深淵の探究者~アビス・ハンター~Ⅰ部

波 七海

プロローグ 緑の風

 ここはドライグ王国の辺境地帯にある、それなりに大きな街、ニーベルン。


 今日も今日とてレティシアの城『ドラゴンテイル』が開店した。

 ドラゴンテイルは工房と薬屋、そして最近になって新たに造った喫茶店から成っている。レティシアが開こうとしているのは、その内の喫茶店である。


 生ける伝説、ドラゴンの名を冠する店なのだから、その名に相応しく大層繁盛しているのだろうと人は思うかも知れない。


 しかし――


 そんなことはない。


 そんなことはないのである。


 いつもの通り、朝の十の鐘が鳴った時、レティシアは店のドアに吊るしてある看板をくるりと裏返す。


 「準備中」から「開店」へ。


 これが開店の合図。


 今日は朝からとても良い天気であった。

 レティシアは店の窓を全て開放して外気を店内に取り込んだ。

 季節は初夏。少し暖かくなり始めた頃である。

 店内を心地の良い爽やかな風が吹きぬけていった。


 レティシアは思う。

 やっぱりこの季節が大好きだ、と。

 開店したと言っても、たちまち店が満員御礼になるはずもない。

 しかしこの広い世界には色々な人がいるものなのだ。

 レティシアが大して広くもない喫茶店のテーブルを拭いていると――



 カランコロン♪



 入口のドアが開いて、うるさ過ぎない程度の耳当たりの良い鈴の音が鳴り響くのだ。


「おはようさん。レティちゃん。一杯おくれ」

「いらっしゃいませ!」


 お店に入ってきたのは、レティシアにとって大切な常連さんの一人。

 名前はアンソニーと言って、いつも開店時間と同時にやってくるのだ。彼といつも通りの会話を交わした後、レティシアはコーヒーを入れ始めた。


 サーバーに竹で編み込んだフィルターをかけ、コーヒーの粉末を適量入れていく。     

 粉はあらかじめ、特注のコーヒーミルで挽いておいたものである。


「コツはゆっくり丁寧に……っと」


 レティシアは、誰に言うでもなく独り言を呟くと、これまた特注のケトルで熱湯を注いでいく。粉全体にお湯が染み渡るように、そして円を描くように。

 お湯が竹のフィルターを通って真下にあるサーバーに落ちていく。そして、また同じようにお湯を注ぐと、何とも言えない良い香りが店内に広がった。


 レティシアはその香りに恍惚とした表情を見せた。

 やはり何度嗅いでも良い香りである。

 彼女は改めてそう思った。


 アンソニーはいつものカウンター席に腰かけて、その様子をじっと見つめている。


「しっかし、いつ見ても上手に入れんなぁ……。最初はあんな実が飲み物になるなんて思ってもみなかったもんだ」

「ありがとうございます。街の近くに自生していたのは運が良かったです」


 この街、ニーベルンの近くには、食べるとほのかに甘い、ほとんど種だけの実をつける木が生えていた。レティシアはこれを発見した時、自身の特殊能力に感謝した。 

 現在では、街の農家に栽培を依頼してある程度の量を確保することに成功している。レティシアは、抽出し終えたコーヒーを染み一つない白磁のカップに入れると、アンソニーの前にそっと置いた。


「この苦味がクセになるってなぁ。がっはっは!」


 アンソニーは待ちきれないとばかりに素早くカップを手に取ると、香りを楽しむかのように目を細めてカップに口をつけた。彼の言う通り、この味がクセになって常連客になった人も多い。レティシアは最初から喫茶店などやる気はなかったのだが、コーヒーの実を見つけてしまったせいでドラゴンテイルに喫茶店を作る破目になってしまったのである。コーヒーがあるなら喫茶店をしなければならぬと使命感に燃えた過去をレティシアは思い出していた。


「しかし、コーヒーに合う菓子を作るってぇ話はどうなったんだい?」

「うう……。それは言わないでください……。予算が……。予算がぁ……」


 現在、コーヒーのお供はケレナルナッツを使ったクッキーしかないのだ。何事にも先立つものが必要なのは、どこでも変わらない現実であった。


「そら、このポットやなんやと買ってたらお金も貯まらんわな」


 アンソニーは苦笑いをしながらフォローめいた言葉をレティシアにかける。彼の言葉の通り、お湯の入ったケトルは、高額な特注品だ。しかも付与術士に依頼して一から造ってもらった一品ものである。このケトルにはスイッチがいくつかついており、それを押すことで沸騰や保温など用途に合った使い方ができるのだ。ちなみに、付与術士と言うのは、この世に満ちる理力りりょくや精霊力などを使って道具に様々な力を付与する人々のことである。彼らは武器から日用品まで何にでも術の効果を付与してしまう。


