よるのうさぎ
ちーそに
第1話 よるのせかい
辺りは暗い。窓から見える道には等間隔に整列する街灯が立っている。街灯の光を押し固めるようにして辺りの闇は街灯の光を円形に縁取っていた。虫は光に集まり、収縮しては拡散を繰り返している。
街灯の光と月の光が混ざり合って無機質な色になっては部屋の中に遠慮無く差し込んでくる。
無機質な光はひとつの、耳の長い白い毛を纏ったものを外から照らした。その時、街路で人が歩いたのか、動物が通ったのかはわからないが、得体の知れない物体が光を遮ると、白い毛のものは一瞬おぞましい程の漆黒に包まれてその眼が彼を責め立てるかのように見つめた。その視線を遮るかのように部屋の明かりがついた。
――どうしよう、ママに電気代がもったいないから電気はつけないでって言われてるけど僕はこの暗闇に一人で居るのがすごくこわいんだ。窓の外にオバケが浮いているかもしれない、ドアの隙間から誰か見ているかも、ベッドの下……布団の中……僕の後ろに……僕の心の中……
暗闇が彼の恐怖心を駆り立てて、悩みや悲しい出来事、その他様々なマイナスの面を引き摺り出して渦巻いて爆発させる。彼はその繊細さ故に酷く考え込む事が多く、夜の恐怖に呑まれてしまう"夜分症"にかかっていた。自身の家庭環境、ナイトスクールでの友人関係、自分の考えが他人の当たり前や常識から大きく外れているのでは無いかという事、この冷たく寂しい夜の世界の事が発症の原因となっていた。まだ夜分症については何も解明されておらず、唯一、夜を克服する事が治療になるのではないかと言われていた。
「おーい……おーい……」――なんだろう、誰かを呼ぶ声が聞こえる。すごく小さな声だけど、誰だろう?
「こっちだよ! ルーカス、ルーカスライト」部屋の明かりによる効果か先程の視線とは打って変わって、優しい眼差しに親しみやすいフォルムをした白くて柔らかいものが、部屋の角にある教科書や漫画本が置いてある棚の一番上の部分に乗って彼を見つめていた。
「うわ! ぬいぐるみが喋った……?」少し部屋の角に移動してみる。
「そんなに驚く事じゃないだろう? ルーカス、御伽話じゃよくある話さ」現実に存在しているから驚いているんだろう、と彼は思ったがそんな細かい口論はしたくなかった。
「ルーカス、なんで僕の名前を?」一拍置いて疑問に思った。
「なぜって言われてもそこは君、あれだよあれ、企業秘密さ。私はなんでも知っている。特に君の事に関してはね」
そのフォルムにはまるで似合わない芯の通った落ち着いた声でその白いものは彼に語りかけていた。それまで夜の部屋で一人抱え込んでいた様々な感情は、その声によって闇夜に浮かぶ月の彼方へと飛んでいってしまい、その抜け殻は新たに生まれてくる好奇心や猜疑心をまとめる事に躍起になっていた。
「君の名前はなんて言うの?」――自分の名前を知られているなら相手の名前も知らなくちゃ。
「私? 私は……うーん、そうだねぇ……ケイ、ケイだよ」
「ケイか、良い名前だね! だけどこの辺りじゃ珍しい名前だね、どこから来たの?」一瞬、右の耳が動いたように見えた。
「どこからって、そりゃ君のお母さんが私を買いに行ったおもちゃ売り場さ」
「でも、ケイは今の今まで一度も喋ったことなんてなかったでしょ? なんで喋らなかったの?」
ケイは彼の去年の誕生日に母親からプレゼントとして貰ったぬいぐるみで、仮に喋るぬいぐるみだった事を飲み込んでも今このタイミングで喋り出した事を彼は不思議に思った。
「私は元々無口なほうだからね、君が今晩恐くて堪らなくなって今にも爆発しそうな顔をしていたから無口な私が話し出したというわけさ、別に不思議な事じゃないだろう?」白いものははぐらかすように言った。
「ならもっと早く話しかけてくれればよかったのに! 一人で泣いていたことも知ってたんでしょ!」
彼は自分が不安だった事、ケイが見て見ぬふりをしていたことに感情を露わにした。彼はもうすでにケイの事をぬいぐるみだとは認識していなかった。
「まぁまぁ、私の話はよそう、過ぎた事は良いじゃないか。それに、私については話せない事が沢山ある。それより君について話がしたい、ルーカス」話を振り切ると、見通すような黒い眼を光らせた。
「僕の話?」
「そうだ。君はここ数年いや、一年と言おうか、かなり滅入っているだろう。それはこの夜が一日中毎日続く世界も原因だろうが、一番は去年死んでしまった兄のことだろう」
「兄ちゃん……」――兄ちゃんのことも知っているなんて本当になんでも知っているんだ。
兄は非常に頭が良く、医者を目指していた。突如現れたよるのせかい、それに伴う夜分症をこの世から無くそうと立ち上がった一人だった。弟の事もあり、医者になる為の努力を欠かした事は無かった。しかし去年、志半ばでその夢は絶たれてしまった。
「兄の事を忘れろとも乗り越えろとも私は言わない、死を肯定する事は何よりも難しい事だ。私自身、死んでしまった者をいつまでも忘れない事が一番の弔いになると感じている。分かるかい?」
