山中さんちの乙女ちゃん
重田いの
山中さんちの乙女ちゃん
山中乙女、十七歳。ちょっとぽっちゃりした女子高生です。
山中家は古い家柄で、といってもこの山しかない時代遅れな土地柄ですから没落は目の前です。発展の余地がないこのあたりが終わっていることは、女子高生にもわかる。そういう具合です。
今日も自転車で高校から帰ってきました。家は大きい。立派な門扉は江戸時代に建て替えたのがそのままですが、住人はここを使いません。裏の勝手口から出入りします。
裏のトタン屋根の自転車置き場には、兄のバイクがありました。珍しくこんな早い時間に帰っているようです。
勝手口の前を山上のおじいさんが掃き掃除していました。
「おじい、ただいま」
「おかえりなせェましィ、お嬢さん」
山上のおじいさんは何代も前、省線が通る土地と引き換えに嫁いだ山中家の娘の子孫の最後の一人です。頭には毛が一本もないのに白い眉毛と顎髭がもじゃもじゃで、いつもドテラを着ています。彼はいつまでも同じところを掃いていました。
長い廊下の左右には五、六畳の和室がえんえんと続きます。大昔、山中家所有の製鉄所があったのですが、そこで働く工員を住まわせていた名残りです。ついでに林業にも手を出しており、そこで働くよそから来た季節労働者も止まり込んだとか。
もう誰も覚えていない時代の話です。
「あら、地味子ちゃんじゃなぁい、おかえり」
台所にいくと、透子が夕飯用だろう鍋にかがみ込んで味見をしているところでした。
「ただいま。お母さんは?」
透子は肩をすくめます。
「お買い物」
「そっかあ。お鍋、なに?」
「鶏団子」
「着替えたら手伝う」
「ん」
透子はうちの遠縁の子で、二親を早くに亡くしたので父が引き取ったのでした。さらさらの黒髪、白い肌、こぢんまりした顔のつくり、百六十センチのほっそりした身体は大和撫子そのものです。お客さんがきたときお茶を出す役目は透子にあります。みんなそれで納得する、そのくらいきれいな子です。
母が台所にいない、ということは、たぶんどこかで浮気をしているのです。
母は美しい人でした。私と同い年の女子高生だったとき、村じゅうのマドンナだったといいます。村一番の権力者である山中家の跡取り息子だった父と結婚したときがその人生の絶頂でした。残念ながら父はいい夫ではありませんでしたし、子供も女の私一人しか産めませんでしたので風当たりはよろしくありません。それが彼女を破滅と隣り合わせの危険な恋に走らせるのでした。
私と透子は仲がいいわけではありませんが、母の気晴らしについては口裏合わせしてやろうという秘密協定を結んでいます。母の浮気を知ったら父は彼女を追い出すでしょう。そうするとこの家の管理の責任が、実の娘と養女の私たちにのしかかってくるのです。たまりません。
――と、私が髪を括りながら部屋から出たときでした。勝手口の向こうに甚平姿の足がありました。ドテラの裾も。皺がれた枯れ木のような足が、ぴくりとも動かずそこにあります。
私は山上のおじいさんに駆け寄りましたが、死んでいることは一目でわかりました。
心不全だったそうです。
彼は腐ってもうちの身内ですから、きちんとした葬式が営まれました。
初七日が過ぎ、父に呼ばれました。
「お前ちょっと頼まれてくれ」
と言いますのは、命令です。
「はあ、なんでしょう」
「山上のおじいがの、離れの地下に食事運んどったのは知っとるだろう」
父は訛りを直そうとしない、どっしりとあぐらをかいて汗の匂いと熱気をムンムンさせている、そういう世代の男です。お酒を飲まないでも赤ら顔で、額には横線が入っています。最近どんどん太り気味、私が言えたことではないのですが。それでも東京の大学を出た秀才で、山中家の当主すから、彼この土地では無敵です。
「はあ、ちょっと難しい病人だとか」
祖父が開業資金を援助した親戚の医者がときどき出入りしていたのを知っています。
「おん。もうおじいはおらんから、お前行って来い。朝夕二回」
