よだれ
北見崇史
よだれ
「大妻さんを呼んでくれませんか」
お昼休みの二年三組。教室を出ようとした女子生徒が立ち止まった。前側のドアレールを跨いだ時に、見知らぬ女子生徒にそう言われた。
「一年がうちのクラスになんの用なの」相手は一年生である。
「大妻さんに用事があるんです」
「だから、なんの用」
「それは、本人に直接言います」
「ああ、めんどくさ」
その二年生女子が教室へ戻ると、数十秒後に別の女子がやって来た。目立つほどの美人顔である。ドアレールを挟んで、お互いの顔を見合った。
「あんたは、だ~れだ」
「一年の山田沙奈枝です」
「一年の、や~まだ~が、わたしにどういう用件があるのかしら」
「大妻先輩にお願いがあってきました」
突き抜けた美人顔、モデル並みのスタイル。女子高生としては破格すぎるものを持っていた。沙奈枝は緊張してしまい気恥ずかしそうである。
「お願い事はね、神様か仏様か、あるいはルート66交差点の悪魔さんにするのよ。魂取られて拷問三昧だけどね」
冗談を言っているのだとわからせるように、ケラケラと笑っている。
「聞いてやってもいいけど」
急に真顔となった。切れ長の清澄な瞳に見つめられて、一年生女子はドギマギする。鼓動が昂ぶっているのを知られたくなくて、軽く胸を押さえていた。数秒後、意を決したように言う。
「ここでは話づらいので、そのう、一緒に来てくれませんか」
「おやあ、体育館の裏まで連れて行って、わたしをボコる気なのかな~。怖い怖い」
「そ、そんなことないです。ぜったいにないですから」
必死になって否定する沙奈枝を前に、あはははと里緒菜は笑う。
「知ってるよ。そんなこと、あなたはしない。それに一年がわたしになにかできるとも思えないしね」
強者の余裕である。沙奈枝は少し下を向いていた。
「じゃあ、どこで話そうか。うう~ん、そうだなあ、保健室はいっつも誰かがいるし、トイレは臭そうで話が弾まないし、だったら理科準備室なんていいんじゃないの」
一年生に異存はない。しかし、そこへ到達できるのかとの疑問があった。
「あのう、理科室はカギがかかっていて、許可がないと入れないはずですけど」
「や~まだ~は心配しなくていいんだよ。わたしが行くと言ったら行くの。いい、わかった?」
口答えはするな、との目線を刺した。後輩は、それ以上意見することはなかった。
「ほら、行くよ。ついてきて」
里緒菜流にアレンジしたふっくらポニーテールを、フサフサさせて歩き出した。残り香をふわっと浴びながら、沙奈枝があとに続く。
理科室の鍵は閉まっていた。沙奈枝が残念そうに首を振るが、里緒菜は慌てない。ポケットから細長のキーを取り出すと、人差し指にかけてヒュンヒュンと回してから鍵穴に差し込んだ。
二人は理科室へ入り、さらに準備室へと移動した。四畳半もない空間で、お互いに向き合った。
「私、吸血鬼にはなりたくないんです。絶対にイヤだから、だから、そのう」
唐突に告白した。里緒菜は腕を組んだ姿勢のまま沙奈枝をじっと見つめている。
「キスをお願いします。キスです」
里緒菜の返答がなかった。沙奈枝は焦りを隠しきれない。この懇願を伝えようと決心するのに、彼女の心は何度も破裂していた。
「だって、大妻先輩とキスすると吸血鬼にならないって聞きました。絶対にならないって」と必死の顔で言う。少し涙目になっていた。
「違うよ」
「え」
潤んだ瞳から視線をそらさず、美形の二年生が言い切った。信じ込んでいたことが事実ではなかったのかと、一年生がうろたえる。
「キス、ではないのよ」
ググッと里緒菜が体を寄せてきた。押されるままに沙奈枝は後ずさりするが、準備室の大きなテーブルに尻がつかえて、それ以上の退避はできない。
「よだれ」
「えっ」
「だから、よだれ。わたしのよだれを飲むと吸血鬼にはならないの。キスだけではダメ」
里緒菜の唇が沙奈枝の頬に触れんばかりに接近していた。吐息のように柔らかな言葉だが、確かな圧力を感じてしまい、少しの身動きもできない。
「ねえ、あなたはわたしのよだれを飲みたいの」
里緒菜の口が秒速一ミリメートルずつ降下している。頬から唇付近までは二十数秒を要した。
「他人のよだれを飲みたいって、なんか不純よね」
さらなる接近は言葉と肉体を伴った。よく発達して主張が強い胸部が、薄っぺらな胸へと密着する。制服を通して、お互いの鼓動を交換し始めている。
「よだれ。ほんとうに、ほしいの」
