白痴の手記
背骨ミノル
白痴の手記
白痴の手記/ミノル
わたしがその手記を見つけたのは、もう彼がこの棲から居なくなって久しい、冬の暮れの日のことであった。彼の過ごした部屋というのは、彼が消えてからというもの誰に使われるでもなく、随分と長いあいだその扉に手をかけた者がいるわけでもないものであったので、ノブに触れさえすれば指腹の跡が白い塵芥の上にはっきりと残るような古めかしさを残していた。わたしですら立ち入らなかったこの部屋に、こんなにも空白を開けて入室したには理由があって、だからそんな理由の上、わたしは彼の置き忘れていったさまざまを丁寧に片しているさなかであったわけだ。それは彼のベッドの下、暗がりである床とともに、存在を思い出してはもらえないようなひどく厚い埃を被った状態で、わたしに発見されるのを待っているようであった。黒の薄いカバーと、その中の草臥れたキンマリから、僅かにかびた匂いの感じられる手記だった。持ち主の使い方を伺わせる、汚れひとつ見つからない中身の用紙には、うつくしい字体で毎頁、心情が書き残されている。そこに綴られた内容をみとめた瞬間に、わたしは降り積もった床の埃すら気にもとめず、腰から力が抜けていくかのようにして座り込むのがやっとであったのだ。
◇ ◇ ◇
(手記より、初めに挟み込まれた頁の内容)
御前様
初めに申し上げさせていただきますが、どうぞこの手記を読み終えたものならば、跡形なく燃やし尽くしていただきたく存じます。
そうして、どうぞ神に祈ってください。
去ぬわたしの代わりに、御前様からの懺悔と慟哭がありましたならば、きっと白痴であれども許しを与る身となって、天に召すことも叶うことでしょう。
御前様にはお伝えしておかなければならず、またこれを読んで御前様があらゆる後悔と自責に駆られることを知っていて尚、わたしはやはりここに書き残しておかなければならぬのです。
先立って御前様へ、深くお詫び申し上げるとともに、どうぞこの白痴を、共に背負っていただくことをお願い申し上げます。
どうか御前様だけは、わたしをお許しになられませぬよう。
◇ ◇ ◇
さてどこからお話して良いものか、とりあえずは順を追ってお話させていただくとしましょう。ぼくが先生にお世話になったのはちょうど、先生がぼくに出会って、ぼくの背丈と目方からぼくの年齢を大方十五と見積もってくださったあの冬の日でございました。辿る家路も持たぬはぐれもののぼくに、あたたかな先生は手を引いて家路と身の寄せ場をくださったこと、覚えてくださっていますでしょうか。ぼくはたいへんに嬉しかったのでございます。それとともに、もう随分と人の優しさに触れていなかったもので、あの時はうまくに先生へ感謝を伝えることもできず、恥ずかしがって俯いてばかりで、そういった記憶ばかりあるものですから、こうして年を取った今になって、もっと先生へ感謝をお伝えするべきであったと後悔する日々を送っているわけであります。けれども聡明な先生のことでありますから、おそらくはそういったぼくの心情などいくらでも、当時から想像がついていますことでしょう。先生にはあらゆる感謝を述べてもまだ足りず、けれども、それでもやはりぼくは先生を恨まずにはいられないのであります。
先生はぼくを先生とおなじ部屋に置いてくださり、そればかりか学のないぼくへさまざまなことを教えてくださりましたね。先ずは満足に読み書きもできないぼくを思って、やさしく文字というものの成り立ちについて教鞭をとってくださりました。先生の授業というものは兎に角分かりやすく面白かったので、ぼくはあっという間に読み書きを行えるようになりましたし、そんなぼくを先生は、素質があるからだと褒め、頭を撫でてくださりました。ぼくは当然得意になりましたし、もっと先生のお言葉が欲しい気持ちと、先生に見えていらっしゃる世界とおなじものが見たい気持ちとで、いっそう勉学に励むことへ熱を費やしたのであります。先生の部屋にきちんと並べ立ててある本も、日毎に読めるものが多くなっていき、ぼくは乾いた土地のように勢い良く、学を吸収することに懸命でありました。そのたび先生は褒めてくださったので、その勢いは依然として留まることを知らなかったわけです。そうしてあっという間に一年の年月が巡ったあたりに、先生はとうとう堪えきれないとばかりに、ぼくへ一言仰りました。
「きみはあまりに聡明だから、きっとそう時間のかからぬうちにわたしの葛藤の先にある性癖すら見透かしてしまうようで不安なのだ。だから随分と思い悩んだのだけれど、けれど先に行動する他答えを持つことは適わなかった。――だから、だからきみ、分かるね」