「はあ。いいですけど。なんで私ですの」
「そりゃお前、女中は全部年取ってて新しいことやりたがらん」
「はあい、わかりましたあ」
母のことはお互い話題に出しませんでした。それで私に新しい仕事が増えました。
翌日の朝、用意されていたお膳を手に持ち勝手口から出ようとしますと、母が声をかけてきました。浮気グセはともかくとして、彼女はよい専業主婦なので、起きるのは誰よりも早いのです。
「新しいお仕事なんだってぇ?」
「お母さんおはよう」
「たいへんだねえ。まあ地味子ちゃんにはちょうどいい仕事かもねえ。考えなくてもできるし。山上おじいにもできたことなんだもん」
地味子ちゃん、と最初に言い出したのは母でした。透子はこの家で生き残るため、彼女に迎合しました。母と透子は馬が合うようで、私よりかはるかに二人は仲がいい。
私は外に出ました。母はパーマの髪を揺らして私の背中を嘲笑しました。山から夜のうちに下りてくる空気がまだ沈殿しており、秋口だというのに肺の中が痛くなります。
離れは勝手口から歩いて百歩くらい先ですが、庭木や石灯籠で巧妙に隠されています。元は茶室だったそうで、上品な飛び石の先にあります。白い玉砂利がかしゃかしゃ姦しい。
私は改築され普通のドアになった出入口から中に入りました。離れに来るのは初めてでしたが、地下への扉はすぐわかりました。
なにせ六畳間のド真ん中の畳が剥がされていて、そこからまっすぐ下にハシゴが降りています。のぞき込むと土壁で、まるで防空壕のようでした。
お膳はおかゆでしょうか、中くらいの土鍋と取り皿を兼ねた小鉢、金属製のスプーンでした。こぼさないように、こぼさないように。ハシゴを降りきるのに骨が折れました。
そこからまっすぐ道は続き、三十歩もいかないうちに牢がありました。
座敷牢、でした。木製ですがいかにも頑丈な檻が、闇の中からぬうっと沸き立つようでした。私はまばたきしましたが、目の前のものは消えません。五畳の畳が敷き詰められたところ、左奥の隅におまる、右奥の隅にシーツをかぶった人らしきかたまり。まんなかにせんべい布団が敷かれています。どう見ても万年床で、土壁と土床の発する湿気とあいまってむわっとするほどの湿気でした。不思議と畳も布団も腐っていないので、近々に取り替えたのかもしれません。
空気はよどんで湿り切っていましたが、不思議と花壇の土のような豊かな匂いがして不快ではありませんでした。私を不快にさせたのは、むしろ右奥の人影でした。
ぴくりともしないのです。足音やお膳の匂いには気づいたはずです。なのに動こうともしない。それがなんとも言えない不気味さと、――ほんとうに人間かしら? 病気ってどんな? まさか、こっちに飛びかかってくるような病気? そういう疑念を呼び起こしたのでした。
私はおそるおそる牢の小窓になっているところを開け、お膳を置いて帰りました。
次の日もその次の日も、そのようにしました。人影はシーツをかぶったまま動きませんでした。朝、目覚めて朝食の支度をする前と、夕方、学校から帰ってきてからと。新しい日常になるまで時間はかかりませんでした。
もうすぐ冬休み、というときになって、女中が一人死にました。いつも私が持つお膳を作ってくれる人でした。寡黙な老女で、祖父の愛人の非嫡出子だったそうですが定かではありません。誰もそのことを口にしないし、生まれてすぐ養子に出されて苗字が違う人でしたから。
葬式が終わりました。父は異母妹の死に反応を見せるかな、と思っていたらいつも通り、丸いたぬきの置物の顔を鬼にしたみたいな形相のままでしたので、やっぱりこの人に情などないのだと再確認するに至りました。
「あの人いないんじゃ何作ればいいかわかんないじゃないのよ、もー」
