EX1-2 チュートリアル(ラッキー)



 第2特殊更生保養院。

 絶海の孤島に建てられた全4階からなる療養施設――という看板の掲げられた刑務所兼実験場兼処刑場。

 施設内に窓やトップライトといった外部との連結部となり得る箇所は一切なく、出入り口は1階にある正門のみ。

 またそこへ至るまでには厳重なセキュリティが幾重にも張り巡らされており、中でも一番の難所は魔導なんちゃらがどうたらで――正直このへんの説明は半分以上理解できなかったが、とにかくめっちゃガチガチであるということだけはわかった。


 そんな第2特殊更生保養院にヨハンがやって来たのは1年ほど前だという。


 貴き方々に害をなし、特に重罪とされたがその希少性ゆえに『できるだけ長持ちさせたい』となったヨハンは最上階である1人部屋フロアにぶち込まれた。


 罪状のわりには凶暴性もなく実験には協力的な『都合のいいモルモット』が収容される1人部屋フロア。収容者間で待遇に差をつけることによるヘイトコントロール。エサをぶらさげて従順な羊をつくり出す管理機構。ことある度に投与されるハッピーになる薬。スリーアウトで消える元気な馬鹿たち。倫理観が不在だからこそなし得る磐石な体制。


 しかしその内部に組み込まれたヨハン曰く「小さな穴はいくらでもあった」そうだ。

 冴え渡るヨハンの悪巧み。

 着実に積み重なる下準備。

 そうして出会った唯一無二のハニー。

 だんだんパンパンになってゆくヨハンの身体の一部。つらい時にそっと微笑みかけてくれる最高に素敵なハニー。当然なにも起こらない筈もなく――おい言い方ァ! まあ大体その通りだけどさあ!


 などといった第2特殊更生保養院ここの概要やこれまでの経緯を聞きながらも、おれはせっせと手を動かし続けていた。


 よしラスト、せーの、せい。


 この部屋唯一の出入り口であるドアの前。

 闇でつくった馬鹿でかい『手』が音もなく床を滑り、ノエミが突っ込んだことでぐちゃぐちゃになった元バリケードの残骸をまとめて端へと押しのけた。

 うん、やっぱりここに満ちる闇はねっとり濃密で質がいい。

 雑につくった『闇の手(大)』だが、きれっきれの動きとパワーを両立させている。


「これって『闇の薔薇』の近接格闘だよね?」

 いつの間にか側にいたノエミが『闇の手(大)』をさわさわしていた。

「そうなの? 使えそうだったから真似しただけで、由来とかは知らなかった」

「どうしても近接戦が弱くなっちゃう魔術師の辿り着いた最適解のひとつらしいよ。でかい拳で殴れば相手は死ぬ。叩きつけても相手は潰れて死ぬ。実際かなり厄介だってマリアンジェラがいってた」

 なら最初の地下空間にいた『闇の手オリジナル』を見せてくれたあいつは、もしかすると闇の薔薇の首領だったのかも。


 ……ま、もう会うこともないやつとか、今はどうでもいいか。


「それで、ハニーの傷はどうだった?」

「あんまりよくないかなあ。激しい運動とかはまずムリ。動かしすぎると本当に死んじゃうかも」

 ノエミは淡々と答える。

 基本こいつ、マナナ以外にはドライなんだよな。


「あんなに重そうな斧フルスイングしてたのに?」

「最後の力をふりしぼったっぽいねー。おかげでもっと酷いことになっちゃった感じ」

「ここで使っちゃったかぁ、最後の力」

「ねー」


 視線の先には、痛みのあまりガチ泣きしてるハニーの背中をさすっているヨハンの姿。


「……特別行動隊うちなら、自爆前提のデコイとしてどう活用するかの議論に入るんだけどなー」


 おれにだけ聞こえる小声でいうあたり、そうはいかないと理解してはいるらしい。

 なら話は早い。

 できることを探す。まずはそこから。

 黙ってしまえばなにも進まないので、とにかく思いつくはしから。


「タッカー君で安全なルートを調べてらくらく脱出、とかどう?」

「たぶんこの建物って、基本どこもこの色だと思うんだ」


 石造りの微妙にくすんだ白。


「そんな屋内で、まっ黒い鷹がばさばさ飛んでたらどう思う?」

「くっそ怪しい。わたしなら考える前にまず落とす」

「でしょ。狭い屋内じゃ単なるまとだよ。強みが全部死んじゃう」


 タッカー君。

 ノエミの出せる黒い鷹。闇で再現した擬似的な生物。何度か直に見たのでおおよその仕組みは理解できているが、絶対におれでは真似できないしするつもりもない、常軌を逸した憧憬の産物。

 おそらくは、羽根のたわみひとつから筋の動きひとつに至るまで全て手作業でつくりあげた――影分身子機の応用。

 どうして鏡に映る己ではなく、空をゆく鷹を自己としたのかさっぱり理解できない、ある種異常な精神性が垣間見える肉体改造じみた狂気の積み重ね。


 遠くまでよく見える偵察ドローン的な存在、で片付けるにはちと闇が深すぎる歪な魔性。



「じゃあ、アマリリスさまの命を玩具にするアレはどう?」


 人聞きの悪いことをいってじっとヨハンを見つめるノエミ。

 あ、こいつ、ヨハンを『死なない』ようにして突っ込ませるつもりだ。


「いっただろ。あれは本当にハプニングで、狙ってできるものじゃないって」

「じゃあ他に『使えそう』なのってどんなの?」

「これもいったと思うけど、わたしはもうこの指輪呪物を使うつもりはないよ。絶対に制御不能になって自爆する」

 例えば今『こっそり脱出』に使えそうな場面シーンで思い浮かんだのは……台詞がなくても行動と結果のみで行けそうなのは……レ○ター博士とかレオ○とか?

 うんダメだな。どっちもロクでもないことになりそう。そもそも死体の皮とか被るのやだ。はい却下却下。


 なら他にできるのは……。


「なあヨハン。もう一度確認するけど、ドアを開けたら武装した犯罪者が待ち構えてる――とかはないんだよな?」

「……たぶんな。俺を殺しにきた敵は全部ハニーがやってくれた。取り逃がしはゼロ。だからハニーが怪我したのを、まだ他の奴らは知らない」

 ということは。

「めっちゃ強くて元気いっぱいのハニーに、わざわざ挑みに来る命知らずはいないってこと?」

「まともな思考ができる8割の奴はそうだ。本気でおかしくなってる残り2割はまじでわかんねえ。ドアの先にある広間でいきなり自殺してるかもしれないし、大喜びで看守の死肉を食べてるかもしれない」


 あ、そんなレベルのやつが普通にいるんだここ。

 ただそういった『イカれ組』を勘定に入れるとなにも話が進まないので、今はとりあえず省くことにした。


「誰も4Fから下りてこない時点で『ヨハンぶっ殺し隊』は全滅したってわかる。声の大きかった腕自慢は大体外で転がってるから、わざわざ死にに来る馬鹿はもういない筈だ。残りは今ごろ1階の出口にでも殺到してるんじゃねーかな」


 なるほど、だからちょっと時間を置いた方が『楽ができる』といったのか。

 たしかに、犯罪者連中が内から出口をこじ開けた後に続くのが一番楽だ。


「じゃあ『イカれ組』さえどうにかできれば、あとは問題なし?」

 ところがそうはいかねえんだよなあ、とヨハンがため息を吐いた。

「さっきもいったが、普通に考えるなら、どいつもこいつもさっさと1階の出口から逃げる。ただ普通よりちょっと賢い奴は、どっかで俺が来るのを待ち構えてると思う。たぶん罠とか仕掛けて万全な状態で」

「……なんで?」

「ここは海に囲まれた孤島だからな。脱出するには船がいる。今港にいくつ船があるかなんて実際に見るまでわからない。だから早い者勝ちだと先を急ぐ奴らと『なにか別の手段を用意してるであろうヨハン』から奪い取ろうとする奴らの、どっちかになる」

「おおー。やるねーよっはん。ちゃんとそこまで用意してたんだ」

「そりゃ脱出船の手配くらいはするって。……なんで掛け声みたいにアレンジした?」


 まあたしかに、この計画を持ちかけたヨハンが慌てて港へダッシュしない時点で、察するやつは出てくるか。


「ならその脱出船がゴールか。場所は?」

「正門からまっすぐ東に20分くらい走ればしょぼい入り江がある。合図を送れば、そこへ迎えの舟が来てくれる手筈になってる」


 20分ダッシュなら距離にして3キロメートルくらいか?

 いや、魔法世界の謎人種を現代日本人基準でみちゃダメだな。

 仮に倍の6キロメートルとして……おれの足の遅さとハニーの状態からして、敵に見つかったらまず逃げ切れない。

 あれ? これもしかして、外も同じくらいやばくね?


「んー、基本、戦闘はなしだよね。ハニーの状態もそうだし、べつに犯罪者殺してもいいことなんてないし。隠れてこそこそ行くのが一番」

「まあそうなるな。ハニー、走れそうか?」

「……よ、余裕、です゛」

「わー絶対だめじゃんそれ」


 どこに敵がいてどう進めばいいのか。

 そんな知りたい情報が全て得られる最高の偵察ドローン的な凄いやつをおれは知っている。

 そう、タッカー君だ。


 しかしタッカー君はこの石造りの微妙にくすんだ白っぽい屋内では悪目立ちしまくるので使えない。ムリにゴリ押しても鷹即斬だろう。


 だが、そこさえクリアすれば。


 第2特殊更生保養院ここの正門から外にさえ出てしまえば、もうタッカー君を止められるやつはいない。敵の位置やら地形やら全部丸わかりで、そこから先の安全は確保できたも同然だ。つまり、勝ちといっても過言ではない。



「んー、なら私が先行して罠と待ち伏せを潰すのがベターかなあ」



 いや、もしノエミに万が一があればそこでお終いだ。

 くっそ足の遅いおれと満足に走れないハニーが生き残るには、タッカー君は必須だ。


 ……やっぱ、やるしかないのかな。


「え? ノエミちゃん、前線に出るタイプなん?」

「ううん。いつもは偵察ばっかやってるよ」


 正直いってやりたくない。

 なにせ、こっちに来てから一匹も『猫』を見ていない。旧市街からめっちゃ遠いらしいので距離制限にでも引っかかっているのか……なんにせよ猫がいない以上、たぶんここじゃおれは普通に死ぬ。

 まさかのダメージフィードバック率100%ショックはまだ記憶に新しい。


「いやダメじゃん。フツーに死んじゃうだろ」

「たぶん今回は大丈夫じゃないかな」

「え? なんで?」

「お、女のカン、かなあ?」

「いやいやそれ、うまくいった後にしか使えないやつじゃん」


 だがヨハンもハニーもノエミもダメとなると、単純な引き算でおれしか残らない。

 完全ステルスでどこまで行けるか……やってみるしかないか。



「ヨハン、ハニー。これから見るものを絶対に口外しないと約束できる?」



 2人が了承すると同時に。

 おれからずるりと滑り落ちた影分身子機が立ち上がる。

 とうとう安定して出せるようになった。地味ながらも進歩を感じる。


「うわずるい、アマリリスさまも『それ』できるの?」

「グリゼルダほどめちゃくちゃはできないけどね」


 ヨハンとハニーの視線は動かない。

 やはりステルスをぶち抜いて見えるのはノエミだけか。

 ……んん? 見えない?



 そこで悪魔的ひらめき。



「ノエミ、タッカー君出してみて」

「……本当は、他人に見せるものじゃないんだよ、これ」


 とはいいつつも、ノエミの影からにゅっとタッカー君が出てくる。ちゃんと首がある新入り、2号の方だ。


「――は? 武器? 生物……? なんだそれ、まじで? あり得んのか、そんな」

「はいはい質問には一切お答えできませーん。踊り子には手をふれないでくださーい」

 これだから素人には見せたくないんだよ、といわんばかりのじっとりしたノエミの視線が野次馬を牽制する。


「ノエミはタッカー君と視覚を共有できるんだよな?」

「うん、できるけど」


 思いつきのレベルとしてはくっそしょうもない。

 お前アホじゃねーの、と笑われる次元のやつだ。

 だからこそ、失敗のしようがないともいえる。


 影分身。おれの写し身。

 おれと同じ格好をしている、つまりはA&Jの正装にサンダル履きのその姿。うん、いけるわこれ。


 おれは影分身子機でタッカー君をがしっと掴み。

 そのまま抱きしめるようにすぽっとシャツの中にもぐり込ませた。

 胸元のボタンを2つほど開け、タッカー君の首だけを外へ出す。

 後からシャツの中で抱っこするかたちだ。


「どうヨハン、鷹の羽根とか胴体とか見える?」

「……いや、。最初は見えてたのに、いきなり浮いて首だけになった」

「じゃあこれならどう?」


 タッカー君の頭を押し込み、完全にシャツの中へ隠す。


「……完璧に消えた。空気とかチリの揺らぎとか、そういうのも一切見えねえ。視線の動きと素振りから辿るとええと……そこにもうひとり、透明の誰かがいるってのか?」


 完璧パーフェクトだタッカー君。

 おめでとう。君は史上初のステルスファルコンだ。


 そう、こうして影分身子機で包んでしまえば、タッカー君ノエミと一緒に屋内ステルス偵察が可能となるのだ!


 ……やってること自体はアホらしいが、これ地味に強いと思う。

 小柄なおれでもすぽっと包めるサイズ限定だが、擬似的な完全ステルスの付与だ。


「んー、凄いとは思うんだけど……」

「いやいやノエミちゃん、反応薄くね? 干渉なしで両方が成立するとか、双子でもムリだから不可能って結論出てたやつだよこれ!? 技術的にはすげーターニングポイントなんだけど」

「いやそういうことじゃなくてね、……アマリリスさま、これタッカーいる?」


 要るに決まってる。


「わたし1人で罠とか待ち伏せとか見極めるのは絶対にムリだ。どっかでさくっと殺られちゃう。ダメージフィードバック率が100%だから、ホントに死んじゃう」

 だから助けて。

「え? そうなの? タッカーは逆流反動2割くらいで済むよ」

 2割という数字に食いつくおれ。詳しく知りたいといくつかの質問を重ねる。

「ふーん、ならそれ、たぶん五感全部繋いでるからじゃないかな? フツーしたくてもできないよ、そんな変態的なの」

 え? お前がそれいうの?