「はい、飲みたいで」
最後までは言えなかった。すでに沙奈枝の呼吸は里緒菜の唇によって塞がれている。ねっとりとして、たっぷりと濡れた舌が、少しこわばった歯をこじ開けて侵入してきた。無遠慮に、執拗に、容赦なくこねくり回す。
「んぐ、んぐ」
唾液の交換ではない。一方的な流し込みであった。しばしその行為に没頭してから、ふっと離した。
「もっと舌で、わたしを刺激しなさい。すごく強くからめないと、よだれが出ないのよ」
「でも」
「吸血鬼になりたくないんでしょう。ちょっとぐらいの量じゃあダメよ。たくさん飲まないと効き目がない」
そう言い終わって見つめると、今度は沙奈枝のほうから唇を寄せてきた。背が低いので、下から突き上げるようにドッキングさせる。一回目よりも、絡めかたが上手くなっていた。
「甘い」と、沙奈枝は感じた。
キスは深ければ深いほど生臭くなると、経験者である姉から教わっていた。きっと口臭の味がするのだろうと思っていたが、上級生のそれは微かな甘味があった。ずっと飲んでいられるし、なによりも舌に伝わる温かさと感触が心地よくて、うっとりとしていた。
「もう、ここまでね」
だが、よだれの供給は終わってしまった。
「まだです、ぜんぜん足りません」
遠くにいってしまった唇を求めて抗議するが、それ以上は、おあずけとなる。
「一度にたくさん飲んでもダメなの。意味がないわ。また今度ね。一週間後のお昼休み、ここにいらっしゃいな」
里緒菜が理科準備室を出ていった。唇の端に溜まっていた一滴にも満たないよだれを、人差し指で口の中に押し込みながら、沙奈枝はいつまでも味わっていた。
「あら、早いのね」
沙奈枝が理科準備室へ入るやいなや、里緒菜が言った。黒テーブルの向こうで、曇った空を背景に腕を組んで不敵な笑みを浮かべている。
「授業が終わってから、すぐにきました」
「や~まだ~が素直なのは好きよ」
「そんなことないです」と言いながら、いくぶんか下を向いていた。目線が右から左へと泳ぐ。
「こっちに来なさい」
「はい」
里緒菜に呼ばれて彼女の前に来た。いきなり、よだれの供与が始まると期待して顔を突き出し気味にするが、年上の女子は会話から始めたいようだ。目を半分ほどつむっていたので、急いで真顔に戻る。
「ねえ、吸血鬼って、どうやって血を吸うのか知ってる?」
「ええーっと、たぶん、首元に噛みついて、牙を刺して血を吸うんだと思います」
肩透かしを食らったことに恥じらいを感じながらも、沙奈枝は素直に答えた。
「違うよ」
「違うんですか」
「それは作り話。本物の吸血鬼は、そんなにお上品じゃない」
不穏な会話になることを予感させるように、里緒菜の吐息が深くなった。
「まずはね、血を美味しくするために苦痛を与えるんだよ。生きたまま目玉をくりぬいて、お鼻の穴に指を入れて中を抉るの。ナイフのように尖った爪で軟らかな神経をほじくる。そうすると痛みで血が煮えたぎるでしょう。すっごくおいしくなるんだ。まるで、血のポタージュ」
里緒菜に言われるまま想像して、慌ててその情景を頭の中から消し去った。
「ぜったいヤダ、吸血鬼なんて、絶対に無理です」
「吸血鬼はね、たくさんいるんだよ。あっちにもこっちにも」
里緒菜の視線は沙奈枝の瞳をポイントしたまま離さない。整いすぎた美顔が、じれったいほどのスローで近づいてゆく。期待と喜びに全身が溶け出していた。
「気をつけて。あいつらは平気でウソをつくから。わたしたちを惑わして」
もう唇同士が触れ合っていた。
「だまして」
よだれを欲して、沙奈枝の舌がくんくんと突くが、里緒菜の口は閉じたままだ。
「殺す」
最期の一言と同時に解放された。お互いの舌は粘性によってからみ合い、肉の靭性によって弾かれた。一体になろうと、右往左往しながらの寝技が続く。
「もっと、もっと」と、甘ったれた声で沙奈枝がせがむ。
たいがいの量のよだれが溢れ出しては吸い取られているが、十六歳の渇望が尽きることはない。乳をねだる子羊のように、くんくんと唇を突き上げるのだ。
数分か数十分か。経過した時を沙奈枝は知らない。ただ不意に離れてゆく唇に心残りがあった。
「今度はね」
後輩の目頭にかかった前髪をかき分けてやり、彼女の視線に語りかけた。
「すごいことをしてあげる」
沙奈枝の瞳が潤んでいる。目尻から涙滴が一つ零れ落ちそうになると、里緒菜の指が、塗り広げるようにそうっとぬぐった。
「よだれより、もっとすごいことをするんだよ」
