双子
森本 晃次
第1話 双子
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和4年9月時点のものです。
「双子」
と聞くと、皆さんは、何を思い浮かべるでしょうか?
「同じ親から母親から、同じ時に、胎内に二つの命が存在している」
ということであろう。
「一卵性双生児」
などという言葉があるが、基本的に昔から、双子というと、
「忌み嫌われる」
というイメージが強かった。
生まれ落ちると、片方の子を養子に出したりなどというのは、実際には戦後でも行われていたというではないか。
何といっても、
「双子が生まれると、村に禍が訪れる」
などと言われたものである。
昔から、何でも、神様を信仰することが、当たり前だった時代、五穀豊穣も、すべて、天気などの、人力に関係のないところで起こるのだ。
「人が足りないから、刈り入れが遅れた」
とは言っても、大飢饉に見舞われて、
「皆が、バタバタと死んでいく」
などということは、そんなにあることではない。
やはり、天候に左右される。
大干ばつが襲ったり、長雨や、豪雨で、堤防が決壊したり、さらには、台風で、農作物が全滅するなど、ざらであった。
天災が一つだけとは限らない。
江戸時代の、天明年間に、
「天明の大飢饉」
というのがあったが、この時は、
「冬は、暖かく、雨もなかった」
というそんな天候に加えて、岩木山、さらには浅間山が、立て続けに噴火したものだから、火山灰が、日照を塞ぎ、今度は、必要な時期に日照がほとんど敵わない状態になった。
これらの問題が絡み、凶作となり、大飢饉となったのだ。
長雨というのも、困ったもので、洪水になると、利根川の堤防が決壊したりすると、もう、どうにもならなかったりした。
天災、災害というのは、これだけではない。地震もあれば、火事などもある。さらには、
「流行り病」
というのも、深刻で、奈良時代などには、天然痘の流行があったことから、それこそ、平城京は死体の山だったという。
東大寺の奈良の大仏の建立も、天然痘などの流行り病によって、苦しめられている状態を救おうと、聖武天皇が、
「大仏建立」
を行い、
「仏教の力で、この災害の世の中を救う」
というものであった。
それだけ、天災であったり、禍というものに対して、人間には、
「どうすることのできない」
というものを、仏様に頼るというのは、古今東西老若男女、すべての人を平等に救うという考えに基づくものであろう。
奈良時代から、平安時代に移っても、まったく世の中はよくならず、下手をすれば、もっとひどかったかも知れない。
ただ、奈良から離れるというのは、
「力を持ちすぎた寺や僧侶の影響を少しでも和らげる」
という意味でも、
「長岡京から、平安の遷都」
だったのだ。
宗教というのは、いいも悪いも、世の中の中心にある。
「人を救うのは、御仏しかいない」
と言われていた。
しかし、考えてみれば、救ってきたのだろうか?
「歴史がいずれ、答えを出してくれる」
としてもだ。
「じゃあ、その答えというのは、どこにあるのだ?」
ということになる。
ひょっとすれば、今が、昔の答えなのかも知れないし、今の答えはどこにあるのか? ということである。
時間、時代というものが、漠然と過ぎているということはないと思うが、だからと言って、出てくる答えが何であるかが分からないのであれば、比較対象がないわけなので、今が答えだと仮定すると、今度は、
「その問題はどこにあったのか?」
ということになる。
こうなれば、もう堂々巡りで、それこそ、禅問答ではないだろうか?
そんなことを考えてしまうと、
「歴史というのは、何のために学ぶのか?」
ということになるだろう。
しかし、逆に歴史を学ぶということは、
「間違った答えを出さないことだ」
と考えれば、納得のいくところがあるだろう。
「何が正解なのか?」
ということを求めてしまうと、妥協が許されなくなる。
たとえは悪いかも知れないが、
「完全試合と、無安打無得点試合」
の違いといってもいいかも知れない。
完全試合、つまりパーフェクトは、フォアボールも味方のエラーも許されない。
しかし、ノーヒットノーランの場合は、ヒットさえ打たれなければ、エラーがあっても、フォアボールでランナーを出しても、点さえとられなければ、いいのだ。
かなり余裕がある。
つまり、完全時代は、
「正解を求めること」
であり、ノーヒットノーランは、
「間違った答えを出さなければ、それが正解だ」
ということの違いだろう。
歴史を勉強することは、
「ノーヒットノーランを目指せ」
つまり、
「間違った答えを出さないように、する勉強である」
といってもいいだろう。
そもそも、
「歴史に正解というものが存在するのだろうか?」
と言ってもいいだろう?
