第7話 故に貴方はこう呼ばれる



 どうしよう、と困った時にはまずどうするべきか。

 どこかの偉い誰かがいってた。ひとまず周りを見渡してみろと。


 もしかしたら助けてくれる誰かが居るかもしれないし、なにか使える物があるかもしれない。


 なので視線を巡らせる。


 相変わらず、あちこち風化してずたぼろなあばら家。

 民家にしては広すぎる気もするが、内装やインテリアの類は軒並み朽ち果てているので、もはやその在りし日の姿を想像するのは難しい。

 ただよく見るとひとつだけ、かろうじて原形を留めている『それ』が最奥の上方――全てを見下ろす高みに、ででんと掲げれらていた。

 どこかで見たことのある、なんだか宗教色が強そうなシンボルだ。


 なるほど、無駄に広く高い天井に、このいかにもなシンボル。もしかしたらこの建物は、かつては何らかの宗教施設だったのかもしれない。

 今はごみやガラクタや肉々しいなにかが散乱しているが、実はそれなりの人数を収容できそうなゆったりスペースは集会場も兼ねていた頃の名残か。一段上がった最奥には演説台などが置かれていても不思議ではない。


 そう考えると、そこかしこにある穴や隙間から差し込む朝日が幾重にも交わるこの光景も、どこか神聖な雰囲気を醸し――はちょっとムリがあるか。やっぱボロボロの掘っ立て小屋って印象しかないわ。つうか床に『元』マリアンジェラが散らばってる時点で神聖とかいう単語は息をしてない。ただただ血生臭い。


 そんな殺伐とした空間に相応しい、今にも殺し合いを始めそうなガチ切れ勢が、す、と身体の向きを変えた。

 敵に対し頑丈な肩を向けつつ『当たる面積』を減らし、なおかつ急所を隠す半身の姿勢。

 うん、殺る気満々って感じ。


 新たに現れた4人目に対し、もう言葉を発するつもりのない即殺ガチ切れ勢――マナナだ。

 

 その隣に居るノエミは無表情。一目で怒っているのがわかるマナナとは違い、何の感情も浮かべてはいない。


 そしておれのすぐ隣に腰掛けている、くすんだ金髪のくせっ毛ショートヘアが素敵な彼女がグリゼルダ。

 マナナとノエミの仲間を殺害したらしい危険人物。


 そんなクソやべえ彼女は、ついさっき突然、なにもない場所にぽんと現れたように見えたが……実はさっきのあれ、おれには見覚えがあった。

 いや、見覚えというか手触りというか空気感というかにおいというか、そんな曖昧な感覚としかいいようがないのだが、こうも間近でやられると嫌でもわかった。


 念の為もう1度、まじまじと『これ』を確認する。


 この独特のすかすか感。


 うん、間違いない。やっぱ今おれの隣にいるこれ、影分身子機だわ。

 おれが(夜限定で)使える魔法っぽいあれと、たぶん同じやつ。

 さっきまでステルス状態だったそれが急に解除されて露見しちゃった、というのが現状だと思う。


 これってワリとメジャーな技術なの? なんで急にステルスがオフになったの? とか色々と疑問はあるが今問題なのは……見えない複数攻撃ステルス影分身を駆使できる相手に、手負いの2人じゃ勝ち目なんてないよなあという現実だ。当然おれは戦力外な。


 そもそもこの影分身、ワリとはちゃめちゃな性能だったりする。

 おれが把握しているだけでも、本人と五感共有な同スペックの子機を出せて、しかも出した子機は完全ステルスな上に消音性もばっちり。ちゃんと相手にも触れるから攻撃も可。おれの場合は製本魔法(物理)もいけた。さらに任意のタイミングで消せて、出し入れにデメリットはなし。ガチな戦闘員が使えば本体と同時攻撃とか自傷覚悟の特攻戦法とかもできそうで、その可能性はまさに無限大。なんなら3、4と数を増やせるパターンすらあり得る。


 いやいや、元気一杯でそんなもんフル活用してくる相手に勝てるわけないだろ。

 こっちは激しい運動がムリな怪我人2人に、お荷物1個のおれというおまけハンデ付だぞ?


 どう考えても、やりあうわけにはいかない。やりあったら負けだ。


 幸いにも、芽はある。


 よし、ならまずは先手を打つ。

 なにかいう前に『とりあえずやっちまえ』をされると、そこで終わる。

 だからこれは必須。


 あの地下で、ヒルデガルドには影分身おれが見えてた。じゃあ同じく闇を十全に使えるらしいおれにもきっと見える筈。


 意識を凝らして眼を凝らして、すぐ隣にいるグリゼルダの影分身子機から流れを辿れば――ほらいたはいそこ!


 少し離れた場所にある廃材の小山。それを盾にするようにして、隙間からこちらを窺うグリゼルダ本人へ。


 ばっちり眼を合わせて、朗らかに声をかける。



「初めましてグリゼルダ。こっちの自己紹介は――まあ聞いてただろうから、必要ないよな」



 グリゼルダ本人がびくっと飛び上がると同時に、おれの隣にいた影分身子機が消えた。

 動揺すれば維持できなくなるのか、あるいは武器は収めたぞというアピールか。

 まあなんにせよ、 


「なにか話があるんだろ? 聞くよ」


 そう、グリゼルダには、こちらを殺す以外の目的がある筈だった。

 じゃなきゃ、さくっと不意打ちからの皆殺しでとっくに終わってる。

 誰も気づいてなかった。なんならマリアンジェラとドタバタしてる間なんか絶好の仕掛け時だった。

 けどそれをしなかった時点で、グリゼルダとは対話の余地がある。

 ……あったらいいな。

 ガチなサイコとかじゃなければいいな。


 皆の視線が集まるなか、グリゼルダが口を開く。



「あ、え、とその……マリアンジェラが死んだのなら、もう用事はない、です」



 あ、やべこれ。用があったのはマリアンジェラだったパターンだ。


「……ホントに?」

「は、はい。だから、このままみんながどこかに行くまで、じっとしていようと」


 あ、やべこれ。

 おれが変に発見しなきゃ、そのまま何事もなく行けてたパターンだ。

 ――押し通れ!


「そっか。じゃ、わたしたちは行くよ。邪魔して悪かったね」


 それだけいって、颯爽と去って行く。

 マナナとノエミに『行こう』とハンドサインを送る。

 伝われ、この思い。

 やりあったら負けな現状は、おれよりも2人の方がわかっている筈。

 だからきっと、このまますっと、



「グリゼルダ。どうして、バンビを殺した?」



 行けないかー!

 やっぱそうなるかー!


 マナナがグリゼルダを問い詰めていた。


「あ、謝らないよ。ボクには、ぜ絶対に、必要なことだった」

「はっきり言えよ。お前そんなボソボソ喋る奴じゃなかっただろうが」

「これが、そのままの、ボクだよ」

「……『ママ』が死んだから、もうテキトーでいいやってか?」

「ボクのママは魔女ローゼガルドさまじゃなくて、小太りでパンを焼くのが上手な、普通の、どこにでもいる、優しいひとだったんだよ」

「は? なにいってんのおまえ?」


 いやマナナさ、なんでそんな強気なんだよ。もしかして、影分身のやばさを知らないのか?


 そっとノエミを見る。

 グリゼルダが現れてからこっち、ずっと無表情だった彼女は……なんともいえない顔をしていた。

 こちらに気付いたノエミが、折れた肋骨を押さえて、そっと首を横に振る。


 ダメ。

 勝てない。

 殺し合いになったら、こっちが全滅する。


 やっぱりちゃんと理解している。

 同じ特別行動隊のメンバーである2人は、正しくグリゼルダのやばさを知っている。


 だったらたぶん今のマナナは……ただただ頭に血が上っているだけ。

 本当にそれだけで、他にはなにもないのだ。



「ワケわかんないこと言ってんなよ、ふざけてんのかおまえ」

「ふ、ふざけてなんかない! とっても、とっても大切なことだったんだ!」



 強い言葉でがしがし行くマナナ。徐々にヒートアップしていくグリゼルダ。

 まずい。この展開はまずい。

 慌てておれは口を挟む。


「落ち着いてマナナ。順番を間違っちゃダメだ」

「グリゼルダ。バンビは最後、どんな顔してた?」


 聞く耳持たず。無視。


 いやマナナお前、ダメだろ、それ。

 危険なヤツに後先考えずに突っ掛かって行くのはもちろんダメだが、それよりもっと引っかかるのは、


 なんつーか、勝手におれの命まで、賭け皿に載せるなよ。しかも負け確のやつに。


 向こうは行って良いといってる。

 罠はないだろう。

 今さらそんなことをする理由がない。ここまでに殺るタイミングはいくらでもあった。

 だからこれは、本当に言葉通りそのまま行けるやつだ。


 なのに、なんでそれを勝手に、お前の一存で、全滅ルートに舵切ってんだよ。


 正直、ちょっと頭にきた。


 未来の仕事仲間ではあるが、まだ私的な情はないのだ。

 それを『良し』とできるだけの関係値は、まだ皆無なのだ。



「なあグリゼルダ。バンビって娘は、君に何か酷い事でもしたのか?」



 だからこっちも、マナナに対する配慮は止めた。

 仲間を殺した相手だから譲ってやろうとか、1歩引いて任せてみようとか、そういった類の気遣い。

 それに自分の命を賭けてまで――いや、勝手に『使われる』のを許容してまで付き合ってやるつもりはない。


 舐めるな。

 おれの命は、おれのものだ。

 勝手に使われて、堪るかよ。


「……あ、えと、その。は、はい」

「慌てなくていい。どんな話でどんな内容でも、わたしはちゃんと聞くよ。決め付けたり最初から否定したりはしない。だからゆっくりと、うまくいえなくてもいいから、君の言葉で聞かせてくれ」

