とある幽霊マンションにおいて
ぴよ2000
第1話 一等地
1
夏は蟋蟀と蛙の合唱が賑やかで、冬は流水の音が静かに畦道に響く。
水田に映る空は地平との境目が曖昧になるほど青々しく、夜になれば暗夜に星の明かりが煌々と降り注ぐ。
電車もバスも公共交通機関は何もなく、地図に載っているのかすら疑わしい程の田舎道。であるのに、知る人ぞ知る穴場であるといわんばかりに四季を問わず写真家たちがその景観をフィルムにおさめにやってくる。
穂先の群が風に波打つ光景。
夕焼けに染まる山の端。
澄んだ空気に、自然の豊かな色が映える。
ただ。
そこに、その中心に、景色に似合わぬ灰色の棟が天高くそびえ立っていた。
ラーメン型。とでも言うのだろうか。
至るところの柱や梁がむき出しで、建築当初はデザインとして通じたのかもしれない。しかし今や朽ちて、鉄筋や鉄骨部分の赤黒い錆が目立つ。灰色の壁は風雨に剥げ、所々が斑となっている。
その高層マンションは宅地開発の先駆けとして、都市部の中心となる。
はずであった。
およそ10年前までは。
1
何か固いもので背中を殴られた。質感的にバットのような、丸みのあるもののような気もする。
しかし、その衝撃を吟味する暇もなく直後にバールで胸を突き上げられ、フックが顎をかすめた。激しい痛みと嘔吐感で膝をついたところ、目の前が真っ暗になる。
ガサガサの生地が頬に触れ、麻のズタ袋で顔を覆い被せられたと気付いた時には三度目の衝撃が顔面にやって来た。
俺は死ぬのか。
朦朧とする意識の中で、その諦めだけは明瞭だった。
「これはいくら何でも死んじゃうっしょ」
軽薄な、聞き覚えのある声が聞こえた。やはり、あいつらか。
杉江豊には心当たりがあった。
朝の教室で、クラスメイトの不良二人と鉢合わせた。ツンツン髪の痩身男、笹山。両サイドに刈り込みのある、大柄な体躯の宮村。早朝で、教室に入って来る者がいるとは思わなかったのだろう。ぎょっとして振り返った二人の視線に、杉江は固まった。
「んだよ驚かせやがって」
緊張が訪れたのは束の間、二人は力が抜けたようにロッカーにもたれかり、ため息と共に紫煙を吐き出した。つん、と焦げた臭いが鼻をつき、杉江はえづきそうになる。
「杉江……杉本だったか? 誰にも言うんじゃねえぞ? 言ったら殺す」
痩身の方、笹山が半笑いで言った。指の間に挟まれた葉煙草からはまだ煙が上がっている。
思わず杉江は周囲を見やった。火災報知器が反応しないのはどういうことか、と思ったが、見れば全ての窓が全開にされている。煙の逃げ道は確保されているわけだ。
「お前も一本どうだ? すっきりするぞ。ほら」
宮村が懐から箱を取り出し、杉江に向けた。
黒地に金色の英文字が印字されたパッケージ。
「い、いや、俺はいいよ」
杉江は断り、二人から逃げるように自席に向かった。後ろからは「ちっ」舌打ちと、あわせて笹山のけらけらとした笑い声が聞こえた。
申し出を断られた宮村を笑っているのか、自分を意気地無しと笑っているのかはわからないが、居心地が悪いことに変わりはない。
「杉なんたらよー。どうしてこんなに早いわけ? 何かあんの?」
しばらく笑い声が響いた後、笹山の声が聞こえ、杉江はくっと固まる。無視したいが、一対二のこの状況下、そんな度胸が湧くわけもない。
「日直、で、早めに」
舌が回らず、声もうまく出せない。
杉江は自分の言葉がしっかり伝わっているのか自信がなかったが、笹山が「日直ねぇ」と呟いたことに安堵した。よし、もう話しかけて来るな。しかしそんな願いも虚しく「じゃあさ」と笹山が続ける。
「そーじしといてくんない? これ」
そーじ? 掃除? 何をだ?
