけた。

 

「だけど、なんだ?」

「あの、あの濃霧です。ずっと上空に満ちている、あのモヤのせいだと思うんですけど、ボクの探知が、その、うまく効かないんです。ですから、も、もう少し様子を見た方が……」


 明らかな苛立ちと蔑みを含んだ眼差しで見下ろされ、無意識に言い淀む。


「勘違いするなよ」

「え?」

「英雄の息子だかなんだか知らないが、今のお前はオレの部隊の一〈案内人〉、主要な戦闘要員でもない単なる裏方だ。お前はナビゲートが済んだら黙ってバックパック背負って金魚のフンみたいにオレたちに尾いて回って、補助に徹すればいい。邪魔だけはするな」

「ですが!」

「くどい! 隊長を任されているのはオレだ。指揮を取るのはオレなんだよ。身の程をわきまえるんだな、女々しい役立たずの〈夢無し〉が!」

「……!」


 上官としての苦言を超えた、侮蔑と怨嗟の篭ったグルトの言葉に、その場は一瞬で静まり返る。聞き耳を立てるだけだった残りの二人も、さすがにバツが悪そうにジンを窺い見た。彼は喉元にまで出かけた言葉を呑み込み、頷くほかなかった。

 蟲からはだいぶ距離があるが、これ以上ここで言い争ってもメリットがないどころかリスキーだ。もっとも、チームの周囲にはこちらの様子を気にするような、人間と言えるモノは居ないのだが。ただ一人を除いて。


「おーいおいおいおい、ちょっとちょっと……いくらなんでも先輩サンよぉ、隊長だからって勘違いしてンのはアンタなんじゃないっすか?」

「……なんだと?」

「ウィル!!」


 咄嗟に声を荒げ、ウィルを制する。ウィルの額にはいつのまにか、脂汗ではなくクッキリと青筋が立っていた。ここで事を荒立てては、元も子もない。


「──フン、もういい……これよりあの蟻型との戦闘行動に入る! 各自〈天賦装サイン〉を展開、ヤツを取り囲め。先陣はこのオレが切る。絶対に蟲を逃がすな!」

「「了解!」」


 我が意を得たりとばかりに宣言するグルトに、これまた渡りに船と応答したウィルとジン以外のメンバーは、そそくさと持ち場に散開していった。

 彼女らはウィルとジンよりは二年先輩だが、年長のグルトよりは二年後輩だ。普段からグルトの腰巾着ではあるものの、ここ何日かの上下からの板挟みには耐えかねるものがあったようだった。



 ***



 眼下に望む噴水広場では、いくつものガス灯の薄明かりが、時折明滅を繰り返しながら街並みを仄かに照らし出していた。そして同時に、ガス灯はその異様な光景をも浮き彫りにする。


「あぁ~、ジン、あれじゃないか? この〈星域〉の眠り姫は」

「そう、だね……これだけファンシーなのも納得……かな」

 

 屋根の上から見渡せば、一面に広がるのは賑やかな人混み。いや、正確に言えばクマ混み。シロクマ、ヒグマ、ツキノワグマ。見渡す限りのクマのダイバーシティ。人間の大人ほどもあるクマのぬいぐるみが、シルクハットにドレス、いかにも紳士淑女といった装いで街中を堂々闊歩していた。

 彼らは直上の時計塔で起きている異変など気にも留めず、さも当然といった面持ちで日常を送っているかのような行動を繰り返す。あるクマはピエロに扮し子どもに風船を渡し、またあるクマはカフェのテラス席で優雅なコーヒーブレイクに興じる。どこからともなく気の抜けた陽気な音楽が聴こえてきそうな、そんなありさまであった。


 その中に独り、両親役のクマに両手を繋がれながら、受け取った風船を小さな手で大事に握りしめる幼い女の子がいた。彼女はこのクマの世界にあって、ただ唯一の人の子だった。


「……おい、お前のタメを想って言っとくけど、変な気は起こすんじゃないぞ? あの子がもし巻き添え喰ったって、あの子の“本体”──生身のほうにゃ何のダメージもねぇんだ。気の毒だけどさ……連携に集中しろな?」


