涅槃

JUGULARRHAGE

解脱

 ジリジリ、ジリリ。

 頭上の板に手を伸ばして掴み上げる。

 7:00。ジリジリ、ジリジリ。

 画面をスワイプすると音が止んだ。

 部屋は暗い、布団から抜け出し、カーテンを引いた。

 鋭い感覚が目をついて、思わず目をそむける。目を瞑っていてもなお白く明るい。

 しばらくして目を開けると、明るい部屋が広がっていた。

 寝間着のまま洗面所に行き、顔を洗って歯を磨く。全て終えるとリビングに向かった。


「おはよう」

「おはよう、ご飯できてるわよ。早く食べなさい」


 母に促されるままテーブルに座り、朝食を食べる。父親の分は出ているが手がつけられていない。寝ているのか。

 食べ終えてお茶を飲みながら何気なく棚を見た。父と母、そして自分が映った写真や光で反射してぼやけてよく見えないが、自分の後ろ姿が隅に写った写真がある。

 お茶を飲み終えると自室に戻り、上着とネクタイ以外のスーツに着替えて玄関に向かう。母から弁当を受け取りカバンに入れ、全身を写せる姿鏡でYシャツやズボンにシワがないかを確認してから革靴を履く。


「行ってきます」

「いってらっしゃい、気をつけてね」


 家を出てしばらく経つと背中に汗が滲んでくる。上着無しのクールビズで朝方はまだ涼しいとはいえ、夏は夏だ、暑さが堪えてくる。

 暑さに追われる様に早足で駅に入る。汗ばんだ頬をエアコンの冷風が撫で、上がりすぎた体温を急速に冷ましていく。

 涼みながら定期券で電車に乗り、まだ空いていた席に座った。

 数分後には満員になった電車が走り出した。エアコンは効いてはいるが、人が多すぎて暑い。

 何駅か揺られ、電車を下りる。

 駅を出るとまたヒリヒリと日光が肌を刺してくる。早く会社に行こうと小走りになりながら、信号が点滅している駅前の交差点に入る。

 ブーンというエンジン音が聞こえ、そちらを振り向く。

 白い車が向かって来ていた。

 思わず一瞬、目を瞑る。

[JCS:Ⅲ-300]

 車が来る。と思ったが停止。

 信号が点滅している。

 自分は素早く横断歩道を渡った。

 そのまま急いで会社に向かい、社員証をリーダーにかざして入社し自分の部署の部屋に入った。


 いつもと同じく仕事が終わって外を歩いている。

 ポケットが震え、着信音が鳴ったのでポケットから取り出す。母からだ。今いる場所からほど近い病院に向かったので、自分も来てほしいという内容だった。


「うん、わかった。近いしすぐ着くよ」


 携帯を仕舞って道なりに進み、3つ目の角を曲がるとすぐに病院に着いた。

 院内に入ると天井の高い広々としたロビーがあり、受付を過ぎてエレベーターシャフトへ進んだ。父と母がいる病室の階にエレベーターで向かう。ガラス張りのエレベーター内に、外の傾いた日差しが入り込む。時間が時間なので陽光には少しだけオレンジ色が混じって、周囲を穏やかに染めていた。

 病室のドアを開けると少女とぶつかった。


「うお」

「きゃ!」


 バランスを崩して倒れそうになった少女の肩を掴んで、支える。


「大丈夫?」

「うん」


 キョトンとした顔で少女がそう言った。


「ねえねえ、お兄ちゃん。どうしてここに来たの?」

「え?」


 急な質問に驚いて思わず首を傾げた。何と答えれば良いか迷っている間に、少女が服を掴んで自分を揺する。掴まれたYシャツがクシャクシャになっていく。


「まあ、呼ばれたから」


 よくわからないままそう答えた。


「あっ、そっか。そうだね」


 何か理解したのか、少女が痩せたか細い指を離した。

 そうすると、次は顔をマジマジと見つめられた。自分を見つめてくる瞳は透明な黒、漆黒、焦げ茶、茶色、何とも形容し難い色をして、肌は陽の光を知らない位に病的に白かった。目鼻立ちは朧げで綺麗に整っている。