杉江は笹山が何を言っているかわからず振り向いた。
「これ。吸殻。足下にあんだろ」
ロッカーの上には灰皿代わりの空き缶が置かれているのにも関わらず、笹山は宮村との間に捨てられた吸殻を指差した。
「お前、ぶっ飛んでるな。空き缶に捨てりゃいいだろ」
宮村が吹き出した。
笹山はチッチッチと人差し指を振って、空き缶をつかんで逆さに向けた。黒ずんだ少量の液体と数本の吸殻がタイルに落ちる。
「朝は掃除からだろ? 日直の仕事が早速やって来たわけだ。やったなおい」
ぎゃははは、と耳障りな笑い声が教室に響く。
何だ。何をしているんだ。こいつらは。杉江は、目の前で起こっていることがよく飲み込めなかった。というより、考えたくなかった。
ぷちん、と頭の中で音がする。
「なあ」
笹山が燻ったままの煙草を杉江に投げつけた。
弧を描いた煙草は、ぽす、と杉江のブレザーにぶつかり、足下に落下する。杉江は火種の部分が肌に触れなくて良かった、なんて冷静に思ってしまう。
「そーじ。ほら。早くしろよ」
「……わかった」
杉江は、それ以上何も言わず、教室の隅、掃除用具入れの方に向かった。視界の端で宮村が「まじでやんのかよ」と、にやにやしながらこっちを見ている。構わず突き進んで、掃除用具入れの横の、火災報知器の押しボタンをありったけの勇気を振り絞って押してやった。
すかさずウアーンジリジリとけたたましい警報音が鳴り響き「何してやがんだゴラァ!」笹山が後ろで吠えた。
「わあ、手が滑った」
「嘘つけてめえ! なめてんのか!」
笹山が意気込んで杉江に詰め寄る。
それまでのふざけた雰囲気から一変し、その形相には鬼気迫るものがある。ただ、ここまで来てしまったからには後には引けない。
「やめろって! 先に引き上げんぞ!」
しかし、宮村が笹山の肩を後ろから掴んだ。ここで杉江に構うより逃げた方が賢明だと判断したようだ。
「あーっもうクソ!」
笹山は毒づきながら宮村の後を追って教室から逃げて行った。警報音が鳴り響くなか、杉江は廊下を駆けていく足音に意識を傾け、二人の気配が消えたところで「っはぁ」その場でへたりこむ。
ただ、今にも二人がこちらに引き返して来るのではないか、と、事が終わってからも心臓の動悸が警報音よりも煩さかった。
そして、警備員が教師を伴い駆け込んできた事でようやく胸が軽くなる。
吸殻だらけとなった床の惨状を教師に聞かれ、どう答えたのかは杉江自身、もう覚えていない。
笹山達との一連の流れを正直に言ったのか、報復を恐れてはぐらかして答えたのか。
笹山達は授業が始まってからも姿を見せず、杉江もあまり朝の事を意識をしないように日課時限を過ごした。
あれは一種の事故みたいなものだ。
そう思うように努めながら、昼を越え、夕方になり下校時刻を迎えて。
「言っただろ? チクったらぶっ殺すって。なあ杉本よ」
殴られ、麻袋を顔に被せられ、また殴られた時には、馬鹿みたいに一人で下校するんじゃなかった、と後悔の念が吐き気と共に胸にこみ上がる。
あいつらが、笹山達が報復に来ないなんて保証などどこにもなかったのだ。
「約束通り、俺らはお前をぶっ殺しに来たんだよ」
杉江が襲撃に遭ったのは人気の無い川沿いの細い道で、杉江は最初、川に投げ捨てられる事を想像し、おののいた。
何せ、麻袋で顔を覆い被せられた上、紐のような細い何かで首にくくられた状態だ。
生地が水を吸えば当然重くなるし、脱出が困難である以上溺れ死ぬのはいとも簡単である。
実際、「川に落としてやろうぜ」という笹山の声が聞こえ、恐れていた事がすぐに現実になる事を悟った。もがけば顔を殴られ、しかし、周囲には朝の時のようにすぐに助けに来てくれる大人はいない。頬や額に走る痛みに喘ぐも溺死という末路を考えるとこのままの方がましであると思ってしまう。 情けないが、死よりも削られつつある生にすがってしまう。
「いや」
後ろから野太い声が聞こえた。
「一回、あそこに行ってみようぜ。人も寄り付かないだろうから丁度いいだろ。なぁ笹」
一瞬、宮村かと思ったが、よく聞いてみれば全くの別人の声だ。一方笹山は「えっ、あそこって、前に言っていた……?」明らかに動揺している。
「おう」
笹山に話しかけたその人物は平然と答えた。
「肝試しだよ」
杉江がその言葉を聞いた瞬間、ゴッという鈍く重たい音が脳天に響き、全ての感覚が閉ざされた。
