ホストの朝

@kujira_23

最期の朝

 その日、あなたは初めて私の部屋に来てくれました。ドンペリニヨンを入れたご褒美として。ナンバーをキープするためにどうしても入れてほしいって言うから。私だってそんなに余裕があるわけじゃないけど、渉のお願いなら仕方がありません。あれ、いくらだったっけ。20?30?どうてもいいや。

 あなたはあまりお酒が強くないくせに無理して飲むから、毎晩だれかがお守りをしてあげなければいけません。それはホスト仲間だったり、客だったり。そして今日、やっと私にその番が回ってきました。

 あなたはソファーに深く腰かけてテレビを見ています。もう明け方だから、妙にテンションの高い天気予報や生活情報が、せわしなく切り替わっています。あなたはそれに感心があるのかないのか分からない様子で、じっと画面に見入っていました。私は炭酸水のコップをテーブルに置きました。あなたは軽く含むと、「甘くないね」と、あからさまに好みじゃないという顔をして、コップをテーブルに戻しました。私は「ごめんなさい」と言ってコップを下げ、シンクに炭酸水を流しました。まだいれたての炭酸水は、シュワーっと音を立てて、発砲が空気を揺らしながら流れていきました。その微かな振動が、私の耳の奥のなにかを揺らしました。私はめまいと吐き気を覚えて座り込みたくなりました。

 ふと居室を見ると、あなたはシャツを脱ぎ、上半身、裸になっていました。「暑いの?」と私が聞いても、あなたは無反応。アルコールで火照っているのかもしれません。彼はお店でもすぐにシャツを脱ぎたがるので、そのこと自体には驚かなかったけど、お店で見る裸とここで見る裸では何か違います。お店にいるときは暗い照明のなか、丸く低い椅子に少し猫背にして座っているので、陰影がセクシーに見えました。痩せ型のあなたは、蛍光灯の白い光に照らされ、全体がのっぺりとしていて、ぬらりひょん?みたいだなあと思ってしまいました。

 でも、あなたを独り占めできると思うと、その程度のことは問題にはなりません。あなたは白いジーンズのポケットからスマートフォンを取り出しました。待ち受け画面のバーをタップし、ラインを開きました。キッチンはソファーの背中側なので、スマートフォンの画面が私からも見えました。少し離れているので文字は読めませんでしたが、ほとんどスタンプだけで展開される会話に、私はイラつきを覚え、画面から目を逸らしました。

 私は先ほど三半規管が揺らされたことを思い出し、トイレに駆け込み、二度嘔吐しました。白っぽくアルコールの臭いのする嫌な液体が喉から押し出されました。みぞおち辺りが軽く痙攣し、また吐くのかと思いましたが、便器にしがみついて深呼吸をしたら、吐き気は治まってきました。私はその場にうずくまったまま、変な気分にならないか確かめました。吐いたせいか、めまいも治まったようです。

 顔を洗いたいし、歯も磨きたいから、トイレを出て洗面台の前に立ちました。部屋から笑い声が聞こえてきました。私は聞き耳を立てました。「一人で店にいる」と言いました。それから、「卵」と言いました。「ディーラー」と言ったり「すった」と言ったりしたから、カジノの話をしていたのかもしれません。「んー、そんなことないよ、愛してるよ」と言って会話は終わりました。

 私は洗顔料を多めに取って顔を洗いました。それから歯を磨きました。嘔吐したあとなので、とてもすっきりしました。あなたが卵と言っていたから、私はあなたがお腹を空かせているのかと思い、キッチンに戻り冷蔵庫を開けました。

