問いかけるうんこ
この世界には食糞行動と呼ばれるものがある。
僕が知る範囲でいえばウサギだ。
ウサギはころころとした丸くて硬いうんこだけをするものだと多くの人は思っているかもしれないけれど、実際には柔らかいアイスクリームみたいなうんこもする。
その柔らかな軟糞をウサギは肛門から直接食べるのだ。
肛門から直接食べるという行為が具体的にどんなものかは想像がつかないし、味とかするのかなとか気になることもあるけれど、その辺りは僕も詳しくは知らない。
要するに何が言いたいのかというと、うんこというのが単なる排泄行為だと決めつけるのはよくないということだ。
世の中には自分のうんこを体内に摂取する動物もいれば、人生に立ちはだかる壁を乗り越えるために自らのうんこと対話をする生き物もいるということを僕は伝えたい。
だけど食糞行動というものが実在するからといって、それをきっと誰もが全く羨ましく思わないのと同じように、たぶん僕のように自分のうんこと会話する能力があったとしても羨望の眼差しを向けてくる人はいないだろう。
それは僕も十二分に承知していて、自慢をすることはおろか実際に誰かに伝えたことは一度もなかったし、この先もないと理解していた。
「アサヒさんは私が想像していた以上のうんこ野郎ですね。なんですか? 結局私が言ったアドバイスも聞かず、ろくにお喋りをしないまま逃げ帰ってきたんですか? まったく救いようのないうんこですよ」
郡司真結衣の家から帰宅した僕は、ずっと我慢していた便意を解放するべくトイレに一目散に駆け込んでいた。
聖女に等しい彼女の家のトイレを使って、ただでさえ穢らわしい僕のさらにいかがわしい喋るうんこを排出するなんて許されるわけがない。
そういうわけで僕の忍耐が苦手な胃腸にも、やっとここで許しを与えているというわけだ。
「……べつに逃げ帰ってきたわけじゃないよ。連絡先だって教えて貰ったし」
「でも結局ピアノを弾く約束をしてきてしまったんですよね? 信じられません。そこら辺はぼかしておけとあれ程言ったのに」
「仕方ないだろ!? 僕はあくまで彼女の伴奏者なんだ。やっぱり仲良くなるにしてもそこをどうにかしないとどうしようもないよ」
これまでの鬱憤が溜まっていたのは胃腸だけではなく、溜まっていた張本人であるうんこも同じようで、ここぞとばかりに僕を責め立ててくる。
うんこの言い分ではピアノの問題は後回しにして、まず先に郡司さんとの親睦を深めるべきということだったが、結局それはできなかった。
彼女との会話の内容はほとんどがピアノとコンクールについてで、私的な話はほぼすることができなかったし、むしろ伴奏者としての責任が重くなっただけだ。
自分の言う通りに事が運ばなかったことにうんこはご立腹なのだろうけれど、そう世の中上手くはいかない。
というか僕にそんな技術を期待しないで欲しい。
「それでこれからどうするんですか? アサヒさんは郡司真結衣さんとかいう大して仲良くない顔がいいだけの女の子のためにピアノを弾かなければならなくなったわけですけど。なにか考えがあるんですか?」
「なんかお前って郡司さんに対してやけに攻撃的じゃない? 郡司さんは性格だって完璧だよ。顔もいいけど」
「べつぅにぃ? そんなことありませんけどぉ? ただ私はあんな女のどこがいいのかサッパリですけどねぇ!」
うんこのご立腹は収まらない。
なぜこれほど郡司真結衣に棘を向けているのか微塵も理解できないけれど、とにかく僕とは趣味が合わないことだけはたしかだ。
こんなに考え方に相違が生まれるなんて。本当に僕のうんこなのか疑問に思えるほどだ。
違う男のうんこなんじゃないの。
とにかく僕は猛るうんこに少し説教をすることにする。
「もしかして郡司さんに嫉妬してる? おいおい、うんこのくせに不遜にもほどがあるよ? いいか? お前はただのうんこじゃない。僕のうんこだ。つまりはうんこのうんこ。うんこ界のトップオブトップ、いやどちらかといえばボトムオブボトムだ。郡司さんは便器のフタの上を超えてトイレの天井より高いところにいる。お前如きが嫉妬していい相手じゃないんだ。おわかり?」