「アマリリスさま、なにいってんすか? こいつはバン」

「マナナ。君とは、A&Jとは上手くやっていきたいと思ってる。これは本心だ。けどなマナナ、わたしの命は、わたしのものだ。これを勝手に使おうとする者を、わたしは、決して、許さない。1人目は魔王ゲオルギウス。2人目は魔女ローゼガルド。マナナ、君は3人目ではないと、わたしは信じている」


 できるだけ強い言葉でこれ以上侮られないよう、かつこちらの意思を、怒りを不快感を過不足なく伝える。

 ここは外国――どころじゃない、ガチの別世界だ。

 抑えて溜め込んで、ちょっとすれば向こうも冷静になって、なんやかんやで上手いこといく古流日本式は単なる餌でしかないだろう。


 ちょっとだけ開いた記憶の扉の向こうでも、国外のやつに『簡単に言うこと聞くちょろい腰抜け』と侮られたリカバーに苦心していた誰かの思い出があった。


 ここまででわかった。

 闇精霊は人間とほぼ同じ。

 人間は最高に格好をつけた『動物』の一種。

 その事実を忘れてはいけない。


 なので、ここでマナナがぶち切れて、勢いのままおれをぶん殴る可能性も普通にある。そうなるとたぶん死ぬ。どう考えてもこの細い首は戦闘要員のガチな一撃には耐えられない。


 ちらりと、この場で唯一助けてくれそうなノエミの様子を窺うが……一目でわかるレベルで狼狽えていた。うん、期待はできない。


 できるだけゆっくりと呼吸をして、マナナの反応を待つ。


 無言。


 よし。

 反論や攻撃が来ない時点で、とりあえずは通った。


 なら押せ。

 目的地まで、押し通せ。


「グリゼルダ。君がバンビを殺した理由を教えてくれ。わたしはそれが、とても気になっているんだ」


 本音をいえば、どうでもいい。

 正直なところ、このままダッシュで外へ出てそのまま逃げたい。

 だがきっとおれひとりでは、そんなことをしても消極的な自殺にしかならない。いやなんだよ争奪戦て。


 つまり護衛が必須のおれは、誰かと一緒でなければここから出られないのだ。


「あ、うん。……じゃなくてはい。けどその、こんな話、しんじられないと」

「それはわたしが決めるよ。グリゼルダはただ、事実を正直に話してくれればそれでいい」

「は、はい。えっとバンビは、魔女ローゼガルドさまの実験に協力してて、されるのはボクで、もう何年も前から、ボクが隊に入るちょっと前からそれは続いてて」


 グリゼルダの語る言葉はたどたどしい。

 なので程々に合いの手を挟んでテンポアップ。


「それはどんな実験?」

「べつの自分をつくる実験、です。余計なことはいわなくて、なんでもいうこと聞く、そんなの、です」


 このやり取りの目的は2つ。

 マナナのクールダウンと、グリゼルダとの手打ち。


 勝算は十二分にある。


 絶対に勝てるマナナにケンカ腰で突っ掛かられても手を出さなかったグリゼルダ。

 きっと『ムカついたから殺しました』が、するりとこの場においてもそれをしなかったグリゼルダ。

 最初の言葉が「謝らないよ」だったグリゼルダ。



 いやこいつ、ちゃんと話せば、なんとかなるやつだろ。



「べつの自分か。具体的には、どんな?」

「えっと、いつも『処置』が済むと、頭がぼんやり温かくて陽気になって、ママがママじゃなくて魔女ローゼガルドさまになってて、気がついたら1ヶ月とか経ってて、けどよくわからない記憶みたいなのがあって」


 怖っ。

 それ、ブレインがウォッシュされてね?

 いや、ローゼガルド主導なら闇技術によるなんかやべえ操作か?


「それにバンビがどうかかわってた?」

「いつも『処置』をするのはマリアンジェラの研究室で、バンビも一緒で、現場での命令権をもってたのが、バンビとマリアンジェラ、です」


 あ、この流れからして、ことの発端って。


「もしかして、昨夜ローゼガルドが死んだのを境に、急に意識がはっきりしたとか?」

「は、はい。それで、逃げるなら今しかないって、けどバンビに『待て』っていわれたら、身体がちっとも動かなくなって、けど『殺すな』っていわれなかったから、がんばってやって」


 あ、そこはばっちり殺るのね。

 まあローゼガルド傘下の特別行動隊で今日までやって来たガチ勢だもんな。

 そりゃ、そうなるか。


「それで、命令権を持つもうひとり――マリアンジェラを殺して自由になる為に、ここへ来たと」

「そ、そそうです。えっと……こんな話、信じて、くれるんですか?」

「嘘なの?」

「本当です。う、嘘じゃないです」

「待てよグリゼルダ。そんな話、聞いたことない。あのバンビがそんなこと、するわけないだろ」

「ノエミは? さっきから黙ってるけど、どうした?」


 望むオチへと持っていく為、ノエミを引き込む。

 マナナを害したマリアンジェラには真っ先に突っ込んで行ったノエミが、この件では妙に大人しい。

 マナナとバンビには大きな差があるのか、あるいは足が動かない理由でもあるのか。


「……あのね、たぶん、グリゼルダのいってることは本当だと思う。夜の見張りで一緒になった時に何回か、今みたいにどもってぼそぼそ喋るグリゼルダを見たことがあるの。そりゃーいつもあんな舞台役者みたいなハイテンションじゃおかしいからローな時もあるよね、って流そうとしてたけど……うん、やっぱ変。だからたぶん、今のは本当」

「ノエミだって知ってるだろ、バンビはそんなことするやつじゃないって」

「副隊長の仕事だって魔女ローゼガルド様に言われたら、どうしようもないんじゃないかな」


 ……ん? 副隊長?


「バンビって2人より結構年上だったの?」


 年功序列にこだわるのはナンセンスだが、まとめる役職は年長者の方がスムーズに事が運ぶ場面が多い。

 マリアンジェラみたいなタイプのやつがいるチームでは特にそうだ。


「ん? バンビは私と同じ年だよ?」

「じゃあ何か、凄い特技があったとか?」

「あったよ。バンビはね、他人の記憶を消せたんだよ」


 真っ黒じゃねーか!

 そんな特技持ってるやつが1枚噛んでる実験とか、絶対人格消去されてるだろ!