 などと口を滑らせないよう必死にこらえていると、それまでじっと考え込んでいたヨハンが、不意に部屋の上方を指して、


「干渉が起きないなら、あの部屋のすみっこにいっぱいある『杭』とかも、その黒い鷹に付けれるんじゃねーの? で、ノエミちゃんの合図でアマリリスが発射すれば、まじでやばくね?」


 なんという悪魔的アイデア。

 おれにははっきりとイメージが湧いた。

 これはあれだ、某奇妙な冒険の第3部でラスボスの館を守っていた鳥野郎だ。

 あいつは氷だったが、それの闇バージョン。


「……よっはん、天才じゃん」


 そうして、タッカー君の足や胴におれ産の黒杭が括り付けられた。その数6本。


「凄いシュールな絵だけど、そもそもこんな重りつけて飛べるの? 空気抵抗とかいろいろ大変そうだけど」

「アマリリスさまは知ってるでしょ。タッカーには関係ないって」

 そういや首なし1号の方は、成人女性であるマリアンジェラを持ち上げてたな。

 ……うん、なんの問題もなさそう。


 そうしてノエミの合図でおれが前方へ黒杭を射出するという、まさに悪魔の牙というほかない武器をタッカー君は手に入れた。

 つまり偵察ドローンに即死ミサイルが搭載された。


「まさかこんなかたちでタッカー永遠の課題が解決するなんて。どうしようアマリリスさま。これ実際にやれちゃうよ? もう全部やっちゃう?」

「やっちまおうぜノエミちゃん! 邪魔するやつァ全部タッカーのエサだ!」

「や、やったりましょう!」


 ノリと勢いでおれも、よっしゃハチの巣にしてやれタッカー! と便乗しかけてふと思い出す。

 それじゃ不安だから、ステルス偵察に頼ろうとしたのだと。

 急激に頭が冷えたおれは、6つの殺意をその身に宿す悲しき怪物モンスターと化したタッカー君を見て、


「待ち伏せしてるやつ相手に正面から挑むの、危険じゃない?」

「え?」

「ここにいるのって、をもった犯罪者なんだろ? そんなやつが待ち伏せてる所に突っ込んで出たトコ勝負って、無謀すぎない?」


 負ける可能性、死ぬ危険性が普通にある。


 おれが黒杭連打、黒い手ブンブンしながら突っ込まない理由だ。

 狭い屋内。曲がり角や死角は山ほどある。

 相手が自分より馬鹿だという夢はみない。

 超スペックの野生動物たちは、知恵を絞った原始人に狩られた。

 さらに今回は、きっと向こうにもがある。


 そんなの、一々つき合ってたら命がいくつあっても足りやしない。


「それにさ、実はこの黒杭、2本以上がぶつかると謎の大爆発が起きる危険物なんだ。ちょっとなにかに当たってズレただけで、最悪タッカー君ごと消し飛んじゃう」


 多少の衝撃なら問題ないが、鷹の飛行速度がそのまま黒杭の飛ぶスピードになるから……うん、たぶんどっかで事故るわ。


「うーん、いわれてみりゃその通りか。こっそり偵察できる利点を捨てるの、やっぱもったいねーな。つうか偵察兵が正面突破とかノエミちゃん殺意高すぎじゃね?」

「え? だってどう考えても――げほんごほん! うんそうだね! ちょっと新発見でテンション上がりすぎちゃった! いやーしっぱい失敗!」


 ノエミはいそいそとタッカー君から黒杭を外した。

 なんだか挙動が不審だったが「それならタッカーの隠し方とかいろいろ試してみよ?」と誤魔化すように押し切られた。



 それから幾度かの試行錯誤の結果、影分身子機の長い髪の毛をタッカー君の首から上に巻きつけることで、有視界ほぼパーフェクトステルスファルコンが完成した。

 視界確保の都合から目だけは露出したままだが、いざとなったらシャツの中へ頭を引っ込めて完全ステルスに移行可能だ。


「おおー、いけてるいけてる。鷹のちっこい目だけとか、ふつーは気づけねーだろうけど……そうだな、やっぱ2つ並ぶと『目』って感じが出ちゃうから、片方は常に隠しておいた方がいいかもな」


 意外とタメになった外野からのアドバイスも取り込み、いざ出発。

 とはいえおれは、シャツインファルコンのまま歩くだけなのだが。



「アマリリスさま。このくらいの声でいい? ちゃんと聞こえてる?」

「なんで囁く感じなんだよ。普通でいいよ普通で」



 枕元から聞こえるノエミの声に答える。


 タッカー君と視界を共有しながら個別に動けるノエミとは違い、おれには本体と影分身子機を同時に動かすなんて芸当はできない。

 2重になる視界、個別の手足に触覚、場所や空間の把握と認識。たぶんおれの頭では、どれだけ訓練してもこれらを同時に処理するのはムリだろう。

 だから潔く、本体は寝ることにした。

 ベッドに横になり目を閉じる。

 そうして片方を半休止状態にしてしまえば、普段と同じように影分身子機で動ける。


「それってさ、向こうもこっちも音は拾ってんだろ? どんな風に聞こえてんの?」

「半分は本体こっちで残りが影分身あっち。左右で分けるんじゃなくて、こう上下も含めた立体感がある感じかな」


 バイノーラルとかいっても伝わらないだろうなあ。


「うっかり影分身あっちで喋ったりしちゃわない?」

「そもそも影分身あっちには会話する機能がついてないから大丈夫」


 グリゼルダの実演を見るまで、そんな発想すらなかった。

 おれのなかで影分身子機は動く案山子くらいのイメージでしかなかった。

 ノエミといいグリゼルダといい、本気のやつは容易くおれの想像を超えてくる。


「なにか問題は?」

「ないよ。いつでもいける」


 やってることは実にシンプル。


 タッカー君の本体はノエミで、影分身子機の本体はおれ。

 当たり前だがおれたち2人は部屋から出ない。出て偵察に行くのは影分身子機たちだ。


 いうまでもないが、同じ部屋で近くにいるおれたち2人は普通に会話ができる。当然だ。

 それが聞こえる距離にいるヨハンとハニーも会話に混ざることができる。うん、そりゃそうだ。


 つまり、偵察で見たものをリアルタイムで共有し相談することができる。

 これは強い。

 ズルいとすらいえる。

 いつもこんなことをしていた特別行動隊って、ほとんど無敵だったんじゃないだろうか。

 情報のアドバンテージがえげつない。



「よーし、じゃあアマリリスさま、出発!」



 ドアを開け外に出る。急に開ける視界。高い天井。ヨハンに聞いていた通り、大きな広間に出た。


「わあ。凄いねハニー。大活躍じゃん」

「いえ、それほどでも」


 微妙にくすんだ白一色に散らされた赤黒い飛沫。


「いったろ? 俺が生きてるのはハニーのおかげだって」

「なんでよっはんが得意げになるの?」


 大広間には10を超える死体が転がっていた。

 かっちりした紺色の制服を着た死体と上下共に灰色の病衣っぽいものを着た死体。

 そのどれもが潰されたりぶった切られたり捻じ切られたり、一目で死んでいるのがわかるグロさ満点の損壊っぷりだった。

 正直、びびった。

 ……が、よくよく考えると、もう死体にできることはなにもないと気付き、死体よりもおっかない生きてるやつに注力した。


「……3つ左手の部屋、ドアが開いてる。中に男がいる。ガタイがよくて長髪を後で束ねた中年だ」


 でかい円形をした大広間には一定間隔でドアがあり、今おれが出てきたヨハンの部屋もその内の1つだった。


「他のドアは全部閉まってるんだな?」

「ちょっと待って、中央のでかいオブジェが邪魔で……うん、開いてるのはその1つだけ」

「左に3ってことはベティの部屋だな。あいつが生き残ってるなら……もう遅いかもしんねーけど、たぶん見ても楽しいモンじゃねーぜ、それ」

「もうばっちり見ちゃってるよ」


 ドアが全開な室内では、いいガタイをしたポニーテールのおっさんが全裸で腰を振っていた。つい2度見をするが変わらずぎゅいんぎゅいんしてる。これは所謂、大人のプロレスの真っ最中というやつだ。

 ……うわあ。


「あはは! 動き、すっごいきれっきれ! アマリリスさま、リズムよく手を叩こうよ!」

 アホなこといってるノエミは無視して続ける。

「ムキムキのおっさんなのに、ベティ?」

「そうだ。本名は知らねえ。ベティ以外で呼んだ連中は全員頭を潰された。このフロアで2番目にやべえ奴で、1番やべえサイコ野郎にガチ恋してる」


 次々に送り込まれるどうでもいい情報の波。


「それで今、ベティは『真っ最中』ってことでいいんだよな?」

「うん。なんかドア全開で動きがめっちゃ速くて、っぷぷ、これ笑っちゃダメなやつなんだよね?」


 この状況で笑えるノエミは、やはり元特別行動隊なのだと思う。


「ベティの『お相手』はどんな奴だ?」

「え? どうでもよくない? そんなの」

「いや、結構本気で大切ことなんだ」


 このフロアで2番目にやばいマッチョのお相手が?

 意味不明ながらも見たままを答える。


「ここからじゃ、角度的に見えない」

「確認してくれ。繰り返しになるが、本気で重要な情報だ」


 こうもまじトーンでいわれてしまうと茶化すこともできない。

 おれはしぶしぶベティの部屋を覗き込み『お相手』を確認したのだが……見たものを上手く消化できず、結局はただそのままを口にした。


「首から上がないから顔はわからない。けど右肩に蛇の刺青が入った男だ」

 つっこみどころが多すぎて、なにから手をつければいいのかわからない。

 ……おれはなにを見せられたんだ?

 なにをどうこじらせればこうなるのか、さっぱりわからない。

 ただひとついえることがあるとすれば。

 ベティこいつ、本気で社会に解き放っちゃダメなやつだ。


「おっ、そりゃラッキーだぞ! このフロアで1番やべえトビアがもう死んでるとか、こりゃかなり幸先がいい!」

「いきなりこんなもん見せられて『ラッキー』とか、地獄なの、ここ?」


 ちょっと待って、まだ部屋から出て2分なのに、もう精神が悲鳴を上げそうなんだけど。死体とこじらせネクロおじさんであっという間に2アウトなんだけど。いやこれさらにストライクも2つ入ってるわもう後がないぞおい。


「まあそういうなって。そのベティはまだマシな方、いってみりゃ『当たりくじ』だ。自分勝手な乱暴者だが、邪魔されない限り延々と内に篭るタイプ。つまり、俺たちの障害にはならない」

「……他の部屋のやつらもこんな感じなの?」

「似たり寄ったりだな。だから間違っても閉まってるドアをノックしたりすんじゃねーぞ。夜は寝るってルーティンを絶対に崩さない狂人が3名ほどいる。たとえド派手な脱獄が起きようともおかまいなしの真性だ。だからそのままそっと階段に向かうんだ」


 迷うことなく階段へ直行する。いかにもなゲートへ向かい粛々と歩を進める。

 あんなのが後3人もいるとか絶対に、


「よっはん、今ならベティ確殺できるけど、いいの?」

 おま、余計なこというなってまじで!

「今はいい。最悪、ベティも使わなきゃいけなくなる……かもしれねえ」

「もしかして、よっはんに対して『やる気』の、明確な敵がいるの?」

「それを確認しに、3階へ下りるんだ。ひょっとしたらトビアみたいにおっ死んやがるかもだ」

「……あの教授が、そう簡単にくたばるでしょうか?」

「心配するなハニー。今夜の俺はツイてる」

「ですが」

「大丈夫、大丈夫さ。大丈夫に決まってる」


 なにやら深刻そうな2人。

 そういうのがプラスになることはまずないので、別の話題を振ってみる。


「ここってさ、ベティみたいなやつを隔離している階層なのに、階段前にしかセキュリティがないってまずくない? 囚人間で、日替わりで殺人事件とか起きない?」

「そりゃ今はぶっ壊して自由に動けるようにしてるからな。ほら、広間の中央にでかいオブジェがあるだろ?」


 いわれて中央に鎮座するぴかぴかのどでかいオブジェを見る。


「アレは自動迎撃機構が搭載された古代遺物ロストロギア――まあ大昔の非人道的兵器ってやつでさ、普段は外出可能時間が過ぎたらアレが『警戒態勢』に入る。そしたらドアを開けるだけで、回避も防御も不可能なが飛んで来る。喰らった奴の半分は即死する強力なやつだ。おかげでどいつもこいつも規則正しい生活ができてた」


 どう見ても、光沢が目に眩しいでかい石にしか見えない。

 おれの知っているどんな兵器とも違う。引き金や入力装置、射出口などといったそれらしい箇所はどこにもない。完全に別概念の産物。しかし話を聞く分には超高スペック。

 謎の魔法文明の産物かあるいは。


「ま、それでも管理するのは看守だったからな。苦労はしたが結果は見ての通り、今じゃ単なる石コロだ」

「もしかしてヨハンって、実は結構凄いやつなんじゃ?」

「おいおい、今さらわかりきったコトいうなって」

 モチベーションアップのおべっかではない。本音だ。

 先祖代々の魔法がなくとも、謎の古代兵器を単なる石コロにできる根回し力は、もうそれだけでどんな魔法よりも成果を出してる気がする。


「じゃあこの鉄門もヨハンの悪巧みで?」


 下への階段を塞ぐ、空港のゲートを10倍いかつくしたようなごつい鉄の門がぐにゃりとひしゃげて半壊していた。力ずくで破ったのが一目でわかる、しかし具体的にはどうやったのかさっぱりわからない、埒外の力による破壊の痕跡がそこにはあった。


「そりゃベティが勝手にやりやがったな。こう素手でぐぐぐっと。なにせあいつは中度の先祖返り、王の血統に並ぶ激レアなサンプルだ」


 先祖返り。

 言葉としては知っている。

 大昔の形や性質が突然現在の個体に表れる、隔世遺伝の一種とされるもの。


「もしかして、このフロアにいるのって全部そうなの?」

「半分だけだな。あとは便利な奴とか嫉妬心を煽るエサとか凶悪犯とか」

「ふーん。よっはんは王の血統のレア枠だとして、ハニーはどれなの?」

「……凶悪犯として来てから、先祖返りが確認されたケースです」

「透明になれるの?」

「いえ、あれはダルシーという別の先祖返りが持っていた『血の色』で」


 ひしゃげた鉄扉を抜けたおれは……そのまま続く階段に腰を下ろした。

 動揺が抜けきらない内に行動しても、絶対にしょうもないミスをする。

 死体はともかく、デスキツツキおじさんから受けた精神ダメージは馬鹿にできない。

 ほんの5分の一休みは、きっと必須だ。


「ち? あ、落ちてるコレね。……なんかこの透明クローク、さっきと比べて濁ってるね」

「時間経過で徐々にバレる『程度の低い嘘』を闇で実現するってのがダルシーの血の色だった」

「その『血の色』ってなに? そんな言葉、初めて聞いた。血統による伝承魔法とか特性とかそういうの?」

「モロそういうの。今じゃほとんど誰も使わない、古い昔の言い回しだよ。直接言葉にするのも憚られる秘伝、みたいな意味もある」

「ふーん。じゃあハニーの『血の色』ってどんなの? 私のタッカーやアマリリスさまの影分身子機を見たんだから、そっちも教えてよ」

「そうだね。それはわたしも気になる。最低限の手札は把握しておきたい」


 おれが好きなやつの名前いったんだからお前もいえよ、みたいなノリは嫌いだが、これは無視できない。


「ハニーのやつは荒事には使えねーんだ。どっちかっていうと癒し枠っつーか」

「よっはんじゃなくて、ちゃんとハニーが答えて」

「いやけどハニーは今まで」

「こういうのって、けっこう大切なの」


 沈黙。

 向こうの様子が音でしか聞こえないおれには、誰がどんな顔をしているのかわからない。

 ただ隠しようもない緊張感だけはひしひしと伝わった。

 これ、まずいか?