2
「 !」
誰かが何かを叫んでいる。
キン。耳鳴りの方が強く、その声は聞き取れない。いや、途切れ途切れに聞き取れる。
おぼろげに。
かすかに。
「 村」
村? 宮村の事だろうか? 何でクラスメートの名前がここで出てくるのか? ところでどうして自分は「村」というワードだけで宮村を連想したのか。
ズキッとした痛みが思考を遮る。
目を開けるのが億劫になるくらいに、その痛みが増幅していく。まるで、脈を打つごとに激痛が走るようで。
「かっ、はっ」
胸が痛い。
息をする度にむせ返りそうになる。
ずぅっと鼻で息をして、今度は臭いで咳き込みそうになった。
錆と湿気が混じったような、嗅いだ事もないような臭いだ。一体ここは、どこだろうか。
「笹 覚めた 」
笹? 笹山? ツンツン髪の、不良。宮村とよくつるんでいるところを見かけて「……あっ」そこまで連想して、杉江は声をあげた。麻袋を被せられたところまで思いだして、それから、それから? 杉江は激痛を我慢し、今度こそ目を開けた。
真っ先に目に飛び込んで来たのは、何とも眩しい光。思わず杉江は顔を伏せる。いや、本当は眩しくなんか無い。脳が視界に映り込んだ景色を処理しきれないだけだ。
「よお」
端が垂れ下がった、線のように細い眉。一重の瞼が皺のように伸び、口角はいやらしく吊り上げっている。
まるで、歪んだ木目ににたりと笑いかけられているようだ。
「笹、山」
杉江は、かすれ声でその男の名を口にした。
「こうなったのは、お前のせいだからな?」
笹山の言葉に続いて、くひひ、とどこからか笑い声がきこえた。見れば、笹山の後ろに大男が控えていて、杉江を見下ろしておかしそうににやついている。笹山の相方の宮村だ。
「日課をサボった罰だ」
笹山がのいたかと思うと、大きな足が顔面に飛んで来た。動きは遅いが、咄嗟に避けられない。宮村の蹴りをまともにくらい、杉江はまた意識が飛びそうになった。
「がっ」
頬に残る、鈍い痛み。
靴底に着いていた土や泥が傷口に染みる。
杉江が避けられなかったのは、後ろで両手を縛られているからだ。背中越しに柱のようなものに括られていて、その場から移動することができない。
杉江の頭に浮かんだのは、「私刑」の二文字。
映画とかの拷問シーンで見たことはあるが、まさか自分がこうなるとは思っても見なかった。
「おいおい、あまりやりすぎるとまた意識飛んじゃうって。こういうのはじわじわしなきゃだろ?」奥の方から野太い声が聞こえた。
意識がなくなる直前に聞いた、あの声だ。
「さすがアロさん! 経験者は違うなぁ!」
笹山がおどけて言う。その人物、アロは、笹山や宮村とはまた雰囲気が違っていた。
金髪のオールバックに、アロハシャツ。はだけた胸元からはネックレスが光り、一見して賑やかではあるが、笹山、宮村とは異なりどこか落ち着いて見える。
大人だ、と杉江は思った。
それも、笹山や宮村のバックにつくような、決して柄が良いとは言えない部類の。
アロは「ふっ」と鼻で笑い、ふかしていた煙草を指にはさんだ。
「杉本、といったか」
ざり、とアロが奥から一歩踏み込んできた。
アロの彼女だろうか。
後ろに髪の長い女を従えている。
「両手を解いたところでお前は逃げられんよ」
冷たい微風が杉江の頬を撫でる。
今さらながら、自分がどこに拉致されたのか気になった。
殴られ蹴られ、視界の全てが二重に滲む中、かろうじて見えるのはコンクリートの屋根。
漆喰は亀裂だらけで、鉄筋がむき出しの箇所もある。屋根が途切れた奥からは橙色の空が広がっていて、他に建造物は見えない。
山や建物が見えないくらいに、高いところ。
空しか見えないくらいに、高いところ。
地平線が死角になるくらいに、高いところ。
「屋上、なのか」
連想して浮かんだ場所を杉江が口にした瞬間、コンクリートの冷ややかな感触が、臀部から背筋を一気にかけ上がった。
屋上にある高置水槽。その塔の配管部分。
そこに自分は今、くくりつけられているのではないか。
「やっと気づいたのか」
宮村が言った。ついでにもう一発蹴りをくらったが、今度は痛みより先にどこに拉致されたのかが気になって、意識はより鮮明になる。
「ここは、何処だ」
川沿いの道で意識を失った後、車に乗せられたんだ、と気付いた。
おそらく、アロの車で、アロの運転で、拉致された。でもどこに?