「いやそれ、やってるだろ、どう考えても」

「やってるよねえ。どう考えても」


 内容と口調と表情から確信する。

 ノエミはおれの案に乗ってきた。

 感情より、生きる方を取った。


 色々と思うところはあるだろうに……譲歩してくれた。


「だからって、殺していいとはならないだろ!」

「わたしなら殺すよ。頭の中を塗り変えられるのは、もうそれ、殺されるのと同義だ。しかも命令権まで向こうにあって逆らえないんだろ? ならやるよ。できるなら、やるよ」


 ノエミにだけ譲歩させる――諦めさせるのは一方的すぎるので、こちらもひとつ諦めることにした。

 マナナに好かれるのを、諦めた。

 誰かに嫌われるのは心苦しいが、自分の命とは比べ物にならない。


「自分がやることをグリゼルダには『するな』とは、とてもじゃないが、いえないよ」


 当のグリゼルダは、困惑したように各々の顔を見回すだけでなにもいわない。


 たぶんこいつは、暴力が好きではない。

 絶対に勝てる状況で誰にも咎められないのに、それでも手を出さない理由なんてそれぐらいしか思いつかない。


「なあ、グリゼルダ」


 だからたぶん、行ける。

 マナナを押し留める『対価』もある。


「君の」


 ぎい、と。

 ドアが開いた。


 誰もが目の前の問題に集中していた。

 誰も入り口に注意なんて払ってなかった。


 だからドアが開き、そいつが2歩3歩と入ってくるまで反応できなかった。


 もし仮に勢い良く飛び込んで来たのなら、咄嗟に身体が動いただろう。

 素早く動くものには、つい本能的に反射が出てしまう。

 だからそいつがドアを開き、ゆっくりと急ぐでもなく、ただ無造作に歩いて入って来たのには……どうしてか奇妙な間が生まれた。


 初めて見る男だった。


 少し身を屈めるようにしてドアを潜る長身で、しかし痩せているワケでもない。肩幅が相応にあり、ジャケットから覗く首はがっしりとしている。一目でわかるタフガイだ。

 黒い長髪から覗く、男性ホルモンの蛇口がぶっ壊れているとしか思えない濃い顔は、好きな層からは超セクシーともてはやされること間違いなしのワールドワイド系な色男。


 もちろんおれは、こんなやつ知らない。

 だが、彼が誰なのかは一瞬でわかった。


 顔を知らないのであれば、判断材料となるのは後ひとつ。


 服だ。


 ヒルデガルドの親戚で、とあるヤクザ一家の直系か認められたごく一部の者だけしか着用を許されないという、ガラの悪い縞々の、今おれが着ているのとサイズ以外は全く同じやつ。


 それを着ている成人男性で、このタイミングで来る可能性があるのは。


 マナナが答えを叫ぶ。


「ミゲル様! そいつグリゼルダっ!」


 その男――ミゲルは無手だった。

 もしこれが武装でもしていたなら、反射的にグリゼルダは『敵』に対して攻撃を加えていたかもしれない。


 だが丸腰の『ただ怪しいだけの男』に対し、ほんの一瞬だけ挟まった空白にマナナの声が割り込んだ。


 それを聞いたミゲルは、場に居る一人ひとりの顔を順に確認し、最後にその視線をグリゼルダで止めてから、ゆっくりと後ろへ流すように自身の黒髪をかきあげた。


 そうしてうなじを通った手が肘を支点に半円を描きグリゼルダへと向けられるとそこには、ボルトがセットされたクロスボウが握られていた。



「会いたくなかったぜ、グリゼルダ。動くんじゃねえぞ」



 どんな手品かはわからない。

 だがそれでも、場は完全に制圧された。

 入り口方面――ミゲルの位置からは、廃材の小山に隠れるグリゼルダは丸見えだ。射線を遮る物は何もない。撃てば当たる。


 が、しかし。


 そこでグリゼルダは、廃材の小山を肘で小突いた。

 慌てて振り向いたから間違って当たってしまったようにも、意図して崩したようにも見えるなんともいえない動きだったが、とにかくグリゼルダが隠れていた廃材の小山はがらがらと崩れ落ちた。


 遮蔽物が減る分には構わないと思ったのかミゲルは撃たず、なにやらマナナに眼で合図を送っている。


 そうして何も遮る物がなくなり、改めてその全身を晒したグリゼルダの姿に……おれはどうしようもない違和感を覚えた。



 あ、やべこれ。



 気づくと同時に焦る。


 ついさっきまでそこに居たのは本人だった筈なのに、いつの間にか影分身子機がそこに立っていた。


 一見グリゼルダ本人にしか見えないが、この独特なすかすか感は誤魔化しようがない。

 ステルス影分身子機に色をつけるのは初心者のおれにもできた。

 なら当然、この道の先達であるグリゼルダにもできる。きっとおれよりも高いクオリティで。


 つまり、なんのラグもなしに、ほぼノータイムで本人と影分身子機が入れ代わっていた。



「よしいい子だグリゼルダ。そのまま両手を上げろ」



 たぶん、さっき廃材の小山を崩したのは目くらましだ。

 一瞬あるかないかの注意の隙間に差し込まれた本体と影分身子機のスイッチ。

 この距離で見ててちっとも気づけない、ガチで訓練したマジシャンレベルの超技術。


 とはいえ、おれと同じ仕様と仮定するなら、本体はステルス状態にはなれない筈。

 だからこうして意識を凝らして眼を凝らせば……やっぱり、グリゼルダ本人は崩れた廃材の中に埋もれるようにして隠れている真っ最中だった。


 ……意外と情けないイリュージョンだなおい。



「3度目はない。これがラストだグリゼルダ。両手を、上げるんだ」



 グリゼルダの色つき影分身子機が大人しく両手を上げる――と見せかけて、右手に隠し持っていた石をひゅっと投げた。

 あっち行けの手振りのように、手首のスナップだけで放り投げられた石は、色つき影分身子機の手を離れた瞬間に砕かれた。そのまま矢じりが指と指の隙間を通り背後へ消える。どご、っと壁に刺さる重い音。


 撃ったばかりなのに、なぜか既に次のボルトが装填されているクロスボウを軽く持ち上げミゲルが笑う。


「悪い。中指を撃ち抜くつもりだったのに狙いが逸れた。大丈夫、もうサイズは掴んだ。次はちゃんと当たる」


 格好いい。

 が、そのグリゼルダは影分身にせものだ。

 身代わりに使うからには、おれとは違いダメージフィードバック率も調整できるのだろう。

 攻撃だけじゃなく防御にも使える。

 その方法論を既に確立しており、実戦で使用可能なレベルに鍛えてる。


 やっぱグリゼルダこいつやべえな。

 おれがいなきゃ、やりたい放題だったぞこれ。


 まあ『見える』おれがこの場にいたのが運の尽きだったな! と口を開こうとして……余計なことに気づく。

 それは本当に、本当に余計なことだった。


 思わず固まってしまったおれの目の前で、事態は進む。


 ミゲルに矢を向けられ棒立ちになっている色つき影分身子機から、ずるりと滑り落ちるようにまた新たな影分身子機が出てくる。



 2。



 そうしてまたそれぞれから、ずるりと滑り落ちるように新たな影分身子機が出てくる。



 4。



 え? 倍々で増えるの? 正直、その光景にびびってしまい、とくになにもできない内にまた繰り返される。



 8。



 最低に笑えないのは、これを、この危機的状況を、おれ以外の誰も認識できていないという事実だ。

 あのローゼガルドでもおれの影分身子機は認識できていなかった。

 だからたぶん、王の血統とかいうミゲルにもムリだろう。

 いや、そもそも、なぜか見えてたヒルデガルド姉さまが特別おかしいと思うべきか。

 などと考えている内に、また繰り返される。ずるりと、ずるずるりと。ずるずるずるりと。



 16。



 この数に一斉に殴られると――ひとりに対しては1度に4、5人が限度だろうが――それだけで、もう勝負はついてしまう。

 いいや、そこまでする必要もない。せーので頭部に前後から同時に衝撃を加えるだけでどんな惨状になるか、ちょっと考えるだけでも嫌になる。それを支える細く脆い首とか、もっと簡単に嫌で嫌でしょうがないことになってしまう。


 さらに笑えないことに、数名の影分身子機はその手に闇製の短刀を握り締めていた。

 皆の視線は、宙に浮く武器を捉えてはいない。

 どうやら、あの武器まで含めて影分身子機という扱いらしい。


 いやいや。

 だめだろこいつ。

 武装も可能とか、まじでどうしろってんだよ。



 そこで不意に、グリゼルダの色つき影分身子機が両手を上げた。



「よし上出来だグリゼルダ。いいチョイスだ。そうすりゃお前さんは撃たれないし俺も撃たずに済む。みんなハッピーでいいことずくめだ。そうだろ?」


 むかつくスマイルを浮かべたミゲルが状況のコントロールを始める。

 同時にステルス影分身子機たちがミゲルを取り囲むよう位置取りを始める。


 攻撃を受けたグリゼルダが、ここで初めて『敵』に対する対応を開始した。

 それは実力行使暴力だけではなく、



「うーん、そうかなあ? 本当にそうかなあ?」



 影分身子機が喋った。

 かなり本気でびっくりした。

 おれにはない発想で、おれの遥か上を行く、未知の技術。

 あれで喋るとか、顔の筋肉口の動き声の問題、クリアすべき課題が多すぎる。



「ねえミゲル、みんなハッピーでいいことずくめはちょっとムリじゃないかな? だってさあ!」



 影分身子機で喋り出してからは、口調ははっきりと、表情は舞台役者のように大仰になった。 


 タネを知っている身からすれば、影分身子機では小声や細やかな表情などを再現するのは難しいのだろうな、という技術的要素が垣間見えた。


 大袈裟な表情と大声しか表現できない技術の限界を、劇場型のハイテンションな奴という『キャラ』を混ぜることによって誤認させる、足し算と引き算の結晶。


 なにも知らない者からすれば、まるで急に人が変わったかのような違和感となる、クオリティの限界を誤魔化す『おかしさ』のすりかえ。


 そんな小技にさらなる小技を寄り合わせた、暴力以外の攻撃が振り下ろされる。



「もうとっくにマナナにはバレちゃってるよ。A&Jが、おまえが、秘密を洩らせば弾け飛ぶ爆弾をこっそり仕込んでたって! けどそれさ、ついさっき解除されちゃったんだ。だからもうマナナは何にも縛られていない! だから聞いたよ凄いね驚いた! 王族の血縁なんだって?」