正解がどこにあるのか?
分からない正解を求めるよりも、リアルに悲惨な道を進まないようにするという考えの方が、よほど現実的だといえるだろう。
人間というものは、
「間違いを犯さないようにできている」
といってもいいかも知れない。
やたらと、正解を目指そうとする人間は嫌われたりする。
特に潔癖症な人は、
「自分の机に他人が触れたというだけで、アルコール消毒をするような人が友達の中にはいる」
というのかも知れない。
今のご時世であれば、
「それは当たり前のこと」
といって、数年前に、生活や、考え方を、180度変えなければならなくなった時期があったが、まさにその通りである。
だが、それは、あくまでも、伝染病が蔓延しているからであり、伝染病が流行っていなかった頃は、そこまでしなくても、普通に生活できたのだ。
最初の頃は、
「いつになったら、マスクを外した生活ができるんだ?」
と思っていたが、今では、
「マスクをしていないと気持ち悪い」
というくらい、まるで、下着を身につけるかのようにして、マスクをするのだ。
「習慣というものは恐ろしい」
という言葉だけで片付けられるものであろうか?
そんな時代において、正解を求めるということが愚であることを悟った人も多いだろう。
「世の中何が起こるか分からない」
つまりは、昨日まで正しいと思われていたことが、ちょっとしたことだけで、ゴロっと変わってしまうというものだ。
たとえば、何が正解なのかを考えた時、
「歴史というものを知っているのと知らないのでは、比較対象を持つことができない」
とは言えるだろう。
答えがどこにあるか分からないが、見えている範囲で、一番正解に近づけるということはできるだろう。
「そもそも、答えと正解というものは、同一のものなのだろうか?」
正解というのは、正しい答えということであり、答えというものよりも、もっと、厳密なものだ。
そういう意味で考えると、あながち、
「歴史が答えを出してくれる」
というのは間違いではない。
「歴史が正解を出してくれる」
ということは難しいかも知れないが、答えであれば、たとえそれが間違いであっても、言葉としては、的を得ているのだろう。
そう考えると、
「世の中、何が起こるか分からない」
といって、起こってしまったことは、何かの、
「答え」
なのかも知れない。
それを思うと、
「歴史上の答えと、自分が出すべき答えが決して同じではない。自分が出すべき答えは、なるべく正解に近づけなければいけない」
と言えるだろう。
「何が正解か分からないのに?」
と言われるかも知れないが、
「歴史を勉強していれば、少なくとも間違えた答えを見つけることはない」
と言えるだろう。
そうなると、限りなく正解に近くなるだろう。
それでも、
「百里の道は九十九里を半ばとす」
という言葉にあるように、
「それだけ距離とは曖昧なものだ」
と言えるのではないだろうか?