あのとろけるような舌触りと甘味よりも凄いことを考えて、沙奈枝の足がぷるぷると震えていた。
「大妻さんをお願いします」
お昼休みの二年三組の教室。引き戸の廊下側で沙奈枝が声を掛けたのは、前と同じ女子生徒だった。
「またなの。どうして私に言うのさ。知らない」
沙奈枝を無視して彼女は行ってしまった。仕方なくざわつく教室の中を見渡すが、里緒菜の姿はなかった。今日は学校を休んでいるのだと思った。まだ一週間は経っていない。理科準備室での待ち合わせがもどかしくて、ついつい来てしまった。フライングした自分を反省するしかなかった。
あれから一週目となった。約束の日に約束の場所へ里緒菜は来なかった。だから、沙奈枝は二年三組の教室へとやって来た。
「あのう、大妻さんをお願いします。一年の山田沙奈枝です」
「ねえ、どうしていつも私なのよ」
その問いは無視して、沙奈枝は言った
「大妻さんから受け取るものがあるんです。けっこう急ぎなんです」
それが、よだれ、であるとは、もちろん口に出さない。
「だから、大妻って誰なのさ。ほかの組じゃないの。ってか、二年に大妻なんていないけど。三年か」
その女子生徒は里緒菜を知らないどころか、存在するも否定した。沙奈枝はウソだと直感した。
「あんたがちょくちょく顔を出すから、うちのクラスの男子がさあ、興味あるみたいなんだよね。放課後、また来てくれないかな。紹介するから」
ハッとして、沙奈枝は気づいてしまう。
これは自分に対するワナだ。男を使って女心を惑わし、騙そうとしている。里緒菜の警告が骨身に伝わってきた。
「吸血鬼」
つぶやくようにそう言うと、その女子生徒が訊き返す。
「え、なに」
「なんでもありません。今日は早めに帰らなければならないので、ちょっと無理です」
「あら残念、仕方ないね。男子には、そう言っておくから」
だが沙奈枝は、その場から去ろうとする女子生徒の袖口を掴んでいた。
「知らない男の先輩と話をするのは緊張するので、その前にいろいろ相談したいのですが」
「え、私に」
「そうです。誰にも聞かれたくないナイショの話ですので、誰もいないところがいいです」
「恋バナね。もちろん、いいけど」
「では明日の放課後、理科準備室でお願いします」
「あそこって閉まっているでしょう。担当の先生に言わないと開けてくれないよ」
「大丈夫です。合鍵を作っていますから」
用意がいいのねと言って、その女子生徒はOKを出した。鼻歌まじりに戻ってゆく。
「あの女は、すでに吸血鬼だ。あたしを呼び出して獲物にしようとしている。きっと仲間の男子生徒と一緒になって襲って、体を引き裂いて血を啜るんだ」
二年三組から離れて、考えていたことを口に出してブツブツ言っていた。階段ですれ違う生徒たちが、不思議そうに振り返る。
「あのクラスは吸血鬼たちに乗っ取られたのかも。だから、大妻さんはどこかに隠れているんだ。あたしに、よだれを飲ませたくてもできない。きっと、あたしを待っているんだ」
廊下を歩きながら、よだれ、という言葉をしきりに落としていた。通りすがりの女子生徒が意図せず拾ってしまい、クスクスと笑う。
「あたしが吸血鬼を退治する」
沙奈枝の心は、もう決まっていた。だから、すでに作戦は始めている。
発達しすぎた犬歯にヤスリをかけて十分に尖らせた。ためしにヤカンに齧りついて、鉄板を食いちぎってみた。ナイフで爪を削り、ナイフ以上の凶器とした。人並外れた握力で野球のボールを握り潰し、フフフと不敵に微笑む。
「あいつを理科準備室の薬品庫に連れ込む。そうしてゆっくりと時間をかけて生皮を剥してから目玉をえぐりとる。あばら骨を折って、まだ動いている心臓を掴んで、ギュッとつぶして滴る血を飲んでやるんだ」
吸血鬼の息の根を止めるには、丹念な解体が必要となる。
「ほかのやつらも皆殺しだ。家にはナタもマサカリもある。あのクラスの吸血鬼を切り刻んで、その血だまりで泳いでやる。そうしたら、大妻さんが戻ってきてくれるんだ」
吸血鬼は常に人間のフリをしている。いちいち選別してはいられない。疑わしきものは殺せと、沙奈枝の意志は固かった。
「ああ、よだれよりすごいことって、なんだろう」
十六歳の興奮が治まらない。
「なんだろう、なんだろう」
口の中は、よだれで溢れていた。
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