第9話
日が沈む前にハンモックで目覚めた。窓からは夕日が差し込んでいる。周りのハンモックには何人かが横になっていることがわかる。しかしそれが先ほど行動を共にした連中なのか、知らない誰かなのかははっきりしなかった。音をたてないように寝室を抜け出したエイナイナ。クウェイラはスタチオの食堂へ向かえと言っていたが、それがどこなのかもはっきり分からなかった。
狭い通路に出ると窓もなく、薄暗かった。しかし声の聞こえる方に歩き出すと、上に続く
「失礼」と、エイナイナから声をかけた。「食堂というのはどこですか?」
「スタチオの食堂かい。そこの梯子から飛行甲板に出て船首の方に歩いていったらすぐわかるよ」
「ありがとう」
「新入りだね? 誰か頼れる者はいるのかい?」
「……?」
空賊の巣窟で意外な気遣いをもらい戸惑っていると、もう一人が口を開いた。
「ヤーナミラが誰か拾ってきたって言ってたね」
「あ、はい。ヤーナミラのところに世話になっています」と、エイナイナ。
帝国の軍人という素性は明かすなといわれている。身元を尋ねられたらなんて答えようかと逡巡したが
暗い梯子を登って飛行甲板に出ると、そこに街があった。人の往来が激しく、彼らの動向を追えばスタチオの食堂はすぐに見つかった。要するに、焼きたてのパンを抱えて夕焼けの街を歩いている人が少なからず居たのである。
スタチオの食堂はこじんまりとしていて、外にベンチと、中にカウンター席があった。外のベンチには一人疲れた顔で待っている客がいた。ここまでの道すがらに見た街の雰囲気から、食事を持ちかえる客が多いらしいことが分かっていた。彼らがどこで食事をとるつもりなのかは分からないが、このケンデデスとかいう歪な飛行船複合体にはスペースがない。そして空賊業だろうとクラゲ漁師だろうと、はたまた運び屋だろうと、ここに暮らしている人々の大半は、少なくとも朝は昼食をもってディンギーに乗って出かけ、舟の中で食事を摂るらしいことは自明だった。
「何か食べさせてほしい」とエイナイナはカウンター越しに頼んだ。意外なことに店番をしていたのは少年だった。
「待ってな」と少年。
エイナイナはカウンターに席をとった。カウンターの奥の部屋では誰かがパンを焼いている様子だった。時折がたがた、ぱんぱんっと音が響いてくるのだ。
少年はというと、カウンターの向こうで何かしら作業をしている。そして突然「ルニッシ!」と、外の眠そうな男性を呼んだ。男性がやってくると少年は白い包みを渡した。ルニッシと呼ばれた疲れた男性が去ると、少年はカウンターに肘をついて斜めに構えた。
「ヤーナミラんとこのだな? 聞いてるよ」少年は言った。
なんだか大人びた、いや大人ぶった少年だった。敢えて余裕のある態度を見せようとしているような雰囲気がある。
「何か食べさせてほしい」
「ここで食べていくかい?」
「うん。そうしよう。朝から食べてないんだ」
少年は変ったボウルで水を出してくれた。エイナイナは水を一口飲んだ。ボウルはどうやら
「ありがとう」
エイナイナがそういうと、少年は
焼きたてのパンをかじると、決しておいしくはなかったが食べられないことはない。パンに合わせると干し肉の塩味がちょうどいい。パンを一つ食べ終わったくらいで物足りなさを感じる。
「あの、少年。なんかこう、スープとかないのか?」
「スープ? なんだスープって?」
「スープというのは……。温かい汁物とか……。せめて温かいミルクとか……」
少年は首を傾げた。――が、そのときちょうどやってきた客が言う。
「スープなんてものは無いよ」
それはエイナイナの知った顔だった。ヤーナミラ一味のバーボアだ。ひげもじゃのバーボアだった。
「ちょっとは元気出てきたか?」
バーボアはそう言ってエイナイナの隣に座った。そして手に持っていた新聞をカウンターの上に置いた。
「いや、あまり……」
「食事が不満か。伯爵付きの衛兵隊長様は良いとこで寝て良いもの食ってんだろうね」
「いや、幹部候補も
「そうなのか……」
「ただ軍隊ではスープは贅沢ではない。むしろ経済的で効果的な食事だ」
「空での生活では燃料が贅沢品だ。基本、水を温めることはしない。もちろんミルクを出す牛やヤギもいない」
「なるほど」
気取った少年はバーボアにもエイナイナと同じ食事を出した。バーボアはそれを事務的に食べながら新聞を広げる。
「新聞なんて手に入るのか?」エイナイナが尋ねた。
「これは先週のだ。ケルメス帝国の情報はケンデデスでも重要なので誰かしら新聞を持ってくるんだよ。たまたま地上に出た者とか、その辺の船から奪ったりだな。しかし字が読める者は多くない」