 よく通る大声で煽るように、決して無視できない内容を。


 反射的に口を開こうとしたマナナの肩に、音もなく黒い鷹が停まる。

 視線を受けたノエミは、唇の前にぴんと立てた人差し指を添えた。

 黙ってろ。


「都合が悪くなりゃぶっ殺します! こっそりと内緒でね!? 同じことをしてくたばった魔女さまの次は、誰かな? きみかな? おまえかな? ミゲルかな? おい、もう片方の手をマナナに向けなよ色男。どうせもう一個出せるんだろそれ。今マナナは、心底ナメた真似をしてくれたおまえをぶっ殺したくてウズウズしてるんだよ? だってそうだろ? 黙ってこっそり殺そうとしたヤツを、わざわざ生かしておくような間抜けが特別行動隊にいると思うか? 教えてやる。いないよ!」


 テンションは爆発しているが、語る内容は的確。

 影分身の制限タネを知っている身からすると、よくできた台詞回しだった。


「だからねミゲル。今ボクに向けてるその矢も、もうちょっと右に狙いをつけるべきだ。そう、もうちょっとだけ右手の、ノエミとボクの中間あたりだ。どっちもすぐさま撃てるようにしなきゃ危険だ。おまえ知らないだろ? ノエミはね、マナナを傷つけるヤツを絶対に許さないんだ。黙って爆弾植え付けて仲間面するヤツとか、きっとマリアンジェラコースだよ。あ、紹介が遅れたね。そこらに散らばってるのが、さっきマナナを殺ろうとしてノエミにぶっ殺されたマリアンジェラだよ」


 実物も絡めて説得力アップ。

 小技のおかわり。手は緩めない。


 ただ、まだ成果はなかった。

 全部事実で嘘はひとつもないのだが、それでもまだ、決定的に『割れて』はいなかった。


 なぜなら、ミゲルが動いていないから。

 微塵も動揺したような素振りはなく、ただじっとグリゼルダに狙いを定めたままだった。


「なるほど、ずっと気になってたんだ。そこで寝てる美人は誰なんだろうって」

 いやもうマリアンジェラ、腰から下しかないだろ。

「そんな顔するなよグリゼルダ。美人は尻まで美人なんだぜ? 嘘じゃない、本当さ」


 こいつ凄いな。

 結構ガチで追い詰められているのに、ちっともびびってない。


 マナナとノエミ。

 こいつの振る舞い次第で2人は敵になる。


 グリゼルダの演説中に『ちょっとムカついたけど金の為にA&Jでやって行くことに決めました』と割り込もうとしたマナナをノエミは止めた。

 事前に相談し出していた結論を、ミゲルに伝えなかった。


 たぶん、見たかったからだ。


 爆弾の件がバレていると知ったミゲルが、どういった反応をするのか。

 最悪の場合グリゼルダが勝手に殺ってくれる……なんなら加勢して『3対1』にもなれる、この圧倒的に優位な状況で。

 いまいち信用ならない新たなボスの地金を、見ておきたかったのだ。


 ――もし逃げるってなったら、アマリリスさま、見逃してくれる?

 ――いいよ。


 おれが味方だという確認はもう済んでる。

 邪魔が入る心配はない。



 つまりはこのフェロモン系の色男、めっちゃ格好良く出てきたけど、登場から5分ぐらいでいきなり死にそうになってる。



「それで? なんかマナナたちに弁明とかないの? このままじゃおまえ、袋叩きで死んじゃうよ?」


 小馬鹿にしたようにグルゼルダが煽る。

 ステルス影分身子機たちは、すでにミゲルの包囲を完了していた。


 ひとつのことで派手に注意をひいて、本命はこっそりひっそり裏で進める。

 なんというか、こいつグリゼルダの手法って、基本マジシャンの手口だよな。



「……あのなあグリゼルダ」



 そこでようやくミゲルが、溜息混じりに口を開いた。


「そもそもお前さ、特別行動隊――魔女の犬が、どれだけ周りからビビられてんのか知ってるか? 一部のおっさん連中とか、名前聞いただけで拒絶反応全開でわめき散らして話しにならねーんだぜ?」


「だからこっそり爆弾仕込むぐらい当然だって?」

「順序が逆だよグリゼルダ。お前さんたち特別行動隊には最初から爆弾が『仕込まれて』いた。たしか行方不明から10日だったか? こっちはそんな規則知らなかったからな。いつ爆発するかわからないやべえ爆弾に気づいたうちの腕利きクソ野郎は、解除が不可能と悟ると、一か八か、いつものお試し期間トライアル用のやつで上書きを試みた。本人の自覚がトリガーってパターンはよく知ってるからな。当然、こっそり内緒でだ。そうしたら上手くいった。笑えるだろ? とくに根拠のなかった思い付きが、たまたま上手くいったんだぜ?」


「助けてやった、とかいいたいワケ?」

「まさか。そこまで面の皮は厚くないさ。ただそうしなきゃ、10日後にはマナナは弾け飛んでた。実際こっちに選択肢はなかったってのはちゃんといっておきたい」


「上書きできたなら、当然解除もできただろ? 結局そのまま使ってるじゃないか。何も変わらないよ」

「だから最初に聞いたんだ。グリゼルダお前さ、特別行動隊がどれだけ周りからビビられてるのか知らないだろ? ウチの経営陣が全会一致で解除を反対するぐらいには、心底怯えられてるんだぜ? ただこれは時間がなかったってのもある。もしちゃんと面通しする時間さえあれば、たぶん普通に解除されてた。ここまでマナナと一緒にやって来た俺がいうんだ、間違いない」


 いってミゲルはマナナに向けばちこん! と音が出そうなウインクをかました。

 ……なんか一周回って、ちょっとこいつのことが好きになってきた。


「じゃあミゲル様、最初に事務所で会った時にはもう知ってたんすか?」

「おばちゃんは本当に何も知らなかったさ」


 マナナの口調に棘はない。

 ……なんでやくざの事務所におばちゃんが?


「あのさミゲル。どんなにキレイな理屈こねてもさ、黙ってこっそりぶっ殺そうとした事実は変わらないよね? その一点だけで、信頼とか信用とか全部台無しだとは思わない?」


「そりゃ言いすぎだぜグリゼルダ。秘密を洩らさなきゃ、死んだりはしない。これは裏切りに対する返礼だ。それも入社の時に『裏切り者には死を』の掟の説明とかがあった筈だが……たぶん、そういうことを言ってるんじゃないよな。A&Jウチはぶっちゃけやくざ組織だから、口だけじゃなくてそりゃ本当にするだろ……って話でもないのか。まいったな、思ってたよりずっとピュアなやつが来やがったな」


 そこで初めてミゲルは困ったような顔をつくり、


「うーん。そこに関しちゃ、もうA&Jウチはそういう組織だと思ってもらうしかないな。やると決めたらやる。善意や幸運を前提には動かない。実際、俺にだって『爆弾』は仕込まれてるしな」


 え? まじで?


「……そんなわけないだろ? 見え透いた嘘を」

「いやいやグリゼルダ。俺が組織にとってクリティカルな情報を幾つ抱えてると思ってるんだ? 経営陣――運営の幹部どもが、黙って好き勝手させるわけないだろ?」


 ぐるりと一同を見渡して、


「そんな顔するなよ。べつにそう深刻な話じゃないさ。A&Jは実家みたいなもんだからな。裏切るつもりがなけりゃ、まじで無意味な、疑り深いじじばばどもを安心させる形だけの儀式みたいなもんだよ。でかい焚き火を囲んで情熱的なダンスを踊るのと一緒さ。こっちからすりゃ、単なる笑い話だ」


 うわこいつ、真顔でこんなこといっちゃってるよ。

 やっぱ異世界でも、この手のやつらとは基本ノータッチでいたいよなあ。

 けどもう、付き合いがあるのはほぼ確定だよなあ。


 ……これ、おれも爆弾対策いるんじゃね?