杉江は血の混じった痰を吐き捨て、アロを睨んだ。アロは「なんだ、まだ元気じゃんか」と呟き、杉江の目の前でしゃがんだ。
「『一等地』っつったら、わかるか?」
「いっとうち……?」
杉江は反芻し「……まさか」その場所、その建物が頭に浮かんだ。
ーー肝試しだよ。
意識を失う寸前に聞いた、アロの言葉を思い出す。
「そのまさかだよ」
アロが杉江の顔面に煙を吹きかける。
葉の焦げた臭いとすえた臭いが鼻を駆け抜け、むせかえった。
その杉江の姿を見て、ひゃひゃひゃとアロがおかしそうに笑う。
「人気がなくて誰も寄り付かないとこっつったら、ここいらじゃ有名なんだろ? こういう時、俺らにとって好都合な場所でもある」
一等地。
杉江の地元では、その呼び名で通っている。
もしかしたら日本中で有名なのかもしれないが、もし他の人間がこの場所を命名するならこう言うだろう。
人喰いマンション。
「話に聞くと、ここがヤバすぎて肝試しに入ってくるカップルすらいないらしいなぁ。なあ笹」
「俺はビビってないっすよ! いや、ヤバい場所とは聞いてましたけど……」
笹山がアロの隣で繕うように言った。
宮村に「嘘つけお前めちゃくちゃ嫌がってたろうが」と横から茶々を入れられ、笹山が図星を突かれたように「うっせえ」と宮村を小突く。
笹山が嫌がっていた、というのは頷ける。
人里離れた田園地帯。
そこに、宅地開発の先駆けとして超高層マンションが建ち始めたのは杉江が小学校に上がった頃。周りには民家などはなく、農地ばかりである為か地元住民の反対運動などは起こらなかったと聞いている。故に、最初は誰もが夢見る「一等地」として町起こしの先駆けとなるはずだった。
だが、建設途中で問題が起きた。
従業員の失踪や、自殺が相次いだのだ。
しかも、決まって工事現場であるこの場所で。
当然のことながら現場の人間は「この場所に何かあるのではないか」と訝しみ、恐れたであろう。 しかし、計画は半ば強引な形で進められ、マンションは形こそ出来上がった。
いや、出来上がってしまった、というべきか。
「そりゃ、最初はちょっと嫌でしたけど、案外何も起きないもんなんですね。心霊スポットって」
「当たり前だろ。幽霊なんて生まれてこの方見たことねえし、人は化けて出て来たりしねえんだから」言って、アロが脚を振り上げた。
杉江が、来る、と思った時には既に衝撃が頬に走り「人を痛めつけれんだってば」脚を降ろしてアロが言い終えた。
生ぬるい感触が顎をつたい、それが鼻から溢れ出たものだと気付くのにそう時間はかからなかった。 ぽと、と数敵の血が股の間に落ちる。
アスファルトが赤黒く染まっていくのを眺め、しかし、杉江は今さら何の感慨も湧かない。
痛みが麻痺していくごとに感情が死んでいく。
その感覚が、目の前にいるこいつらやいわくつきのこの場所よりも恐ろしい。
本当に?
杉江の中で、違和感が鎌首をもたげた。
「気分は最悪だろぉ? 杉本ぉ?」
笹山が挑発するように顔を近付けて来た。
杉江は無視して、ふと胸に込み上がった違和感の正体を探る。何だ? 殴られ、蹴られ過ぎて変になったのか?
「……笹山」
「あん?」
挑発が効かなかったせいか、笹山は眉間に皺を寄せた。怒らせても別に構わない。杉江は続けた。「何人で、ここに来た」
どうしてその質問がすっと出てきたのか、杉江自身にもわからなかった。焦りが先行して、考えがまとまらない。その結果、直感だけを頼りに要点だけを聞いてしまったような。
案の定、笹山は「はぁ?」と、本当に訳がわからないという風に首を傾げる。
「お前含めて四人だよ。つうか、どうでもいいだろうが、んなこと」
笹山の代わりにアロが答えた。
確かに、この質問でこの状況が変わるわけでもない。でも何だ。この気持ちの悪さは。
俺を含めて四人……。ということは。あ? れ?