「お兄ちゃん、大丈夫?」


 初対面でそんな事を聞かれたら普通の人は怒るだろうし、自分も怒るはずだが、なぜかこの少女の態度や発言に対して怒り等の感情、ましてや注意しようとする考えすら、自分には思い浮かばなかった。少女の一つ一つの動きや言葉に、ある種の説得力や正当性がある様に感じられたのだ。


「あ、ああ、大丈夫だよ」

「だよね」


 手を後ろで組んだ少女が数歩後ろに下がって、最初の質問に答えた時のように何か納得した様子でそう言った。少女はゆったりとした白い服を身に着け、裾から体重を支えるにはあまりにも貧弱な脚がスラリと伸び、その先は素足のままだ。後ろにやっていた手を横に下ろすと、肉の薄い脆弱な腕があった。

 まるでアルベルト・ジャコメッティの削りすぎた彫刻を思わせる人として生としてギリギリの、生の塊を削りに削った必要最低限の生、それだけで構成したそんな体を薄い布で包んでいた。


「ねえ」


 えも言えぬ、無音の様な声が響いて、耳朶を打つ。

 振り返って自分に背を向け、窓際のふわりと舞い上がったカーテンの後ろに、少女は隠れた。少女の影がカーテンに浮かび、水面の様に揺れる。

 そんな彼女を追おうとすると、


「裕二、帰るわよ」


 いつの間にか隣にいた母がそう言って病室のドアを開ける。


「暗くならない内に家に帰るぞ」


 肩を叩いた父が窓を指しながら言った。カーテンは陽光を受けて光に帆を張っている。影などない。


「うん、先行っててトイレ行くから」

「そうか、車で待ってる」

「わかった。待ってて」


 父と母が出ていくと再度、病室を見渡す。窓のカーテンと、ベッドを仕切るカーテンがいくつもあるが、少女は見当たらない。


「また来るから。じゃあね」


 そう言い残し、病室から去った。


[AAV vector 脳室内投与:photosensitizer protein]

[ヒト免疫高親和性蛍光分子機 ―550-600nm]

[提供者脳不活性化処置開始]


 仕事が終わっていつもの様に帰り、いつもの様に病院へ父と母と共に行くと、いつもとは違う要素が普遍的日常に混じってきた。その違和感と言うには疎外感の異常感の少ない気配を感じてパーテーションカーテンをそうっと捲った。

 案の定、少女がいた。ベッドの端に腰掛けて目を瞑っている。寝ている訳でもないみたいだ。

 声をかけようとしたら、まぶたを閉じたままの少女がこちらに顔を向けて、ゆっくりとまぶたを上げる。長いまつ毛に縁取られた真っ白いまぶたが舞台の幕みたいに開いて、その奥の見た事のないそういう瞳を曝す。


「来たんだ。やっぱり」


 来るのがわかっていたみたいな口ぶりだが、少女の纏う雰囲気のせいか、そんな事を言っても何らおかしいと感じる事は無かった。


「うん、まあね」


 ひどく細い脚を振って勢いをつけ、ぴょんとベッドから離れた少女。飛び上がり放物線を描いて降下する瞬間、一瞬の無重力の瞬間、長く伸びた髪がしなやかに揺れ、服の大きく開いた袖や、腰に纏わる布地が膨らんで舞い上がり、着地の瞬間、すっと落ちていった。

 ひらひらとした服の端々から、少女の滑らかな肌に包まれた華奢な骨と、僅かな肉が存在を主張した。吹き込んだ風により、僅かの間、服が捲り上がったお腹は肋骨の影を落としていた。


「ねえ、お兄ちゃん、外に行きたい」


 カバンを抱えていない方の手を小さな両手が掴んで引っ張る。握力が弱すぎるのか掴むというよりもは包み込んでいる、そんな感じを受けた。


「えっ、でも」


 勝手にそんな事をして良いのか迷い、周りを見るが誰もいない。


「行くよ」


 握っていた手を離し、少女が数歩、タタッとリズミカルに駆けて振り向く。


「行こう」


 不定形な太陽に似た煌めく瞳をこちらに向けて柔らかに微笑む。その微笑は自分がひどく待ち望んでいたものであり、ずっと見たいと願っていた物に感じた。彼女に釣られてか自然と自分も笑い、病室を出た少女を追う。