 彼女の楽しげな笑顔を見やる物憂げな視線を気取られ、今度は逆に諫められてしまう。

 ──分かっている、分かってはいるはずなのだ。自分はあくまで〈案内人〉。目的地へとチームを誘導し、物資を運搬し、戦闘時も薬品等を利用して徹底的に補佐に努める。なにより自分は人よりも蟲の気配をよく辿れる。誰よりも〈案内人〉として優秀な自負はある。

 ただ、それだけだ。肝心の“力”が、自分には無い。〈監察官〉として求められる、力──


『〈天賦装サイン〉、展開』


 ウィルが右の手首に嵌めた腕輪、その中央部に内蔵された、幻想的な燐光を帯びる緑色の結晶からグルトの通信音声が発せられる。直後、ウィルを含めた皆の「了解」の声が聞こえ、腕輪から滲む燐光が輝きを増した。

 腕から肩、肩から胴、そして足先、頭部と、脈動するかのごとく燐光は全身をにわかに被覆し終えると、右手を包む光が大きく膨らみ、ある形を取るようにうごめき始める。


「〈天賦装サイン・ランサー〉。展開完了したっすよ。突撃準備オッケーっす」

 

 そして光は速やかに凝固、結晶化し、与えられた銘の通りの形状へと変質する。ウィルの両手に顕れたその武装の一対はさながら、翡翠で形創られた騎兵槍と大楯であった。


『〈天賦装サイン・メイス〉。展開完了です。いつでも行けます』

『〈天賦装サイン・アーチャー〉。展開完了しました。夢素充填も問題なし』

『よし、敵は依然沈黙、こちらに感づいている様子もない。〈アーチャー〉による脚部への先制射撃にて口火を切り、落下後はオレの〈天賦装サイン・ブレード〉で突貫する。順次、追撃にあたれ』


(そう、この“力”が──)


 ふと、何もない己の右手首に目を落とす。左手が忌々しげにその手首を掴み、締め上げる。


(〈天賦装サイン〉の力が──ボクには、ボクにだけは無い)


 ウィルが一歩前に歩み出て、臨戦態勢を取る。その背中を見つめ、脳裏に去来する雑念を振り払うべく頭を振る。


『撃て!』


 グルトの合図を聞き、ジンたちの位置から見て左手の方向──ちょうど時計塔を正面に見据える場所の屋根──に陣取ったアーチャーが、光の弓を引き絞り、放つ。翡翠の矢じりは光芒となり、文字盤でひしめく蟻型の右前脚、その関節部へ正確に着弾、爆発し燃え盛る。

 間髪いれず、二射、三射、四射と畳みかける。敵が状況を理解するより早く、速く、迅く。瞬く間に蟲の脚は限界を迎え、「ギョエッ」という呻きともつかぬ鳴き声を上げながら落下を始める。


「もらったぁッ!!」


 待ち構えていたグルトが、地面に蟲が落着するのを待たずに猛然と疾走、跳躍した。彼の肢体は目の前にあった噴水を軽々と飛び越え、抜いた剣の切っ先が光の尾を描きながら蟲の脳天へと叩き込まれる。

 その勢いのままに蟲は時計塔へと押し込まれ引き摺られ、時計塔の壁面を巻き込み砕きながら蟻型とグルトが垂直落下する。


(こんなところで足踏みしてる男じゃないんだよ、オレは!)


 噴き出した蟲の体液と、自らの汗がない交ぜになる。当初の予定より、もう既にだいぶ遅れを取っている。

 このエリアに到着するまでに、何体もの小粒は討伐してきた。しかし、こういう大物こそ倒さなければ意味がない。大物を迅速かつ確実に。それこそが〈監察官〉に求められることであり、グルトが欲してやまない立身出世、その近道なのだ。