と母は愚痴を垂れましたがしょうがなく、その日からお膳は我々と同じおかずと少しの白米に変わったのでした。お膳の中身が変わって三日も経った頃でしょうか、もはや慣れた手つきで私は小窓を開け、お膳を置き、また小窓を閉めました。小さな南京錠がついていました。錆びついてもう役目を果たさないので使われておらず、小窓もせいぜい私の顔くらいの大きさですからそこから脱走の心配はありません。むしろシーツのかたまりの下に人体があるのか、私は疑わしく思っていたくらいでした。
だからその日、シーツがもぞりと動いて、
「いつもと違う」
と人の声がしたのには驚きました。飛び上がって振り返ると、シーツの間から黒い目がこっちを覗いていました。睨みつけるでもなく、泣くでも笑うでもなく、ただただそこにある黒い目でした。鶏に似ていると思いました。それか、ウサギ。小学校にいた。白目が小さいところもそうでしたが、犬猫より感情が表に出ないところがそっくりでした。
その人はもそもそシーツを纏ったまま立ち上がり、歩いてきました。私ときたら足が震えて、そのまま土の上にへたり込んでしまいます。頭の中にはぐるぐるとひとつのことだけが渦巻いていました。でも、檻があるから。檻は越えられないから、大丈夫だから。
身長は二メートルくらいでしょうか。びっくりするほどの長身でした。白い髪がざんばらに膝下まで伸びています。尖ったような顎と鼻、肘と膝の骨もひょこっと飛び出る。いつのかわからない生成り色の模様が薄れた浴衣を着て、帯を乱雑に締めていました。
小窓の台の上のお膳の匂いを嗅いで、その人はきょとんとした顔をします。彼が動くたびに土の匂いがしました。種を受け入れる準備ができた畑の匂い。ここと同じ。
恐怖が急速に和らいでいきました。
「これ、なに? 白いおまんまなんて久しぶりに見たよ」
と笑う。そうすると薄い色のない唇がにいっと頬骨まで上がって、蛇みたいな顔になる。
私は恍惚としました。その人はあんまりにも……危険な男、だったのです。
たとえば同級生でも中三で妊娠しちゃって主婦になった子がいましたけど。相手は国道を爆音のバイクで疾走してる人たちのうちの一人でした。その子は彼の喧嘩っ早い危険なところに惹かれたのだそうです。
今までそういう気持ちはわからないと思っていました。私には恋愛とか性愛とか、そういうのを感じる器官がついていないのだと。こんな山奥の集落で娘がそんな素振りをみせたらあっという間に噂になりますから、私がそう思い込むのも無理からぬことでした。
痩せた顔がにっこりするので、私はついつい、
「あ。ごはんの残りと……おしんことめざし、です」
と言ってしまいました。こぼすのがいやでお汁は持ってきませんでした。
「へえ、魚。すげえや。俺久しぶりに見た」
「え。でも、スーパーのふつうのやつですよ」
「すーぱーって?」
とこっちを向く、興味を持ってくれている、黒いきらきらした細長の目。髪の毛はどう見ても老人の白髪でしかないぼさぼさ加減なのですが、それさえビジュアルバンドのボーカルのオシャレに見えました。
それから彼に聞かれるがまま、いろんなことに答えました。今、何年? 戦争ってもう終わった? 当主は誰。へえ。
「じゃ、きみはどこの誰?」
「や、山中乙女……高二、です」
ともごもご答えます。
檻の間の四角から手が伸びてきたのはそのときでした。逃げることはできましたがそうしませんでした。黄色い爪が伸びた節くれだった両手が私の頬を捕まえ、
「ふゥン」
としげしげ潤んだような黒い目に見つめられます。
彼は唇をすぼめました。花のような香りがしました。山の高いところに生息する水栓みたいな。
ひゅっ、と何かが顔に飛んできて、すぐさま離れました。目を閉じていたのでわかりませんでしたが、彼の細長い舌がカメレオンがハエを取るときのように私の頬を舐め、また戻ったのでした。
「あ、ダメだ。苦い。ぺぺっ」
と彼は私を放し口元を押さえます。
「山中だっ。ううー、山中の血だあ。まだこんな濃いのかあ。ダメだこれじゃ入れないや」
「えっ。えー……」
憧れがしゅるしゅるとしぼみます。頬を触ってみるとべちょっと濡れてる。年頃の女の子の顔を舐めるなんて。