今まで言われてきた、
「世の中の正解」
つまり、
「モラルや常識」
というのも、壊れるものである。
神話だった。
「銀行はつぶれない」
と言われていたものも、バブルが弾けたことで、一気に統廃合か、破綻するしかなかったのだ。
「運動の最中、水分を摂ってはいけない」
と言われていた時代があった。
理由は、
「ばてるから」
というものであったが、今の時代では、
「熱中症対策で、水分はどんどん取らないといけない。逆に水分を摂ってきついくらいの練習であれば、練習を控える方がいい」
ということだ。
「無理して、熱中症に罹ってしまうと。それこそ、本末転倒というものだ」
といっていいだろう。
そんな神話だったり、昔から信じられていたことが一気に潰れていく。きっかけになることがあるのであれば、
「きっと、皆同じ時代の一つのことを、別角度から見ることで、感じられることなのかも知れないな」
ということなのだろう。
「神話というものが、崩れる時、世の中が、間違った方向に行こうとしていることなのかも知れない」
と思えた。
決して間違った方向にいってないのであれば、人間に、変な意識を植え付けることはないだろう。
それを、
「警鐘」
という言葉で言い表すと、分かってくることも多いのかも知れない。
世の中において、
「本当に、神様や仏様がいるのだとすれば、なぜこんなに人間に試練を与えなければいけないのか?」
と思える。
「天国、地獄」
などと言って、
「十万億土」
あるいは、
「地獄絵図」
などという世界が創造されるが、
「天国と地獄の間が、今のこの世なのではないだろうか?」
と考えると、天国も地獄も、死なないと行くことはできない。
しかし、人間には、漏れなくその時期は訪れる。
ということは、
「死というものは、天国か地獄のどちらかに行くための、儀式のようなものだ」
と言えるのではないだろうか?
しかも、
「生まれてくることは、自分で選ぶことはできないが、死ぬことだって、自分で選んではいけない」
という考えが、
「自殺は許されない」
という、いろいろと宗教がある中で、ほとんどどこも、この戒律は含まれているのだった。
「人を殺めてはいけない」
これは当たり前のことであり、今の世の中でも、
「殺人というものは、許されることではない」
として、最高刑に値するものだ。
「自殺というのも。自分で自分を殺すという意味で、宗教では許されないのだ」
法律でも、裁くべきなのだろうが、死んでしまった者に、さらなる罪を与えても仕方がない」
ということで罪にはならない。
「ひょっとすると、これを罪にすると、自殺への抑止になるのではないだろうか?」
と言えるかも知れない。
そんなことを考えると、また頭がこんがらがってくる。
世の中で、歴史というものが、出してくれる答えというものを、甘んじて受け入れられない場合のことを、
「理不尽だ」
というのであろう。
この世の中に、どれだけ、理不尽と呼ばれるものが多いことなのであろうか。
つまりは、
「生まれる時も、どこの誰から、いつ生まれるかが分からない。そして、死ぬ時も、死というものを自分で選んではいけない」
というのである。
しかし、生まれる時、選べないのであれば、
「死ぬ時くらい、自由でいいのではないか?」
と思うのは、いけないことなのだろうか?
確かに、死ぬ時も選べないというのは、どういうことなのだろう? まわりの人が悲しむくらいで、もし、
「助からない」
というのであれば、
「安楽死」
「尊厳死」
という形で、楽にしてあげる方がいいのではないだろうか?
考えられることすれば、
「安楽死を認めると、安楽死というものを理由に、死んでもらいたい人を殺すという殺人事件が、隠れてしまう」
ということになるからではないか?
と考えるのだった、
つまりは、
「遺産相続の関係で、今すぐにでも、お金が必要な人がいるとして、一日でも早くお金をもらわなければ、借金取りに追われて、どんな目に遭うか分からない」
という人が、故意に安楽死を狙うということにならないかということである。
法律や犯罪にかかわることであれば、倫理的なこともあり、
「安楽死は認められない」
ということになるのだろう。
しかし、安楽死を認めないということは、残った家族が、
「地獄を見る」
ということになるわけだ。
「目が覚める可能性が限りなくゼロに近い」
と言われている人の生命維持のために家族は、その治療費を払い続けなければいけない。しかも、付き添いもしなければいけないということで、仕事を辞めなければいけない人もいるだろう。
自分が生をしていくだけで大変なのに、家族がどうして、
「生き返る可能性の低い、植物人間を見なければいけないのか?」
ということになるのだ。
精神的にもかなりきついだろう。波の神経であれば、家族の方が参ってしまうことになるはずだ。
世界では、安楽死を認めているところもある。日本でも、厳密にはすべてがダメといっているわけではないが、基本的にはダメである。
特に医者が安楽死に加担すれば、医者の世界から追放されたり、世間から誹謗中傷を浴びることになるだろうから、まず、医者は安楽死を認めることはないだろう。
ただ、家族を一番近くで見ているのは医者なので、衝動的に同情してしまったとしても、責めることはできないだろう。
「安楽死を認めていいのかどうか?」
これは、これからも論争のテーマになるだろうが、
「永遠に答えは出ない」
という気もして仕方がない。
「最初に決められないのであれば、却ってこじれるだけで、結論など、出てくるものではない」
というのは、乱暴な考えであろうか?