「いいんです……ここはあたしの心の安定を保つ場所でもありますから」


 このケトルや竹製フィルターの製作費、そしてコーヒー栽培農家へ支払う料金で、蓄えていたお金の多くが消えた。これだけの資金を投入しておきながら、喫茶店はあくまで趣味で始めた副業に過ぎない。レティシアは、単なる趣味に大枚をはたいた自分は馬鹿に違いないと痛感したのであった。しかし、こうも思うのだ。この場を多くの人が集い、笑い合う憩いの場にしたい、と。種族も出自も関係ない。例え、訪れるのが神でも一向に構わない。


「それにしても儲かってるのかい? コーヒーとクッキーだけで」

「喫茶店は副業ですー。あくまで本業は錬金術士と薬屋でーすーかーらー」


 アンソニーが意地悪そうな顔でそう言うので、レティシアは力強い声で訂正しておく。


 事実、その通りなのだ。


 レティシアは代々薬屋を営んできた家の出である。祖母や母が、病気を患った人や怪我をした人に対して慈愛に満ちた態度で接しているのを見てきたし、高価な薬をかなりの低価格で販売していたことも知っている。

 彼女たちのそんな姿勢を見て育ったレティシアにも、その考えは受け継がれていた。レティシアとて決して慈善活動をしている訳ではなかったが、薬を必要としている多くの人々に、可能な限り安くて高品質な薬を提供するべく毎日奮闘していたのである。


「しかし今日は来ないな。あの兄ちゃん」

「エドガーさんですか? 確か魔物討伐で少し遠出するとおっしゃっていましたよ?」


 エドガーと言うのはこの街で探究者ハンター生業なりわいとしている常連の男性だ。彼は探究者ハンターギルドで依頼の確認後にドラゴンテイルにやってくるのだ。ちなみに探究者と言うのは世界中を駆け巡り、各地の名品や珍品を収集したり、魔物を倒して素材を得たりして生計を立てている者たちの総称である。その仕事内容は多岐に渡っており、未踏の領域を冒険する者、宝物を探す者、領主や民から寄せられる依頼をこなす者、護衛や戦争に出て傭兵稼業を行う者など例を挙げると枚挙に暇がない。エドガーは確か魔物探究者イヴィル・ハンターを名乗っていたはずである。

 何故、レティシアがそんなことまで知っているかと言うと、彼女もまた探究者に名を連ねる者であるからだ。


 レティシアは一旦、カウンターの奥へと引っ込むと、ドラゴンテイルの工房へと向かった。そもそも工房とは?そしてドラゴンテイルとは何ぞや?と聞かれると、レティシアはいつもこう答えていた。

 何を隠そうドラゴンテイルは稀代きだいの錬金術士こと、レティシア・ナミ・フォルトゥーナが構える錬金工房なのである、と。錬金と言ってもこの世界に存在しているその他一般の錬金術士とは錬金方法は異なるのだが。レティシアはここで夜な夜な、文献を読み解き、様々な実験を繰り返しているのである。そして錬金術によって精製した薬や体力回復ポーション、怪我や傷を回復するポーションなどを売って生計を立てているのだ。


 レティシアは、庶民向けの薬は安くしているが、探究者向けのポーションなどは相場を踏まえた価格を設定している。そのため、探究者から得られる収入は結構馬鹿にならない。

 工房へ入ると、お店の開店時間に合わせて焼いておいたケレノルナッツのクッキーの様子を確認する。何故、お店ではなく工房で焼いているかと言うと、たまに錬金で使用している窯を調理にも使っているからである。レティシアはこの窯のことをオーブンと呼んでいる。こう呼ぶのが自然であると感じたからだ。


 クッキーの出来具合を確かめると、良い感じで焼けているようであった。レティシアはその中の一枚を口へ運ぶ。これはつまみ食いではない。味見である。いい加減なものを客に食べさせる訳にはいかないのだ。とまぁ、こんな感じで誰に展開するでもない理論武装をバッチリキメると、焼き上がったクッキーを持って喫茶店の方へと戻る。


「はいよー。お待ちどぉ様!」


 その皿をアンソニーの前に置くと、レティシアはカウンター内でケレノルナッツの下処理作業を始めた。彼女はいつもここで、お客さんの会話に耳を傾けながら色々な作業を行うのだ。カウンターの上では、呑気そうにあくびする猫型精霊獣のニャルが目をこすっている。


 今日も今日とて、ドラゴンテイルに緑の風が吹き抜けていく。

 今日も良い一日になりそうだ、休むことなく手を動かしながらレティシアはそう思った。

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