「うん」難しい言葉ばかりだったが、真に言いたい事は感じ取れていた。
「それでも弟想いの兄は、忘れず悲観してくれている事を嬉しく思うと同時に、いつまでも下を向いて過去を振り返る弟の人生を心配、それこそ悲観しているだろう。……結局何が言いたいかというと、君の大好きな兄の為に君自身が前を向こうっていう話だ。時間が掛かっても良い、足が絡んで上手く歩けない時があっても良い、前に進もうとする努力が兄にとっても君にとっても喜ばしい選択になる、そう信じているよ。そして私はその手助けをしに来たんだ」
動いてこそいなかったが、真剣な眼差しで真摯に向き合って話しているように見えた。その真剣さにどこか信用できる部分を彼は見出した。
「僕が前を向く手助け?」
「そうだ」落ち着いた声。
「いつも兄ちゃんのことを考えると胸が苦しくなるんだ、そんな時もいつも一人でどうしようもなくなってしまうんだよ」
「私が居る。これからはいつも二人だよ」
その日も泣きながら眠った。いつも一人だった彼にとって、話し相手が出来ただけでもかなり心強い事だった。いつもとは違う涙が流れる。――暖かい涙と優しい鼓動。
次に起きた日もよるのせかい。ただ彼の気持ちだけはいつものような暗闇に覆われてはいなかった。
「……ケイ、起きてる? おはよう」彼は陽の光によるモーニングコールの無いまま、目覚めの悪い眼を擦って何よりも先によるのうさぎに話しかけた。
「やぁ、もちろん起きているよ、なにせ私の体は睡眠を必要としないからね。一人の時は様々な事を思案しているよ、他のぬいぐるみ達と対話できた事は無いが、皆そうやって過ごしているんじゃないかな」寝起きではない為饒舌に返した。
「起きたらケイがまた無口に戻ってたらどうしようと思ってたんだ」
「それは夢の中でかい?」
「どうだろう、わからないや」彼は夢と現実の狭間で不安に駆られていた。
「まぁでも、少しは信用してくれたって事だね。ところで、ナイトスクールには行かなくて良いのかい?」
あまり話したくない事を聞かれて彼は内心狼狽えた。しかし、ケイしか話し相手がいない事もまた事実だった為「手助けをしに来た」という言葉を信じて正直に話す事にした。
「前までは毎日通ってたんだ。ママが忙しいのと僕がクラスメイトにいじめられて行けなくなっちゃった。行けそうな時は週に一回行く事もあるけど……」
よるのせかいでは暗い夜道を子供一人で出歩かせる事は禁止されていた。無論、暗い夜道しか無いこの世界ではナイトスクールは勿論どこに行くにも子供達には保護者が必要になった。
「それはルーカスが提案したのかい?」
「そう、僕がナイトスクールには行けないって言った」ばつの悪そうに彼は言った。
「そうか、それは良い判断をしたね。」――えっ。
「ルーカス、付かず離れずって言葉は知っているかい?」
「知らない、なに?」
「近づき過ぎず、離れ過ぎないで一定の距離を保つ事だよ。家族ですら距離が近すぎるとうんざりして鬱陶しく思えてくるし、かと言って離れすぎるのも興味が薄れてしまうだろう。家族なら離れても気にかけてくれるかもしれないが、ただのクラスメイトならどうだろう? きっと距離が近過ぎたんだ、そこで君は"毎日通う事はやめたけど、週に一回ナイトスクールに行く事もある"という選択をした。クラスメイトは君の事を忘れないだろうし、君への対応を考え直す時間もある。君に非は無い。むしろ最善の事をしていると私は感じるよ」――ナイトスクールに行かない事を責められると思っていたから意外だ。
「そんなこと考えたことなかった。でも僕は勉強も運動もできない、こんな僕を認めてくれないよ」彼には自信が無かった。
「うーん、君も知っていると思うがみにくいアヒルの子というお話があるんだ。私はどうもあの話が苦手でね。『みにくいアヒルの子が実は綺麗な白鳥で幸せになりました』……じゃあ本当にみにくいアヒルの子はどうなるんだ?」
「きっと苦労する、いじめられて幸せになれないかも」彼は自分とアヒルの子を重ねた。
「順当に考えるとそうだろう。でも、私の考えではみにくいまま幸せになれる。もちろん、みにくいというのは世間から見た話さ、それも自分が思っているよりずっと狭い世間かもしれない。」
「じゃあ僕も幸せになれる? どうすればいい?」彼の眼は少し輝いた。
「もちろんさ。君の芯の部分は変えなくていい、でも行動は起こさなくちゃいけない。今の君で言うとナイトスクールに行けて、いくつかの友達と仲良くできれば現状よりは幸せになれるだろう。まずは一人友達を作ってみる、できたらナイトスクールに行く回数を増やす、最終的には毎日に戻せたら万々歳。でもこれは強制じゃない、どの段階でも無理だと思ったらここに帰ってくれば良い。今のナイトスクールは君に合わなかったってただそれだけだよ」
その日は前向きな気持ちで眠る事ができた。彼にはケイがついている、その事実が彼の背中を守った。
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