「……寝具ベッドを、つくれます」

「え?」


 流れが変わった。


「闇を加工して、最上級の安眠を約束する寝具一式を具現化できます」

「あ、うん?」

「遥か昔、ネグロニアが大陸を統一していた最盛期、王侯の遠征には必ず同行していた『勇健官』という官職があったらしく、その一門の秘伝であり至宝とまで謳われつつも失伝した絶技の隔世発現、だそうです」

「お? おお?」

「いやまじですげーんだぜ!? 俺がこの1年健康でいられたのって絶対にハニーのベッドのおかげだしさ! 大昔の王様が宝っつたのも納得っていうか、そもそも次元が違ぇつーか」

「……ちょっと寝てみたいんだけど、ダメ?」

「ごめんなさい、この傷ではとても。たとえシングルサイズだとしても、それ以降はもうまともに動けなくなると思うので……」

「負担でっか! そんなに凄いの?」

「このクソイカれた檻の中で1年も健康な心身を維持できた。俺は奇跡だって思ってる」

「ええー、めっちゃ気になるー」

 おれも気になる。……じゃなくて。

「いや、普通に凄いやつじゃん。なんであんなに渋ってたんだよ」

 やっぱ知らねーのな、とヨハンは前置きして、

アルネリアこっちじゃ『ベッドを用意する』ってのは『客待ち娼婦』の隠語なんだよ。おかげでハニーはこれまでクソみてーな奴らに絡まれて、そりゃもう死ぬほどイヤな思いを――」


 ほどよくしょうもない話ですっかり落ち着いたおれは、静かに階段を下り始めた。

 学校や病院を思わせる、無骨で飾り気のない微妙にくすんだ石造りの白い階段。

 ただ学校や病院のそれとは違い、このまま一気に1階までは下りれない。この階段は3階までで一旦終わり。さらに下りるには逆側にある2階への階段を使って、さらに1階へ下りるにはまた逆側にある階段を使って――という風に、ジグザグに遠回りを強いられる構造になっているらしい。


 この施設、一応は保養院とかいってるくせに、その設計思想は完全に牢獄である。


 出にくいように。出られないように。逃がさないように。


 なので当然、そのジグザグ回り道の間には『絶対に逃がさない系』の仕掛けやセキュリティがてんこ盛りらしいのだが……それらはもう既に突破されているだろうと、計画の首謀者たるヨハンは予測している。


 だからもしかすると、これから行く3階にはもう誰も残っていなくて、ただそのままするっと素通りできたり――などと期待していたおれの耳に音が聞こえてきた。

 音域からして、おそらくは男。


「下から男のハミング鼻歌が聞こえる。わりと高音で、なんかゴキゲンなやつ」

 声に出して3人へと伝える。

 ノエミのタッカー君は視覚のみで音は拾えない。

「……他には?」

「なんていうか、硬い靴底とかで床をカッカッて鳴らすような叩くような……ああこれステップだ。ハミングと同じリズムでステップを踏んでる」

「……教授、ですね」

「なんで生き残っちゃうかなあのクソ」


 教授。

 その名前が出るのはこれで2度目。


「ストップだアマリリス。ノエミちゃん、罠がないか確認してくれ。念入りに」

「おっけー。ちょっとまってね」


 階段の最後にあるぶ厚い扉はすでに打ち破られている。

 おかげで、扉の開閉という最大の問題は自動的にクリアされた。

 代わりに、ハミングステップ教授という新たな問題が浮上した。


 ノエミチェックを待っている間、ずっと気になっていたことを聞いてみる。


「教授ってどんなやつ?」

「敵だ。俺に執着してる」

「発見しだい、殺してください」


 ハニーがガチ切れなのを見るに、おしりスクランブル的な意味での執着っぽいなこれ。

 やっぱヨハン、そっちにも大人気か。


「うーん、見える範囲に罠はないね。階段の最後、右手の壁が血で汚れてるけど……なんの仕掛けもない、単なる血だね」


 ヨハンによると3階は『絶対に団結できない奴ら』を詰め込んだ大部屋がずらりと並んでいるらしい。

 まずはででんとフロア全体をぶち抜く大きな十字型の通路があり、それに沿って檻つきの大部屋が並んでいる、とくにひねりもないシンプルなフロア。

 つまり、2階への階段までは一直線。なにも邪魔がなければ、しゃっと行ってぱっと終わる。


「じゃあとりあえず行ってみるよ。なんかおかしなやつがいても、基本スルーでまっすぐ下に向かう、でいいんだよね?」

「そうだ。まずは外に鷹を放って退路の確保が第一だ。1度きりの不意打ちをどこにぶち込むかを決めるのは、全部見てからだ」


 ケツをロックオンされてなおこの冷静さ。

 おれの中でヨハンの株が上がった。


「アマリリスさまの影分身それ、音はしないけど、それでもゆっくりね。最悪、矢とか飛んで来るかもだし」


 その瞬間、おれの脳裏に湧きあがる悪魔的ワードの数々。

 ファルコンシールド。

 ノエミのダメージフィードバック率はおよそ2割。

 コラテラルダメージ。


 おれはそっとタッカー君を抱える手を微調整してから神妙に「わかった」と頷き、そろそろと慎重に階段を下りて行く。

 徐々に見えてくる3階フロアの様子。

 真ん中にでかい通路があり、その左右に並ぶ大部屋。それぞれの正面は檻になっているので、通路からは中が丸見えだ。まさに牢屋といったつくり。

 そして壁。


「……んん?」

「どうした?」


 大きな十字の通路と聞いていたのに、階段から10メートルくらい先に壁があった。そこでフロアが終わっていた。


「3階が十字路じゃなくなってる。10メートルくらい先でいきなり壁が生えて、そこで行き止まりになってる」

「……は? なんで?」


 おれに聞くなよと思いつつも報告を続ける。


「左右に並ぶ大部屋には……見える範囲には誰もいない。けど通路の突き当たりの壁際に、椅子に座ってぼーっとこっちを見てる看守の制服を着た女がいる」

「大部屋には絶対に教授の手下が潜んでるから油断はするな。あと制服女の特徴を詳しく」

「ボリューム感のある金髪で、なんか絶妙にスケベな感じ」

「間違いない。メラニーちゃんだ。教授の信者兼右腕で3階の警備副主任。来月32歳になる見た目だけはいいクソ女。腕っ節は立つらしいが詳細は不明だ」

「え? 教授って看守も抱き込んでるの?」

「なにが良いのかさっぱりわかんねーけど、なぜか一定数『入れ込む』連中がいやがるんだよ。イカれてるとしかいいようがねえ」


 軽快なハミングとステップは相変わらず響き続けている。

 行く先には壁。挟む大部屋に潜む手下。

 見えてはいないだろうが、じーっとこちらを見つめているメラニーちゃん(31)。


 ……よし、一度戻ろう。


「ストップアマリリスさま。あの壁、なんかヘン。。近づいて触ってみて」


 ターンの途中でノエミの声に止められた。

 おかげでおれは偶然にも正面からそれを見た。

 ノエミがちょっとだけ気にしていた壁の汚れ。

 真正面から見ると文字になる、血で書かれたメッセージ。



※※※



 親愛なるヨハンへ



 雌豚の傷の具合はいかがだろうか?


 私の見立てでは、まだ辛うじて息はあるんじゃないかな?


 ダルシー君に渡した切り札には、あえて毒は塗らなかった。


 これは私からの最大限の譲歩であると理解して貰いたい。


 こちらには延命、および治療の用意がある。


 メラニーには君を案内するよう言い聞かせておいた。


 待っているよ、ヨハン。


 愛を、交わそう。



 君に教えを授ける者より



※※※



 ……うわあ。

 とても1人では処理しきれないので、そのまま音読して共有した。


「――っざけんなよクソが!! 譲歩だ!? ああ!?」

「大丈夫ですから、ヨハン、落ち着いて」


 ヨハンがガチ切れていた。

 その様子から、おぼろげながらに察した。


 きっとヨハンは、この教授との悪知恵合戦に敗北し、ここまで追い詰められたのだと。



「教授」



 不意にメラニーちゃんが呼びかけた。ハミングとステップが止まる。


「感あり。身長140センチ以下」

「走ってアマリリスさま! 前に!」

 音は聞こえないが唇は読めるノエミが、おれより早く指示を出す。

 考えるより先に足を動かした。

 ……が、我ながらくっそ遅い。


 視線の先でメラニーちゃんが空中をビンタするように手を払った。


「ダメ、飛んで!」


 扉の残骸を抜け、3階フロアに1歩踏み出したその足でジャンプ。

 垂直飛び10センチ未満であろうおれのジャンプ力が火を噴いた。

 ……うわあ。おれのジャンプ力、低すぎ。

 しかし幸いにも、ノエミは最初からおれのジャンプ力なんかてにしてなかった。

 重要なのは、両足が地面から離れること。

 重要なのは、前方に向けて飛び出すこと。


 1秒にも満たない滞空時間を逃さず、胸元のタッカー君がずるりと翼を出し羽撃はばたく。

 

 成人女性であるマリアンジェラすら持ち上げたパワーで、おれごとかっ飛んだ。

 上ではなく前へ、ゆるやかな曲線を描くように真正面へとかっ飛んだ。


 こっそりとファルコンシールドの準備を整えていたおれは、がっちりとタッカー君をホールドしている。

 つまり振り落とされたりする心配はなくこのまま――いや壁にぶつかって死ぬだろこの勢い!


 そう、正面に飛ぶということは、なぜかそびえ立っていた予定外の壁に頭から突っ込むということで――。


 すかっと。


 抜けた。

 顔面から壁に直撃したと思った瞬間、そのままなにもなかったかのように素通りした。

 そこでタッカー君が、いそいそと翼をたたみ、すぽっとシャツの中へ潜る。

 え? 着地のサポートは?

 残されたのは、超スピードで落ちながら飛ぶおれ。

 高さはそれほどでもない。だがこの速度はまずい。

 このまま頭から落ちれば死、


 全身全霊、死力の限りを振り絞った渾身の受け身に全てを賭けた。


 出来栄えとしては60点。

 手の先から入り肩と続き、アゴを引き地面に頭がぶつからないよう意識しつつにゅるりと背中に回りどごっと衝撃。ごろごろ転がって、ぐわんぐわん荒ぶってくっそ痛い。どこが? 全部が!



「あの速度では……追いすがることもできませんね」



 すすっとメラニーちゃんが壁をすり抜け、こちらを確認する。


「ふむ。行ってしまいましたか」


 行ってない。

 今おれは下り階段まで5メートルの地点で、つぶれたカエルみたいにびくんびくんしてる。

 ムリこれ、動けない。まずは息をすって、はいて、すって、はいて。


「……申し訳ありません教授。まさか後ではなく前に出るとは」

「ダルシー君の生への嗅覚を侮っていたのは私も同じです。よもや生き残るとは思いませんでした」


 この声の主が教授か。姿は……見える範囲にはいない。

 いや、いまだ健在なすり抜ける壁を見るに、視覚はアテにしちゃダメかも。


「やはり今のは、ダルシーなのでしょうか?」

「透明公爵に鳥男。まさに『程度の低い嘘』としかいいようがない。さらに身長140センチ以下。他に候補はいませんよ」


 いやダルシー君、たぶん4Fの広間で死んでたよ。


「干渉域間際での同時発動。さらに高次元の透明化。……下賤と侮り秘匿を見抜けなかった罰は、いかようにも」

「メラニー。あなたの耳で判別できないということは、他の誰にも不可能ですよ。ここは率直に、犬の底意地に喝采を送りましょう」


 よし。こいつらの注意が逸れるまで、ここでじっとしていよう。

 ダルシー君の評価は上がり、おれは無事にやり過ごせる。

 いいことずくめだ。誰も損をしない。


「……身に余るお言葉です」

「それに実のところ、ダルシー君がどうなろうが、さほど関心はないのです。わかりますね?」

「はい」

「よろしい。今の練習を本番の糧としてください。私は創作に戻ります。あなたも、引き続き警戒を」

「はっ」


 すすっと壁の向こうへ戻るメラニーちゃん。


「アマリリス、状況はどうなってんだ? なんかノエミちゃんも悶絶してるし、痛そうってのはわかるんだけど」


 あ、やっぱノエミも痛かったんだ。

 そこでようやく息が整い始めたおれは、ざっとヨハンに説明した。

 当然、口と同時に手を動かすのも忘れない。


「じゃあメラニーちゃんは、音の反響とかで対象の位置を把握できる感じか? 俺らがダルシーのクロークを奪うのは前提、いや、奪った上で『補強』くらいはするだろうって踏んでやがったのか。……相変わらずムカつく野郎だ」

「そういえば、最初にあがりましたよね、補強案」

「だがなハニー、結局ヤツは読み違えた。俺の実家の太さをな」


 いってることはアレだけどなぜか格好良く聞こえる不思議。


「それで今、どんな感じだ?」

「またハミングが始まる前に、ほふく前進で、下り階段に、向かってる。あと、……に、2メートル」

 たぶんあのハミングがソナーの役割を担ってる。再開する前に階段を下りなきゃ普通にバレる。だからこうして全力で頑張ってる。

「なんで走らないんだ?」

「痛すぎて、立てない」

「……いやノエミちゃんさ、これ、結構ガチでヤバかったんじゃない?」

「まさか着地できないとか思わないって! 私だってつぶれるかと思ったよ!」

「あのねノエミ。わたしに運動性能とか期待しちゃダメ。1番できないやつをさらに半分にしろ。それがわたしの最高点だ」


 いってることはアレだけどなぜか格好良く聞こえたらいいな。


「そんなことよりアマリリスさま、ほふく前進それ、めっちゃ苦しいんだけど。鷹って地を這うようにできてないんだけど」

「我慢して。監視の目は他にもあるかもだから、出ちゃダメだよ」

 あ、なるほど掴んだ。こうすれば最速が出せる。

「あの、アマリリスさま、開き直ってタッカー車輪みたいにするのやめよ? 用途が違うよ?」

 教授のウォーミングアップを確認したおれは、ファルコンギアをセカンドに入れた。

「ぐえー」


 そうして、どうにも情けない感じで3階を突破したおれはそのまま2階へ。

 教授とメラニーちゃんによってあっさりとステルスを破られた反動から、慎重に用心と臆病を重ねがけして挑んだ2階だったが……。


「なんかフツー。教授やベティみたいなインパクトはないねー」


 ノエミはそういうが、フロア全体が半壊していたり死体が転がっていたり角待ちしてるやる気勢がいたりと、それなりに危険な要素はあった。

 ……が、ステルス対策をしているやつは誰もいなかった。

 つまり、全スルーできた。


「タイミングが良かったってのもある。正直、数で押すしか対策が思いつかねえ『べったん』と『けんけんぱ』の2大即死トラップが潰された後だったのはデカいぜ、まじで」


 いわれてみるとたしかに、内臓が飛び出した圧死体と腰から下がない変死体が妙に多かった気がする。

 ……いやネーミングセンスきっつ。


「よっはんの計画通りってことでしょ? じゃあ1階も楽できそうかな?」

「うーん、ちょっと微妙かもな。予想してたよりずっとペースが遅い。最悪、まだ1階でわちゃわちゃしてやがるかも」


 そうして辿り着いた1階。

 このフロアのセキュリティ類も、すでに壊滅していた。

 本来なら自在に動く壁と上方からの一斉掃射により数の暴力が意味を成さないキルゾーンだったらしいのだが……それを操る看守の食事に薬を仕込むという、それが通ればもうお終いだろみたいな手口で潰されていた。


 全てオフにされた動く壁の間――つまりはただの広間の奥にそびえる正門。

 特定の関係者のみ開けることができるその門はすでに開かれ、たぶんその方法を知っていたであろう男性の首だけが放置されていた。


「その狐目は院長だな。……あの下種にしちゃ楽な死に様すぎて、なんか納得いかねーなあ」

「ヨハン。あんな男にかかずらうだけ時間の無駄ですよ」

「……そうだな。その通りだ。アマリリス、正門が開いてるならさっさと出ちまえ。話はそれからだ」


 そんなこといわれるまでもないのだが……開いた正門の前で、なぜか人がごちゃっとたむろしていた。

 いや、正確には10対10くらいで2手に分かれて、にらみ合うようなかたちで正門前で一触即発な感じになっていた。


「赤髪のやつがクレメンテ。坊主頭がブルーノ。それぞれ敵対関係にある組織のボス同士だ」


 おれの状況報告に補足を入れるヨハン。


「こいつはいいな。ここまでは協力してやって来たけど、もうゴールが見えたから手前らなんざ用済みだってやつだ。アマリリス、構うことァねえ。にらみ合ってるなら真ん中が空いてるだろ? そこを突っ切ってさっさと外へ出るんだ」

「ええー? そこ?」

「そこが最短距離、つまりは一番安全だ。大丈夫、今夜の俺はツイてる」

 通るのはおれだけどな、とか、ツイてるやつがここまで追い詰められるかよ、とはいわないでおいた。


 くそいかつい坊主頭と赤毛の刺青兄ちゃんの距離はわずか30センチほど。

 うーん、油断なくにらみ合ってる。手を出せば余裕で届く距離である。たしかに通れるといえば通れるが……わざわざ、あえてここ通らなくてもよくね?