「あ……」
声をあげたのは、笹山とアロの後ろで控えていた宮村だ。見れば、宮村は虚空を見つめたままピクリとも動かない。笹山とアロが振り返り、どちらかが「ミヤ?」と呼び掛けた。
「かあ、さん」
宮村が呟いて、一歩、後ずさる。
嫌な、予感がした。
「あっ、おい、ミヤ」
笹山が呼び止めたが、宮村は一歩、また一歩と後ずさる。屋根の下を出て、夕空の下に出て、コンクリートの縁の方へ。
まるで、何かに後ろから引っ張られていくかのようにして。
そして、宮村は縁に立った。
見たところ柵はない。
元から取り付けられなかったのか、それとも何らかの理由で撤去されたのか。
ただ、ここがもし本当に杉江の知る『一等地』だとするならーーそのマンションの屋上だとするなら、宮村の背後に広がるものが何なのか、その意味は理解できる。
「ミヤ、宮村!」
笹山が叫んだ。
アロはその光景を茫然と見ている。
杉江は、息を呑んだ。
「かあさんが、よんでる、から」
そう言い残して、
宮村は後ろ向きに倒れ、視界から姿を消す。
一拍の間を置いて、ぐしゃ、という音が遠くの方から響いてきた。
「……は?」
杉江は笹山と目を合わせ、次にアロと目を合わせた。今目の前で起きた光景が何なのか、無言で確認し合うようにして、「死んだ。ミヤが」そう呟いたアロの顔にさっきまでの余裕は無かった。
目は見開いて、への字に曲がった口からは荒い息遣いが漏れている。混乱と恐怖の入り交じった表情。しかし、その気持ちは杉江も同じだ。
私刑に遭うより恐ろしい事が平然と起きた。
それも、目の前で。
「アロさん……ヤベェよ……宮村が、まだ生きてたら、助けに行かないと」
「馬鹿かお前は! こいつを担いで来たお前らの方がここがどれだけの高さか知ってんだろうが!」笹山の方を振り返り、アロが怒鳴った。笹山は一瞬ビクッとしたが「でも、もしかしたら」と食い下がる。アロは苛々したように怒号を重ねた。
「お前も見ただろ? 今のは自殺だ! ミヤは自分の意思でここから飛んだんだよ!」
「まさか、嘘だろ」
アロの言葉に、杉江は思わず反応した。
「違うってのか? ああ?」
アロが杉江に凄む。
対して、杉江は舌打ちしたい気持ちで一杯だった。あれが、自殺な訳がない。
「何で、わからなかったんだよ……!」
「『わからなかった』? 何が」
「宮村の影を、見ていなかったのか!」
「影?」
笹山が力なく聞き返す。杉江は言葉に詰まる。こいつらは、何も見えていなかったのか?
いや、最初から何も見えていなかったのだ。
「屋根から出た宮村の影が、おかしかった」
東に伸びた、宮村の影法師。その輪郭が、明らかに本人のものと異なっていた。
幼い子供のような背丈。手足。何より、影の向きが本人と真逆で、縁の方へと向かっていた。
「……影が、宮村を引っ張って行ったように見えた」
「見間違い、だろ?」
笹山が声を震わせて言う。
「この状況でホラ吹いてんじゃねぇぞ!」
「嘘じゃ、ない。何で気付かないんだ! 投身自殺をするやつが背中から落ちると思うのか? あんな死に方を」
「ここから逃げてぇからって、お前」
笹山が杉江の胸ぐらを掴み、勢いよく揺さぶる。「やっ、め、」視界が前後し、目眩と頭痛が再来した。胸は嘔吐感で一杯だ。手加減の無さに笹山の焦りが見てとれる。
「笹! そいつはもうほっとけ! 俺らだけでも引き上げんぞ!」
アロが叫んで、笹山の肩を掴んだ。
アロの肩を女が掴んだ。
女が。
「あ?」
さっき抱いた違和感の正体。いるはずのない五人目。それが、
「あっ、アロ、さん、目が、ひっ」
笹山が怯えたような声をあげた。
アロの右目がスロットのように白目を向いて「いきゃなきゃ」呟くと同時、生温い感触が杉江の顔面に降り注いだ。
「お、い」
血飛沫。杉江は、それがアロの首から吹き出したものだと気付くのに時間を要した。
アロの右手には、黒いグリップの飛び出しナイフ。刃体は赤黒い液体に滑っていて、ぎとぎとしている。
状況が理解できない。
できないが、アロが自分で自分の首をかき切った事だけはわかった。
アロの肩を掴んだ女は、もうここにはいない。
じきに誰もが、ここからいなくなるだろう。
とある幽霊マンションにおいて ぴよ2000 @piyo2000
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