 そう思い、試しに意識を凝らして眼を凝らして、とりあえず1番近くに居るノエミを見てみる。

 ……お、あれか? なんか胸の真ん中少し下、腹のちょい上あたりに、黒いもやもやがわだかまっている。

 あれがたぶん『爆弾』と呼ばれている即死の闇だ。


 同じ要領でマナナを見ても、黒いもやもやは見えない。本当にちゃんと『崩せて』いたようでなにより。

 グリゼルダ本人は、崩れた廃材の下に埋もれるようにして隠れている真っ最中なので確認はできない。


 そうして最後にミゲルを確認してみると……どこにも、黒いもやもやは見えない。


 もう1度ノエミを見る。もやもやあり。

 再度ミゲルを見る。もやもやなし。


 いやいや。

 いやいやいやいや。

 ミゲルお前、爆弾ないじゃん。

 嘘じゃん。

 この局面で、そんなくっそ得意げな顔して。


 てことは。

 そこがでっちあげってことは。

 もしかして全部、でたらめなのか?

 実はお前、今めちゃくちゃ必死に言い訳をしている真っ最中だったりするのか?



 ――あはっ。



 笑いが漏れそうになるのを、必死に堪えた。



「けど思い違いはしないでくれ。普通は新人にお試し期間トライアルを使うなんて事はまずない。そりゃ入ったばっかの新人じゃ、大した情報なんて持ってないからな。通常このお試し期間トライアルを使うのは、なりたての幹部やその候補生だ。いってみれば、機密に深く食い込む奴への最後の『ふるい』だな」


「単に信用ならないヤツに対する首輪としても使えるよね? いくらでも応用が利きそうだ。そんな寝言で2人が納得するとでも?」

「それを決めるのはグリゼルダ、お前じゃない。もちろん俺でもない」


 グリゼルダを狙う矢は微塵も揺らがないまま、ミゲルがちらりと2人を見やる。


「もしダメだってんなら、もうこんな組織じゃやっていけないって思ったなら、遠慮せずにいってくれ」


 直訳すると――元特別行動隊のメンバーとかいうくそやべえリスクの塊を、何の根拠もなしに最初から完璧に信頼する頭お花畑な組織じゃなきゃ嫌だとか、真顔でいっちゃえる阿呆なんてこっちから願い下げだ――といったところか。


「その時は、こっちも諦めて帰るよ。ムリに引き止めたりはしない。その認識のミスマッチはもうどうしようもない。ただ最後に、A&Jの代表としてじゃなく、ミゲルという俺個人として、これだけはいっておくよ」


 そこで言葉を区切ったミゲルが真っ直ぐにマナナを見た。


「――すまなかった。会ったこともない元特別行動隊の隊員にびびって、お試し期間トライアルの継続使用を可決したのは『俺も含めた』全会一致だ。この臆病さに嫌気がさしたっていわれちまうと、もう本当に返す言葉がない。だからマナナ。たとえどんな決断をしてどう行動しようとも、俺がキミを攻撃することだけは絶対にしないって約束するよ」


 これが全部、でたらめに衣をつけた努力の結晶だって考えると……凄ぇアドリブ力だなこいつ。


 とはいえおれの心情としては、ミゲルの肩を持ちたくなってる。

 キレたマナナの暴走で無理心中未遂をくらった身としては、その対抗策を頭ごなしに否定はできない。

 まあ、黙ってこっそりやったのは、まずかったとは思うが。


「へえー、すっごい優しいね。機密を洩らしたマナナに罰はないの? たしか『裏切り者には死を』だっけ?」

「魔女殿との縁故なんて、弾け飛んでないマナナを見られたら、そりゃ関係者にはバレるさ。他に可能性はないからな。ついでにいうなら、とびきりの血統主義である魔女殿と取引が成立している時点で、気付いてる奴は気付いてる。公然の秘密ってやつだ」


 それに――とさらにミゲルが続ける。


「新人研修で『秘密』についてのA&Jウチのスタンスはもう伝えてる。そりゃべらべら喋られるのは問題だが、他についてお前さんが言及しないのを見るに、どうやら大丈夫みたいだ。なら俺はそれをもって『裏切りはなかった』と判断する。だからなグリゼルダ、あとはもう感情の話なんだ。許容できるか否か。まいっか、か、嫌ダメ無理か。つまりな、ここから先はもう、俺やお前の介入する余地はないんだよ、グリゼルダ」


 いやあるだろ。

 と、つい突っ込みたくなるが……今回の場合、これからの生活基盤という特大の重石が天秤に載るので、実質出来レースじみたところがある。


 ミゲルが暴力や圧力に頼らず、言い訳――じゃなくて懐柔に舵を切った時点で、まあこうなる可能性は高かった。



 やっぱ、金持ってるやつって、強いんだよなあ。



「ノエミ」

 そこでマナナが名前を呼んだ。

 振り向いたノエミに眼を合わせ、

「任せる」

「うん」

 返事をしたノエミが続けて、

「ミゲルさま、後ろに飛んで。囲まれてるよ、凄い数。マナナもこっちへ」


 一瞬の空白の後、全てが動き出した。

 ミゲルが後ろに飛んで、マナナがノエミへと駆けて、とくに指示のなかったおれは余裕の棒立ちを披露した。


 え? ノエミ影分身これ見えてるの? 王族でもムリなのに?

 どういうことだと考えるより早く、なにかが落ちて来た。

 穴だらけの高い天井、その隙間からどすんと、おれの目の前になにかが落ちて来た。

 着地の衝撃で身を沈めている場違いな女中服の背中にかかる赤毛。

 前方――グリゼルダの方を向いたまま、声だけが飛んで来る。


「アマリリス様! ケガはないですか!?」

「ヨランダ! こっちは無傷。そっちこそ、足大丈夫なの?」


 あのくっそ高い天井から自由落下とか、普通に両足骨折コースだろこれ。


「このぐらいの高さならぜんぜん――って天井高っ! え? なにこの高さ? いや、もっと低かったはずなんだけど、アマリリス様なにかしました?」


 してねーよ!


 と返すより先に、もうひとつ落ちて来る。

 今度は目の前に着地するのではなく、ちょうどその真上へ。


 後ろへ飛んだミゲルを追う為に1歩踏み出したグリゼルダ――の色つき影分身子機

 その頭頂部に足の裏を乗せるように、踏みつけるようにして、もうひとり落ちて来た。


 ばき。


 衝撃に耐え切れず、グリゼルダの影分身子機はへし折れ、ばしゃりと闇の残滓が飛び散る。


「……泥? なにこれ?」


 着地の衝撃で折り畳んでいた膝を伸ばし、そいつが立ち上がった。

 ……でかい。

 ミゲルよりもさらに頭ひとつ分は大きく、ひょろりと細長いその女は、全てが白かった。


 その身に纏う、占い師とカンフー道着を足して2で割ったような服は白一色。

 短く揃えた髪も真っ白。眉もまつげも白いのを見るに、どうやら染めているわけではないらしい。


「あのさ、いまさら魔女の巫女」


 新たに『着色』されたグリゼルダの影分身子機が、最後まで喋りきることなく吹き飛んだ。

 胴体だけを残し、首から上だけが後方へ吹っ飛んだ。


「げ。また泥」


 ぽっかりと空いた、本来なら頭部があったスペースに添えられた、白い女の握り拳。

 空手の正拳突きを打った後のような姿勢。


 あ、今こいつ、影分身子機の顔面を殴ったんだ。

 全てが終わってから理解が追いつく、異次元の速度。


 意味がわからず、つい2度見する。

 うん、何度見ても、わからないものはわからない。

 

 ……が、こいつが誰なのかはグリゼルダの色つき影分身子機2号が最後に教えてくれた。


 ――魔女の巫女。


 うわあ。

 向こうから来ちゃったよ。

 しかもこいつ、おれと相性最悪の物理で殴る系のやつだよ。

 どうすんだよこれ。


「待ってノエミ! 今グリゼルダは手一杯で」

「いいから走って!」


 もう、ことは始まってしまった。

 対話やら説得とかいう段階はすっとばされ、なし崩しに殺し合いが始まってしまった。

 ならもうしょうがない。こっちも基本に立ち返るしかない。


「ヨランダ。出口までダッシュ、行ける?」

「はい。あたしが先行するんで、ついて来てください」


 ヨランダとこそこそ話をするおれの視界の端で、グリゼルダの影分身子機からまた、ずるりと滑り落ちた。ずるりと。ずるずるりと。ずるずるずるりとまじかよこいつまだ増やせるのかよおい。