なんて人だ、と私は彼をねめつけましたが、どこ吹く風、彼はいけしゃあしゃあと、
「父親、誰? 山中の人だろ」
「や、山中正嗣」
「直系かよー! 当主の子じゃん。ちぇっ。山上のヤロー、ヤな置き土産くれやがって」
「おじいのこと知ってるの?」
と言ってから後悔しました。山上のおじいさんは私が生まれる前からこの人に食事を運び続けていたのですから、会話があっても不思議ではありません。朝夕、朝夕、毎日。
「知ってるに決まってらあ。俺はあいつが洟タレしょんべんタレの頃からの付き合いよ。ふふん」
と胸を張る。彼の仕草があまりに幼かったので、我に返りました。
「あっ、時間!」
もう朝食の時間さえ過ぎているはずでした。学校に遅れてしまう。
「おお、行くの? いってらっしー」
「うん。じゃあまたね。夕方にね!」
と友達に対するような返しをしてしまい、私は呆然とした彼の顔を見ることなくどたばたと去りました。ハシゴを上るときに何度も足を滑らせる。
母にイヤミを言われながら朝食のめざしだけ失敬して、自転車に飛び乗りました。兄のバイクは変わらず自転車置き場のトタン屋根の下にありました。
シーツの下のかたまりだったときなど嘘のように、彼と私の交流がその日からはじまりました。彼は私の知らない一族の一員を知っており、私の知る人の幼少期のエピソードなど教えてくれます。私はお返しに、教科書など持ち込んで今の世のことをいろいろ教えてあげるのでした。
彼は私の言い分にへえ、とかほお、とかいちいち驚いてくれましたが、どこかしら嘘くささの漂うリアクションでした。大人が子供の微笑ましい行いに、大げさに取るそれです。
同じことを母にされたら私は怒りますが、彼相手には腹も立たない。
その夕方も私は夜になるまで彼のそばにいました。
「俺も母屋に行きてえな」
と、大きな身体をかがめて彼はぼやきます。あっという間に空になったご飯茶碗には、ちょっと多めに盛り付けた白飯がありました。今ではお膳を持って行って、空になったのを下げてくるまでがルーチンワークでした。それまでは、朝に前日の、夕方に朝のお膳を持って帰ってくるのでしたが。
「これないの?」
「行けないの。俺は山中の血筋の奴には手ェ出せないの」
「ふーん」
「山中家が存続する限り、俺はここから出れないの」
「かわいそう」
「だろ?」
土の床の上に小学校の遠足で使ったビニールシートを敷いて、檻にもたれて。すぐそこに彼がいます。牢の中の方の土壁にもたれています。そんな距離に恐怖も不安もありませんでした。彼がいい人なのはよくわかっていました。
「お前の父親、跡取りは?」
「いるよ。お兄ちゃんがいる」
「やったじゃん。安泰だな」
憎々し気な、そのくせ寂しそうな影が黒い目をよぎります。髪の毛が白いのに睫毛は黒いのだわ、と私はそれを見つめます。
ひょっとしたら恋愛感情に育ったのかもしれない憧れはもう消えていました。彼はただただいい人で、この座敷牢に閉じ込められているかわいそうな青年です。病気というのはおそらく、精神的なものなのでしょう。山中家はちょっとでも血の繋がりがあれば身内に受け入れてしまうところがある家で、女中や下男にも縁続きが多い。彼がここで暮らすようになったのもその一環に違いありません。
「お兄ちゃん、あなたみたいな人のこと好きだと思う。会えたらいいのにね。友達になれるかも」
「俺をぉ?」
ハンッ、と彼は鼻を鳴らしました。
「俺と友達になりてえヤツなんざ、いねえよ」
「なんでよ」
「生贄だよ、俺は」
「生贄?」
「そ。ここの。山中家の生贄」
彼はべーっと長い赤い舌を出しました。顎の下まで届き、ぬらぬらと光る。
「山の神様への捧げもんなの、俺は。……何、お前らそんなことも忘れたの」
私は戸惑います。
生贄、山の神様。日常生活では聞かない言葉です。
おろおろと言葉を探す私に苛立ったのでしょう、彼は突然立ち上がりはるか上から私を覗き込みました。