「でゃああああーッ!!」


 蟲の額に食い込むも止まりかけていた刃が、グルトの雄たけびに呼応して蟲の堅牢な頭蓋を強引に押し貫く。

 蟲もまた断末魔の叫びを上げて最後の抵抗をしようともがくが、もはや脚をもがれ尽くした火達磨といった様相では、なすすべなく落ち逝くしかなかった。


 広場に蟻の骸が激突し、粉塵が舞い上がる。衝撃で付近にいたクマのぬいぐるみたちの何匹かが吹き飛び倒れ動かなくなるが、軽傷の者や無傷の者はさして意にも介さず、埃をはらうだけはらい立ち去っていった。


「……な~んじゃありゃ、オレたちゃ出る幕なしじゃンかよ」


 あっけない幕切れに、緊張の解けたウィルが口をあんぐりと開けて呆然とする。及び腰ではあったものの、いざこうして追撃の必要もなく半ば隊長の力押しで決着、となると内心複雑な様子だった。


「アハハ……グルト先輩の〈天賦装サイン・ブレード〉、さすがの破壊力だね」


天賦装サイン〉。ジンたちの一族に伝わる才能であり、技術であり、かの“蟲”に対抗するたった一つの手段。人誰しもが持つ己の〈星域〉、その中核的形質を抽出・顕在化させ武器と成す。それと共に、身体機能は飛躍的な向上を果たし、金剛不壊の領域へと相成る。


『──封印』

「おっ、仕上げだな」


 やや息を切らしつつ、グルトが剣を両の手に構え、骸に向かい掲げる。空中に紋様が浮かび、剣の輝きが強まると蟲の骸も眩い光を放ち始め、次第に一点へと収束していく。

 閃光が鎮まると、こぶし大ほどの紡錘形、つまりは細長いレモンのような形の石が現れ、グルトの左の手のひらにぽすん、と収まった。


『蟲の封印及び“種”の回収、完了した。〈案内人〉、帰還の準備を始めろ』

「だってよ、ジン」

「了解」


 グルトのどこか憮然とした招集連絡を受け、ジンはすぐさま周辺を見回す。幸いにも今回の〈星域〉、特にここ一帯は市街地型のエリアだ。あの女の子に馴染みのある場所なのか、はたまた寝る前に映画かドラマで目にしたのか──実際の起因するところは知る由もないが、兎にも角にも、目当てのものには事欠かない。


(あの家の扉あたりにしようか)


 そう考え、屋根から降りようとした。その時だった。


 鐘の音が鳴った。


 響き渡る荘厳な鐘の音、しかし、何となく歪で、違和感を覚える。それもそのはずだった。鐘の音は、


「──は?」


 天より奏でられた音の出どころを辿り、ウィルとジンが見上げた先。そこに在ったのは、もうひとつの、“逆さまの時計塔”。

 空を覆い隠していた濃霧は影もなく消え去り、秘めたる空の全貌を映し出す。まるで鏡合わせのように、今ジンたちのいる街並みがそっくりそのまま天地逆転した状態で浮かんでいた。


『ぐっ、うあああああーっ!!』

『どうした!?』

『むむむ、蟲です! 蟻型が、蟻型がもっ、もう一匹!』


 今度は前方で、建物が轟音を上げて倒壊する。メイスが待機していた場所だ。鋼の打ち合わされた鈍い金属音が炸裂し、崩落した家から土煙が昇る。


(クソッ、もう一匹だとぉ? ふざけやがって、冗談じゃないぞ!)


 グルトは泡を食って光の消えかけた剣を構え直し、メイスのもとへ急行する。


「やべぇッ、先輩は封印で夢素をだいぶ使っちまってる! オレらも救援に──って、おいッ!?」

 

 ジンは駆けていた。無自覚に、無意識に。気づいた時には踏み出し、手を伸ばしていた。〈天賦装サイン〉による補正もない、ただただ純粋な、勢い任せの瞬発的な力だった。

 ある目標を狙い落ちてくる敵に目掛けて、背負うバックパックをボロ布ごと思いっきり放り投げる。着地して即座に眼前の女の子を抱え込み、体が前へと激しく転がる。刹那、地響きと爆風を伴って、新たな蟲──三匹目の蟻型が姿を現した。