 そう思い、それぞれ取り巻きの皆さんの横や後を通ろうとするも、正門付近に密集しているせいでどうにもぎりぎりの隙間しかない。基本、チンピラの皆さんは一箇所でじっとしていられない。不意に手足をぶらぶらさせたり、謎の屈伸を始めたり、隣のやつに意味不明のボディーブローを放ったり、あ、こいつボスがにらみ合ってるのに座りやがった。

 という風に、ぎりぎりの隙間がランダムで広がったり消えたりする。

 ……もし横断を強行して肩でも触れようものなら『そこになにかおれがいる』と一発でバレてしまう。


 結局おれは、微妙に時間をムダにしてから、にらみ合うボス2人の隙間を通ることにした。


 ……うん、学んだ。

 次からはおれの素人考えより、慣れてるやつのアドバイス通りに行動しよう。


 こいつら全員、ステルス対策をしていないのは最初からわかってる。


 なら変にびびらずに、すすっといかついやつらの間を通、



 ――がしっと、阻まれた。



 おれが2人の隙間を通るその寸前、クレメンテとブルーノがそれぞれ右腕を突き出し、がしっと交差させたのだ。


 おれからすれば、急に通せんぼをされたかたちとなる。


 ――止まるな、行け!


 考えるより速く、リンボーなダンス風に下をすり抜けた。

 薄々勘付いてはいたがこの身体、筋力と耐久力は論外だが反射神経は悪くない。


 そうして通り抜けたならもう脇目も振らずに走り抜けるしかない。

 なぜバレたのか、そもそも本当にバレたのかはっきりとしないが、とりあえず今は逃げの一手だ。おれの足がくっそ遅いのが唯一の不安要素というか致命傷な気もするが、それでもとにかく走るしかない……んだけど、なんかめっちゃ静かじゃね?


 威圧の声や追う足音がないのを不審に思ったおれが振り返ると、クレメンテとブルーノが今度は左腕で同じことをやっていた。


 互いに右腕を出してがっと交差。続いて左腕を出してもう一度がっと交差。

 今度は右手の甲側同士を交差させてがっ、続いて左手の甲でもう一度がっ。


 ……んん? これってもしかして。


 両手を開いて下から上へ、上から下へ。互いに1度ずつ繰り返しパンパンと2度鳴らす。

 続いて右手同士で2回往復ビンタの要領でパンパン。左でも同じくパンパン。


 ……これはもしや。向こうの映画でよく見る、小粋なブラザーたちがよくやる……。


 さらに拳を握り下から上へごん、上から下へごん、最後は正面から互いにワンインチパンチのかたちでぶつけてごん。

 そうしてお互い、サイドスローのように大げさに振りかぶってから渾身の――握手!


 がっしいい! と音が出そうなハンドシェイクを交わした2人はそのままハグ。


「ヨハン! なんか2人が和解した! ローカルなハンドシェイクからのハグで!」

「はあっ!? なんだそりゃ!?」

「わたしだってわからない! ただなんか新たな兄弟ブロウ誕生! みたいな感じになってる!」

「待ておいダメだ。そりゃダメだ。今ここで20人の『群れ』ができちまうと、俺が生き残る目がなくなっちまう! その数には、なにをどうこねくり回しても勝てねぇ!」


 え? そんな絶望的な事態なのこれ?


「アマリリス、こうなったらもうやるしかない。殺さない程度の一撃をクレメンテとブルーノにぶち込むぞ」

「あの、生かしておく必要が?」

「あるんだよハニー。俺は連中に潰し合って欲しい。かしらが死んじまうと統制がなくなる。ちゃんと『群れ』同士で潰し合ってくれなきゃ困る」

「おおー、よっはん賢い」


 いや、そんな短絡的な。


「雑すぎない? 普通にバレるだろ」

「大丈夫、アホはすぐ仲間割れする。その場のノリでカッとなってつい勢いでおっ始める。んで始まっちまえば理由なんてどうでもよくなる」

「……他にプランは?」

「ない。俺はあいつらに死ぬほど憎まれてる。できることは全部したからな。今あいつらはヨハンという共通の敵をぶち殺す為に団結した。前にここで崩さなきゃ終わりだ」

「よっはん、あちこちから嫌われすぎじゃない?」

 いや。

 そりゃ嫌われるだろ。

 だって、

「なにいってんのノエミちゃん。やると決めたら、そりゃ味方以外には嫌われるっしょ?」

 ――あは。


 だよな。

 場所が変わっても、まあそこは同じだよな。


 おれはこの軽薄なろくでなしに、初めて共感できた。

 そうして1が通ってしまうと、後はもう芋づる式だ。


 足手まといになってもハニーを見捨てず、かといってただ夢ばかりを見ているわけでもない。

 できることは全部して、そのせいで周りは敵だらけで、しかし一言も弱音は吐かない。

 きっとおれは、ヨハンこいつのことを嫌いにはなれない。

 もうおれは、ヨハンこいつに死んで欲しくないと思い始めてる。


「よしヨハン、今正門の外に出た。これからミニ黒杭――じゃダメか。もっと小さいミニミニ黒杭をクレメンテとブルーノの肩にぶち込む」

「よしナイス! できればこう、それぞれの陣営から飛んで行く感じがベストな!」


 かつての失敗を思い出し、爪楊枝つまようじくらいのミニミニ黒杭をそれぞれの陣営ゾーンにつくり出して――えいやっと射出する。


 ハグを終え、新たな兄弟ブロウと和やかにヨハン殺害プランを相談をしていたクレメンテとブルーノの肩にどごっと直撃。


 きりもみ回転しながら吹き飛ぶ2人のボス。

 唖然とする手下の皆さん。

 考えるより先に行動する殺しに行く素晴らしい練度と民度。

 流れるように始まる正面衝突。

 うわ。本当に一瞬の躊躇いもなく始まったよ。まじかよこいつらどう考えてもおかしいだろこのタイミングで攻撃とか普通、



「――アマリリスさま。8時の方向。なにかいる。素人じゃない。たぶん、同業者」



 ノエミの鋭い声に振り向くと……確かにいた。

 全身黒づくめの、グリゼルダやマリアンジェラが着ていた『夜戦着』と同じような格好をした男。

 ノエミがいう同業者――おそらくは特別行動隊と似たような集団の一員。


 そいつは素早く1階の様子を確認すると、ぬるりと近場の草むらに消えた。

 行き先は続く森の中。


「アマリリスさま、追って。あれは放置しちゃダメ」

 おれのシャツからタッカー君が飛び出る。


「わたし、要る? ノエミだけで十分じゃ」


 第2特殊更生保養院の外には、鬱蒼と生い茂る深い森が広がっていた。

 申し訳程度に整備された道っぽいものがあるにはあるが、今不審者が消えたのは木々がわしゃわしゃの森ゾーン。それを追うということは、当然おれの行き先も同じ。


 ……この身体で森に入るとか死ぬのでは?


「対象が森の中じゃ居所を把握するので精一杯なの。もっと詳細な情報が絶対に必要。たぶんあれを放置すると、ぜんぶ台無しにされちゃう」

 つっこむ余地のないガチなトーンだ。

「それとアマリリスさま。あの黒杭、2本ちょうだい。たぶん、必要になると思う」

 ついさっき本職のいうことは素直に聞こうと心掛けたばかりのおれは、そこいらにわだかまる濃密な闇から、ちゅるんと2本のミニ黒杭(鷹の足でも掴めるよサイズ)を削り出しタッカー君へ差し出した。

 がしがしっとそれぞれの足で黒杭を掴んだタッカー君が、夜空へと飛び立つ。

「ありがと。それじゃ上から見て指示を出すから、追跡お願いね」

「……わかった。けど私の足じゃ、絶対に追いつけないよ?」

「大丈夫。たぶんそう遠くには――あ、意外と近くに仲間がいるね。まずは合流するだろうから……アマリリスさま、とりあえず私がいいっていうまで7時の方向へゴー。およそ75メートルね」


 そうしてノエミの指示通りの方向へ走る、夜の森マラソンが始まった。

 かろうじて通れそうな獣道をサンダル履きで走るおれ。

 いやなんでだよ。

 ただでさえくっそ遅いのに、どうしてさらなるハンデ背負ってんだよアホじゃねーの? もうすでに足が痛いんだけど。


「……えーと、その感じなら、もういっそ一定のペースで歩いた方が早く着くかも」


 あ、ノエミこいつ、おれの走りに見切りをつけやがった。

 ナイス判断。そういう合理性は大好き。


「さっきの斥候、追っ手がいる前提で撒く動きをちょいちょい混ぜてるから……歩きでも最短距離を突っ切れば、少し遅れるくらいのタイミングで行けそうかな」


 大人しく歩きへとシフトしたおれは、息を整えつつノエミの指示通りに夜の森を進んだ。


「10メートル前方にいるよ。数は13……ううん、たぶん14。フルセット完全武装の大所帯だねこれ。絶対に素人じゃない。ちゃんと訓練を受けた集団だよ」

「なあハニー。俺の予感が最悪のケースを告げてるんだけど」

「……理由が、ありません。こんなところにわざわざエースを派遣する筈が」

「偉いおじさんやおばさんって、凄くしょうもない理由で大きなことするよ。おかげで現場はいつも大迷惑」

「え? なにノエミちゃん、そのすげえ説得力。びびるんだけど」


 などという会話を聞きながら、おれは慎重に歩を進める。

 草木を倒したり踏みしめる音は普通に聞こえるだろうから、最大限注意を払う。


 そうこうしている内におれの耳へと届いた、誰かの話し声。

「じゃアマリリス、聞いた内容をその都度言葉にして、こっちにも聞かせてくれ」

 ヨハンのリクエストにより、聞くと同時に声に出すという、謎の吹き替え作業が始まった。




「罪人どもを解き放つわけにはいかん。NO10からNO13は出口を見張れ。出ようとした者は全て始末しろ」

「あいさー」

「NO1からNO3は第一目標『間男』へ。残りは全て第二目標『殺し姫』へ」

「他の犯罪者にカチ合ったら?」

「反乱を起こした時点で殺処分だ。好きにしろ」


 ムダに増えていく、おれの演技のバリエーション。

 今のところ、偉そうなA、軽い感じのB、抜け目ないCと3人分の引き出しが開いた。

 しかしそろそろ限界だ。もうストックがない。

 次のDはたぶん色物になる。

 オネエか巨漢かひゃっはーなハイテンションか。

 頼む。

 これ以上、出てくるな。


「総員傾注。これより行動を開始する。我ら『黒蛇』はたとえゴミ掃除だろうと完璧にこなしてみせる。暗月の懐刀に不可能はない。最精鋭たる所以を各々が存分に示せ」


 了。と一斉に返事して、その集団は2つのグループに分かれた。

 人数の少ない4人組と、その他全員の大人数組だ。


 それを口頭で伝えたおれは、謎の達成感に包まれる。

 やった。やりきった。


「あ、そうだノエミ。これ、後とか追いかけた方がいい?」

「ううん、それは私がやるよ。待ち伏せ組は空から押さえとく。それよりアマリリスさまは一度戻って」


 おれの影分身子機は基本使い捨てで、一度戻ると消えてしまう。

 当然、それも共有済みなのだが。


「あれ? 不意打ちはいいの?」

「そこからまた歩いて戻るより早く、さっきの連中が踏み込んでくる。もう不意打ちがどうこうの話じゃなくなってる」


 それもそうか。

 両目を瞑る。

 おれはぱちんと意識を閉じ、目を開ける。

 見えるのは、石造りの微妙にくすんだ白い天井。

 第2特殊更生保養院の4階、ヨハンの部屋に戻ってきた。

 寝ていたベッドから身を起こす。


「おかえりーアマリリスさま。影分身向こうは、ふっ、て一瞬で消えちゃったよ。残留物とか一切なし。悪いことし放題だね、それ」

「ダメージフィードバック率が2割くらいなら、本当にそうなんだけどなあ」


 ベッドサイドにある椅子の上で体育座りをしているノエミと、ごく普通に会話をする。違和感や不自然な点は微塵もない。

 タッカー君による監視と最低限の操作。それらをこなしつつ行う『いつも通り』の振る舞いは、知っていても気づけないレベルで自然そのもの。


「2つを同時に見て考えて、混乱しないの?」

「慣れてるからねー」


 うん、ノエミのクオリティが極まってる。

 あらゆる動作と並行可能なリアルタイム偵察。

 操縦しているのがわからないドローン操者。

 どんな状況でも大活躍間違いなしのスーパーエース。


 よし、ノエミとはズッ友でいよう。

 そう心に決めつつも、取り急ぎ必要な確認を行う。


「えーと、第一目標の『間男』さん」

「はい」

 ヨハンが手を上げる。

 まあ、お前のことだよな。


「じゃあ、第二目標の『殺し姫』さん」

「……はい」

 ハニーが手を上げる。

 やっぱ君なのね。



 いやいやお前ら、なんでピンポイントで狙われてんの?

 おれとノエミ以外全員、君ら2人を殺そうとしてない?

 絶対に今夜ここで死ななきゃいけない約束でもあるの?



 などと2人にいっても、単なる八つ当たりでしかない。

 だからなるべく建設的な発言を。


「黒蛇とか暗月の懐刀とかいう言葉に、心当たりは?」

「……文字通り暗月卿子飼いの殺し屋集団だよ。あと『殺し姫』ってのはハニーの蔑称だから気をつけてくれ」

「わかった。2度といわない」


 暗月卿。

 たしかハニーが返り討ちにしたのが、そいつの次男坊だったか。

 なるほど、復讐とか面子めんつとかその辺か。

 ……んん?


「なんで『間男』まで殺害対象に? とくに関係ないよな? しかもなんか『間男』の方が優先順位高かったよ?」

「逆恨みってやつはまじでどうしようもねえ。手前の魅力のなさを悔いるより先に『自分より良い男なお前がいるせいだ』になっちまうんだからな。そのクソまみれな精神の放つ腐臭が彼女を遠ざけるという事実を、あの暗月卿アホだけがいつまで経っても気づけねぇ」


 暗月卿、浮気相手の旦那かよ。

 めっちゃ根に持たれて殺し屋まで送り込まれるとかお前さあ。

 などとヨハンを詰めても、とくに事態は良くならない。

 だからなるべく建設的な発言を。


「その殺し屋、黒蛇だっけ? 具体的にはどんな集団なの?」

「最新の『強化措置』を限界ギリギリまで施した超人が隊伍を組む『不可避の死』だそうだ。……なんかモテなさそうだよな」

 たしかに。

「なんでそんなすっごい『黒蛇』さんがこのタイミングでくるかなー?」

「たぶん、俺と同じなんじゃねーかな。なにか『騒ぎが起きた』から、そのどさくさに紛れて俺たちをまとめてやっちまおうとした」

「……どゆこと?」

「なんか知んねーけど、昨日の夜くらいからずっと上の方がゴタゴタしてるみたいでさ、明らかに看守どもが浮き足立ってたんよ」


 ……んん? 昨日?