「あのさあ。もう帰れよ。生贄って聞いたくらいでビビってんじゃねえよ。本家の女ならわかるだろ、そのくらい」
「わ、わかる……ごめん私、噂はよく聞くのと聞かないのがあるの」
「があっ!! もう!」
彼は地団駄を踏みました。畳の上を踏んだのにそれは大きな地鳴りが響きます。小規模な地震みたいでした。土壁が、天井の蛍光灯が、それがくくりつけられた木の根っこが、揺れます。
私がぽかんと口を開けて見守るうちに、彼の薄い唇がみるみるうちに耳まで裂け、鋭いサメの歯のような牙が見えました。目が赤くなる。彼の姿が突如、二倍にも三倍にも膨れ上がって見えます。びっくりしたまま、私は座り込んだまま、動けない。
沈黙が場に満ちました。
なにせ、私たちの間には木の檻がありましたので。まるで新品みたいに頑丈な、太い木組みが私を彼から守っていました。身じろぎすると太もものお肉同士がこすれて、制服のスカートがカサコソいいました。
彼はしゅるしゅると小さくなりました。
「なんだよ、もう」
と吐き捨てますが、見る見るうちに顔が赤くなっていきます。そうしていても二メートルくらいの身長は変わらず、痩せ細った彼はゆらりふらり、左右に揺れました。体力を使ったのでしょう。
「えーと、うん。座ったら?」
「は? おま、うぅ。――くっそー! なんでビビらねえんだ!?」
「え。あ、いや。こ、怖かったよ!」
「気遣ってもらわなくて結構なんだが!?」
彼は土壁に背中を預け、ずるずる座り込みます。足の爪の伸びたところが畳をひっかき、投げ出された足の脛の骨がクッキリと影を落とす。白い髪がますますざんばらに、四方八方に飛び散りました。
私は檻の間から手を伸ばしてそれを梳きます。
「犬みてーにすんな」
「友達にするみてーにしてる」
「……フン」
彼は荒い息を整えます。自分の大きな手のひらを見つめ、どこか遠い目をする。
「昔はもっと、できたのに」
「今の、幻覚ってやつ?」
「フン。そんなんも知らねえのか。山中家の一員のクセに」
私は首を横に振りました。私の手の中で彼の髪の毛はぶちぶち切れていきます。
「私、大事なことはほぼ教わってないから。だって跡取り息子はお兄ちゃんだもん。お金のこととかもわかんない」
「せめて俺のことくらい知っとけや!――いいかあ、あのねえ。山には神様がいるの! そんで山中家は俺みたいな生贄を差し出す義務があるの。ホラ、あるだろ山崩れとか、大地震とか、川が干上がったとか」
「ダムができてから土砂災害はあんまり起きてないよ。地震もそんなにだし、水不足のときはシャワー使えなかったけどミネラルウォーター買いに行った」
彼はものすごく情けない顔をしました。思えば私はあんまりにも軽率で、子供でした。
「そっかあ……」
と項垂れてしまった彼はかわいそうに、二回りも縮んで見えました。
「じゃあもう、生贄、出してないんだな」
「ウン。聞いたこともないなあ」
「そりゃよかった。うん。それはほんとに、よかったよ」
「あなたって――なんなの?」
恐る恐る聞きます。私の手の中の彼の髪の毛は、ほんとに手入れがされていない普通の人の髪の毛でした。ぱさぱさして、土臭くて、ちくちく手に刺さる……。それだけ。
「俺、なんなんだろなあ。ずっと前からここにいる」
「人間なの?」
「人間に見える?」
と嬉しそうに彼は再び牙を剥きました。があ。ずらっと並んだ鋭い歯。
全然怖くありません。犬猫にそう思うように。
「人間ってなんだろね」
「なんだろなー。俺、人間なのかな? じゃないのかな?」
「さあ……?」
私たちは互いに顔を見合わせ笑い合いました。
そのあと結局戻るのが遅くなってしまい、母に男でもできたのかと詰め寄られる一幕もありました。この役目が私に与えられたのでよかった、と思います。だって彼はとても美しい。もしお母さんがそれを知ったら、私を殺してでも自分が食事を運ぼうとしたと思います。