「そうだな。帝国の軍人だろうと、空賊だろうと、敵対勢力の動きを知ることは基本だろう」
「いやぁ、おれたちが情報に興味を持つのはもっと直接的な利益が理由だと思うがな」
と、バーボア。
新聞の情報が直接的な利益に繋がるという話、どういう意味だろうか。商船の予定やルートが分かればたしかに直接的な利益につながりそうだが、そんな情報は新聞には出ない。空賊に沈められた船の情報が出るだけだ。空賊として生きて行けばそのあたりの事情もおいおい分かるのだろうか。
空賊として生きる……。それはエイナイナの頭にずっと残っている言葉だった。
「なんで私を仲間に引き入れようとしたんだ」
「おれに聞かれても困る。だが、ヤーナミラはお前に興味をもったんだな。早い話、気に入ったんだよ。そういうやつだ」
「帝国の軍人の私が信用できるのか? しかも活動拠点まで教えてしまった」
「ここには素性の分からない人間なんてごまんといる。というより、地上に居られなくなったからみんなここにいるんだ。だいたいこのケンデデスのことはルッパジャも掴んでいる」
「空賊行為を続けていれば帝国はそのうち大艦隊を送り込んでくるぞ」
「だろうな。だが今の帝国の航空戦力では無理だ」
バーボアの言う通りだった。帝国諸侯の中でもまともに戦える航空戦力を持っているのはルッパジャ伯領だけだ。他はどの国もコーノック伯領と同じようなものだ。クラゲ一匹取り除くことができない。
「バーボアは帝国の情勢に明るいんだな」
「分からないことも多い。そうだな。ちょうど気になっていることがある」
「?」
「いやなに、分からないというのいうのは皇帝選出の制度だ。――先代のコーノック伯、ラキコーコ二世はやり手だったようだな。分家との権力争いを終わらせ、コーノック地方を一つにまとめあげたと聞く。やがてケルメス皇帝候補として名前が上がるようになると暗殺された。そして跡を継いだのが弱冠十三才の娘だな?」
「コーノック伯ケーヒニナ・アールゴ様だ」
「エイナイナ、お前はその娘が次期皇帝候補だという。先代は少なくとも実績があったようだが、現伯爵は実績も経験もない。どうして、たかが北方の伯爵がケルメス帝国の政治の鍵をにぎっているんだ」
「まずひとつ言っておきたいのは、わたしはコーノック伯ケーヒニナ様が皇帝にふさわしい資質を持っていることを疑っていない。聡明で果断な決断ができ、人心を掴むたぐいまれな資質をもっておられる。それとは別に、冷静に政局を分析すれば……、そうだな。コーノック家が名門ではなくそれほど強い影響力を持っていないがゆえに、ケルメス皇帝位に近い場所にいるということが出来ると思う」
「どういうことだ?」
「仮に帝国に突出して力をもった貴族がいれば、その者が皇帝に選出されるだろう。しかし今はその状態にない――」
「――つまり、私たちのケルメス帝国は大国だが、その隣にも大国キオーニ王国がある。キオーニは帝国と違いかなり中央集権が進んでいる。この理由は過去にトニツーズ連合王国との間で国をあげた戦争を何十年と続けた結果なのだが、とにかくキオーニ王国はまとまっている。一方われわれ帝国は諸侯の権力が強く、皇帝を選挙で選ぶという制度から脱却できずにいる。しかも今述べたように突出して強い力をもった国が存在しない。割れているのだ――」
「――キオーニ王国は帝国の諸侯に影響力を及ぼし、親キオーニ派の皇帝を擁立するように働きかけている。キオーニ派に対抗するためには、残りの諸侯みんなが納得できる皇帝を選出する必要が出てくる。ルッパジャやカグルルのように力を持ったライバル国は、敵対していては帝国をキオーニ王国に乗っ取られてしまうという危機感を持っているし、かといってライバル国に皇帝位を譲りたくはないと考える。そうなると、第三極として支持を得られそうな貴族としてコーノック家の名前が挙がるというわけだ」
「なるほどな。十三歳の娘が当主となれば……、力のある国は
「しかし、だとしても一度皇帝に選出されれば我がコーノック伯ならばきっとケルメス帝国をまとめあげ、安定した国を作り上げてくれると私は信じている」
「楽しみだな」
「楽しみにしててくれ」
「その時には――、皇帝が大艦隊を送り込んでくるか?」
エイナイナは少し困惑した。自分はもう帝国の人間ではないのだろうか。
「冗談だよ。しかし勉強になった。――さて、エイナイナ。ドックに行けよ。ヤーナミラのドックって聞けば分かる。ヤムがお前のディンギーを調整するらしい」
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