「んで今日の朝イチには、緊急時以外、第2特殊更生保養院ここに常駐義務がある筈の副院長が慌てて出て行ってさ、側近やら護衛やらで看守側向こうの人数が1割ほど減ったんだよな。だからやるならここしかねえって、俺は腹キメて今夜計画を決行したんだ」


 昨夜から始まった緊急事態。

 たとえばどこかの叔母上のラストボムが、アルネリアの偉いお友達にもばっちり仕込まれていたとか。

 ……んなモンが一斉に弾け飛んだなら、そりゃ大混乱だよな。


 ――と、そこで思い出す。


 この状況を打破できるかもしれない『それ』の存在を。

 おれは静かに、空いている手を動かし始める。


「黒蛇の連中からすれば、反乱やら脱走が起きてたのは想定外だったんじゃねーかな」

「さくっと皆殺し路線に変更して、あっさり立て直したみたいだけどねー」

「そこはほらアレだ、第一の門番、クレメンテ&ブルーノに期待しよう。きっとあいつらならやってくれる」

「クレメンテもブルーノも肩に大怪我して、煽られた手下同士は殺り合ってるけどねー」

「誰がそんなヒドいことを? 信じらんねえ!?」

「まったくだ。許せないよね」


 などとしょうもない寸劇をしている内に。


「お、速い速い。このペースならあと300秒で1階正門まで来る。アマリリスさま、なにかするなら急いだ方がいいよ」


 ノエミの声に動かす手は止めずに、


「正直、はめちゃくちゃ危険だし上手く行くかも怪しい。だからまずは、ヨハンの案を聞きたい」


 ぶっつけ本番なんて、心底やりたくない。

 だからもしヨハンに冴えたやり方があるならそっちを採用したい。


「……つってもなあ。ベティと教授をまとめて黒蛇にぶつけてその隙に外へダッシュ、くらいしかないよなもう」

「たぶん教授は、下から上がってきた黒蛇たちとは戦わないと思います」

「だからベティを放り込んで、イヤでも殺し合いに巻き込む」

「ベティは、その、一度夢中になるとこちらの言い分など」

「だからなハニー、トビアの首なし死体を抱えながらベティと追っかけっこだ。アマリリスが黒杭で牽制して、俺とノエミちゃんで運ぶ」

「え? やだ。あんなの触りたくない」

「大丈夫。下の方は俺が持つから」

「なにその譲歩。お得な感じ出してもムリだよ?」


 うん、このプランはなしだな。

 上手く行くかも微妙だし、たとえ上手く行ったところで、教授とベティごとまとめて殺される予感がする。


「ヨハン。これを」


 そこでようやく完成した、幾重にも切り貼りを繰り返すことで高密度に闇を圧縮した、それなりに頑丈な布っぽいなにかを渡す。


「それでハニーを包んで、露出する部分がないようにするんだ。たぶんハニーは耐えられない」

「……なにをするつもりだ?」

「空間を越える『窓』を開く。中は超高密度の身体に悪いもので満ちてる」

「……は? できんの? そんなの?」

「やったことはないけど、間近で見たことはある。たぶん、できる」


 ヒルデガルド姉さまはいった。闇を無制限で使用できるのは、もはやおまえと私くらいだと。

 つまり、姉さまにできることはおれにもできる。

 ただ。


「ゴールの入り江がある方向、どっち?」

 こっち、とヨハンが右方向を指す。

「ええと、そのまま進んで空中に出たら落下死するから……ここから地面まで、わたしの足なら何歩くらいかな?」

「いやいや、そんなアバウトな原理なん? 正確に歩く距離分だけ進むの? 高さの概念もあんの? なんか不安しかねーんだけど」

「いったろ、めちゃくちゃ危険だし上手く行くかも怪しいって。だからちゃんと考えてみて。首なしおじさん抱えてベティと鬼ごっこするのと、どっちが生き残る可能性が高そう?」


 できることは間違いないだろうが、望む結果になるかは自信がない。

 だから『中を通る』のはごく短距離だけ。

 第2特殊更生保養院ここを越えて、落下死しない程度の高さに出られれば上出来。

 それくらいの目標の低さでいく。


「考えるまでもねえ。本当にできるってんなら、間違いなく『窓』だ」

 あ、即答なのね。

「……たしかにそうですね。正直、満足に走れるか自信がありません」

「いざとなれば俺が運ぶ。心配すんなハニー」

「本当に危なくなったら、置いていってくださいね」

「断る。お前はずっと俺と一緒にいるんだ」

「は、はい」


 往年のハリウッドなら濃厚なキスシーンからのムーディーなBGMが入るところだったが、しゅばっとノエミがインターセプトに成功する。


「来たよ! 正門に突入班10名……あ、やばっ、3名、直に壁を登ってる! まっすぐよっはんの部屋――ここに向かって来てる! カサカサってすっごい速さできもっ!」

「あん? アホなのか黒蛇? 外壁が破れるならとっくに皆やってるっつーの」

「……ですがヨハン、から攻撃を加えて破ろうとした者は、まだいません」

「内側からの強度に全振りで他はザルだってか? いやいやそんなまさか」

「迷うことなくヨハンの部屋ここへ直行できるということは、見取り図や設計図を把握している筈です。その上での行動なら」


 向こうは可能だと判断している。

 もしくはその準備を整えている。


 なんだかやばそうな感じに一刻の猶予もないと見たおれは、姉さまのやっていた手順をそのままに――観音開きの『窓』を切開した。

 が、開く前にじゅるりと塞がってしまう。

 慌てるな。思い出せ。もっと細部まで。


「到着しちゃった。この壁の向こうに今、3人へばりついてる」


 ……そうだ、あれは窓を開くというより、べろりと切開した傷跡に闇を塗り固めて『治りを遅らせている』という感じだった。思いのほか生物的な生々しさがあった。


 もう一度同じ手順で枠を切り取り、端から順にもみ込むようにして鮮度抜群の闇を塗り固めていく。よし、今度は塞がらない。


「なんか3人であれこれ作業してるみたいなんだけど……これ、黒杭、ぶち込んじゃう?」

「あ、そういや正門出た時にまた貰ってたっけ」

「……やらない理由、あります?」


 あ、これ、結構手間がかかる作業だわ。

 ちみちみと枠取りしていって、成人男性であるヨハンでも通れるサイズまで広げていって。


「よーし、じゃあアマリリスさま、微調整はこっちでやるから、さん、に、いち、で発射してね!」

「ん? ああ、発射ね、わかった」


 ちみちみちみちみ。

 こういった地道な作業はついつい夢中になってやってしまう。

 規則正しく綺麗に仕上がっていく様は、謎の魅力に満ち溢れている。


「さん! に! いち! どーん!」

 はいどーん。


 と発射してから気がついた。


 最初に見たオリジナル、姉さまの黒杭は5本がぶつかり合うことで、広大な地下空間の6割を吹き飛ばす威力があった。

 今回は小サイズが2本だけとはいえ、アルネリアここの闇の密度は最高峰。

 ならば当然、それから生み出される黒杭のグレードもまた最高級。


 Q:それらがぶつかることで起きるであろう爆発の規模は?

 A:たぶんすごくすごい。


 少なくとも、壁越しとはいえ自分たちに向けて撃つもんじゃない。



「――全員ふせて! 下に!」



 叫ぶと同時にベッドの下へと潜り込む。

 ほぼ同じタイミングでしゅばっとノエミがやって来たあたりで、閃光。


 眩しくはない。

 黒い光が波のように走り抜け、一息置いてから、轟音。

 なのに鼓膜は痛くない。

 すでにこれは、おれが知る物理法則とは全く別のなにか。

 ただ闇に類する事柄ではある為、大まかな概要だけはほんのりと理解できた。


 爆発しつつも即座に収縮。

 望むところを望むだけ破壊する、優しく冷たい合理性。

 基本全部死んでいいという本音に混ぜられた、ほんの一滴の人間味。

 たったひとつの結果に向かい集束する、思想と人生の表象。

 垣間見える製作者の内面が、おっかなすぎる。

 うん、わかっちゃいたけどウチの姉さま、ガン決まりだわこれ。


 いつの間にやら止めていた呼吸を、再開する。

 おそるおそるベッドの下から這い出る途中で聞こえた笑い声。


「……ははっ、まじかよ。いいね。悪くない景色だ。見ろよハニー。これまでの苦労がウソみたいだ」


 もぞもぞと這い出たおれを迎えたのは、真っ暗な夜空。

 ベッドの高さより上にあったものが全て、消えていた。


 壁も家具も部屋の垣根もなにもかも、4階フロア全体が、ベッドの高さまでしか残っていなかった。当然、屋根などは影もかたちもない。

 吹き飛んだ全ては収縮に巻き込まれるかたちで消滅。残されたのは、床から50センチほどで唐突に途切れている、かつて外壁や内壁だった物の残骸のみ。


 なので立ち上がるだけで、高所から見下ろす外の風景が、4階フロアの全景が、全ての部屋の様子が一望できた。


「……ベティとあの3人も、難を逃れたようですね」


 3つ左の部屋で、いいガタイをした全裸ポニーテールのおっさん――ベティがたち上がる。……なんでお前まだばっきばきなんだよ。オートで下ネタダブルミーニングとかさせんなよ。


「んん? あの3人って?」

「正面です。目は見ないで」

 ふと思い出すヨハンの言葉。

 ――夜は寝るってルーティンを絶対に崩さない狂人が3名ほどいる。たとえド派手な脱獄が起きようともおかまいなしの真性だ。


 正面の部屋で、上下共に灰色の病衣っぽいものをきっちりと着込んだ神経質そうな男が、ゆっくりとその身を起こした。

 1人、2人、3人、横並びで。


 え? その感じ、3人で一緒に寝てたの? おかしくない?

 え? なんか、3人とも同じ顔してない? おかしいだろ?

 え? なにこれよくわかんないけど怖い。 よしスルーだ。


 一目でやばいとわかる、のっぺりとした顔の色白兄さん(同じ顔×3)から眼を逸らす。


 つーかお前ら、なんでいきなり音速で飛んで来た即死の一撃を普通に回避してるの?

 しかも3人は寝てて1人はで、俗にいう生物が最も無防備な瞬間だった筈なのに、なにしれっと生き残ってんだよお前ら本気で引くんだけど。



「――ヨハン。これは貴様の仕業か?」



 のっぺり色白兄さんの1人がじっとヨハンを睨みながら問い詰める。


「違う。今ここに、黒蛇っつー殺し屋どもが来てやがる」


 嘘はない。これはノエミとおれの合体技の結果だし、実際に黒蛇は来てる。

 つまりは、ありふれた詐欺師の手口だ。


「黒蛇の連中は、この箱の中にいる全員を皆殺しにするつもりだ。理由は本人たちに聞いてくれ。すぐにその階段から上がって来る」


 あっという間に対黒蛇捨て駒兵の誕生だ。嘘は一切ない。少し省いた部分があるだけで。

 ……うん、ヨハンこいつ皆に命狙われるのもしゃーないわ。


「ね、アマリリスさま。あの『窓』って、もう完成してるの?」

 ノエミに手を引かれて、上ばかり見ていた視線を少し下げると……まるで当然のように無傷の『窓』があった。

「いやあと少し。枠取りは済んだから、最後の仕上げにべりっとめくるだけ」

「けどなんかあれ、少しずつこう、押し出される感じで開いていってない?」


 いわれてみればたしかに、なんかこう徐々にこんもりと、まるで『向こう側』から大質量のなにかに押されているかのように見えなくも……。


 ――んん?


 押し寄せる、大質量のなにか。

 今も向こう側にある、なにか。

 命からがら逃げ落ちた、というかキャッツがいなければ絶対に死んでいたアレ。

 叔母上渾身のラストボムと同時リリースの超問題作。

 触ると絶対に死ぬくそやべえ泥の濁流。


 え? 嘘? まだあれ『向こう』でじゃぶじゃぶしてるの?

 いやだって、ピラミッドさんにここへ連れて来られた時に落下した闇トンネルにはそんなのどこにも、


 そこで訪れる、気付き。


 ピラミッドさんは落下する縦穴式。姉さまは歩いて進む横穴式。


 流派、違うじゃん。

 結果は同じでも、過程の時点で明確に違う。

 使いまわしではない。

 それぞれ別個の、独自のルート。


 で、今おれがつくったこの『窓』は完全に姉さまの模倣なので、当然繋がる先もまた同じ。

 1日経過したくらいじゃちっともおさまらない、叔母上の熱きファイナルパトスが荒れ狂う地獄暗黒トンネル。

 出口を求めて渦巻き飽和していたそれが、ようやく見つけた小さな穴へと殺到する。

 決壊まであと――。



「見! サン、ニイ、ニイ、ゴー!」

「ろ、了」

「は、了」



 一瞬で階段から雪崩れ込んで来た黒ずくめの集団が、異常極まる4階の様子に微塵も怯むことなく突入を開始した。


 やっべ。

 もう来ちゃったよ黒蛇。

 いや、ポジティブに考えろ。

 ちょうどいい時に来てくれたと。


「皆、これから溢れる泥には、絶対に触れないで。死んじゃうから」

 こそっと3人にだけ聞こえる小声で囁く――と同時に限界を迎えた。


 ぶしゅどごぼっ、と窓の扉部分がひっくり返り、破裂した水道管――いや、決壊したダムのような勢いと物量が一瞬で溢れ出し空間全てを埋め尽くそうと押し寄せた。


「いやごめんこの量は予想外だわ!」


 あ、ダメだこれ死んだわ。逃げ場どころか4階全部が泥に埋まるまで一瞬な勢いだわこれ!


「ハニー! やるぞ!」

「はい!」

「私は大丈夫だから、アマリリスさまをお願い!」


 なぜか一番うろたえているおれをハニーが抱えてダッシュ。

 階段に向かって――ではなく壁の方へ。正確には『元』外壁があった方へ。

 つまり。

 今やベッドの高さより上の物は全て消えたので、ただそのまま外へと落ちる断崖と化したその先へ。

 ハニーは飛び下りた。

 おれを抱えたままで。


 え?

 いやこれ、死ぬよね? 

 この高さ、落下死するよね?


 建築法とか日本的なセオリーとか微塵もないこの建物。

 4階といってもおれのイメージする10メートル前後とは違い、どう頑張っても即死すると確信できる高度がある。


 視線の先では、タッカー君の背中に足を乗せたノエミが、普通に空中を走って来た黒蛇さんの顔面をグーで殴って泥の中へと叩き落していた。


 あ、なるほど。そりゃ成人女性を持ち上げるパワーがあるなら、ノエミが背に立つこともできるよなタッカー君。


 そこで視界が切れる。

 落下により、石造りの微妙にくすんだ白が下からせり上がり、目の前を埋め尽くす。

 この建物、外壁も同じ色かよ。手抜きしすぎじゃね? いや牢獄ってそんなもんか?


 落下死までの数秒間、こんなしょうもないことを考えて過ごすのもあれだったので、これもなにかの縁だと、せめてハニーだけでもと『黒い手』をこねこねし始めたところで、


「大丈夫です。動かないで」


 一瞬の躊躇いもなく飛んだハニー。

 なんだかんだいっても生きることを諦めなかった彼女。

 もしかすると、なにか着地の目処があるのか?


 そこで不意に訪れる柔らかさ。

 想像し得る最高の感触を2つほど飛び超えた、理屈抜きのパラダイムシフトがおれの背中に巻き起こる。


 なんだ、これは。

 なにが起きている?

 わからない。わからないが……。


 最高に、心地いい。

 目蓋が落ちる。眠りに落ちる。

 確信する。

 ここで得られる眠りは、おれ史上最高のそれになるだろうと。

 不安になる。

 これを知ってしまったらもうおれは、これ以外では満足に眠れなくなってしまうのではと。


「――ス!」


 離れられない。


「――リス!」


 離れたくない。


「――アマリリス! 起きろ! 今ここで寝たらまじで死ぬぞ!!」


 いやそりゃダメだろ!