お風呂に入って宿題をやって、さあ寝ようという頃。透子が部屋にやってきました。
「私、正臣さんと結婚するから」
と言います。なぜか仁王立ちして腕まで組んでいます。私は驚きました。今日はよく驚く日です。桃の木さんしょの木。
「そうなんだ。おめでとう。式はいつ?」
透子は拍子抜けしたように腕組みをときました。
「怒らないんだ?」
「えっ、なんで?」
「お母さんはめちゃくちゃにキレたって聞いたから」
「あー、お父さんが決めたことなんだ」
合点がいきました。父が兄と養女の透子との結婚を決め、母はそれに反発した。母はなんでも自分が一番でなければ気が済まない人です。中学生の頃から村のマドンナとして鳴らし、彼女が一言言えばあらゆる男たちが意に沿うように動いてくれた、その快感が忘れられない人です。兄を――自分が産んだ最初の子供を養女として育てた透子にとられる? 今まで味方してやったのに、恩知らず。そりゃ、そうなるに決まってます。
「お兄ちゃん、定職につくといいね」
透子は頷きました。
「お父さんもそれを狙ってるみたい。若ぇ嫁がくりゃ持ち直すだろ、だってサ。まあ私はどっちでもいいんだけどね。この家の嫁になれりゃ安泰だもん」
「今でもこの家の娘じゃん」
透子の白皙の顔に、ひそやかな怒りの表情が浮かびました。あ。私が何度も見たことのある顔です。私があまりにのんきだと叱る母や、折り合いの悪い上級生に理不尽に叱られたときに見る。
「養女は実の娘と違うよ。――ま、でも、これからは私があんたのおねえさんだからね。それ相応の態度ってもんを取るのよ、地味子。わかったわね?」
「乙女だもん、名前」
「ハッ。今にそんなこと言ってられなくしてやるから!」
捨て台詞を放り投げ、黒髪揺らして透子が去ってしまうと私はぎいい、回転椅子を鳴らして背もたれにもたれました。
山中家は古い家です。古い家の因習に自ら踏み入ってくる女の気持ちは私にはわかりません。でも透子はそうなりたいと言うなら、それがいいんでしょう。
早く逃げたい、という心をずっと人に知られないように生きてきました。なんとなく、座敷牢の彼は私のこの気持ちを知っているのかもしれない、と思いました。
結婚式は私たちが卒業してすぐと決まりました。私と透子はクラスは違えど同じ高校の同級生ですから、あらゆる生徒と教師がそれをもう知っていて、根掘り葉掘り聞かれ私は難儀しました。
今にしてみると、夕方から夜にかけて私がほとんど家にいないのを、どうやら家族は知らなかったように思えます。
私がいつものように彼と話し込んでいますと、話題はほんとにどうでもいい、かたつむりとなめくじを分けるのは殻だけか否か、みたいな話だったのですが、ざっくと足音がしました。振り返ります。兄でした。
「お兄ちゃん」
「なんでいんの」
長い間散髪に行っていないので、兄の頭はぼさぼさでした。
彼の白い髪は私のヘアオイルとブラシでずいぶんきれいになって、今も私のヘアゴムで括っていました。二人の男は対比のようにさえ見えました。
「どけよ」
「おに、お兄ちゃん。部屋から出れたの。よかったねえ」
兄はものすごい形相で私を睨みます。私は縮こまりました。昔から、兄と私とで戦いが起こると両親は兄の味方をしました。その名残りです。
ゆっくりと彼が立ち上がりました。白い髪がさらさらと流れ、長細い指のついた手でヘアゴムを外します。私は檻の隙間の四角ごしに、それを手渡されました。潤むようにみずみずしい黒い目と目が合ったような、そしてこういわれたような気がします――さよなら。もう来ちゃダメ。
本当にそうだったのかどうかさえ、今となってはあやふやです。
兄が私の肩を掴んで押しのけます。
「あっ」
と私は土の上に投げ出され、まだ状況が掴めてもいないうちにそれを見ました。兄が鍵を取り出して、小窓の南京錠に差し込むのを。そんなことしたって開くのは小窓だけ、いつもお膳しかやり取りできないくらい小さい窓口で、いったいなにをするつもりでしょう?