 2体やられて残り14。

 それぞれから滑り落ちて――28。

 しかも追加分は全員短刀持ちで、殺意ましまし。


「……あの数は抜けませんね。絶対にどっかで捕まっちゃいます。あれって、どこまで増えるんですか?」

「ヨランダ、見えてるの?」

「ぼんやりとですけど。やっぱあれ、他の連中には見えてない感じですか」

「ノエミ――髪の長い軍服の娘にも見えてる。他は認識すらできてない」

「あのエンブレム、特別行動隊ですよ。敵ですか?」

「違うよ。A&Jの新入社員だ」


 ヨランダにノエミ。

 なんでこの2人にだけ見えるのか。なにか共通点はあっただろうか。


 ……あ、おれが『足した』2人か。


「あの、アマリリス様。なんかあたしたちの周りにだけぜんぜん来ないんですけど、心当たり、あります?」


 確かにグリゼルダの影分身子機たちは、なぜかこちら側には来ていない。

 包囲もしない。遠巻きに眺めることすらしない。注意も払わず、一定距離からは決して近寄らず、ただただ完全スルー。

 不自然なんてレベルじゃない。


「……なんでだろ?」

「もしかして、アマリリス様にびびってるとか」


 いわれてみると確かに、ここまで1度もグリゼルダはおれに矛先を向けなかった。

 言葉でも暴力でも、徹底的にノータッチだった。

 最初の隣に座っていた影分身子機も、本人に声をかけるとすぐ引っ込めた。

 

 ん?

 んん?


 ……もしかしてこれ、可能性、あるんじゃね?


 もう殺し合いが始まっちゃったからどうしようもないよなあ、なんて思ってたけど……よく見ればこれ、やり合ってるの魔女の巫女だけじゃん。

 べつにおれはグリゼルダと殺し合いなんかしてないし、向こうもあからさまにこっちだけは避けてる。


 それに、正直なところ。

 あそこで声を詰まらせた時点で、もうおれは。


「なあヨランダ。わたしが『こいつ雇いたい』ってヒルデガルド姉さまのところへ勝手に新人連れて行ったら、怒られるかな?」

「え? いや、使えるものは全部使うのがヒルデ様のやり方だから、怒りはしないと思いますけど……え? まじでいってます?」


 とはいえ、もしダメだったらその時はさくっと死にそうな予感もある。

 だからもう1個ぐらい、言い訳の余地のない大きな利点が欲しい。

 

「なあヨランダ。ここでミゲル死んじゃうと、まずい?」


 3人でひと塊になっているミゲル一派を徐々に包囲するグリゼルダの影分身子機たち。

 見えていない筈の白い女は、なぜか影分身子機の手薄な方へと移動し続け、包囲の完成を凌ぎ続けている。いや、見えないものに対処するとか、普通に引くんだけどなにそれ。


「ええ、まずいですね。そうなるとたぶんA&Jは旧市街から手を引いて、結果ヒルデ様が最低の糞ローゼガルドの真似事をする破目になります」


 てことは『業務委託』とやらの内容は治安維持あたりか。

 それを任せようとしていたやくざ組織暴力装置が撤退すれば、結局そのしわ寄せはヒルデガルド姉さまへと来てしまう。

 となると。

 その姉妹の地位を手に入れたおれにとっても、血とバイオレンスに満ちた日々の幕開けとなっちゃうわけか。


 やっべミゲル、超重要人物じゃん。


 だったらしょうがない。

 おれの為にやらなきゃいけないから、おれがやる。

 だったらそれはもう、しょうがない。


「ヨランダ見える? あそこ、廃材が積み重なって小山になってる所。あそこまでゆっくり歩いて行こうと思うんだけどさ」


 あまり猶予もないので、いいながらも歩き始める。


「もし途中でわたしが攻撃されても、重傷とか致命傷じゃない限り、黙って様子を見てて欲しいんだ」

「場所がわかってるなら飛び道具、ありますけど」


 いってヨランダが自身の長いスカートを太腿あたりまですすすと捲る。

 本当にあったメイド服の下の謎ガーターに固定されている2本の黒杭。

 あ、それ、おれ産の黒杭じゃん。この微妙なちっこさは、館で使用人たちの頭上にセットしたやつか。


「いらないよ。間違っても武器とか手にしちゃダメだ。そういった意思を表示しちゃうと絶対に失敗する」

「うまくいく見込み、あるんですか?」


 そんなことをいいつつも、おれの少し後ろについて来てくれるヨランダ。


「なけりゃしないさ。けど、ダメな時はダメだと思うから、わたしが昏倒したり動けなくなったら迷わず抱えて逃げて欲しい。その時はもうしょうがない、諦めよう。もし追撃してくるようなら、廃材の小山に2本とも黒杭を撃ち込め。2本をぶつけるようにすれば爆発が起きるから、それで何とかなる」

「もしアマリリス様が即死したら?」

 お? 相変わらずかましてくるなヨランダ。

「ひとしきり笑ってから、黒杭発射コースだ」

「了解。けどうまく笑えるかな?」

「外道おばさん解体ショーを思い出すんだ」

「そんなニチャっとした笑い、嫌ですよ」


 この会話はわざと聞かせている。

 きっと聞き耳を立てているであろうグリゼルダ本人に『いやまじで誰も得しないから早まった真似だけはすんなよ?』としょぼい牽制をかましつつ歩を進めている。


 その甲斐あってか、とくにこれといった妨害もなく、廃材の小山の前まで来れた。


「グリゼルダ。もうわかってると思うけど、わたしに、攻撃の意思はないよ」


 しゃがんで、同じ高さと思しき位置で続ける。


「本当はもっとはやくこうして話したかったんだけど、ほら、次から次に新しく入って来てさ、なんかどんどんあれこれ始めちゃって」


 できるだけ軽い調子でいいながら、ひとつひとつ廃材の小山を崩してゆく。

 へし折れたでかい木片を両手で掴んで、ぽい。

 割れたレンガっぽい物を両手で掴んで、ぽい。


「見てたけどさ、グリゼルダのやり方って、基本的にマジシャンの方法論だよな。あ、マジシャンってわかる? 奇術師とか手品師とか、そういう言葉ってこっちにあるかな」


 なんか廃材の中に、露骨にかわらっぽい物があった。

 三つ目男が持ってたポン刀といい、このちょいちょい挟まる日本要素は……って今は関係ないか。


「あの急に入れ代わったやつ、あれ凄かった。近くで見ててもどのタイミングで『やった』のか、全然わからなかった」


 掴んでぽい。

 掴ん――痛った! なんだこれめっちゃ尖ってる! あああこれ地味に痛いやつ! なんでこんなんで流血してんだよおれは!

 いい感じに語りかけている最中なので叫ぶわけにもいかず、無言でのたうつ。

 やせ我慢を総動員し、せめて声だけは平静を装う。


「もしかしてグリゼルダは昔、そういったところにいた?」


 よく見るとこの廃材、あちこち尖ったり鋭かったりして素手で触るのは危険だ。最低でも厚手の軍手は欲しい。

 などと思っていると、背後からにゅっとヨランダの手が伸びてきて、素早くおれの両手に包帯のようなものを巻いた。

 止血と同時にやわい手の平もガード。

 ヨランダ、最高かよ。


「あー、そういったところっていうのは……観客集めてショーをしたりサーカスだったり雑技団だったりアーティストだったり、呼び名は色々あるけど、そういった場所や集団のことで」


「――ス」


 そこで初めてグリゼルダが答えた。

 まだ本人が潜んでいる箇所まで崩せていないので、ガラクタの山が喋るかたちだ。


「ん? なんて? もうちょい大きな声で」

「か、カルミオーネ大サーカス、です」

「それがグリゼルダの?」

「はい。ボクが育った場所、です」


 おお、まじであるのか大サーカス。


「ああいった技術は、そこで習ったの?」

「……わかりません。覚えてないです。名前しか。け、けどなぜかできます。知ってます」


 うーん、記憶が消されてるとかそういうやつか。


「なら問題ない。覚えてなくてもできるなら、全く問題ない。今わたしは『これから』の話をする為に、ここにいるからな」


 ずっと手だけは動かし続けた甲斐あって、グリゼルダの声はもうすぐそこだ。

 ……怯むな。行け。


 ごとん。


 大きな木の板を除けるとそこには、ぽっかりと空洞のようになったスペースで小さくうつ伏せになっているグリゼルダ本人が居た。


「……あ、えと、その」

「まずは座ろう、グリゼルダ」

「は、はい」


 座り直そうとついた手が、びちゃりと血溜まりを弾く。

 