その日はおそらく、薄着で彷徨いても肌の冷えることのない夏の入りに近い夜のことであったと記憶しています。先生のそのお言葉の後に続いた行為を、なんと形容していいものであるのか今ですらぼくにはちっとも分からないままなのです。先生はそうっと、いつも一緒に寝てくださっていたあのベッドの上に、ぼくのからだを押し倒して、それから知らぬことが許せないとでも言いたげにこのからだのすみずみまでをも暴かれてしまわれました。ぼくはいっそう混乱しましたし、先生のことがその時ばかりはなにひとつ分からなくなってしまって、ひどく不安な一夜を過ごしたものです。けれどそれより尚おそろく悲しかったのは、先生がぼくをその腕に抱くあいだじゅう、先生の好まれる少年のかたちというものを耳元で囁かれていたことでした。例えばこうです。先生はあの深く闇をおろしたうつくしい眸を細めて、何度も何度もぼくに仰りました。
「きみ、わたしという人間を知ってもどうか驚かないでくれるね。わたしは男の子が好きであるのだ。それも自分よりうんと若く幼い子が好きなのだ。そして物も知らぬような白痴であれば尚、もう言うこともない。ねえ、きみ。どうかこういった晩のあいだだけでいいのだ。わたしに敷かれるあいだだけ、どうかその聡明な頭をもってして、白痴な少年に成り下がってはくれぬだろうか。ああ、そう、そういった眸はえらくわたしを揺さぶってくれる。理解し得ない、そんなことを言いたげな眸であるとも。うつくしい、おろかで浅はかな色であるとも」
ぼくはもう、だからなにひとつ考えることは適わなくなってしまって、なんといってもそんな先生の姿を見るのは初めてでありましたし、いつもは排泄を行うための孔に先生の大きな性器がこじ入れられた瞬間などは、とにかく痛くて痛くて、言葉を持つことすら許されなかったのです。そして先生は、そんな、呻きの声のみで存在するぼくのことをたいそう気に入られた印象でありました。ひどく裏切られたような気分になったものです。あんなに熱量を持って勉学に励んだにも関わらず、先生の愛する少年像というものはなんと白痴であったのですから。それならばなぜ先生はぼくに学などお与えになったのでありましょう。検討もつかず、とにかく惨めになったぼくは、その晩腰を叩きつけられるあいだずっと、気が触れたように泣くしかなかったのです。先生は鼻息も荒く、尚更にぼくを可愛がり、そうして嬉しそうに頭を撫でてくださりました。先生のあの柔らかに優しいてのひらの温度は、芽の出たぼくをどんどんと萎縮させ、ついには思考という部分すら刈り取られたように、ぼくはなにも、なにも動くことができなかったのです。
そういった晩はしばらくのあいだ毎日続きました。悲しいことに人という生き物は順応を知る生き物でありますから、ぼくもその例に漏れず、いつしか白痴を纏うことにも気負う意識が欠けつつあって、先生から与えられる温情と愛に溺れるようにして、先生の性器を貪り白痴に耽ったのです。昼間の、穢も知らぬような先生と、夜中の、淫靡さを背負う先生のふたつの顔を知ることを、とても幸福に感じられてしまう人間になってしまっていたのでしょう。そういったわけですから、当然、先生がぼくの手をよもや離される時が来ようとは夢にも思わなかったのです。知ってのとおり先生はよく街を出て、近くの村まで子どもたちに学び舎をの門を開けられていましたので、その日も先生は村に出向いて、そこの子どもたちに教鞭を執られていたのでありました。日暮れ近くに先生はえらく興奮した様子で帰宅されますと、ぼくに向かってこう言われたのです。
「きみ、きみ。聞いてくれたまえ。実はだね、ついに見つけてしまったのだ。本物の少年だ。あれこそ純正。なんとうつくしく清らかで愛しいものだろう。きっと親などいるものか。否、否、たといいたとしても構わぬことだ、金を積もうじゃないか。わたしはあれを養子として迎えよう。生涯どこにも出してやるものか。この胸の内で飼い溢れんばかりに愛してやろうとも。ゆいいつわたしの眼鏡にかなったきみであれば、愛弟子としてわたしの支えとなってくれるね、これからは忙しくなるぞ。わたしがあれに構うあいだ、きみには代わりとなって教鞭をとってもらう必要があるのだから。頼むよ、きみ」