しかしそうではありませんでした。その錠が閉じていたのは小窓だけではなかったのです。人一人が通れる分の間が、檻に開きました。最初から檻の木枠は扉の形に切り取られており、蝶番で出入り可能にされていたのです。蛍光灯のもたらす陰影があんまりにも強烈で、私が細部までよく見ていなかっただけ。
兄は檻の中の彼に襲い掛かりました、と見えたのは私の目にだけで、実のところ彼は痩せた身体に纏った浴衣をなかばまで滑り落とし、両手を広げて兄を迎え入れているのでした。
「ああ、久しぶり……」
吐息のような、声がします。
「うあああ、うああううううあああ、結婚なんてイヤだああああ……」
と兄は泣きながら彼を押し倒しました。白い髪がしゃらららと音を立てて畳の上に広がります、一部は土壁にぶつかり、波のように広がります。夜の海に浮かぶ無数の泡たちを、私は修学旅行で行った港町でしか見たことがないのですが、連想しました。
「おお、かわいそうに。山中家の息子!」
彼の黒い目がいたずらっぽく輝き、兄の肩ごしに私に合図します。
私は彼らに背を向け、走り出しました。ハシゴを今度は踏み外しませんでした。
母屋に帰ると母が待ち構えていて、台所では透子が頬を抑えて泣いていました。とうとう家の中で二人の女性が衝突したのでした。
「お前が透子に入れ知恵したんだろ! あたしの正臣売りやがってー!」
と元気に殴りかかってきたのをかわし、私は透子に駆け寄りました。
「大丈夫?」
「てめえらっ、母親無視するなんて言い度胸ねぇ!?」
私は透子を支え、彼女の部屋に送り届けました。
翌朝、帰ってきた父は母に泣きつかれ、私を叱るために呼び出しました。そのときちょうど兄も座敷牢から帰ってきたので、長男が外出していたのを知らなかった女中たちが大騒ぎをしました。
父は酒焼けした声であの騒動は何かと聞き、母が様子を見に行きました。
家の奥の方にある広い十畳間は、昔は当主の部屋だったそうです。私はそこで父と相対しています。といっても父は母のヒステリーにハイハイと頷いていたら娘を説教する運びになった、くらいしか理解していません。基本的に家族に興味ない人なんです。
「昨日楽しかった?」
「ん? おお」
と頷きます。父は昨夜、愛人のところにいたのでしょうか、それともホステスさんのいるところでしこたま飲んできたのでしょうか、二日酔いのしんどそうな顔です。皮膚の色はドス黒く、爪は白い。
「あの人ってなんなの? 離れの地下の」
「お前は知らんでいい」
「んー。でも気になる」
母が戻ってきたら父は怒鳴らなければなりません。私は泣きわめかなくてはなりません。夫が娘をとっちめてくれた、あたしのために!――そう納得しないと母は満足せず、何回でも何百回でも同じ茶番をやり直すはめになるのです。
この家は最初父のものでしたが、今となっては母の自尊心に奉仕する存在です。家族も働く者も含めて。
山中家は没落しかかっています。さまざまな要因が重なった結果、そろそろ限界が見えてきました。
よたよたした足音が聞こえてきました。がらりと襖が開き、母と兄が入ってきます。母はすでに私への怒りを忘れたようでした。捕らえた兄を逮捕した容疑者を拘束する警官のように突き出して、
「この子がまた夜遊びしたのよー! ねえあなたン、叱ってやってよー!」
とカン高い声でキンキン叫びました。
私と父は顔を見合わせ、私は座布団の上からすすっと部屋の隅に避難しました。
代わりに兄がその座布団に座りました。あれ? 母が父に子供たちの暴虐を訴える声が遠くなりました。
座り方がいつもと違います。あぐらをかきません。まるで女の子みたいに足を揃えて座りました。よほど反省しているのでしょうか、あの兄が? ガードレールにバイクで突っ込んで頭七針縫っても反省しなかった兄が?