 がばっと飛び起きる。


 そうして自分が『なに』の上で寝転がっていたのか、ようやく理解する。


 一言でいうのなら、積み重ね。

 刻まれた年輪の厚さは、おれの両手程度じゃ抱えきれない。

 10や20ではない。100すら軽く超えて、1000をも超過して、それだけの年月を飽きることなく積み重ねてきた、決して特別ではない、ありふれた優しい想い。



 いつもつらいことばかりのあなたが。

 どうか夢のなかでだけも。

 安らかに在れますように。



 そうして編まれた奇跡の結実。

 美しき無力が寄り合わさった、おびただしいまでの数による、質量すら伴う慈愛に似たなにか。

 たかが落下死する程度の運動エネルギーなど、ものの数ではない。

 強く叩くだけで打ち破れるほど、この願いの総量は軽くない。


 一言でいうのなら、積み重ね。

 一代独力では絶対に到達不可能な、気の遠くなるような足し算の果てにある、そうあれかし。


 数え切れないほどの優しさが、おぞましい。

 善悪ではなく、その総量が、恐ろしい。


 ナメていた。

 想像よりもずっと強力かつエグ味があった。

 これが先祖返り。

 遥か祖先より受け継ぐ、埒外の贈り物劇物



「どうよ? 凄ぇだろこれ。まじで奇跡だろ?」

「うん。……いやなんでヨハンが得意気なの?」

 限界突破したドヤ顔が、イラっときた。

 おかげで全ての余韻が一瞬で吹き飛んだ。


 おれは転がるようにして『ベッド』から降り立つ。

 瞬間、なにも整備されていない土の地面にぽつんと置かれていた、これといった特徴のない白いシーツの敷かれたベッドは……さらさらと崩れて消えた。


 膝をつき、荒い呼吸を繰り返しているハニーに目線を合わせ、


「ありがとう。ここまで見た中で、一番美しいものだった」

 同じくらい恐ろしくもあったが。

「そういってくれたのは、あなたで2人目です」

「へいへいハニー、さっさと1人目の背中に負ぶさりな。飛ばすぜ」

 そうして、バテて動けないハニーをおんぶしたヨハンを先頭に走り出す。

 森の中ではなく、申し訳程度に整備された道もどきを進む。

 サンダルを脱いでポケットに突っ込んだおれの走りは、ほんのちょっとだけマシになっていた。ハニーを背負ったヨハンにギリで負けるレベルだが、劇的な進歩ではある。


「なあアマリリス。待っててもしょうがないし、さくっと出発しちゃったけど……ノエミちゃん、やっぱ死んじゃったんかな?」


 いわれて初めて気がついた。

 おれはノエミの心配をちっともしていない。

 どうでもいいとか、薄情とか、そういった話ではない。


「いや、それはない。あれじゃ相手にならない」


 落下の寸前に、ノエミと黒蛇の1人が並んでいるのを見た。

 率直にいって、比べものにならなかった。

 なにをどうしくじっても、ノエミがあれに遅れを取ることはない。


 最新の『強化措置』を限界ギリギリまで施した超人とやらが霞むレベルの超高密度を誇るノエミ。

 思い当たるフシがあるとすれば、おれが『足した』影響だが……なんだろうこの違和感は? なにかを見落としているような……。


 思い悩むおれの後方でばっさばっさと響く羽撃はばたき。

 振り返ると予想通り、黒い鷹が飛んでいた。

 ぐぐっと高度を下げたタッカー君が減速し、その足に掴まっていたノエミがずざざーと着地を決めると同時に自分の足で走り始める。

 なにその空挺ファルコンアクション。くっそ格好いい。

 そうしておれの真横に並ぶと、


「待ち伏せ組の4人が来てる! アマリリスさま、あの黒杭2本ちょうだい!」


 おっけー、リロードね。

 ノエミの頭上を飛んでいるタッカー君の足先にちゅるんと黒杭を削り出す。がしがしっとキャッチ。

「なんでこっちに来やがる!? お仲間が『泥』で大変だってのに!」

「もうあの建物全部が『泥』に呑まれたの。突入班が全滅したから、撤退に入ったんだと思う」

 叔母上の悪あがき、ぱねえな。

「しかもまだ溢れ続けてる。勢いも3倍くらいになって手がつけられない」

 ……いやもうこれ、ガチで天災レベルなんじゃ?

「だったらさっさと自分たちの船に――ああそうか! 連中もあのしょぼい入り江から上陸しやがったのか!」


 つまりは、目指すところは同じで、しかも向こうの方が足は速い。


「アマリリスさま。私の姿が消えて200秒が経ったら2本同時に発射して。ちょうどそれくらいだと思うから」

 あ、そうか。ノエミには杭が操作できないから、おれが発射するしかないのか。

「全部はカバーしきれないだろうから、取りこぼしはそっちでなんとかしてね!」


 ノエミは左手の森の中へ、タッカー君(殺意の黒杭Ver)は空高くへと消える。

 ……え? ハニーは怪我と衰弱で動けないし、それを背負ってるヨハンも同じ。

 ということは今の「なんとかしてね!」はおれにいってたの? まじで?


 今おれたちが走っている、申し訳程度に整備された道もどきの両側は森の木々で覆われている。いかにも森の中を頑張って切り拓きました、といわんばかりの道であり、率直にいってめちゃくちゃ目立つ。こっそり隠密行動とか絶対ムリ。

 そんなレッドカーペットの上を、動けない1人を背負って走るヨハンとそれにギリ負ける速度が限界のおれ。


 鴨じゃねーか。

 狙い目すぎるだろ。

 かといって森の中に入ってしまえば秒でバテる。おれはもちろんヨハンも、あの悪路を1人背負った状態で踏破するとか絶対に不可能だ。


 ……あれ? もしかして、今ここが今夜一番の死地なのでは?


「アマリリス、今170だ。カウントのズレは?」


 やっべ忘れてた!


「大丈夫」


 お前のをそのまま流用するから!


 そしてキメ顔のままカウントゼロと同時に発射。

 視界の端をよぎる黒い光の波。一息置いてから響く轟音。爆破地点は左手およそ50メートル先。少なくともノエミは、2本をぶつけることには成功した。上手くいったよな? いってろ。いってなきゃ困る。

 なんとはなしにそっちを見たおれの顔の前に、すっとハニーの手が伸ばされる。

 ヨハンにおんぶされている体勢で片手を離し、おれの鼻先をすいっとすくうハニーの手。

 え、なに? 虫?

「ちょっ、ハニー、急に動くと落ちるって!」

 危うく落っこちかけたのを、慌ててヨハンが抱え直す。


「来ました」


 淡々と吐き出すハニー。

 その手に握られた、真っ黒に塗装された短い矢。

 おれの顔面に直撃する寸前に、ハニーが掴んでくれた矢。



 ――あ、今おれ、死にかけたんだ。


 

 られたことにすら気づけなかった。

 ひゅっと息が詰まる。

 どっと汗が噴き出し、どこを見ていいのかわからなくなった視線を――強引に閉じた。


 息を吸って、吐く。

 怯える前に、とにかく動け。

 確信がある。

 きっとここで1度でもそれをして怯えてしまえば、あとはもうそれしかできなくなる。

 ちゃんと理解している。

 おれはそんなに、勇敢なやつじゃない。

 だからなんでもいいすくむ前に動いて考えて喋れ! 虚勢でもなんでもいいから張り上げろ! やってくれたな手前この野郎あやうく死ぬところだったぞおい!


「――ヨハン! わたしの重さがプラスされても、走れるよな!?」

「はあっ!? なんで!?」


 まともにやったら、絶対に勝てない。

 そもそも向こうは勝負の土俵に立ってくれない。立つ必要がない。

 向こうは音もなく、姿を見せることもなく、正確におれを射殺せる。


「すぐにわたしも動けなくなる。だからハニー、ちょっとごめんね」


 いってヨハンにおんぶされているハニーを引っ張るようにして減速させ、一息にその背中に飛びつく。両腕をハニーの首もとに回してから足で胴をロック。さらにおれの背中ごしに『黒い手』でがっちり固定。

 するとほら! くっそ迷惑な3段おんぶの完成である!


「きっつ! いくら小柄だっつっても、それでも1人分プラスとかきっつ!!」

「やらなきゃ皆殺しにされる。踏ん張れ」


 減速こそしたものの停止はしないヨハンの肉体ポテンシャルには光るものがある。

 いけると踏んだおれは、ハニーの耳元でこそっと囁く。襲撃者には聞かせたくない。逃げられたら困る。


「どこに居るかな? 大まかな位置でいいから教えて。そこいら一帯に、ありったけの杭をぶち込む。多少の誤差はどうでもいいくらい、爆発させる」

「……あの規模が連続すると、こちらも巻き込まれませんか?」

「なるべく努力はする。けど失敗しても、なにもしなくても、結果は同じだ。ならこっちを殺そうとするやつには確実に死んでもらおうよ。その方が、お得だ」


 沈黙。


 うふ。

 とハニーが笑った。


「……いいですね、アマリリス。あなたのことが、好きになりました」

 気持ちヨハンが縮み上がったが、誤差みたいなもんなのでスルー。

「狙うなら2時の方向ですね。一定速度でこちらと併走しています。多少のズレがあっても1時から3時の間かと」


 さっき矢が飛んで来た方向とは逆だったが……射られたことにすら気づけないおれの感覚など、なんの役にも立たないだろう。

 ヨハン曰く暴力の天才だというハニーの言葉を信じた。


「わかった。3カウントでやる。撃ち終わったら最悪わたしは気絶しちゃうから、落とさないでね」

「ええ。しっかりと捕まえておきますね。3!」

 え? お前がカウントするの?

「心配ねえ! 今夜の俺はツイてる! 2!」

 あ、その感じでいくのね。

 ええといっておくべきことは、

「とにかく足は止めずに走り続けてね! 1!」


 最後のゼロは声に出さずに。


 2時の方向、つまりは右手前方に広がる夜空に、等間隔で黒杭を削り出しセットする。

 各々が微妙に角度をつけて落下するよう固定し、地表近くでぶつかり炸裂するよう調整。こちら側に破壊が及ばないよう、向こうへ向こうへ、外へ外へを常に意識し続ける。

 うん、やっぱりここに満ちる闇はねっとり濃密で質がいい。際限なくいけそうな抜群の手応えがある。

 よし、ならとことんいこう。

 後のことは考えなくていい。

 たとえ気絶してもハニーが運んでくれる。

 だから絶対に逃がすな。

 これを空振りすると、もう後がない。

 だから絶対に、絶対に逃がすな。

 範囲は広く均一に致死量を。防御は無意味で回避は不可能に。敷いて敷いて敷いて、詰めろ。


 ……気の遠くなるような一瞬のあと、限界まで引き絞った全てを、叩きつける。

 全杭一斉に。


 おちろ。

 おちた。

 全てが同時にぶつかり、一斉に破砕。

 加算ではなく乗算で膨れ上がるそれ。

 黒い波が幾重にも重なり視界を覆う。

 音は聞こえない。耳鳴りだけが寄せては返す。


 そこで、回る。

 

 尋常じゃない目眩と脱力感に襲われ意識が飛びそうになる。

 さすがに頑張り過ぎたらしく、吐き気を伴う悪寒が全身を駆け巡り、しばし呼吸もままならない状況が続くなか……不意にそれはあらわれた。


 徐々に晴れる黒い霧。


 いつの間にか水平線の向こうから顔を覗かせていた朝日。

 薄れゆく黒の下から浮かび上がる白い飛沫。

 波打つ青。


 思いのほかタフだったヨハンは今も走り続けている。

 おれの鼻先で揺れるハニーの髪が、遮るものがなくなった潮風にあおられ、ばしばしとおれの顔を叩いた。


 申し訳程度に整備された道もどきの左側は森の木々で覆われている。

 右手側には、海がある。

 一切の遮蔽物がないので視界は良好、島の果てから続く海が一望できた。


 望むところを望むだけ破壊する、製作者が意図したその特性が遺憾なく発揮された結果――右手側の森だけが綺麗さっぱりと消滅していた。


 破壊ではなく消滅。

 だから地面はほぼ無傷。地表から3センチの切り株や草の根が連続する、でこぼことしたなだらかな下り坂。地盤損壊からの島沈没なんておれは望んでいなかったので、望む理想の破壊が成し遂げられた証ともいえる。



「……んー、100の5で……500メートル四方ってところかなハニー?」

「……え、ええ、はい。消失の範囲でいえばそんなものだと、思います」


 ヨハンとハニーの会話をぼんやりと聞く。

 凄いな君ら、目算でそんなのわかるんだ。


「……ははっ、すげえ。こりゃもうどうしようもねえだろ。――生き残れるモンなら生き残ってみろやくそったれが! あっはっはァ!」


 最後の障害が消え、勝利を確信したヨハンのテンションが爆発する。

 飛び上がったヨハンの反動でそのままずり落ちそうになったおれを、がしっとハニーが逆手で支える。


「アマリリス、大丈夫ですか?」

「……気持ち悪い。吐きそう」

 すっからかんになったところに朝日を浴びたおれは虫の息だった。

 なんというかこう、チャージが全然進まないというか、空っぽのまま放置されているというか。

 死にはしないが、シンプルにしんどい。

 最悪、次の夜まで続くぞこれ。


「すげーじゃんアマリリス! これがあればまじで無敵じゃね!? 防御とか回避とか意味ねーし!」

 ヨハンのはしゃぎ様に反比例して、おれの頭は冷えた。

「……アルネリアここの闇の濃さありきの例外だよ。他じゃこうはいかない」


 そもそも、勘違いしてはいけない。

 超高性能な謎弾を発射できる大砲を持った貧弱な子供。

 そんなの、1、2発ぶっ放した後、あっさりと位置を特定されて殺られる。物影から飛んで来た石や矢でもさくっと死ぬ。弾が切れたところを狙われても死ぬ。そもそも寝てるところを襲われたら秒で死ぬ。……どこが無敵だ。アホ抜かせ。

 本当にちゃんと真面目に考えたなら。

 きっと『これ』には、いうほど大した価値はない。


「じゃラッキーだったな! やっぱ今夜の俺はツイてるなあ!」

「ヨハン、揺らさないで。アマリリスは疲弊し切っています」

「あ、わり」


 本当に注目すべきなのは。

 おれにとって必須なのは。

 動けなくなったおれがずり落ちないように支え続けてくれるハニーだ。

 なんだかんだいいつつも足を止めずに走り続けてくれているヨハンだ。

 そうやって不備を補ってくれる、自分以外の味方だ。


 それを、勘違いしてはいけない。


 ぎぎぎと、おれがそう確信するに至った記憶の扉が開きそうになったが慌てて閉じる。

 どこかの誰かが勘違いしてイキり散らかす精神的スナッフムービーとか、この疲れ切った身体にはキツい。たぶん羞恥で死ぬ。


「おーし、到着だ」


 ヨハンの声に、ハニーの背中に貼り付けていた額を剥がす。

 いつの間にやら景色は変わっており、目の前には左右を木々に囲まれた細く曲がりくねった海があった。

 陸地に入り込んだ海――入り江というやつだろう。足下に生える草の背が徐々に低くなり、やがて石混じりの土となって、削り取られたような剥き出しの断面をさらしたまま緩やかに水中へと続いている。

 その途中に船があった。

 いつかどこかで見た漁船くらいの大きさで、甲板があって船室があるその構造もなんだかとても漁船っぽい。真面目に船をデザインすれば、やはりこういう感じに行き着くのだろうか?