「生まれる時を、選ぶことはできない」
ということがどういうことになるのかというと、
「人間は生まれながらにして、平等だ」
と世界人権宣言に書かれているというが、果たしてそうだろうか?
生まれることに自由がないのだから、平等などありえないといえるのではないだろうか?
何しろ、
「親自体が、不平等な世界にいる」
と言えるからだ。
ということは、
「この世から、不平等がなくなり、皆が貧富の差も、差別もない世界であれば、生まれながらにして平等だ」
と言えるだろうが、生まれてから育つ時に、そもそも不平等な世界にいる親から育てられるのだから、親の教育が多大な影響を及ぼすことになるのだから、それだけで、大きな問題である。
ただ、もっと大きな問題は、
「生まれてきた子供が双子だった」
という場合である、
これが、どちらかがかなり早く生まれていれば、兄と弟というように、ハッキリとその立場が分かるというものだ。
もちろん、立場的な差別があるのは仕方がない。
「長男は溺愛するが、弟の方は、適当に育てていて、親の愛情を知らずに育つ」
ということになるだろう。
ただ、これは、
「世間ではよくある」
という差別である。
許されるわけではないだろうが、
「あるある」
ということで、犯罪でもないし、
「その家庭のプライバシー」
ということで、片付けられるに違いない。
しかし、双子として生まれた場合はどうだろう?
どちらが先か、つまりは、兄か姉かということは、本当に運でしかない。もっとも、兄弟だって運である。先に生まれてくるかどうかというのも、最初から決まっているのかどうなのか? それを考えると、生まれるのがいいか悪いか、何とも言えない。
親だってそうだろう。長男を溺愛する人もいれば、なぜか次男を溺愛する人もいる。その場合は、長男が頼りないなどという理由があるのだろうが、それも、後から取って付けた言い訳のようなものかも知れないといえるであろう。
あくまでも、運というだけで、
「同じ時に一人の母親から生まれるということの科学的な統計による確率と、実際に生まれてきた双子との確率のどっちが多いのか、統計と医学の確率なので、一般市民に分かることではないだろう」
と考えられる。
ここに、
「大喜多兄弟」
という双子の兄弟がいる。
彼らは、物心ついた頃から、兄の忠直は、
「俺が兄なんだ」
と、言われてきたこともあって、その意識に間違いはなく、逆に、弟の忠次の方は、
「何で、俺が弟なんだ?」
と思っていた。
むしろ、こう感じるのは、当たり前のことで、同じ誕生日なのに、兄の方が贔屓されているようで、弟は面白くないだろう。
ただ、忠次が不満に思っているのは、そういうことではない、忠次は生まれた時から、その意識を持って生まれたようだったのだ。
「俺は生まれてきた時から、どうしてこんなにハッキリした記憶があるんだろう?」
と思っていた。
もちろん、産まれてきてから、後になって、
「物心がついた頃から、ずっと意識していたことだったように思えた」
という人もいたが、どこまで信憑性があるものなのかむずかしいとことである。
ただ、忠次は、ハッキリと覚えているのである。
他のことはあまり意識がなかったにも関わらず、
「自分には兄がいる」
ということをしっかり意識していて、
「兄には頭があがらない。いうことは聞かなければいけない」
という意識があったようだ。
ただ、それは自分が勝手に感じたことなので、人にいう筋合いの問題ではない。だから、誰にもこのことは言わなかった。
それでよかったのである。もし言っていたとすれば、
「後からなら、何とでもいえる」
というレベルの問題だったように思えてならないのだ。
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