さかなマーチ
海良いろ
前提 生きることノート
「ねえ、記憶を液体や固形物にできたら良いと思わないかい?」
すずめがチュンチュン言ってる白い朝、我が家の朝食の時間に目玉焼きの黄身を潰し、味噌汁を見ながら兄がそんな事を言う。寝癖だらけのくせに無駄に爽やかだ。
「また何か忘れたの」
もう慣れたそれに適当に返す。
兄はどうも忘れやすい脳味噌の造りをしているようで、忘れ物はしょっちゅうするしカップラーメンにオレンジジュース注ぐし部屋は付箋や貼り紙だらけだし街の中で遭難しかけて警察のお世話になることも度々。病気じゃないって結果が出るのが不思議なくらいには忘れっぽい。
そんな兄が一番神経質になるのが『自分がしたことの記憶』に関して。
珍しく眉間に皺が寄ってる割に不釣合いに上機嫌で私の部屋に来て本を持ってったかと思ったらそんなに経たないうちにまたいつもの兄が来て「自分はこれを借りに来たか」と訊く。
もう諦めたら良いのに。個人的には兄が幾人かいるようで面白くないこともない。
そんな生活に疲弊した兄はより一層忘れることが多くなった。
話してる途中でいきなりハッとしたり聞き返したり、2、3日帰ってこなかったり。
最初は面白がっていたが段々と兄が薄れていくのを実感してそうもいってられなくなった。
なよっちいと言われるほどにいつも柔らかい笑みを浮かべていた兄は、今は見る影もなく俯いていて。
自慢の、兄だったのに。あのしなやかさと全力さは指標だったのに。
兄が事故に遭ったという電話があった。
私は友達と出掛けていて、着いた頃には兄が息を引き取った後だった。
突然すぎるあんまりなことになにも思わなかった。
葬儀が終わっても何も思わないまま、ふらりと兄の部屋に入ってみて声も出ないほどに驚いた。
いつも部屋に漂っていた、本人同様ふわふわとした雰囲気は既に無い。
いたるところに貼っていた、カラフルで色んな形で、綺麗な字で規則的に並んでて、たまに可愛い落書きがしてあった付箋や貼り紙は、
全てモノクロで乱雑に殴り書きで散らばってて。以前よりも、ずっとずっと、壁や家具を覆い尽くすほどに貼られていて。
それでも、兄が全力で生きているのが分かった。字が思い出せないのか、ひらがなや訂正ばかりだけど、たくさんたくさん忘れたくないことをメモしていた。
悪いと思いつつ机を調べた。鍵の掛かった引き出しにはこじ開けようとした跡があって、鍵の場所を忘れたんだなと思った。よっぽど大切なものが入ってるんだろうな。
兄は馬鹿なのか鍵の隠し場所を私たちに漏らしていた。兄と違って手を伸ばした位じゃドア上部に届かないので、脚立を持ってきてドアの上にセロテープで貼り付けてあった鍵を取る。甘いぞ兄よ。
カチャッという音を立てて鍵が開く。そのまま引き出しを取り出して机の上に中身をぶちまける。
まず何冊ものノートが目に入った。適当に手にとって開くと小さめの字がびっしり並んでいて、どれも「楽しかった」だの「面白かった」「嬉しかった」だので、思わず子供かと突っ込んだ。随分細かなことが書かれている日記だと思っていたら、表紙を見て、息が詰まった。
『好きなものノート』
まだ、綺麗な字だ。
ページを進めていく毎に涙が溢れてきた。
段々ひらがなが多くなり、ボールペンで書いているからか修正液を使った跡が増え、字が汚くなっていく。かなり悩んだのだろう、インク溜まりも多い。
それから、友達や家族で撮った写真がいっぱい。前はこんなに明るかったんだな。ちょっとやつれたな。キューティクルが減ったな。白さに拍車が掛かったな。
それから、いくつかの綺麗な瓶が転がっていた。中には紙を丸めたのが入っていて、この間言っていたことを思い出した。
ああ、確かに。記憶を物体として保管しておけたらどんなにいいだろうな。
日常を思い浮かべると、そんな日常はもう来ないんだなというのが体を貫いて、ぼろぼろと涙が落ちた。
兄は、どんな思いで忘れていったのだろう。最期は、何を思っていたんだろう。
もう帰ってくることのない兄を想い、おそらく最新のであろう空白のページが多いノートをもらうことにした。
そして、兄の日記が途切れた所から書き始める。
いつでも全力で生きようと思って。
「思ったことをすぐ口に出す」
「割と笑う」
「好きなものはメモする」
「素敵なものは取っておく」……
そしていくらか書いた後、これから増えていくだろうページの為に、ノートの表紙、兄がつけたタイトルの下に私のタイトルをつけた。
『生きることノート』
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