 顔面に衝突したのであろうバックパックの残骸が蟲からずり落ち、液体を滴らせた煌々と輝く紅い眼がこちらを見据える。身の竦むような悍ましい咆哮に、大気が引き裂かれるのを肌身に感じた。ジンの体が硬直した一瞬、蟲の大顎が強襲し──


「ばっかやろーがッ!!」


 ──弾かれた。割って入ったウィルの大楯が攻撃を防ぎ、振りかざした長槍の剣尖が空を切る。反撃を避け、飛び退いた蟲との間に自然と間合いが取られる。


「ウィル!」

「いいから任せろ! もう倒せなくちゃいけない、そういう敵なンでしょ~が!」

「──ッ、ごめん!」


 未だ状況を呑み込めていない様子の少女を抱え上げ、その場を急いで走り去る。道具も殆ど失い、子どもを守りながらではお荷物もいいところだ。倒れ伏すクマたちを踏まないように気を付けつつ、戦地から離れた路地に向かって、一目散に駆け抜ける。


「ねぇ、お兄ちゃん……。これって……夢?」


 肩越しに闘いを目にしていた少女が、泣き喚くでもなく、唖然とした口ぶりで質問する。ジンは優しげに微笑み、答えた。


「そうだね、夢だよ。君の〈星域ゆめ〉で、もうひとつの……現実」


 少女は答えを聞いてなお、理解できないといった空気ではあったが、それでよかった。自分たちは人知れず、人の〈星域ゆめ〉を見守るもの。夢より出でて夢に仇なし、うつつを穢す不浄を祓いしもの。それが〈監察官〉であり、現人のため、我ら天人に課せられた天命なのだから。


「ここならいいか……お嬢ちゃん、この扉に入って」


 周辺の安全を確認し、煤けた家屋のドアに手をかざす。すると、蛍火のような淡い光がぼうっとドアの全体に広がり、どこか心落ち着かせる温もりを帯びる。


「このおうちに? お兄ちゃんはいっしょに入らないの?」


 ジンは不安がる少女を下ろし、屈んで目線を合わせてから語りかける。


「大丈夫。ここはキミの〈星域〉で、今のキミは星幽体──意識だけの状態なんだ。ボクたちとは違ってね。だから、キミはこの扉を抜ければ全部忘れて、何事もなかったかのように目が覚める。できれば、楽しい夢のまま、終わらせてあげたかったけど……いや、こんなこと言ったって、しかたないか」


 ふっと微笑みかけ、少女を安心させるように頭を撫でる。少女も、なぜか彼に撫でられていると心が安らぎ、心地がよかった。


「ボクは〈案内人〉。他の人よりちょーっとだけ、案内するのが得意なんだ。だから、心配しないで。キミのことは間違いなく、キミが住む現実に送り届ける」


 そっと背中を押し、少女は促されるままドアノブに手をかける。


「ねぇ、お兄ちゃん、お兄ちゃんの名前は? また、会えるよね?」


 少女は、開け放ったドアの中に満ちる光に包まれながら、その最後の言葉を聞いた。


「ボクはジン。アカリ・ジン。また、夢で逢えたら────」



 ***



 目覚まし時計のアラームが鳴り渡り、目が覚める。窓からは日差しが差し込み、そよ風にカーテンが揺れている。外では小学生やサラリーマンが行き交い、朝の喧騒を見せていた。

 気だるげに寝ぼけ眼を擦り上半身を起こすと、そこには大きな顔があった。


「どわあああっ!?」


 驚き慌て、二段ベッドの小物置きになっている背板に後頭部がドンッと打ち付けられ、時計の落ちた拍子にアラームが止まる。


「あっははは! な~んかアイちゃん、すっごいうなされてたみたいだったからさ~わたし心配で心配で……」


 頭を抱えている姿を見て腹を抱えて笑い出す友人に、ついムッとする。というより、だいぶイラっとする。拳を握りしめて手痛い反撃に出ようとしたところで、ふと、何かの記憶が頭をかすめる。

 ほどいた手のひらを見つめ、今しがた見ていた、記憶の奥底に沈んだ何かを手繰り寄せる。



「…………ジン、お兄ちゃん?」


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