 私は卵を溶きながら「愛してるって、誰のこと」と聞きました。あなたは「決まってるだろ」と言いました。

「俺のことだよ」

 私が彼と出会ったのは、半年くらい前に友人(今は友人じゃないけど)に連れられてお店に行ったときでした。

 ホストクラブ・爛漫。

 初めのうちは3千円くらいで飲めてたけど、あれは、5回目にお店に行ったときだったかな、どうしてもと頼み込まれて3万円もするシャンパンを入れてしまったのです。当時、私は不動産屋で事務職をしていました。安月給でしたが、3万円ならなんとかなるかなと思ったのですが、やはり3万円というお金を払うのはそう簡単ではなく、それ以来、お店に行くたびに、ツケでいいからと高価なお酒をせがまれて、私はハッキリと嫌だとは言えない性格だったので、言われたままに高価なお酒を入れてしまったのです。気が付くとツケが百万円にもなってしまい、彼からどうするのかと詰め寄られました。私が答えられないでいると、知り合いの風俗店で働けるからと言われ、私は仕方なくそのお店で働き始めました。確かに風俗店は不動産屋よりもお給料が良かったのですが、そのぶんお店のツケも増えていき、今では一千万円の売掛金が残っています。

 私は黙ってキャベツを刻みました。ふとソファに目を向けると、あなたはジーンズを脱いでいました。

 白いブリーフ。

 私は目のやり場に困りました。白いブリーフ姿の男性ほど醜いものはないと思っているからです。仕事で見慣れているだろうと言われるかもしれませんが、それとこれとは別です。実は、仕事中のことは、私はなにも覚えていないのです。嘘つきと思われるかもしれませんが、仕事中の記憶は一切ありません。だから、彼のブリーフ姿を見て、急に目の前が暗くなりました。


「なに突っ立っんだよ」と声をかけると、マリは焦点の合わない目でぼんやりと俺を見ながら口もとを歪めた。

「おいマリ、どうしたんだよ」と俺は言った。

「マリ?」彼女はそう言って首を傾げた。

「は、なに言ってんだよ」

「お客さん、早くパンツ脱いでよ」

「お前、なに言ってんだよ。急にどうしたんよ」

 マリの様子は明らかにおかしかった。目が据わっている。

「お前、だれ?」俺は聞いた。

「たかこ」

「たかこって、お前マリじゃないのかよ」

「早くパンツ脱いで」

 たかこと名乗る女は足を擦りながら、気怠そうにゆっくりと俺に近づいてきた。手に包丁を持っていた。

「ちょっと待てよ、なんで包丁なんか持ってるんだよ」俺はソファーに深く腰かけてたから、すぐに立ち上がることができなかった。

「包丁?」そう言うと、たかこは包丁をテーブルに置き、服を脱ぎ始めた。

 一瞬、殺されるかと思ったが、どうやらそうではないらしい。しかし、この女、いったい誰だ?

 考えてみれば、俺だって本名を名乗ってる訳じゃない。俺たちはお互いに源氏名しか知らない。なのにこいつは、俺のために借金をし、風俗に落ちてなお借金を増やしてる。この狂った世界に、俺は急に可笑しくなり、笑いが込み上げてきた。

 しかし笑っている場合ではない。俺だって今週中に納金しなければ追い込みかけられる身だ。この部屋に1円だって残すつもりはない。

 たかこは俺の腹にまたがってきた。俺の唇を吸うように舐めまわした後で、耳から首へと舌を這わせた。乳首を舐められ、俺の股間は一気に熱くなった。たかこは俺から離れ、ブリーフに手をかけた。俺は酒を飲むとそこが弱くなるが、この奇妙な状況に完全に興奮していた。たかこと名乗る女は俺のものを咥えると、根元を優しくしごきながら、先端を丁寧に舐めまわした。

 たかこは立ち上がり、俺を眺める。華奢で胸のふくらみが少なく肋骨の浮き出た身体は、哀れですらあった。それから足を大きく広げてソファの上に立ち、俺の股間に向けてゆっくりと腰を下げてきた。俺のそれを手で誘導し、自分の中に入れた。俺は乳首を摘まむことも、あそこを弄ることもせず、ただされるがままに任せていた。俺とたかこは接合しているが、そこ以外に皮膚の接触がなかった。まるで空中戦のようなセックスだ。たかこはソファの背もたれに手を突いて、目を瞑り、頬を緩ませ、唇を軽く開いて息をしている。時おり彼女の吐息が俺の前髪を揺らす。これほどいやらしい姿態にも関わらず、彼女の顔はとても愛らしかった。