「なんですか。ちょっと郡司真結衣の家に行ってきたからってやけに強気ですね。うんこムカつきます。どうせピアノを弾くたびに便所送りのくせに」
「ピ、ピアノはなんとかするよ」
いまだにうんこは反抗的な態度を崩さない。
でもピアノのくだりは事実なので、僕も強くは言い返せなかった。
実際のところどうすればいいのだろう。
このままではコンクールに出場はおろか、まともに練習することすら叶わない。
「まあいいですよ。そんなにピアノが弾きたいならさっさと弾きに行けばいいじゃないですか。愛しの郡司真結衣さんもそれを望んでいるのですから」
なんて捻くれたうんこなのだろう。
よっぽど今日の僕の行動が気に食わなかったのか、いつも以上に僕を突き放すような口振りだ。
ついこの先日までの僕の恋を応援するとか言っていた、あの優しいうんこはどこに行ってしまったのだろう。
「……というかさ、いくらなんでも冷たすぎじゃない? うんこの誇りをかけて僕の恋を成就させてみせるとか言ってたじゃん。あの心意気はどうしたの?」
「はあ? どの口がほざいてるんですか? うんこと一緒に脳味噌まで排泄しましたか? 私のアドバイスを完全に無視して、思いっ切りピアノを弾く約束をしてきたくせに。どうせ私が何を言ったって聞く耳を持ちませんよね?」
「だ、だからそれは仕方がないじゃないか。もう申し込みもしちゃったって言うし。あれでピアノはやっぱり弾けないけど、仲良くなろうよだなんて言えないしできないよ」
たしかに心優しい大天使郡司真結衣なら、僕が正直に病状を話せば伴奏者を安請け合いした僕のことも許してくれることだろう。
それに伴奏者を断ったからといって差別もしないし、いきなり僕と口を利かなくなるなんてこともないはずだ。
でも、それでもやっぱり僕と彼女を繋げるものは音楽で、僕はにはそれを手放す勇気がなかった。
たとえそれがハリボテだったとしても。
「はぁ……アサヒさんはクソみたいな甘ちゃんですね。今更になりますけど、そもそもどうしてそんなに郡司真結衣さんのことが好きなんですか? 大して仲良くもないのに」
「そりゃ、こう、運命的なビビットを感じたんだよ。というか大して仲良くないのにって何回も言わないでよ。悲しくなるだろ」
「運命? 交響曲第五番ハ短調作品六十七の聞き過ぎで頭がジャジャジャーンしてるんじゃないですか? 全く理解できませんね」
「一目惚れってやつだよ。べつにお前に理解してもらう必要はない。うんこにはわからないことなんだよきっとね」
「なんでちょっと誇らし気なんですか? うんこ相手に勝ち誇って嬉しいですか? どんぐりの背比べって言葉知ってます?」
「うるさいよ。本当によく喋るうんこだな」
ああ言えばこう言ううんこに僕は頭が痛くなる。
どうしてこう口達者なんだ。
うんこに言い合いで負かされるなんて恥ずかしい。
僕は負け惜しみに残尿をうんこの顔に引っ掛けてやる。
「ぼおぇ! ちょっとアサヒさん! そんな汚いものを私にかけないでくださいよ!」
「なに言ってるんだ。むしろ綺麗にしてあげてるんじゃないか」
「最低ですね。せっかくアサヒさんがまたピアノを弾けるようになるアドバイスをしてあげようと思ったのに」
「え!? それ本当!? 僕がまたピアノを弾けるようになる方法があるの!?」
だけど僕はうんこから聞き捨てならない言葉を拾い、慌てて尿道を締める。
今の僕には時間がない。
郡司真結衣を失望させないためだったら、うんこにも縋りたい気分だった。
「誰もピアノが弾けるようになる方法があるとは言ってませんよ。アドバイスならできると言っただけです」
「お願いします! 教えてくださいうんこ様! 僕は郡司さんのためにどうしてもピアノを弾く必要があるんです!」
「調子の良い人ですねアサヒさんは。……では訊きますが、アサヒはそもそも本当にピアノが弾けないのですか?」
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