筆跡


 陛下の手からそれを受け取った父は、しばらくは無言のまま、流し読みをするような速さでぱらぱらと頁を繰っておりました。


 そしてあるところで声を漏らしたのです。


「これは……」


 先に続く言葉はありませんでしたが、父の表情が茫然としたものへと変わります。


「素晴らしい出来であろう?これを受け取っておきながら、侯爵は三年も何もしなかったのだよ。さて、君はこれからどうする?」


 父はすぐには答えませんでした。

 それは手元の引継ぎ書に夢中の様子にも見えます。


 そうしてしばらく経ってまた父から絞り出された声は……。


「この字」


 え?字ですか?

 気になったのは内容ではなく、字だったのですか?


「本当にこれは……リーチェが作ったのか?」


 今度は作成者を騙ったように疑われてしまったようです。


 ですがこの疑念は簡単に晴らすことが出来るでしょう。

 この場で私が字を書いてみせればいいのですから。


「貴様、まだ妻を疑うか」


 何か書くものをいただこうかとお願いする前に、旦那さまが怒ってくださいました。

 今のお顔も素敵です、旦那さま。


「いや、すまない。今のはそういう意味ではなく……。この字は辞めた補佐官のものとばかり……今までずっとが……妻が偽りを述べていたことを知り、驚いていただけなのだ」


 旦那さまと夫婦になった今だからこそ、私は父とあの人の関係について感じるものがありました。

 

 旦那さま。

 これから私たちにだって喧嘩をする日が来るかもしれません。

 仲違いして、しばらくお話もしないときがあるかもしれません。


 そんな日が……だめです。

 まだ想像して悲しんでしまっては。


 これをお伝えしてからにしないと。


 私が言いたいのは──。


 旦那さまからこのように呼ばれることだけは嫌です、旦那さま。

 私にどんなに怒っていてもとは言わないでくださいませ。



 感極まったように、旦那さまがぎゅっと抱き締めてくださいました。

 嬉しいです、旦那さま。


 いえ、お待ちください、旦那さま。

 陛下と殿下の御前でした。


 あとにしましょう、旦那さま。

 邸に戻ってから存分に抱き締めてくださいませ。


 私も大好きな旦那さまに抱き締めて欲しいですから。



「…………話していいだろうか?」



 また一段と弱弱しい声が届きました。

 それなのに旦那さまは、ぎゅーっと私を掻き抱くようにして腕の力を強めたのです。


 それは苦しいです旦那さま!

 お話の途中ですし旦那さま!


 あとで邸に戻ってからにしましょう旦那さま!

 私も父の話を聞きたいです!


 解放された私は陛下と殿下の御前であることを一時忘れて、必至に息を吸い込んでしまいました。


 本当に苦しかったのですよ、旦那さま。

 お強いのは知っておりますから、どうか加減してくださいませ。


 その心配そうにこちらを窺うお顔も素敵で大好きですけれど。

 ほどほどにお願いしますね?




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