 ただし配色は黒一色。闇夜に紛れてやましいことをしますといわんばかりの隠密仕様だった。


「……どう見ても連中黒蛇の船だな。ちょうどいいし、かっぱらっちまうか」

 おれとハニーを下ろしたヨハンが、伸びをしながらいう。

「先ほど合図を送った爺やさんが来るのでは?」

「2人背負った徒歩かちの俺より遅い時点で、どう考えても無事じゃない。……たぶん、この黒蛇カスどもに見つかっちまったんだろうな」

 ヨハンが足下の石を拾い黒い船へと投げる。かん、と乾いた音だけが響いた。

「接触系の罠はなし、と」

「ですがキーもありませんよ」

「この手の特殊仕様なやつは、大抵緊急用の手動操作があるもんだ」

 なんだかさっきから2人の会話を聞いていると。

「この船、どうやって動くの?」

「ん? そりゃ魔導具だろ」

 あ、やっぱそういうのがあるのね。モーターとかエンジンじゃないのね。

「ヨハン、運転できるの?」

「船の運転なんてモテ技能、俺がスルーかますワケねえだろ?」

 なんてムカつく説得力だ。

「まあ見てろ。ノエミちゃんが来るまでには、いつでも出発できるように――」

 そういいながら甲板へと乗り込み、船室のドアへと向かおうとしたヨハンの視線の先で、


 がちゃりと。



 から、船室のドアが開いた。



 誰もが安心していた。

 気を抜いてしまっていた。油断していた。

 もう『勝った』と。


 さらにいうなら。


 誰もが疲弊していた。

 全てを出し尽くしたおれはもちろん、ムリを重ねた怪我人のハニー。2人を背負ってここまで走り切ったヨハン。

 口に出してもしょうがないので誰もそうだとはいわなかったが、3人共に限界だといっても過言ではなかった。


 だから、誰も考えなかった。

 帰りの足であり退路でもある船を、はたして連中がフリーにするだろうかと。

 普段ならすぐさま思い当たるその疑問に、誰一人として辿り着けなかった。

 そんな安心と疲弊と油断の合わせ技が、最悪のタイミングで実を結ぶ。


 船の見張りに、1人残っていた。


 言葉にすれば、ただそれだけ。

 しかしあまりにも致命的な見落としであり、どうしようもない油断。



 ただ唯一の救いは、だったことか。



 船室のドアを開けふらりと出て来た黒ずくめの夜戦服を着た男は、驚愕で固まるヨハンの顔を見て、


「……は? ヨハン・ウィンチェスター? ……えっ?」


 心底から驚いていた。


 きっと見張りの頭には欠片もなかった。


 ただ狩られるだけの獲物にすぎないヨハンが、最精鋭たる黒蛇の総員を突破し、あまつさえ最後の砦ともいえるこの船にまで乗り込んで来るだなんて……欠片も予想していなかったに違いない。


「――シッ!」


 しかし流石の最精鋭。一瞬で忘我を抜け、吐く息と同時に抜いたナイフでヨハンを刺そうと一歩踏み込む。


 きっと見張りの頭には微塵もなかった。


 ただ狩られるだけの獲物にすぎないヨハンが、ほんの一瞬の猶予を得ることでの存在を思い出し、ありったけの全てを振り絞り即死の一撃を放ってくる可能性など……きっと微塵も考えていなかったに違いない。


 見張りの頭を、突き抜ける。


 おれが約束の手形として渡した黒杭が、一息にぶち抜く。


 なるほど、道理ではある。

 ヨハンはおれのセットする黒杭をくいくいと引けた。

 引けるのなら押せる。押せるのなら押し出せる。


 つまり端的にいうと。

 まだ朝日が昇り切っていない今なら、きっとこうなる。



 今夜のヨハンはツイてた。





「あー死ぬかと思ったー」

 入り江を抜け海に出たところで、ヨハンが甲板に寝転がった。

「ふふ。死んでませんよ。生きてますよ」

 するりとハニーがヨハンを膝枕する。

 いやドライバーちゃんと運転しろよと一瞬だけ思ったが……もうぶつかる物なんてどこにもないので、余計なことはいわないでおいた。

 船はざぶざぶ海水を掻き分け、順調に大海原を進んでいる。


 結果としては最上だった。

 静かになった見張りのポケットからこの船のキーが出てきて、問題なく動くことを確認したところにノエミが合流。おれたちは島を脱出することに成功していた。


 ただ。


「わー、すっごいねあれ。まだじゃぶじゃぶ出てるよ。……というかもう、第2特殊更生保養院のあった高台以外、泥に沈んじゃったよ、あの島」


 叔母上の熱きファイナルパトスが止まらない。

 その溢れ出る様はまさに無限大。

 ……いやまじでなんなのあの叔母上。世界滅ぼす系のモンスターだったの?


「俺たちとしちゃ、悪くはねーけどな。ヨハンとハニーはあの島ごと死にました、ってなるのが一番都合がいい」

「大騒ぎになっちゃうと、バレない?」

「元々地図に載ってるかもあやしい非合法な場所だ。表沙汰になることも、書類上に残ることもねえだろうさ」


 だとしても、さすがにそろそろまずい気がする。


「ね、アマリリスさま。あれ、もう閉じた方がよくない?」

「やっぱノエミもそう思う?」

「うん」

 ありのままを告げる、勇気。

「実は、わからないんだ、閉じ方」

「ええー。……あの泥って、後どのくらい出てくるの?」


 以前どこかで似たような話を聞いた気がする。

 ええと、どこだったか……。

 そうだ。たしかマナナがいうには。


「……最強の呪詛で、100年は残り続けるとか」

「それホントにダメなやつじゃん」

「いや事実かは不明だよ? マナナがそういってただけで。ほらマリアンジェラと言い合いしてた時、ノエミも聞いてたよね?」

「うーん? いってたような、いってなかったような。……けど、マナナの勘って馬鹿にできないよ。直感タイプじゃなくて、経験から弾き出される予測タイプだから」


 仮にあの泥が100年溢れ続けるとしたら……あ、ダメだ、ガチで全世界が腐るわ。


 思ってた100倍まずい事態だと理解したおれは、内心めちゃくちゃ焦りながら、とにかくできることを全部やってみようと足掻き始めた。


「べつにそう気張らなくてもいいぞーアマリリス。俺としちゃあ、アルネリアは半壊くらいしてくれた方が好都合だし」

「言葉が過ぎますよ、ヨハン。消えるのは上の3割だけで十分です」


 2匹の悪魔のさえずりは無視する。


 もうほとんど日も昇りきってしまい、ほぼ朝みたいなものだが……それでもまだかすかな薄闇はある。闇の濃いアルネリアここでなら、きっといける筈だ。いけろ。いけたらいいな。いけてくれ。


 おれがつくったものに、おれが干渉する。

 できて当然。できないわけがない。できなきゃおかしい。


 観音開きの窓をこうがしがしっと掴む感じでキープし、ぐいいいっと押して押して押して――どん!


「あ、止まった」


 そのノエミの声と同時に。


 かぱっと、足下が開いた。


 両開きの落とし穴のように、かぱっと開いたその中へ、おれは落ちた。


 船の甲板の下には海水がある筈だが、沈む先は見通せぬ闇。


 これはあれだ、ピラミッドさんの。


 どぷん、と。


 沈んだ。









※※※









「アマリリス様」


 それまで聞き役に徹していたターナさんが、丁度いい頃合を見計らったように、

「ひとつお願いがあるのですが、よろしいでしょうか?」

「わかった。その通りにするよ」

 ターナさんの問い掛けに、ノータイムで答える。

 ちょっと過剰演出な気もするが、おれの尻拭いで1度仮死状態までいってるターナさんの提案を断るのは困難だ。それにきっとこの人は、おれに対して論外な提案などしないだろう。

 なら最初から前のめりでいった方が皆いい気分になれる。

 決して擦り寄ってポイントを稼ごうとしているわけではない。


 そこでがしっと。


 グリゼルダがおれの肩を支えた。


「ん? どうした?」

「え? 今アマリリスさま、転びそうになりましたよね?」


 そうなの? 全然気づかなかったけど、グリゼルダがいうならそうかも?


「――ノ、ノエミッ!」

 耳を貫くマナナの悲鳴。

 見ると、ぐにゃりと脱力したノエミがマナナに向かって倒れ込んでいた。

 すぐさまヨランダが駆け寄り、脈を測ったりおれにはよくわからないあれやこれやを行う。


 結果。


「どこにも異常はなし。ただ単純に、体力か気力、あるいはその両方の限界が来たってところだな。ノエミこいつ、ここしばらくはまともに寝てなかったんじゃないか?」

「……ノエミの性格上、たぶんそうだと思う」

「じゃあゆっくり寝かせて、起きたら美味いもん腹いっぱい食わせてやれ。それでよくなる。もし泊まる場所がないなら娼館うちに来いよ。部屋ならいくつか空いてる」


 ヨランダのイケメン発言に、しかしマナナは軽く首を振った。


「ありがとう。けどこっちも、いろいろやらなきゃいけないことがあって。本館はダメだけど別館はそのままだから、一度そっちに戻るよ。また何かあったら、その時はお願いね」

 マナナがちらりとミゲルを見る。

「じゃあ俺たちは行くよ再従弟妹はとこ殿。また落ち着いたら一度顔を見せるよ。今度は客として」

「ミゲルさま、そういうクソみたいなこと真顔でいえるのって、強みっすよね」

「気づいてないのか? マナナだって同類だぜ? あと自分トコのボスへの態度が悪すぎね?」

「親しみっすよ、親しみ」


 そうしてノエミを抱えたマナナとミゲルのA&J組は去って行った。

 協調路線の別組織としては、まあ妥当な距離感か。


 そうして残ったおれとグリゼルダ、ヨランダとターナさんの4人で娼館への帰路につく。


「あのアマリリス様、流れでこっち来ちゃってますけど、いいんですか?」

「いいんだよ。ターナさんとの話もついたし」


 ノエミが倒れてぐちゃっとなったが、ターナさんの『お願い』をおれは受け入れた。

 ……まあ普通に考えると、今このタイミングでターナさんがおれに望む内容は。


「アマリリス様。私のことは『ターナ』と。馬鹿が勘違いしては困りますし、ここいら一帯は馬鹿の巣窟ゆえ」


 ……だな。

 厄除けの御神体が下手したてに出ちゃうと、なんか意味が変わっちゃうもんな。


「確認だけど、わたしはしばらくターナの所で世話になる、ということでいいんだよな?」

「……格別のご配慮、痛み入ります」

「お互い様だよ。おかげでわたしも、姉さまの政治劇にかかわらなくて済む」

「おいお婆。そんなこと勝手に決めて、ヒルデ様怒らない?」

「当主殿からは『本人が望むなら』とのお言葉を頂戴してるよ」


 やっぱ経営者だなターナさん。

 最低限の根回しと、最大限の利益を確保する努力を怠ってない。


 おかげであの娼館にはおれという御神体(下請け)が供えられ、物理的にも精神的にもアンタッチャブルになる。

 ターナさんは娼館の安全を確保できてにっこにこ。おれも泥沼政治劇から遠ざかれてにっこにこ。皆笑顔の冴えたやり方。素晴らしい。


 ……ただちょっと冷静に考えると、くそやべえ毒針で自殺するのが経営者の努力の範疇だとか、ちょっとこの世界イカれすぎじゃない? もしかしてターナさんだけ? 大丈夫? まさかおれ、一番やべえ所に行っちゃったとかないよね?


「……あの、本当にボ」

「行こう、グリゼルダ」

 そんな不安に対する切り札が、なんかネガティブなことをいいそうだったので封殺しつつ、おれたちは娼館へと帰った。


 店のお姉さんたちから口々に「おかえりー」といわれちょっと嬉しくなり、なんでも『偶然空いた』らしい最上階の部屋――最初に目覚めたあの高級ホテルのような部屋だ――を使わせてもらうことになった。

 元々の主が用心深い性質だったらしく、すぐ隣には室内ドアで繋がっている護衛用の部屋があり、そこがグリゼルダの部屋になった。ちらりと様子を見たところ、ベッドでぼいんぼいんしてるグリゼルダがいたので、仲良くなる儀式だと思い、一緒にぼいんぼいんしておいた。


 そうして、さすがにもう眠いから寝ようとなり、グリゼルダに「おやすみ」を告げてベッドに入り目を閉じて、あっという間に熟睡。


 しばらくは静かな時が流れ、東の空から日が昇り朝が来ようかというその時。




 どすん、と。

 おれは帰ってきた。




 反射的にがばっと起き上がる。


 自分が今どこにいるか、はっきりとわかる。

 なぜここで寝ているのかも、ちゃんとわかる。

 ターナさんのところで世話になると決まったのも把握している。

 この寝巻きとナイトキャップのセットを断り切れなかったのも覚えている。

 室内のドアで繋がった隣の部屋にはグリゼルダが寝ていることも知っている。


 と、同時に。


 ヨハンとハニーのことも知っている。

 最初は殺されそうになったのも覚えている。

 第2特殊更生保養院の微妙にくすんだ白い壁は、まだ目に焼きついている。

 ベティは――べつに覚えてなくていいや。

 教授も――べつにいいか。

 とにかく全て鮮明にはっきりと覚えているし、ついさっきまでおれは間違いなくあの島にいた。

 そして最後、黒蛇から奪った船で洋上へと逃れ、叔母上の熱きファイナルパトスに蓋をしたところで甲板に開いた謎穴にすぽっとハマり――このベッドに墜落した。


 やっべ意味がわかんねえ。


 眠気は一瞬で吹き飛んだ。

 とてもじっとしてはいられず、ベッドから降りる。

 もう朝日が昇っているので猫はいない。だから猫踏んじゃったの心配もなく無意味に部屋中をうろうろと歩き回りながら……考える。


 おれの身に起きたことを。

 おれは――いやおれとノエミは、一体あのピラミッドになにをされたのか。

 おれが帰ってきたということは、ノエミも帰ってきているのだろう。なぜか確信がある。会いに行ってみるか? いやそもそも意味がわからないのになにを、



「あ、あの、どうかしましたか?」



 隣室の護衛部屋へと続く室内ドアから、グリゼルダが顔を覗かせていた。


「ごめん、起こしちゃったか」

「い、いえその、ただ、どすんって、結構大きな音がしたので」


 なるほど。部屋の役割上、こっちの物音は聞こえやすい構造になっているのか。

 ――んん? どすん?


「グリゼルダ! 聞こえたの!?」

「え、ええはい。けど、誰だってベッドから落ちることくらいは」


 そうじゃない。

 グリゼルダが聞いたのは、黒蛇船の甲板から『おれ』が落ちてきた音だ。

 こっちのおれに『向こうにいたおれ』が落ちてきた音。

 そんなものが聞こえるということは。


「なあグリゼルダ。ちょっとわたし1人じゃ処理しきれない厄介事があってさ。よかったらグリゼルダの意見も聞かせてくれない?」

「ボクでお役にたてるなら」


 思えばグリゼルダは、影分身子機の扱いに関してはおれの数段上を行く大先輩だ。

 そんな大先輩の耳に入った『向こうのおれ』の落下音。

 ならあれは影分身子機だったのか? あるいはその亜種?

