5〜幸せになりなさい〜
空っぽの心。空っぽのアカウント。空っぽのわたし。
病院からの帰り道、夕暮れ時の独特なグラデーションをした空を見上げながら歩き、身一つで電車に乗った。
SHIOが消えて、ただの紫陽花になった自分を、一体誰が必要としてくれるのか、ずっと考えていた。今向かっている自宅は、自分の家と呼べるのかどうかさえ危うい。唯一の心の拠り所である璃仁は、明日目覚めるかどうかすら怪しい。
これまで抱えていたたくさんのファンを失った紫陽花は、急に大海原に一人投げ出された孤独感に襲われた。でも、生きるためには進まなくちゃいけない。溺れて息ができなくなったら終わりなんだ——。
「ただいま」
ほとんど無意識に家までたどり着き、昼間に母と喧嘩したことなどなかったかのように玄関を開けた。空っぽの紫陽花は、母とのいざこざさえ、何も考えられなくなっていたのかもしれない。
だが、紫陽花がリビングに入った途端、温かい何かが紫陽花の身体を覆った。目を丸くして言葉も出ず、その場に立ち尽くす。
「紫陽花、紫陽花あぁぁぁ」
とても母親のものとは思えない泣き声が、部屋中に響き渡る。視覚よりも先に聴覚によって母が紫陽花の身体を抱きしめていることが分かった。
「ど、どうしたの……?」
昼間の喧嘩のことが紫陽花の頭の中でフラッシュバックする。家に帰ったらまた、母に嫌味を言われるだろうと予想していた。それでも構わない。もう母とは縁を切るつもりで生きていこうと思っていた。
でも肝心の母は、紫陽花のすぐ近くで泣き叫んでいる。しかも、これまでのように、紫陽花の肩に縋り付いて自分の不幸を慰めようとしている様子はない。それどころか、その泣き声に、「紫陽花」と呼んだ声に、娘を慈しむ愛情さえ感じたのだ。
「ごめんなさい。私が間違ってた。あの後、紫陽花に言われて考えたの。正敏さんが紫陽花を襲ったこと……。テレビをつけたらちょうどニュースでやってて、信じられなかったわ。この男が、私が愛したはずの男が、本当は紫陽花にふしだらな感情を持ってて、しかも私以外の女と浮気したんだって思うと、目が覚めたの」
「お母さん……」
紫陽花は未だ母の改心が信じられず、これは夢なのではないかと錯覚した。あの母が。どんなに娘が傷つこうとも、自分の幸せだけを優先してきた母が。
「紫陽花、お母さん今まで、紫陽花にひどいことしたわね……。男と幸せになることだけが、紫陽花を幸せする道だと思って、躍起になって捨てられて、また紫陽花に当たって……。なんであんなことしてたんだろうって思う。でも本当はずっと、紫陽花と二人で幸せだったのよっ。謝ったって許されないかもしれないけど……紫陽花のこと、お母さんは愛してるから」
母の身体から伝わる全身の熱が、冷え切っていた紫陽花の感情を温めていく。母に対し、もう期待しないと誓った矢先のことで頭はついていけてなかったけれど、心は素直に温度を取り戻していく。
ああこれだ、と思った。
紫陽花が母親から欲しかったもの。
当たり前に与えられるはずだった、母の愛情。
あなたがいれば幸せだと言ってくれること。
紫陽花の中で、欠けていたピースが心の根っこの部分にハマり始める。いくらSNSで人気になっても、誰もが羨む投稿を続けて幸福恐怖症を乗り越えようとしても無駄だった。だって自分が心から望んでいたのは、母からの狂おしいほどの愛だったから。
「お母さん、私、本当に辛かった。苦しかった。だけど、お母さんのことが好きだったから、幸せになって欲しいと思ったから我慢してきた。私はこれから、幸せになれるの?」
幸せとは、溺れて息ができなくなること。
ずっとそんなふうに考えて、自分が幸せになるなんてありえないと思っていた。
だけど今、母から感じる温もりが、幸せになってもいいのだと証明してくれているように感じられた。
「当たり前よ。ううん、これまで私が奪ってきたぶん、幸せになりなさい。大切な人の隣で笑ってなさい。それで時々……お母さんとも、買い物したり旅行に出かけたりしてくれる?」
母が紫陽花の身体から自分の身体を離し、紫陽花に温かい目を向けた。
「うん、もちろんだよ」
視界の隅に映る散らかった下着やお酒の瓶が、母がこれまで抱えてきたストレスの大きさを物語っている。母は母なりに、頑張ってきたのだ。女手一つで紫陽花を育てるために、犠牲にしてきたこともあるだろう。母が紫陽花にぶつけてきた愛の憎しみは、一生かけても許せないかもしれない。でも、これから母が本気で自分の幸せを願ってくれるなら、前だけを向いて生きていこうと、母の真っ直ぐな目を見て思うのだった。
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