 グリゼルダは血まみれだった。



 そりゃそうだ。

 両手で落ち着いてゆっくり作業してもつい手を切ってしまうような尖ったり鋭かったりする廃材の中に、頭から全力で後先考えずに突っ込めば――まあそうなる。


 当然グリゼルダも、目やノドなどの急所は庇いつつ行動したのだろうが……それでも首の根元あたりを切ってしまったようで、今もそこからじわじわと血を流し続けていた。

 さらに両腕からも赤い雫がぽたぽたと滴るのを見るに、どこか太い血管でも切ってしまったのかもしれない。目と耳と鼻からの出血に至っては、正直意味がわからない。


 座る足下には、今も広がり続ける血溜まりが揺らめく。

 よく聞けば呼吸も荒い。


 つまり。


 こいつも、ぎりぎりだったのだ。


 素人目に見ても危険域に突入しそうな出血量。

 勝手に増え続ける敵。

 あれだけの数の影分身子機の制御にかかるであろう負荷。

 きっとゼロにはできない、影分身子機がやられた際のダメージフィードバック率。


 ぱっと思いつくだけでも問題は山積みで、時間が経てば経つほど状況は悪くなるばかりで改善の兆しはなし。


 ……危ないところだった。

 これは、本気でやばかった。

 やはりこの判断で正解だったと確信した。


「……赤いんだな、血。館で見た使用人は全部黒かったから、てっきりみんなそうなんだと思ってた」

「そんなの、はじめて聞いた。普通は赤いです、みんな」

「そうなの?」

「た、たぶん、なにかの実験だったんじゃ」


 なるほど、あれは外道おばさんの特注カスタムだったのか。体内を闇で満たすとかそういう系のやべえやつ。


「……あいつ本当やりたい放題だな。けどもうローゼガルドはいない。知ってるよな?」

「は、はい」


 グリゼルダこいつはなぜかおれに対して腰が引けてる。

 ならそこにつけ込む。

 ずうずうしいぐらいで行く。


「グリゼルダはこの先、どうするんだ? 何か伝手つてとかあるの?」

「あ、いえ、その、とくには」


 よし。……といっていいのかは微妙だがとにかくよし。

 行くあてがないのが、最もスムーズなパターンだ。


「じゃあさ、わたしのところに来ないか? 知ってるかもしれないが、まだこっちに来たばかりでさ。ろくに話し相手もいないんだ」


 今さらいうまでもないが、グリゼルダこいつは『できるやつ』だ。


 まず影分身子機の性能がやばすぎる。なんだよステルスとかずるいだろ。しかもそれが30体とかやりすぎだろ加減しろバカ。


 普通に考えて、そんな『できるやつ』を追い詰めすぎるのは良くない。

 なぜなら『できるやつ』の全力死に物狂いとか、まじで甚大な被害をもたらすからだ。


 さらにこいつの場合、その性質がとくにまずい。

 

 客観的にはくっそ情けない上に自傷確定の『切れる棘山に飛び込み隠れる』を何の躊躇もなく実行し、さらにその上でやることが、投石と拾ったばかりの情報をこねくり回した仲間割れの誘発。


 微塵も手段を選ばない。

 できることは全部やる。 


 そんなやつがぎりぎりまで追い詰められて死に物狂いになったりしたら……絶対にする。


 それを前提に現状を見ると、そこかしこにわんさか居る影分身子機の性質が『黒杭』に近しいものであることに気がついた。

 黒杭は複数をぶつけることで謎の大爆発が起きる。

 ならそれに近しい影分身では、一体どうなるだろうか。

 質量でいえば黒杭の30倍はある影分身が28体。

 もしそれら全てが予想通りの作用をもたらすのならば、その規模は一体どれほどのものになるだろうか。



 ――あっぶねえええ! こいつもう準備整えてたじゃねーか! 



 予想よりずっとやばかった。

 想定よりはるかぎりぎりの崖っぷちだった。

 こいつの手法がマジシャンのそれだと理解していたのに見落としていた。


 いや、まだだ。


 まだ間に合う。

 とにかく丸め込め。

 向こうが答えあぐねている内に外堀を埋めろ!

 まずは、



「初めましてミゲル! 挨拶が遅れたけど、ヒルデガルドの妹のアマリリスです! ちょっと確認したいんだけどいいいかな!?」



 謎の空中2段ジャンプでぴょーんと2階部分へ移動中の色男へ呼びかける。


「もちろんいいとも再従弟妹はとこ殿! なにかな!?」


 やっぱミゲルこいつ、アドリブ力のモンスターだわ。話が早すぎる。


「A&Jにとって、グリゼルダの死は必須か?」

「いらないよそんなの。ウチは殺し屋じゃないんだ。みんな仲良くがモットーな町の雑貨屋さんだぜ?」


 100点満点の返事だ。

 なら次!


「マナナ! グリゼルダを許せとはいわない。ただ、殺さないで放置することは可能か!?」


 ミゲルに続いて謎の空中2段ジャンプでぴょーんと2階部分へ移動中のマナナへ呼びかける。


「タダで我慢しろとはいわない。ノエミの爆弾と引き換えだ。これをのんでくれるなら、ノエミの爆弾を消すよ。内臓にダメージを与えないやり方も、たぶんそこのヨランダがいれば可能だ。もちろん今後グリゼルダに手出しはさせない。君はただ無視するだけでいい。それ以外は何も望まない」


 2階部分に着地したマナナの表情は、手すりが邪魔をしてよく見えない。

 ただ無言。

 この無言はまずい。

 グリゼルダの『もうダメだやっちまえゲージ』がもりもり上がる音が聞こえる。……気がする。


 そこで、2階にあがるわけにはいかないので唯一その場に残ったノエミが、こちらへ向け謎の手振りを披露してきた。


 指を1本ぴんと立ててから、両手の平を水平にして上に向け、くいくい。

 1本。くいくい。

 1本。こいこい。

 もう1個。カムカム。

 もう1押し。しろしろ。


 いや、もう1押しっていわれても、手持ちとかゼロだよおれ。


 ……しかし道理ではある。足りないなら追加しろ。

 そもそもこれは、グリゼルダの外堀を埋めるアピールだ。インパクト重視だ。

 これ以上、もたつくわけにはいかない。


「ならもうひとつ! わたしからマナナへの『貸し』をひとつ付ける! 本当に嫌だったり無理なことじゃない限り、最大限考慮する『貸し』だ! これでどうだ?」


 まあ無い袖は振れないので、ぺらっぺらの口約束をするしかないのだが。


 ひと息間があってから、


「そこまでいうなら、はい、わかりました」


 よし通った!

 これで外堀はぎっちぎちだ!


「聞いての通りだグリゼルダ。あとは君の気持ちだけだ。わたしには頼れる味方が必要だ」


 あ、そういや魔女の巫女忘れてた、と思い出し視線を巡らせると……いつの間にかヨランダが魔女の巫女を止めていた。なにやら軽く言い合いをしているようだが、とにかく文句なしのファインプレーだった。

 ヨランダ、まじ最高かよ。


「……なんで」

「ん?」

「なんで、ボクなんですか?」


 そりゃお前放っておいたら5秒後ぐらいに自爆しておれも死んじゃうからだよ。


 理屈としてはこれだ。いや、理屈というか事実だな。実際このままだとそうなるだろうし。

 ただこれをそのまんま口に出すわけにもいかない。 

 だからオブラートに包んでアレンジして、みんな生きてオールハッピーみたいな感じでまとめれば一件落着。


 なのにどうしてか――勝手に言葉が口をついて出た。



「誰もお前に生きてて欲しいと思っていないからだよ。気づいてるだろ? ここでお前が死ぬのが、一番丸く収まるんだ。全部キレイに解決するんだ。誰もが気持ちよく前向きに、明日を迎えることができるんだ」



 おれはたぶん今、余計なことをいっている。


「最高のゴールのかたちとして、お前の死が、共通の絶対条件だった」


 どうしてか、余計な言葉に限って、すらすらと無限に出てくる。


「お前が本当にどうしようもないやつだったなら、わたしも死ねといってた。けどお前のいうことがもし本当なら、きっとわたしでも同じことをしてた。実際に昨夜似たようなことをしたばかりだ。ならもうダメだ。石を投げる気にはなれない。手が止まる」


 おれはたぶん、それでも石を投げたことがある。

 ちっとも覚えていないが、きっとある。

 じゃなければ、こんな嫌悪感は湧いてこないだろう。

 じゃなければ、ここまでの忌避感はあり得ないだろう。


「わたしはお前に同意してしまった。誰にも助けられず、誰にも手を差し伸べられないお前に、満場一致で死を望まれるお前に対して、心の底から同意してしまった。もしそうなれば、そりゃそうするよなと」