 そういえばグリゼルダだけが、おれがピラミッドホールにすぽっと落ちた瞬間に反応していたような気もする。


 なんらかの糸口が見つかることを期待して、おれはグリゼルダに全てを語って聞かせた。

 すでにこいつとおれは運命共同体なので、進んで不利になるような情報をバラまいたりはしないだろうという、いささかねちゃっとした信頼があった。


 いや実は帰り道で落ちて向こうへ送られて、そうしてあれこれやで帰ってきて。


「信じられないような話だけど、嘘は一切ない。全部わたしが実際に体験したことだよ」

「わかりました。信じます」

 一番のネックだと考えていた難所を、さらっとグリゼルダは受け入れてくれた。

 ……なんだよお前、そんな返しされたら好きになっちゃうじゃないか。

「い、いえその、ボク相手にそんな嘘ついても、しょうがないかなって」

 なんだよお前急に照れるなよ、こっちまでヘンな感じになっちゃうだろ。


「あの、ちゃんと整理すれば、ものごとはわかりやすくなるって、いつか誰かに教わって」

 至極まっとうなアドバイスに従い、一連の意味不明な出来事を並べてみようと、



 ――そこで不意に開く記憶の扉。新入社員研修でやった大喜利おおぎりじみたあれ。まじめにやると、実はめっちゃ有効なあれ。



 ちょうどベッドサイドにあったザラ紙の束とペンを使い、要素ごとに文字として書き出しちぎっては並べる。なるべく主観は排除し、客観的な事実がベースとなるように。

「わ、アマリリスさま、字、汚っ」

 しまった、という風にグリゼルダが口を噤む。

 いや、まずいと思うならなんでいった? 


 ピラミッドさんお手製の脳カスタム自動翻訳により、おれは『この世界』の文字をオートで書けている。……これ以上を望むのは贅沢がすぎるだろう。


 おれの強権により書記に任命されたグリゼルダが全てを書き終わる頃には、ベッドの上はほぼ紙切れで埋まっていた。

 それらをあれこれとこねくり回し、ベッドの上でかるた大会を2回くらい開催して、ようやくそれらしいかたちになった。



 一連の出来事を最初から並べると、こうなる。



 まずは客観的な事実として。

 ピラミッドさんによって向こうへと『送られた』後も、おれとノエミはネグロニアにいた。

 ノエミは意識を失い、おれは変わらずそのままだったという違いはあれど、皆が見ている前で謎の穴にすぽっと落ちて忽然とその姿を消した――というわけではなかった。


「ここでグリゼルダに聞きたいんだけどさ、わたしだけが『そのまま』だった原因は、やっぱり影分身子機関係かな?」

 ベッドの上から『アマリリス、分裂?』と書かれた紙を摘む。


「た、たぶん無関係ではないと思います。研究所にいた頃、ボクとノエミは同じセクターだったんです。ノエミの鷹もボクたちも、根っこは同じというか」

「うん。それはわかる」

 どちらも影分身子機の亜種や発展型だもんな。

「けど結局は2人とも失敗作だったみたいで。ボクの方が高かったらしいけど、それでも基準値には到達しなかったって」

「……わたしは、その基準値に達している? だからノエミとは違ったかたちになった?」

「す、すみません、そこまでは。けど、いっておいた方がいいかなって」

「うんその通り。そういう発言はじゃんじゃんして。基本これは数撃ちゃ当たる方式だから」


 気を取り直して本筋へと戻る。

 おれもノエミも、変わらずネグロニアの旧市街にいた。

 しかしおれとノエミは実際に、アルネリアにある第2特殊更生保養院へと行っている。

 この矛盾を埋める言葉が書かれた紙切れを組み合わせると……こうなる。


 アマリリス、ノエミ、アルネリアにある第2特殊更生保養院へと行った――『中身』だけが。


「こっちの常識や技術や魔法で考えて、これってあり?」

「……少なくともボクは、聞いたことがないです。けどアマリリスさまの証言がホントだとするなら、これしかないかなって」


 たしかに。

 だがそうなると、新たな疑問が生まれる。

 向こうでおれは、現地人であるハニーと普通に接触することができたし、くっそ迷惑な3段おんぶを強行した際には、ちゃんとヨハンはプラスされたおれ分の重量に苦しんでた。

 つまり、第2特殊更生保養院4階のヨハンの部屋で目覚めたおれとノエミには、ちゃんと物理的な肉体があった。


「それって、さっき『どすん』って落ちてきたやつですよね? ボクが感知できるならそれはたぶん、アマリリスさまのいう影分身子機なんだと、思います」

「本人がそうだと自覚できないレベルの超クオリティで、なおかつ本体と全く同じことができる影分身子機? それってもう影分身子機というより、完全な同一存在をもうひとつ創造してるって次元の――」



 ――『どうか』『我が愛を』『救い給え』『温かい泥』『御達者で』



 それを賄うに値する、尋常ではない熱量の源泉に思い至ったおれの語尾は小さく窄んだ。


 ピラミッドさんという超存在プラス、特大の外付けアタッチメント。あるいは協力者。

 そうか。

 おれと一緒で、べつに向こうも単独でやらなきゃいけない理由なんてないのか。


「……うん、たぶんできたんだろうな。ピラミッドさんとヨハンのばあちゃんと、あともしかしたらハニーの祖先劇物あたりもか?」


 そうして用意されたであろう『現地活動用ボディ』を与えられたおれとノエミは『ヨハンを助けろ』というピラミッドさんのオーダーを達成することで、どうにか戻ってくることができた。


 まとめると、大体こんな感じか。


 こうして改めて確認すると、気が重くなる。



「そ、それでアマリリスさま。その姿のない主犯、ええと、ピラミッドさんでしたか。それは――敵、なんですか?」



 今回おれは、少なくとも3回は死にかけた。

 ピラミッドさんにどんな目的があるのかは知らないが、おれの命を勝手に『使う』やつとは絶対に仲良くはできない。

 どんなに綺麗な屁理屈を並べられても、絶対にここだけは誤魔化せない。


 ミゲル風にいうなら――もしかしたら友達ダチになれるんじゃないかって、心のどっかで、ほんのちょびっとだけ思ってた。


 けど、そうはならなかった。

 こうして改めて確認すると、気が重くなる。

 おれは。



 こんなことをやってのける超存在を、しなきゃいけないのか。



「ああ、そうだ」


 静かに、決意を込めて、いう。


「たぶんこれで最後じゃない。きっと第2回や第3回がある」



 ――あなたが助けたいと思う、誰にも手を差し伸べられない彼や彼女に、

 ――せめてあなただけは、寄り添ってあげてください。



 あの口振りからして、とても一度きりとは思えない。


「こんな命がけを何回もやらされて、いつか本当にわたしが死んでしまう前に、どうにかする必要がある」


 グリゼルダが、なにかを迷うように視線を彷徨わせる。

 おれは構わずに続ける。


「向こうがわたしの命を『消耗品』として使い潰そうというのなら――やるしかない」

 ここに『猫』がいなくてよかったと思う。

 猫たちキャッツに悪意はないだろうが、あれはたぶんピラミッドさんと繋がってる。

 そう考えると、向こうに察知されずに動けるのは日中だけになるのか。

 いやそれめっちゃきつ、


「――あ、あの!」

 グリゼルダにしては珍しい大声に、視線が引きつけられる。

「もし向こうで死んじゃったとしても、アマリリスさまは大丈夫なんじゃ」

「え?」

「で、ですから、その、消耗品とか、使い潰すとかには、ならないんじゃ」


 おれの決意が即キャンセルされてびびる。


「その、もし今回、向こうのアマリリスさまが死んじゃってても、なんていいますか、ヨハンさんやハニーさんの記憶? が引き継げないだけで、そのまま普通に続いていたんじゃないかなって」


 ……たしかに。

 あのまま普通に昼過ぎくらいまで寝て、何事もなく次の日に突入してたと思う。

 ……え? つまり命に別状はなし?


「あ、ノエミは死んじゃうとそのまま帰ってこれなかったかもなので、そこはちゃんと怒っていいと思います」


 いや、ノエミはおれが急に無理をいって連れてきてもらった感じだった。

 そこでキレるのはなんか違う気がする。


 ……あれ?

 たしかに強制労働はイラっとするけど、べつに絶対にぶっ殺さなきゃいけないレベルの『敵』ってわけでも……ないのか?


 そもそも、おれとノエミが行かなきゃ、ヨハンとハニーは100%死んでたよな?

 あの2人が外道どもに嬲り殺しにされるとか、普通に嫌すぎるだろそんなの。

 あれ? むしろ行ってよかったんじゃね?


「いやいや待て待て。まだわたしが死なないと決まったわけじゃないし」

「ま、まあその通りです。なので、もし次があったら、ボクを連れて行ってください」

「いやダメだ。グリゼルダはわたしの生命線だ。万が一にも失うわけにはいかない。最悪の場合でも、お前さえいればどうとでもなる。グリゼルダ、お前はもっと自分の価値を理解しなきゃダメだ」 

「え、ええと、その、……ありがとう、ございます」

 なんだよお前急に照れるなよ、こっちまでヘンな感じになっちゃうだろ。

「じゃあ、もしボクの目の前で急にアマリリスさまがすぽって落ちても、なにもせずにそのままお見送りしますね」

 お、おう。

 みたいな空気になって、その場はお開きになった。





 そうしてたっぷりと寝て起きた、その日の夕方。

 とりあえずノエミの話も聞いてみようとなり訪れたエルダ商会別館。

 なあにそんなに私のことが心配だったのぉー?

 などというあれな感じのくそウザムーブと共に現れたノエミは。


 昨夜のことは、なにひとつ、覚えていなかった。



 あと、島ひとつ泥で沈めたのは普通に無期懲役レベルの重罪らしいので、この件は誰にも口外しないことに決定した。









※※※









「あ、止まった」

 ノエミの声に、彼は船室で見つけた望遠鏡を覗き込む。

「あ、ホントに止まってやがる。ちょっとまってアマリリス、もうちょいだけこう緩める感じでじわじわと――」


 望遠鏡から目を離し、せめて島だけでも完全に沈めるよう注文をつけようとするが、


 そこにはもう、誰もいなかった。


 アマリリスもノエミも、まるで最初から『そんなもの』はどこにも存在しなかったかのように、ただ潮風のよぎる甲板がだけがあった。


「……ハニー、見たか?」

「いえ。気がつくと既に、消えていました」


 それでも一応、さして広くもない船内をくまなく探してみるが……やはり、もうどこにもいなかった。


「なんか随分あっさりだったな。もっとこう最後には地の底からお迎えがっ、みたいなのがあるかと思ってたんだが」

「……ねえ、ヨハン。結局あの2人は、なんだったのですか?」


 仮説はある。

 だが所詮、仮説は仮説でしかないので、そう易々と口にするわけにはいかない。


「ばあちゃんからの最後の贈り物ギフト、くらいでいいんじゃねーかな。実際すげー助かったしさ。それにほら、こんなお土産までくれた」


 いって懐から黒い杭を取り出す。

 貸しの手形として預かった、専門外の彼ですら最精鋭を一撃で殺せる超兵器だ。


「それは残るのですね」

「あと船室にはこんなのもあった」


 どちゃりと重い音を響かせる皮袋。

 中には、1年は遊んで暮らせる金額が。


「黒蛇って儲かるんかな? ま、迷惑料としてもらっとこう」

「その手の悪銭は、身につきませんよ」

「もちろん、自前のアテもある。例えば、主任の部屋で見つけた報告書の内容とか」

「逃げる際に書類は全て焼失しましたよね?」

「アホのエルモのせいでな。けどなハニー、俺は1度見たら忘れない。だからばっちり頭に入ってる。きっとこれからの俺たちにとって、最強の武器になる」


 それは記号と数字の羅列。

 第2特殊更生保養院あそこで散々行われた、やべえ実験の成果物。

 あまりにもやば過ぎて、上へと報告するタイミングを窺っている内にこんなことになってしまった、もう彼の頭の中にしか存在しない新技術。


「具体的には、どのようなものが?」

 最初からハニーに隠し事などするつもりがない彼は、すらすらと答える。

「新機軸の強化措置。頭打ちになった限界を、別ベクトルの力を足すことにより引き上げる、次のステージへの片道切符」

「ヨハン。研究の話をする時のあなたはいつもダメです。とにかく、わかり難い」


 手厳しい指摘を受けた彼は、詩的な要素を省き端的に答える。


「従来の強化に、さらに先祖帰りの要素を抽出しプラスした新技術。その基になるタネのつくり方。これのいいところは、最も用意するのが困難な素材が、最初から手の内にある点だ」

「……あっ、わかりましたヨハン、それは」

 おいしいところをいわれて堪るかと、彼は先回りする。

「王の血統の血。つまり俺が生きてる限り、一番コストのかかるトコが無料で使い放題ってワケなんよ。だからそれをこねこねして、くっそ強ェ兵隊をじゃんじゃんつくって、質と量のダブルパンチであの暗月卿アホをぶっ殺す。それが俺たちの当面の目標だ」


 彼とハニーの死体を確認するまで、あの暗月卿小心者は決して手を緩めないだろう。


「……そう都合よく、いきますか?」

「いかせる。俺たちが生きてるのは、いつか絶対バレる。そうなった時に勝てる戦力がなけりゃ、今度こそ殺られる。なんだかんだいってもあの暗月卿アホはアルネリア最強の大貴族だ。真っ当なやり方じゃどうにもならねえ。だから真っ当じゃないやり方で、やる」


 うふ。

 とハニーが笑った。

 相変わらず背筋が寒くなるような、目が離せなくなる笑顔だった。


「ああ、やはりヨハンは、素敵ですね」







※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※







TIPS:古代遺物ロストロギア だるまさんがころんだ


センサー範囲内で動くものに対し、闇を加工した極細の針を射出して無力化する古代の拠点防衛兵器。

闇の密度が特濃なアルネリア領内、かつ特定の地域にのみ滞留する『まろみのある闇』を循環させることでしか稼動しない欠陥品。ただし、1度動き出せば手がつけられない強力無比な半永久機関でもある。


本機が稼動する場所に第2特殊更生保養院は建てられた。

最も困難だと予想された『先祖返り』の軟禁方法を最初に提示することで、認可のハードルはぐっと下げられた。


どんな怪物であろうと突破できなかった古代兵器は、これといった力を持たない青年のコミュ力によって単なる石コロとなった。




TIPS:クレメンテとブルーノ


実は同じ地域出身の2人。

少年時代の確執により不倶戴天の敵となっていたが、ヨハンというそびえ立つクソをぶち殺す為、最後の一度だと互いに言い聞かせつつ手を組んだ。

第2特殊更生保養院においてハニーの暴力は、ベティと同格に位置付けられている。


ローカルなハンドシェイクの意味は『これが終わるまで俺たちは兄弟』という、地域のおじさんたちがワリカンで1人の高級娼婦を買う時の鉄板ギャグが捻じ曲がって若者たちに伝わったもの。




TIPS:黒蛇NO11オリンド


物静かな仕事人。脈々と続く殺しを生業とする一族の末席。

一切の音を立てずに移動する特殊な技術と、自身が射出した矢を『全く別の地点から』飛ばすという血統魔法を駆使する実力者。


彼が夜の森で敗北する可能性はゼロだった。

しかし森は消え失せた。




TIPS:ヨハン・ウィンチェスター


かつての名門、ウィンチェスター家最後の1人。

彼が物心ついた頃には既に生家は没落していた。

だから彼は自分の力だけで食っていけるようにと、最も得意だった学問で身を立てることを決意。

そうしてアルネリア最高学府を次席で卒業するに至った後、エリートである研究員としての道を進み始める。……が、彼を知る誰もが予想していた通りに、女関係で破滅した。


第2特殊更生保養院では主任研究員の助手のようなポジションにつくことに成功。

主任のことは本気で尊敬していたが、それはそれとしてさくっと計画は実行した。

主任の発想には心底嫌悪を抱いたが、それはそれとしてきちんと成果物は頂いた。


アルネリア貴族界の重鎮たる暗月卿が、物笑いの種にされるを承知の上でなお、この夜この場で確実に殺しておくべきだと判断した危険因子。



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