 病室を出てすぐの階段を少女は下りていた。手すりに片手を添えて一歩ずつ下りている。


「エレベーターは使わないのかい?」

「こっちの気分なの、これの」


 足元を見たままの少女はそう言いながらゆっくりゆっくり階段を下りる。危なげな感じに下りる少女を見かね、彼女の隣まで行って手を差し出す。


「ほら」


 自分の顔と差し出した手を交互に見てから、無言で少女が手を添えた。そのまま下の階まで下りる。


「ふう」


 疲れた様子で少女は小さく息を漏らして胸を押さえた。


「大丈夫? エレベーター乗る?」


 少女が小さく頷いたので手を引いてエレベーターまで向かい、下りボタンを押した。隣の少女は少し暇そうに、静かに待っている。

 スーッという音が近づき、止まる。

 扉が開くと、その堺から夕陽が強烈に差し込まれて溢れてくる。幾条もの光の金糸を、掲げた左手で防ぎ、視線を右下に逸らす。少女の長い髪は射し込む夕陽を絡めてその輪郭を浮かび上がらせ、薄い布地からは琥珀色の裸体を透かす。

 金細工と鉱石を組んだ脆い体が滑らかに動き、箱に収まった。

 少女がエレベーターの中で振り返る。


「お兄ちゃん、早く」

「あっ、うん」


 眩しさから目を伏せてエレベーターに入り、一階のボタンを押した。少女は上昇していく夕陽を眺めている。

 掲げた指の隙間から自分も少女の見ている物を見てみる。


「眩しいね」


 目を自然と細めて言った。


「ねえ、一番綺麗な夕日はこれ?」


 自分を見上げた少女が訊ねる。記憶を思い返すそうとするが、急な事だからか頭の中で引っかかり、うまく思い出せない。


「うーん? どうだろう、今日の夕日も綺麗だけど、もっと綺麗な夕日はあると思うよ」

「見てみたい」


 夕日を見つめながら少女は遠い所を眺めていた。

 ゆっくりと荷重が体にかかり、元の重力が浮きかけていた体を繋ぎ止めた。

 少女と共にエレベーターを出てエントランスロビーを通る。お見舞いの人達なのか、夕方だったが人はまだまだ多い。

 自動ドアを潜って、人の少ないさっぱりとした簡潔な外に出る。病院の広い駐車場が目の前にあり、左の道を進んで歩道に出た。

 帰宅ラッシュでたくさんの車が窮屈な車間距離で走っている。


「どこに行く?」


 少女は何も言わずに自分を見てから、考えるように違う場所に視線をズラした。もしかして、外にあまり出た事からよくわからないのかな? じゃあ、自分が決めないと。

 どこに行こうか考えていると少女がまた自分に視線を戻した。


「名前思い出せないけど、んー」


 少女が僅かに思案し、


「お兄ちゃんの好きな場所」


 自分の好きな場所か。なら、あそこかな。


「じゃあ、近くの公園に行こうか」


 少女の手を引いて街路樹の下を歩いていく。少女に合わせていつもより歩幅を狭くしてゆっくりと歩く。

 いくつかの横断歩道を渡り、自分達だけがいる最後の横断歩道の前で赤が青に変わるのを待つ。幾重にも連なった白線の向こうに緑の繁った遊歩道が見える。昔よく来た思い出深い場所だ。


「あの公園だよ」

「あれが言ってた場所」


 視線を正面から右下に移す。期待とか感嘆みたいな物が入り混じった表情で前を見つめている。

 公園を選んだのは間違いではなかったのかな。決して広くはない病室にいる事が多いだろうから、のびのびさせてあげよう。

 赤が青に変わる。

 周りが静止へと向かい、静止する。

 白い線と黒く焼けたアスファルトを跨いでまた跨いで公園の入り口を跨いだ。

 そのまま夏の青々とした緑の葉が茂るソメイヨシノ、イチョウ等が頭上を覆う遊歩道を進む。ビル群や公道から響いていた喧騒はもうない。


「どうかな?」


 少女をみると目を閉じて顔を上げ、時折強く吹く風を髪に纏わせて流し、美しく整った顔を空間上に開示している。粘度の低い流体を微小なガラスで覆った様な、滑らかで透明な肌はチラチラと鱗粉の小さな乱反射を振りまき、鼻の頭や頬にハイライトを浮かべて揺蕩わせている。

