第8話 世界で一番痛い茶番

 朝。

 まだ戻らない慶介さんに電話をしました。


「私、妊娠したかもしれません」

『……本当、なのかい?』


 一秒弱の沈黙に垣間見える、彼の驚き。

 私はほくそ笑み、話を続けます。


「前から生理がこなくて、急に気持ち悪くなってトイレで吐いて。もしかしたら、と思って……。これから病院に行ってきます」

『くれぐれも気をつけて行くんだぞ』


 電話はそれで終わりました。

 そこからに普通に部屋で数時間過ごしたのち、私は改めて電話をします。


「あの、もしもし、慶介さん?」

『縁! ど、どうだったんだ!?』


 慶介さんはすぐに出ました。すごい食いつきです。

 跡取り息子としての責務から解放されるかどうかの瀬戸際だからでしょう。


「病院に行ってきたんですけど」


 本当は一歩も外に出ていませんけどね。


『そ、それで……?』

「はい、それで、その、ですね……」


 私は勿体ぶるようにして間を空けます。一、二と数えて、次に一言。


「慶介さん……ッ」


 感極まったように震わせた声をにわかに高くして、彼を呼びます。

 私からは何も言わず、ただ、そこにある喜びの感情だけが彼に伝わるように。


『……そうか。そうかぁ! おめでたかぁ!』


 詳しいことは何も言っていないのに、慶介さんは途端に声を大きくしました。

 私の声の調子から、彼は自分に子供ができたと勘違いした。


 その誤認を、私は引き出したかったのです。

 前の人生でも同じことがあったから、こうなることはわかっていました。


「慶介さん、私、私……ッ」


 私は激しく声を震わせて、ついでに涙声なども演出すれば――、


『でかした、縁! 実家には俺から報告しておくよ!』


 と、彼はあっさり誘導されてくれました。

 これで、慶介さんはこれから子供ができたという話を周りに吹聴していくでしょう。

 その話はときを待たずに澪さんの耳にも入るはずです。


「……さて、と」


 電話を終えた私は、タブレットパソコンに手を伸ばします。

 軽く操作をして、画面上には通販サイトのホームページ。


「こちらも準備を進めておきましょう」



  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 ――SNS上のDMを使った会話。


縁:例の品、三日後到着だそうです。


嗣晴:見つからずに済みそうですか?


縁:大丈夫でしょう。今の彼は終電帰宅で始発出勤です。


嗣晴:この時期の慶介は仕事で忙殺されていた時期でしたね……。


縁:ええ。ですので心配はいりません。それで、宮藤さんの方は?


嗣晴:こちらも今のところは順調です。


縁:大丈夫、なんですよね?


嗣晴:それについても問題なく。前の人生での経験則ですが。


縁:信じさせていただきます。


嗣晴:それにしても、やっぱり本気でやる気なんですね?


縁:またその質問ですか。


嗣晴:何度だってききますよ、それは。


縁:どう思われようと、これが最善です。わかりますよね?


嗣晴:そうですね、慙愧に耐えないことですが……。


縁:おわかりいただけて何よりです。


嗣晴:それでも、眞嶋さん。


縁:はい?


嗣晴:僕はあなたを心配しています。それだけは、知っておいてください。


縁:……はい。ありがとうございます。



  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 昨日、お義母さんにいい病院を教えてもらいました。

 慶介さんが生まれた病院で、お義母さんが懇意にしているのだとか。


 郊外にある、とても小さな病院です。

 私は安堵しました。この病院でなければ、最後の条件を満たせないのです。


「……ふぅ」


 準備は整いました。

 いよいよ、明日が勝負の日です。


 それは他の人には務まらない、私でなければ果たせない役割です。

 でも、これから自分がすることを思うと、どうしても手が震えてくるのです。


 心細さに身を縮こまらせていたとき、スマホが鳴りました。

 SNSのメッセージ。嗣晴さんからです。


『成功を祈っています』


 送信されてきたのはそれだけの短いメッセージ。

 でも、それを見て、感じていた心細さが嘘のように消えました。


 ありがとうございます、嗣晴さん。

 あなたのおかげで、何とか前を向けそうです。


「それでは、世界で一番痛い茶番を始めるとしましょう」



  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 車が二台通れない狭い道を、私は歩いています。

 病院まではもう少しというところです。


 辺りは住宅地になっていて道幅も狭く、午後の時間帯は人通りも少ないです。

 今も、道を歩いているのは私一人だけで、他には誰もいません。


 監視カメラもないここは、まさに街の死角です。

 何かを起こすのにうってつけです。


「あ……」


 歩いている拍子にバッグの肩かけベルトがズレてしまいました。

 私は道の真ん中でベルトをかけ直そうとしました。そのタイミングで、


「……え?」


 大きな音がして振り返れば、そこには私めがけて突っ込んでくる黒塗りの車。

 運転席にいるのは、澪さんです。

 私への嫉妬と憎悪を隠そうともせず、顔を歪ませた彼女がハンドルを握っています。


 迫る車を前に、私は立ち尽くしました。

 そして肩にかけていたバッグをおなかの辺りに構えて、体の向きを逸らしました。


 激しい衝撃が私を吹き飛ばしました。

 私はこの日、澪さんの運転する車にひかれました。



  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 車が走り去る音が聞こえます。

 道を転がった私は、まだ意識を保っていました。


 体中に激痛が走り、声を出すことも難しい状況ですが。

 それでも必死に痛みを耐えながら、私は近くのバッグに手を伸ばします。


 すると、バッグの中身が私の視界に入ってきます。

 そこには何枚も重ねられた黒い衝撃吸収材。


 今日のために、通販サイトで買って仕込んでおいたものです。

 朦朧とする意識で出したスマホを確認すれば、そこには電話の着信履歴が。


 それは、市内の離れた場所にある電話ボックスの番号でした。

 嗣晴さんからの電話です。


 決めておいたのです。

 彼が依頼した探偵さんが今の事故をお記録できたら、この番号で連絡することを。


 電話はかかってきました。

 つまり、探偵さんから嗣晴さんに成功の報告がされたということです。


 辺りには物陰も多く、探偵さんはそこに張り込んでいました。

 私の計画は、成功したのです。


 安堵が胸に広がります。

 それで緊張の糸が切れたのか、一気に眠気が強くなりました。


 このとき、私が味わうものは前の人生とは違っていました。

 前の事故では、車におなかを直撃されました。

 あのときの、私のおなかが中身ごと潰れる感触は、今も鮮明に覚えています。


 だけどその経験があったからこそ、事前に準備ができました。

 バッグをクッションにして、体の向きを変えておなかを守りきれたのです。


 怖かったです。とても怖かったです。

 でも、事故の現場に嗣晴さんに来てもらうわけにはいきませんでした。


 だから私は、一人でやり切るしかなかった。

 でも、おかげで私は、忌まわしい過去の一つを覆すことができました。


 私は意識を手放しました。

 澪さんへの切り札を手に入れたことに、大きな達成感を覚えながら。

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