条件付きうんこ


「……は? どういうこと?」


 僕が下半身を丸出しにしたまま頭を下げた相手は、まったくもって道理のわからないことを言う。

 自信ありげにアドバイスができると言っておきながら、これはどういうことだろう。

 一応OIBSだって僕が適当に自分でつけた病名じゃない。

 きちんとした医師に診断された結果だ。

 この病気に罹ってからずいぶん時間は経っているけれど、ついこの間完治はおろか治る兆しすら見えてないことは確認したばかりだ。

 今の僕はピアノが弾けない。

 彼女がどうしてそこに疑問を持つのか僕にはわからなかった。


「私が言いたいのは、アサヒさんがピアノを弾けない理由、要するにどういった条件になるとOIBSを発症してしまうのかをはっきりさせるべきだと言っているんです」


「ごめん。全然言ってる意味がわからない」


「このうんこ! どうしてこう理解力が低いんですか!」


「ご、ごめんなさい」


 ストレートにうんこ呼ばわりされた。

 しかもうんこに。

 勢いに飲まれている僕は素直に謝ることしかできない。


「たとえばピアノを弾くと腹痛になると一口に言っていますが、それは正確にはどのタイミングですか? ピアノを見た時点で腹痛の気配がしますか? それともピアノに近づくと痛くなるんですか? 触ると? 実際に弾くと? 弾いて音を聞いたときに初めて? ピアノ以外はどうです? 鍵盤ハーモニカでは? 他人が弾くピアノの音色は? 過去の自分が弾いてるピアノは聴くことができますか?」


 矢継ぎ早に繰り出される質問の嵐。

 僕はそのうんこからの問い掛けに満足に答えられない。

 そうか。

 僕は僕自身が思っている以上に、自分のことを知らなかったのだ。


「まず再びピアノを弾けるようになる前に、自分がピアノを弾けなくなってしまった理由、原因を見つめ直すべきだと私は思います」


 そしてうんこは静かに語り終える。

 今だけは彼女のハイトーンなソプラノが、啓示の鐘の音のように聴こえた。

 どうして僕はピアノを弾けないのか。

 もう一度弾けるようになるために、たしかにその事に目を向ける必要があるはずだ。


「ありがとう。僕、色々試してみるよ」


 僕の感謝に対してうんこの返事はなかったけれど、それを無言のエールだと楽観的に受け取った僕はそっと水を流す。

 水に渦を巻くうんこの姿がなんとなく手を振ってるように見えなくもなかったが、さすがにそれは気のせいだろう。




 手を腹部に当てながら、僕は慎重な足取りで演奏部屋の中に入っていく。

 腹式呼吸を意識した深呼吸。

 部屋の明かりをつければ当然のように視界に入る真っ黒なグランドピアノ。

 下手糞な息継ぎの音だけが聴こえる。


 まだ大丈夫だ。

 まだOIBSは発症していない。


 僕はゆっくりと奥に鎮座する彼女の方へ近寄っていく。

 うんこに言われた通り、僕はもっと自らと向き合うべきなのだ。

 ピアノを目にするだけでは、僕の身体は拒絶反応を起こさない。

 つまり僕はピアノそのものに苦手意識を持っているわけではないということになる。

 そっか。

 僕はやっぱりピアノが嫌いになったわけじゃなかった。

 だとしたら、僕はいったい何にうんざりしてしまったのだろうか。

 無意識に浅くなっていた息づかいを、再びローテンポに抑える。

 何に怯えているのか。

 微かに震える足をなんとか進めて、僕はピアノの真横まで辿り着いた。

 不健康そうな蒼白い指を伸ばし、そっと彼女の上にそわせる。

 雪に似た淡い冷たさはすぐに手の温もりに溶かされ、僕を凍えさせて腹を下させることはしない。


 まだ何の問題もない。

 僕を傷つけていたのはやはり彼女ではなかった。


 ピアノに触れても、僕の身体はぴくりともしていない。

 どうやらOIBSが発症する条件はまだ満たしていないみたいだ。

 ここまで来ると、僕にもだいたい条件の予想がつき始めてくる。

 椅子に座り、鍵盤の海に頼りない手を浮かべても体調に異変はない。

 となればもう理由は一つだ。


 ――タンッ。


 僕が叩けば音が跳ね、薄っぺらな鼓膜に飛び込んでくる。

 そして次の瞬間、僕の予期した通り、急激な腹痛に襲われる。


 やっぱりそうなんだ。


 OIBSが発症するタイミングは、条件は、僕を苦しめている原因は“音色”なんだ。



 どうやら僕は、自分が奏でる音を聴くことができない身体になってしまっているらしい。




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