 たかこはただ腰を振っていた。俺は堪えきれなくなり、あれが一気に固さと太さを増し果てた。彼女の顔は一瞬ゆがみ、その後で俺に覆いかぶさってきた。肋骨の浮く身体は、腕を回すとすっぽりと収まった。優しく背骨を撫ぜると、たかこは痙攣したように背中を揺らし、腕に力を入れてしがみついてきた。

「たかこ、愛してる」俺は囁いた。

 次の瞬間、たかこが素早く身体を起こした。

 女は鬼の形相で「たかこって誰よ」と叫び、テーブルの上にあった包丁を手にした。接合したままの俺は、どうすることもできなかった。

「あんたなんなのよ。私からお金も友達も家族も名前も顔も何もかも奪ってさあ」

 そう叫ぶと、女は腹に包丁を突き刺した。

 殴られるよりも強い激痛の衝撃とともに、俺は女を両手で突き飛ばした。浅く刺さっていた包丁を抜くと、這うようにして玄関に向かった。必死にドアノブを捻り、外へ転げ出た。

 女が血に染まった包丁を手にして近づいてくる。そのまま這うようにしてエレベーターに向かい、ボタンを押した。ピタピタピタという足音が近づいてきた。エレベーターが開く。俺は転がり込む。早く閉まれ。早く。

 ゆっくりと閉まるドアの間から、女の足が差し込まれた。ドアが開く。俺はもう動けない。

 女は俺の右腹に包丁を刺した。不思議と痛みは感じなかった。俺は女の顔を見た。女はまるで安堵しているかのような顔をしていた。それを見て、俺はなぜかほっとした。

 一瞬、股間に衝撃が走ったが、俺は遠のく意識に抗うように、最後の力を振り絞って言った。

「たのむ、顔、だけは、やめてくれ」


 私のあなた。なぜ血まみれなの?全裸でいることに気づいた私は、あなたの足をエレベーターのドアにかけ、部屋に戻りました。そして短パンとTシャツを着て、煙草とスマートフォンを持って外に出ました。あなたのショートパンツも。エレベーターのなかでデニム地のショートパンツを穿かせるのは少し大変でしたが、痩せていたからなんとか穿かせることができました。それから一階のボタンを押しました。白のデニムはみるみるうちに赤く染まってゆきました。

 私は腹部から流れ出る赤い液体を手で掬い、啜ってみました。予想に反して、これといった味はしませんでした。ただ、あまり飲みやすいというものではありません。コントレックスとか、硬質水みたいな感じです。心なしお酒の匂いがしました。あなたの液体が私の身体に入り込み、私はなにか大きな変化が訪れることを期待しました。蝶になって飛んでいくとか。でも、なにも感じませんでした。

 エレベーターが開くと、朝の光が広がりました。私はあなたの足を持ち、ホールに向かって引きずります。なんて軽い身体なのでしょう。あなたの通った後が赤く染まります。疲れました。私はあなたを壁際に寄せ、その横に座りました。

 愛してる。あなたは永遠に私のもの。

 私は赤く染まった指で煙草を摘み、口にくわえて火をつけました。大きく息を吸い込むと、煙と共に朝の新鮮な空気が肺に満たされました。いつもは酔って部屋に帰って意識をなくす時間なのに、こんな晴れやかな気分は初めてでした。

 私は久しぶりに母に電話してみましたが、応答はありませんでした。

 母としゃべれなかった私は、なにもかもがどうでもよくなり、お守りにしようと思ってたけど、あいつのおちんちんを道路に投げ捨てました。まるでミミズのようにのたうちまわるそれを見て、私は静かに笑いました。

 あーあ、私の居場所は渉だけだったのに、もうなにも。

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