この小説にタイトルを付けるとするならば

ひなたひより

第1話 虚構と現実による非日常の考察

 本が好きだ。


 はっきりとそう言い切ることが出来る。

 手元に納まった文庫本から顔を上げて、朝靄のかかった車窓からの景色に目を向けた私は、僅かな首の張りを感じつつ、しばらく酷使していた眼を休めていた。

 人間の頭の重さというのは成人でおおよそ5キロ。やや前かがみで本を読む傾向がある私の場合、頸椎にかかる負荷はその何倍にもなる。

 もし、目の前に本が無くて、同じ姿勢を維持していたとしたら、それは間違いなく苦行に分類されるものであろう。


 ゴトン。


 大きく車体が揺れた。

 田畑を突っ切る単線のレールは、老朽化のせいか、時折こうして大きな揺動を起こし、数少ない乗客の穏やかな時間にいきなり介入してくる。

 都会ではどうだか知らないが、私の乗車する、このローカル線に関して例えるならば、さしずめ普段寡黙なくせに突然キレるお年寄りといった印象だった。

 車体を軋ませて突然キレた列車は、また何事も無かったかのように、一定のリズムで揺れながら進んでゆく。

 私は、手に納まったままの文庫本の栞を摘まんで頁を開くと、印字された二次元の文字列の続きに目を落とし、虚構であるもう一つの世界へと足を踏みだした。

 いや、踏み出そうとしたのだ。


「うーん……」


 口を閉じたまま、悩まし気な音を発してしまった声帯器官の動きは、意図したものでは無かった。

 私の本に対する情熱と集中力に、ズカズカ分け入ってくるものが、もう少ししたら現れる。

 速度を落とし始めた列車が、これから起こる小さな非日常へのプロローグだ。

 次のホームへと入って行く列車の窓には、まばらな人の姿。

 やがて停車した列車の扉が開いて、数えるほどの人たちが降りて行き、数えるほどの人たちが乗車してくる。

 そして、あの黒の詰襟を着た少年が、今日も私の向かいのシートに腰を降ろすのだ。

 予想していた黒ずくめの学ラン少年を乗せて、また軋んだ音を立てて扉が閉まると、車窓はゆっくりと横に流れ出した。

 私は手元にある文庫本に視線を向けるフリをしながら、詰襟の少年の振舞いに、眼鏡越しの焦点を合わせる。

 腰かけてからすぐに通学鞄を膝に乗せた少年は、手にしていたスマホをそのまま鞄の中に押し込んで、代わりに私が見慣れたものを取り出した。

 文庫本だ。カバーをしてあるので、どのような本であるのか見て取ることは出来ないものの、その大きさで、わざわざカバーまでしてあることから、それが小説であろうことは最初の一目で推測できた。