奈落に突き落とされるとはまさにこのことでありましょう。目の前の真っ暗になるぼくの様子など気にもとめない風である先生の姿を見て、その時にぼくはようやく理解したのでありました。ようするに出会ってから今までのいっときも、先生にぼくという少年は響かなかったということであります。なんとあまりにも戯れではありませんか。先生は妥協を知っていただけなのです。ぼくという風な人間は、先生の寂しさを一定のあいだで紛らわせるための機嫌取りであった様子でした。つまるところ愛玩としての立ち位置はお払い箱なわけです。先生はぼくの脳を買っていらっしゃるようでしたので、こういった機会に恵まれて、ぼくの使い途というものを思いついたというところであるのでしょう。しかしそれはそれで仕方がないことでもありました。なんとも先生と出会って三年ばかりの月日を過ごしたぼくはもう既に少年という境界を跨ぎ終わるさなかであったのですから。いわゆる大人として、これからは先生の手足となってお仕えしなさいと、こういうわけでありました。
けれどもお伝えしなければいけないことは、先に述べさせて頂きましたように先生のことを恨まずにはいられないぼくでありましたが、それにしたってあまりにも、この時、ぼくというひとりの男は先生を愛しすぎてしまっていたのであります。それはもう戻れない道を引き返せないことと同じことでありましたので、ぼくは当然つらくつらく、いっそ惨めを通り過ぎて喜劇的ではありませんか。そんな折にふと、心の内側からひとつの声があがりました。縄を握れと言われたのです。ああ成程、合点したとばかりにぼくは首をひとつ振りました。
先立ちましては御前様、そんなわけでありましたので、ぼくは未だ御前様をお目にする機会にも恵まれないままに、御前様の血肉を分け合った先生にお仕えする身であるにもかかわらず、こうして勝手ながらにも自栽に至ることを決断致したわけであります。御前様におかれましてはどうぞ先生をお責めになられることがありませぬよう、ぼくの身と引き換えに強くお願い申し上げる次第です。また、願わくばどうぞ先生のことをお許しに――
◇ ◇ ◇
手記はそこで途切れてしまっていた。否、というよりも、最後の一文の文末のところだけが、丁寧に切り取られてしまっていて、そこを読むことがかなわない様子であった。読み終わるやいなや、わたしの目を覆う涙はたいへんに大きさを増してしまって、文字通りの慟哭を携えて、わたしは必死に祈り、それとともに自責する他ないのである。
初めに挟み込まれた頁の字体は、あれは間違いなくわたしの双子の弟のものであるだろう。よく見知った字体であるのだ、間違えるはずもない。とするならばこの手記を記した人物こそが、弟の教えを一心に受けた、あの離れの弟の部屋に、密かにともに住んでいた男であるのだろう。ああ確かにそういった時期が弟にはあったように思える。わたしがちょうど、世継としてこの街を治めるに至った辺りのことであるため、弟のそういった秘事に気をかけてやる暇が思うよう得られなかったあの頃だ。否、それよりももっと重大であった問題は、弟の抱えていたいわゆる性癖と表記された類が、弟によってすべて引き受けられてしまっていたという点に尽きるのである。ああ、ああ、それはあまりにもあんまりではないか。なんといってもその性癖はまず第一にわたしのものであるからだ。わたしは幼い弟を、この手記に記された男の身に同じく、白痴を強要として抱いたのだ。この男の見積もられた年齢よりももっと低い年の頃であった弟を、わたしは確かに抱いたのだった。嗚咽が漏れる。泣きじゃくる顔もくしゃくしゃに、わたしは頭を抱えて神へ何度も叫ぶのだ。
どうぞ弟をお許しください。わたしをお許しにならないでください。弟の罪をわたしへ背負わせてください。弟をどうぞ天へお連れ立ちください。
この部屋に立ち入った理由は他ならぬ、異国に旅立った弟が遺骨としてこの街へ戻り着いたからであったのだ。遺品の整理をしているさなかのことであった。物言わぬ真実の白痴の手記である。異国からの言伝を聞くに、弟の遺骨とともに、たったひとつ弟の常に持ち歩いていたどこぞの遺骨も帰したとのことであった。
もう口も聞けぬ弟の亡骸よ、その身に問いたいことはただひとつ。おまえの温もりを寄せていたその遺骨は一体どちらの男のものであったのか。否、否、何も聞くまい。じきに分かること。この目でたった一度、おまえの遺骨に並ぶその骨の大きさを見たならば、それがどちらのものであるかなど。それにわたしは確信しているのだ。なんといってもおまえはこの街を出るにあたり、たったの一度も養子をとった覚えなどないだろう。
白痴の手記 背骨ミノル @ydk
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