兄は項垂れていましたが、ふっと斜め下から顔を上げます。言い争う両親の声など頭の上で流して、私に微笑みかけます。
彼の笑い顔でした。あっ。私が息を呑んだ瞬間、母が静かになりました。兄の首がガクンと落ちました、眠ってしまったみたいに。
「まあ、そういうわけだから。ちゃんと𠮟ってやってよね」
と別人のように母は落ち着いています。軽く小首を傾げ、潤んだような黒い目をすがめました。感情が読めない草食動物に似た目でした。黒目ばかり大きくて、白目が極端に少ないのです。
お、おお、と父が唸り声と返事の中間の声を出しました。母は頷きました。兄の頭はぶらんぶらん揺れています。
しとやかな足取りで母は部屋を出ていく、その間際に振り返り、
「そういえば乙女、他県の大学に行きたいの?」
「えっ、うん。なんで知ってるの?」
「なんだ、そうだったのか」
「そうみたいね。じゃ、あなた、行かせてやってよ」
魔法のようにスムーズにそんなことを決め、去っていきました。廊下を歩く軽い足音が消えていきます。
私は呆然と、父も顎を撫でて難しい顔をしています。兄がうう、と呻いて意識を取り戻しました。
「あれ? あいつ――あいつ!」
とはっとして、どたばたと走り去る。騒がしいことです。
父が胸の悪くなるようなげっぷをしました。私のいやな顔が見物だったのでしょう、彼は照れ笑いして、
「行きたいなら行っていいぞ、大学」
「女手がいなくなると家が荒れる、って怒ったじゃん」
「だってなあ……あいつが行かせてやれって言うからにはなあ」
と難しい、悪ぶった顔をするのでした。
あいつ、というのが母を指すのではないことくらい、わかりました。
かつて父や兄、男たちと彼との間に何があったのか私にはわかりません。知りたいと思いません。きっとゲロ吐きそうなほど臭い、汚い物語でしょうから。
ただ私は彼が好きでした。ほんの半年にも満たない交流でしたけど、私は彼に救われました。だから彼をそっとしておこうと思いました。やっと牢の外に出られたんだから。
入試にはなんとか間に合って、私は卒業と同時に別の県にうつりました。透子の結婚式には出席しました。兄の仏頂面だけが気に入らない集合写真を今も持っています。
母はまたどこかの誰かと浮気しているのを父に咎められ、離婚したそうです。父は高血圧で入退院を繰り返しています。どちらにしても透子がたいへんそうで、たまに長い愚痴の電話がきます。けれど戻ろうとは思えません。ごめんね、透子。
彼はどこに行ったのでしょう。
彼はなんだったのでしょう。
覚えているのは潤んだような黒い目と、白い長い髪、痩せた身体にとんがった顎と鼻と肘と膝、長い指、そのくらいです。全体の印象は記憶のかなたに霞んでしまって、顔のつくりさえ定かに思い出せません。
話したことはなんでも覚えています。山と里の境界線は山神の祠からきっかり三里、それを超えたらもう山、もう里。そんな雑学も。
気づかないふりをしていたことがたくさんあります。もちろん、気づいてもわざと言わなかったことだって。山裾に広がった山中家の地下をあっちの方角にあれだけ進んだのだから、きっとあの座敷牢があったのは祠とやらの真下だったろう、ということだとか。
祭りも廃れ、人が減り続けるあの村に未来はあるのでしょうか。山中家はいつまで続くのでしょう。もし透子に赤ちゃんが生まれなければ、それこそが彼が本当に自由になる日なのかもしれません。
あるいはもう、自由になっているのかも。私の肩か腰にくっついて、彼もまたこの都会に来ているのかもしれません。そして代々の男たちと同じように女の私のことなどうっちゃって、今ごろどこかのクラブでどんちゃん踊っているのかも。
そうだったらいいなあ、と思うのですが、それはありえない中でも最高にありえない可能性だと言うこともわかるのでした。
そんな次第で私は大人になりました。今年で二十七歳。彼に出会い、そして別れてから十年がたちます。
逃げられる時代に生まれてよかったと思います。逃げるきっかけをくれた彼に感謝しています。もう土の匂いを思い出すこともなくなりました。湿り気の感触を肌は忘れ、牢の前に置きっぱなしのヘアオイルはリニューアルして香りが変わりました。
私が故郷に帰ることはもうありません。
【完】
山中さんちの乙女ちゃん 重田いの @omitani
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます