間章 滅びの街
街の中心にはかなりの規模の修道院が存在していた。天を衝かんばかりの塔がいくつも建っており、一見すると城のような修道院は、この街のシンボル的な建物でもあった。
特に礼拝堂は劣化が始まっているものの、荘厳で雅やかな天井画や壁画に彩られた広い空間になっている。その絵は古代神と魔帝、下位神と魔神との争いが神話に基づいて描かれているものだ。その中では、元気な子供たちの声が響いていた。彼らは毎日この場所で遊び、はしゃぎまわっていた。まだ神話などには興味がないのか、壁画を一瞥することすらしない。しかし、それを咎める司教や神官はいない。
遊んでいる子供たちを少し離れた場所から眺めている小さな少年がいた。彼はいつも赤いバンダナを頭に巻いていた。そして着けては外し、着けては外しを繰り返し、いつも手でいじっていた。それは父親が唯一与えてくれたものだったから。
かつては子供たちと一緒になって遊んでいたものだが、コミュニティのトップであった父親が姿を消してからは、露骨な差別が始まった。口汚い言葉で罵倒されるのは良い方で、殴る蹴るなどのリンチを受けたことは数えきれないし、母親が受けていた食糧の援助も打ち切られ、少年の母親は餓える一方であった。そして最早、いない者同然に扱われていた。
少年は幼いながらも理解した。父親の存在によって自分たちは存在を許されていたのだと言うことを。手の平を返して差別し、蔑んだ目で自分たちを見る、その元同胞たちを少年は激しく憎悪し、苛烈なまでに憤怒した。自分が一体何をしたのか、何故差別を受けなければならないのか。その理不尽に天をも呪った。
少年は、母親が餓えて弱っていくことに心を痛め、この街を出ることを決断した。少年は街を出ることに全く抵抗を感じていなかった。むしろもっと速くそうしていればとすら思った。そしていずれ必ずや、この傲慢なかつての同胞たちへ復讐すると誓ったのだった。二人が街を出ることに、修道院にいた者たちは特に干渉してこなかった。
しかし、初めて出た外の世界は二人にとって無慈悲であった。少年は初めこそ、込み上げる解放感と高揚感に心を躍らせていたものの、自然の過酷さにどんどん弱っていく母親を見て既に何も感じなくなっていた。かつては父親に見初められる程の美貌の持ち主であった母親であったが、今は見る影もなく痩せ細り、麗しさは色褪せてしまっていた。母親によれば、隣街へは徒歩で五日程の距離だと言う。今まで暮らしていた修道院とは違い、街では生きていくのにお金が必要だと聞いた。少年は、街から出る際にお金を集めていた。お金を得るのには苦労しなかったし、自分でお金を使う機会などなかったため、その価値はよく理解していなかったのだが。
それから間もなく母親の体力が限界を迎えた。寒さと餓えで動けなくなると、呆気なく死んでしまった。母親は街へ着けば、このお金で元気を取り戻して人生をやり直せると言っていたのに、せっかく集めたお金も使うことはなくなった。少年は泣かなかった。
死んだ人間は土に埋めるのだと、母親から聞かされていた少年は、彼女の言う通りにした。しかし、何か母親が生きた証を残したいと考えた少年は、その首に巻かれていた赤いマフラーを自分の首に巻きつけた。それは少年にはまだ大き過ぎて顔の半分程が隠れてしまう。生前、彼女は言っていた。赤いバンダナは父親の形見だと。ならばこの赤いマフラーは母親の形見になるのだろう。墓標を立てる知識など持ち合わせていなかった少年であったが、何となく街道沿いに生えている木々の根元に母親を埋めると、特に気にすることもなくその場から離れる。その顔に表情はなく、心は重しをつけられたかのように動かなかった。
やがて何とか街に辿り着いた少年であったが、そこで何をすれば良いのか分からず、ひたすら通りの片隅に立ち尽くしていた。時折、心配して声を掛けてくる者もいたが、皆、少年がどこから来たのかを聞くと、不気味なものを見たような顔をして離れていったし、その無表情で無感動な姿を見ると、次第に誰も近寄らなくなっていった。
かなりの期間、その場所に立ち続けていた少年であったが、遂に体力に限界が訪れた。少年は世界とはこう言うものなのか、と思った。ここにいてもあの修道院にいても大して違いなどなかったのだ。そう理解すると、少年は街を出た。世界のことを何も知らない彼は、行く当てもなく彷徨うと、とある森に足を踏み入れた。特に目的地などない。導かれるようにして歩を進めていくと、一本の大きな樹木へとたどり着いた。自らの生に何の意味もないことを悟っていた少年は、そこを自分の最期の場所にしようと決めた。大樹に寄りかかり衰弱していく中、不意に声が掛けられる。少年は面倒臭いと思いながらも顔を上げると、そこには何故か心配そうな顔をした少女がいた。それから少女は毎日のように少年の元を訪れた。
ふと目を覚ますと、少年は自分がベッドに寝かされていることに気が付いた。そして傍に佇む少女の存在にも。困惑する少年などお構いなしに少女は言った。「大丈夫」と。それも太陽のように明るい笑顔で。少年は何故か心に温かいものが宿るのを感じた。
――
「ッ! ……夢か……」
ヴィスタインは、ベッドの上でガバッと上半身を起こした。窓からは朝の光が射し込んでいる。ここはニーベルンの街にある、小さな宿屋の一室。
ヴィスタインは気だるそうにベッドから立ち上がると、大きく伸びをしながら窓の外を眺める。今日はあの日のように天気が良い。いつも見る夢のせいで最悪だった心が少し晴れた気がする。すると、部屋のドアがドンドンと叩かれる音がした。そして聞き慣れた明るく元気の良い声がヴィスタインの耳に届く。
「ヴィスタイン! 今日も明るい朝が来たわよッ!」
「分かった。すぐ行く」
ヴィスタインは少しだけ笑みを浮かべてそう返事をすると、身支度を整える。
そしていつもの通り、赤いバンダナを着け、赤いマフラーを首に巻きつけた。
ドアを開けると、そこには太陽のように明るい笑顔を浮かべたミレーユの姿があった。
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