 数学的に滑らかな曲線で始まり、理路整然とした骨格を感じさせる額。

 一本一本が均一に揃って、正確に弧を描く眉毛。

 一度開けばさぞ美しかろう精緻な作りの眼を覆って、眼球の丸さだけを僅かに外に示す瞼。

 歪みなく精密に通った鼻筋。

 小さく結ばれ、柔らかな立体感と共に外光を優しく返している唇。

 最後になだらかに収束する顎のライン。

 眠る様な静かな美しさを湛えている。


「とっても良い。お兄ちゃんが言ってた通り、いい場所だね」


 少女の喜ぶ姿を見て頬が緩み、口角が上がる。

 その後しばらく少女と公園を歩いて回った。

 

[AAV vector 脳室内投与:channelrhodopsin-470nm]

[活性化処置開始]


 ビルのエントランスから表に出た途端、ねっとりとした地上の熱気と頭上からの熱波に襲われる。

 茹だるような暑さの中、昼食は何にしようかと考える。今日は午後の仕事が少ないため昼休みを過ぎて外にいても問題ない。

 じゃあ、いつもの近場じゃなくて少し遠い場所に行こうか。そう考えて行きつけの定食屋を過ぎて歩いていく。歩いていると道の先に小さな影が現れ、近づいて行くとそれが少女である事がわかった。


「君、どうしたの?」


 今まで病室でしか出会わなかったので驚いて聞いてみる。


「お兄ちゃん。ん、わかんない、ここにいる」


 しゃがんで少女と同じ目線の高さにする。少女から少し薬品っぽい、病院の匂いがした。


「えっ? どういう意味? 抜け出して来ちゃったの?」


 少女が視線を泳がせ、目を閉じてまた開いた。


「呼ばれた。そう、呼ばれたの」

「誰に?」


 少女は無言で見つめてくる。


「とりあえず、病院に戻ろう。お医者さんも心配してるよ」

「わかった。お兄ちゃん」


 少女の手を握り病院に向かう。

 しばらく歩くと横に並んでいた少女が少しずつ遅れて後ろに下がっていく。一度止まって振り返る。

 頭を少し下げて元気が無いみたいだった。


「大丈夫?」


 少女の顔を下から覗き見る。まぶたが下がり気味で時折数秒間目を瞑っている。


「眠いの?」


 少女が静かに頷いた。


「抱えるよ。ほら」


 自分の肩に手をおいてぼーっとしている少女を横に抱いて立ち上がる。なんとなく懐かしい感じがした。

 少女を抱えたまま病院まで歩いていく。結構な距離で、少女が歩いてくるには厳しいものがあった。

 白い巨大な病院が見えてきた。


「病院見えてきたよ。あそこから歩いてきたの? 大変だったね」

「んーん」


 少女は小さく首を振った。ほぼ目は閉じかけている。


「そうか」


 病院に入るとエレベーターに乗って上階へ上がり、少女のいる病室に入ってベッドに彼女を寝かせた。

 少女はいつもの様に仰向けで静かに眠った。










 目が覚める。

 強烈な光が射し込み、網膜に焼き付く。

 重い頭を動かし顔をそむけ、手をかざそうとする。やけに重たい布団から腕を出して光源に手を突き出した。

 骨ばった細い指の間から光が漏れた。

 上げた腕から袖がするりと落ちて肉が著しく少ない腕が現れ、ぎょっとする。

 掲げていた腕を咄嗟に下ろし、上体を起こそうとしたが全身に力が入らない。というよりも、どれだけ力を入れようとも非力な力しかでない。

 体がうまく動かないので、唯一自由に動く目だけを動かして周りを見る。

 白いベッド。

 白い天井。

 白いカーテン。

 いくつもの線が伸びた機械。

 窓の外には白い太陽と晴れすぎて白んだ青空。

 病院だ。そうわかると、なぜそうなったのかを考え始める。

 最も新しい過去の記憶を思い起こす。

 朝、いつもの? 朝。

 いつもみたいに朝食を食べて家を出て。

 会社に向かう。

 いつも渡る横断歩道。

 横断歩道。

 車。

 眼前に迫った車。

 そこからの記憶はない。

 そうか、あの時に事故にあって、それで。

 腕を上げて改めて自分の体を見る。右腕から伸びる管は半分ほど中身の入った点滴に繋がっている。

 機械から伸びる線は布団の下に潜り込んでいた。画面には心拍数といった様々な数値やグラフ。バイタルをとっているらしい。

 とにかく、事故にあってから自分はかなりの間寝ていたのだろう。全身の筋肉が落ちて上手く体が動かせない。腕も骨しかないんじゃないかってくらいに細いのにも納得だ。とはいえども生きてるだけ良かったのだろう。

 とりあえず、状況がわかって安心し、腕を下ろして天井を見上げる。板状のLEDが平坦な天井で一つ突出している。今は日中なのでついていない。

 しばらくベッドの上で何も考えずにじっとしていたが、誰かを呼ぼうと思い至って、ナースコールを探す。

 だいたいああいうのは頭上にあるものだ。そう思って上を見る。

 あった。ナースコールと書かれたボタンがある。その隣には逆さで見ているのに加えて反射もありよく見えないが、患者の名前が書かれているであろうプレート。自分の名前、安岡 裕二と書かれているはずだ。

 仰向けのまま腕を伸ばすが、関節が固まっているのか少し痛みを感じてやめる。

 全身を使って四苦八苦しながらうつ伏せになる。普通ならこんな事苦もなく自然と出来るが、これだけ痩せてしまうとそれだけで凄い運動に感じてしまう。

 疲労感と共に顔を上げ、腕を伸ばす。

 ナースコールのボタンに触れる前、目の端に名前のプレートがちらと映り込む。何か違和感を感じてプレートに視線を移す。





















 名前

 安岡 由美














 安岡 由美。

 安岡 裕二の妹。

 自分の寝ているベッドのネームプレートに自分の妹の名前。

 視線を下げてもう一度上げる。


 名前

 安岡 由美


 ネームプレートの周りを見回す。当然のように他のネームプレートはない。

 目をキツく瞑る。

 横になってうずくまる。視覚が消えて自分の体の感覚をより感じやすくなる。

 自分のではない、男性ではない体と理解し始める。自分の体は自分の物ではないと理解し始める。

 目を開く。

 何も変わらない。

 自分は妹になっている。どうして?

 どうして?

 妹、まず、妹がどうして自分に?

 妹、思い出す。頭の中の記憶を引きずり出そうとする。

 何も思い出せない。

 妹。

 妹はどうして?

 妹って?

 妹が妹である事しか思い浮かばない。それ以上の情報が出てこない。

 理解の及ばない現象に背筋が寒くなる。

 本当の恐怖を感じる前に目を閉じて考えるのをやめた。


[記憶処理中]

[不活性化]



 自動ドアを抜けてもう一つ自動ドアを通過すると、見慣れたエントランスロビーに入る。そのままエレベーターのボタンを押し、上昇していく。

 ガラス張りのエレベーターに煌々と夕焼けが照射される。オレンジ色に染まったエレベーターを出て、同じくオレンジ色に染まった通路を進む。

 6つ目のドアを横に引いて入室すると、少女がいた。

[受領者活性化]

「お兄ちゃん」

 ベッドに腰掛けていた少女が自分のそばにやってくる。そっと少女の頭に手を置き、その長い髪を優しく撫でてやる。さらさらとした柔らかな感触。

 目に掛かりそうな髪を優しくすくい上げ、そっと耳にかけてあげる。


「ん、ありがとう」


 少女が目を瞑り、顔の横にある自分の手の中にふわりと収まる。

 思い出す。

 眠ったままの妹の髪を整えてあげた事、目覚めて欲しいと頬を撫でてみた事。

 生まれてからずっと眠っている妹の事。

 脳が欠損して生まれてしまった事。

 そして、思い出す。自分が脳移植ドナーとして意思表示カードを作った事も。別に自分が死んでドナーになろうだなんて考えていなかった。そんな事をしたら家族に迷惑かかるし、妹の入院費の為にも働く必要があった訳だし。たまたま、ドナーになってしまっただけ。