 少年は手に納まった小説に目を落とし、彼だけが目にしている虚構の中にゆっくりと沈んでいく。

 先ほどまで私も彼同様、同じ手順を踏んで虚構の世界に耽っていた筈なのに、いまはどうしてもそれが出来ない。

 手元にある、解きかけの推理小説よりも、いま目の前にある詰襟を着た非日常が、私に魅惑の手招きをしてくるのだ。

 そして私は、活字の魅力を上回ってしまった朝の光を背負う少年を解明すべく、文庫本ごしに推理を展開し始めた。


 彼が私の向かいに座ったのは丁度一週間前。

 図書館で借りた連作ものの推理小説を、ようやく読み終えたタイミングだった。

 連日遅くまで読み耽って、寝不足だったせいもあり、自然な生理現象として、大きな欠伸が口をついて出た時に、彼の存在に気付いた。


「あっ」


 思わず小さな声が漏れた。

 人もまばらなローカル線の車内にいるのは、大概がスマホを手にした人たちだ。

 彼ら、あるいは彼女らは、一般的に他人事に無関心で、電車という限定的な空間を共有している間でも、自分の部屋にいるのとそれほど変わらない過ごし方をしている。

 スマホを通して普段の自分を持ち歩き、どこにいてもその延長線で、空間に飛び交う見えない信号を端末で拾って愉しんでいるのだ。

 公共の場で自分がどのような日常を送っているのかを、晒してしまっているわけだが、大概の人はそんなありふれたことに無感覚だ。

 部屋着のまま、寝ぐせ頭で電車に乗っているのと変わらない気がするが、その怠惰さに関して、私も特に関心はない。

 かくいう私も、スマホの代わりに小説を持ち歩いている身だが、そこは一線を画しているのだと自負している。

 そもそも、私が持ち歩いているのは日常ではなく非日常だ。日常を外に持ち歩いているわけではない。片手に納まる特別な非日常を持ち歩き、それを様々な場所で開いては愉しんでいるのだ。

 そして、借りた本でさえカバーをして、その本が何なのか、周囲の誰にも知られないよう配慮している。

 そんな私が、油断していたとはいえ、大口を開けて欠伸をしていたのを、真正面に腰を下ろしていた見知らぬ詰襟に目撃された。

 いや、正確には目撃されていたのではなかろうかと、訂正すべきだろう。

 人間の眼球が動く速度は意外と速い。

 顔を上げることなく上目遣いに鑑賞していたのならば、瞬時に視点を文庫本に戻して、対象に感知されることなくやり過ごすのは容易いだろう。

 しかし、合理的ではないが、人間には誰しも、説明のつかない感覚が生まれながらにして備わっている。

 論理的な思考を常日頃から心がけている私も、そういった第六感的な感覚をないがしろにしてはいないのだ。

 絶対いま見ていた。私の全感覚がそう言っていた。


 その日を境に、私の虚構による非日常を愉しむ時間は、現実による非日常に浸食されていった。

 必ず私の前に座って文庫本を読み始める詰襟カラスがいるお陰で、快適な居場所を奪われたような気分になってしまった。

 解決法はいくつもあった。

 例えば少年のいない別の車両に乗ってみる。あるいはもう一本前の電車に変えてしまう。もっとものぐさな方法としては、ここでは小説を開かず、イヤホンで耳を塞いで目を閉じていたらいい。

 そうは思ってみたものの、残念なことに、私には変に意固地な所があった。

 新参者の詰襟に快適な空間を邪魔されて、自分から態度を変えるということは、敵に背中を向けることに他ならない。

 道理を通すのならば、私ではなく詰襟の方が退散すべきなのだ。

 勝手に人のプライベートスペースに割り込んできて、安寧な日常をついばむ、空気を読めない詰襟カラスに屈する気など毛頭ない。

 無言で圧をかけてくるエセ文学少年に、私は猛烈な対抗心を燃やしたのだった。


「そこのあんた! なに読んでんのか知らないけど、私の前でさも文学少年面してんじゃないわよ。だいたい目障りだっての。スマホ持ってんなら適当にそれで遊んでなさいよ!」


 と、私は詰襟カラスに語気激しく言い放った……ただし頭の中で。

 想像、妄想の類は、自慢じゃないが得意な方だ。

 妄想上の少年は私の剣幕に尻込みし、額にジワリと汗を滲ませた。


「どうせ大したもんじゃないんだろうけど、なに読んでんのか見せてみなさいよ!」


 私はおもむろに席を立って、つかつかと少年に詰め寄ると、手にしていた小説を取り上げた。

 小説が私の手に収まった瞬間に、少年の顔に得も言われぬ狼狽の色が浮かんだ。

 その表情を目にして、その小説が他人に見られてはいけない。とっても恥ずかしい何かであると、私は悟った……。

 

 いやいやいや、なに変な妄想しちゃってるのよ。それはいくら何でも飛躍しすぎよ。


 腹立たしさから、詰襟カラスを貶めたかったのだろうが、いくら何でもそれはない。普段論理的に物事を考察する私の頭から出て来たとは思えないお粗末な内容だった。

 そして大きく深呼吸をしてから、私はこの謎多き詰襟カラスを何とかするべく、推理を展開し始めたのだった。

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