 息を大きく吸って吐く。少し気持ちが落ち着く。

 もう一度吸う。


「由美」


 そう言った。眼の前の少女、妹の名前を言った。

[受領者活性化]


「なあに、お兄ちゃん?」


 妹が首を傾げて見せた。

 感情が濁流になって押し寄せる。どうすればいいかすらわからなかった。

「お兄ちゃん? どうしたの?」

 あどけない少女の妹を見る。まるで十年も前の妹の姿。妹は目覚めていなんだ。何となくそう感じた。

 兄として妹に出来る事をやろう、自分よりも大事な存在を夢現にしておくわけにはいかない。蜃気楼の様な陽炎の様な虚構なんて不要だ。


「由美、行こう」


 妹の手をとる。イメージの夢想の手を。戸惑いの表情を浮かべる由美の手はしっかりと感触があると感じる。だが、それは自分の想像でしかない。


「由美、もう少しでとっても綺麗な夕陽、前に見たのよりも綺麗なのを見せてあげる」

「本当?」


 嬉しそうにする妹に頷く。


「本当だよ。あと少しで。絶対」


[受領者活性化]

 少しずつ眠くなる、意識が薄れていくのを感じる。多分、上手く行っている証だ。


「さあ、行こう」


 周囲の認識が不能となり、とろけてただの白い地平が残った。

 単純で巨大な太陽が水平線に浮かんでいる。水面に映って揺れる太陽よりも儚げな脆い光が辺りを激しく照らす。

 見失うのが怖くて手をつないだまま振り返る。

 長過ぎる髪が清水に漂うにこ毛の様にうねる、流麗な線が不明瞭な輪郭の境界線を作っている。固く結ばれたしとやかな唇は柔らかく揺れ、小さく形の良い鼻は光を浴びてぼんやりとしている。目は瞑っているのか開いているのかすらわからない。

[受領者活性化]

 描線は滲み希薄になり、朧げで認識できなくなる。


「由美、もうすぐきれいなのが見れる」

「ふふっ、お兄ちゃん、嬉しい」


 ゆらりと揺れ、不明瞭な色と線が混じり合う。ただ、喜んでくれているのはわかった。

 眠くなってくる。

 言いたいことがたくさんあるはずだが思い出せない。

[受領者活性化]

[受領者活性化]

 由美を見る。

 印象派絵画の様に明確性がなく感覚的だ。形を見ようとしても見えない。

 視線だけは感じる。由美の目、自分は一度も見れないのか。後悔。


「由美。どう?」


「お兄ちゃん。大丈夫?」


「うん、ちょっと…」


 色々考えそうになるが、自分の思考領域なんてもうない。ほとんど。


「お兄ちゃん」

「由美」


 一つだけわかる名前も消え去る。全て終わったと感じて幸せな気持ちでいっぱいになった。


[受領者活性化]

[受領者活性化]

[受領者活性化]


 シワのない白い瞼がまつ毛の影を落としながらゆっくりと開いていく。

 入射光が放射線状の微細な虹彩を照らし、美しい模様を浮かび上がらせる。

 初めて知る光に意識が無意識に反応する。瞳孔が収縮して光量を絞る。網膜に写った光は情報化され視神経を通り、脳に刺激を伝える。

 意識は初めて光を知る。

 意識は初めて美を知って喜びを知った。






【患者家族向け、脳移植について】

 患者に対してドナーの脳を移植する治療法。移植には万能細胞を使用したバイオシートによる細胞結合及び、シナプス不活性化タンパク質と医療用分子機を使用して記憶整理等を行う。

 ドナーの脳にある言語情報等の情報を除いて脳内の情報は移植後除去される。そのため、ドナー意識が患者に残ることは無い。

 移植した脳細胞の結合及び情報整理のため、移植後は一週間以上の治療期間が伴う。これは移植範囲によって期間が異なる。

 脳内の医療用分子機は自然排出されないため患者意識覚醒後、透析及びカテーテル手術により摘出される。


*注 一時的に患者、ドナーの意識混濁が発生する可能性が約0.05%ある。発生した場合でも治療完了時には解消され、医療上の問題もない。

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涅槃 JUGULARRHAGE @jaguarhage

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