 ここまででわかった。


 闇精霊と人間はほぼ同じ。

 理解できると喜ぶべきか。

 またそれかと嘲るべきか。


 もう一度、犬の鳴き真似をするべきか。


「もしお前が嘘をついているのなら、未来永劫その嘘をつき続けろ。つくろい続けろ。わたしに嘘だと悟らせるな。たとえ死んでもだ。いいな?」


「う、嘘じゃない、です。ぜんぶ、本当です」

「ならよろしい。お前の質問に答えるよ。たしか――『なんで、ボクなんですか?』だったね」


 なんでと問われると、答えはひとつしかない。


「わたしの、趣味だよ」


 それ以外にいいようがない。

 本当ならすぐさま全員に『廃材の小山に集中攻撃だ!』と叫ぶべきだった。

 みんなでグリゼルダをぶっ殺して、一致団結すべきだった。

 するとマナナとの確執なんてキレイさっぱりなくなり、きっと仲良しにもなれた。

 殺されるほど悪いことしたかこいつ? などとかすかに思いつつも、切断した頭部でみんなと一緒にサッカーに興じるべきだった。なんてことはない。どこにでもある、絆を深める儀式だ。すぐ慣れる。愛想笑いぐらい余裕だ。


 心底から思う。

 よかった。

 そんなことしなくて。


 ひとつ大きく息を吸ってから、


「グリゼルダ。わたしと一緒に来て欲しい。さっきもいったが、わたしには頼れる仲間が必要なんだ」


 あとこいつめっちゃ強い。

 こいつが本気でおれを守れば、死ぬ確率がぐっと下がること間違いなしだ。



 じっとグリゼルダの目を見る。



 逸らされる。


 あ、もしかしてダメな感じ?

 ノリとフィーリングで、しょうもないこと喋り過ぎた?

 まずい。本音の使いどころ間違えたかこれ。




「成程成程。そうして貴方は貴方の気に入るもののみを、すくい上げるのですね」




 初めて聞く野太い男の声が響き渡った。


 今日だけでもうこのパターンは3回目だったので、構うことなくグリゼルダへ声をかける。


「返事を聞かせて、グリゼルダ。ほら、またなんか新しいのが来ちゃったから、もう時間がない」


 さりげなく追い込む。きっとこいつは押しに弱い。


「……あ、えっと、…………はい。よろしく、おねがいします」


 よっし行けた! 諦めずに押してみるもんだな!

 思わず拳を天に掲げそうになるのを堪え、三角座りをしているグリゼルダへ向け、開いてから差し出す。


「こっちこそよろしくね。外道おばさんよりは良い待遇を約束するよ」


 ブレインをウォッシュ(闇)しないだけで達成できるとか、ハードル低すぎだけどな。


 おずおずとおれの手を掴んだグリゼルダを引き上げようとして――普通におれの方がちっこくて軽いのでムリでした――とにかく廃材の中からグリゼルダが出てきたところで、


「ヨランダ。グリゼルダに治療を――」


 ようやく、周囲の異常を理解した。

 突然野太い声を響かせた新たな闖入者に、なぜ誰も何もいわないのか、その理由を遅まきながらに理解した。




「世の道理や他の都合など関係なく、ただ貴方がどう思うか。その一点のみが肝要と」




 横に長い木製の椅子がずらりと並んでいた。一段高くなった最奥にででんと掲げられたいかにもなシンボルの下に立派な演説台が現れていた。そこへ至るまでの一本道に、なんかレッドカーペットみたいなものが敷かれていた。


 そうして増えたものがあれば、減ったものもあった。


 あちこちに転がっていたごみやがらくたの類が、いつの間にやら随分とすっきりしていた。

 今グリゼルダが出てきたばかりの廃材の小山が、おれの目の前でゆっくりとしぼみ続け、手の平サイズまで小さくなり、消えた。


 そうして辺りを見渡す頃には。


 おれはぼろぼろの教会に居た。

 さっきまでここは確かに、廃墟じみたあばら家だった。

 ぼろぼろに朽ちているという点では同じなのだが、決して教会などではなかった。

 なかったものが現れ、あったものが消え――つくり変えられた。




「国家をはじめとする既存の権益からすれば、堪ったものではありますまい」




 この現象には見覚えがあった。

 最初に目覚めた地下空間で三つ目男がやってみせたあれ。

 現実改変系の最終奥義的なやつ。


 ――なんで2日連続でこんなん来ちゃうかなあ。


 ただ変化の速度は、比べ物にならないぐらい遅かった。

 瞬く間に全てがつくり変えられた三つ目男とは違い、ゆっくりじわじわ、といった感じである。

 いや、たぶんこれは、


「グリゼルダ。演説台にいる仮面の男、見える?」

 いかにも『邪教徒です』みたいな禍々しい面を被った男がいた。

 演説台の出現と同時に現れた時点で、どう考えても真っ黒ではあるのだが。

「……え? いえ、見えません。声だけ響いて、どうやってるのかなって」

 あんなに怪しいのに誰も攻撃しない時点でそんな気はしていたが……ステルスを標準装備とか、まじで止めてくれないかな。




「支配者たる己以外に、よもや好き勝手にのりかれようとなどとは、堪ったものではありますまい」




 男の声が響くと同時に、新しいものが現れて元あったものが消えるスピードがさらにもう一段階、目に見えて速くなった。

 さっきから視界の隅でちらちらしていたのは、どうやら気のせいではなかったらしい。


「凄いな。あいつが喋る度に、ここが教会になっていくスピードが上がるみたい」

「て、敵?」


 おれは既に知っている。

 この手の現実改変系最終奥義的なやつは、された時点でもうお終いなのだと。

 問答無用でいきなりそんなことをしてくるやつを、なんと呼ぶのか。


「敵だ。今わたしたちは攻撃されてる。この教会が完成すれば、たぶん死ぬ」

 普通に考えれば意味不明だろう。

 廃墟を教会につくり変えるとか、そもそもわけがわからない。

 なぜそれが攻撃になるのかも、ちっとも繋がらない。

 さらに完成すれば死ぬとか、あなたきっと疲れてるのよ、としかいいようがない。


 この現実改変系の最終奥義的なやつの最も厄介なところは、知っていなければ『攻撃』ではなく『意味不明な怪奇現象』としか認識できない点だ。

 反撃できないのではない。

 反撃するという発想が、そもそも湧いて来ない。

 姿はなく声だけなら、なおさらに。


「敵の、数と、身体的特徴を」

「1人だけ。背の高さはミゲルと同じぐらい。体格はずっと細い痩せ型。顔全体を覆う仮面で顔面は守られてる。角や尻尾はない」

「……ひとり? 罠ですか?」

 あ、いわれてみれば。

 いくらステルスってるとはいえ、あんな目立つ演説台にひとり立つとか『さあ殺してください』といわんばかりだ。

 やくざに魔女の巫女に特別行動隊がそろい踏みなこの場でそれは、余りに露骨だ。




「故に。故に貴方はこう呼ばれる。――邪神と。成程成程。むべなるかな」




 ぎゅぎゅぎゅんと変化のスピードが3段階ぐらい一気に上がる。

 謎ライムによる謎ボーナスとかやめろよまじで。ルールがみえねーよ!

 これ以上の放置はダメだ。

 1番早いのは。


「とりあえず、殺さず痛めつける感じでいける?」


 いうと同時に、最も近くの影分身子機2体がそれぞれ演説台の左右へと走り、両手を天に向かって掲げている仮面男の腕を取った。

 右腕に1体。左腕に1体。

 それぞれが体重をかけ、仮面男を演説台に押しつける。

 そうして胴体を固定してから、可動域の限界を超えるまでひと息に捻って――ごりっ。


「があああああああっ!」


 顎を上げ、必死の抵抗を試みようとする仮面男の頭部を、3体目の影分身子機が両手で掴み、全力で演説台へと叩きつけた。


「――ぶっ!」


 全力で叫んでいる真っ最中にそんなことをされたので、当然舌を噛む。

 打ちつけられた拍子に仮面が外れ、からんと音を立てて転がった。


「あ、……み、見えました! タネは、あの仮面かな」


 ……グリゼルダが、ガチで反則的に強い。

 ステルス対策のない相手なら、大体このパターンで終わる気がする。

 つーか仮面男お前、自分でステルス使っときながら対策はなしとか、ちょっとサボりすぎだろ。




「やはり見えるか。同志キリアン。きみの危惧は正鵠を得ていた。きみの慧眼に賞賛を。きみの献身に感謝を。きみの犠牲に約束を。さようなら、同志キリアン。我らが兄弟。また地獄の底で」




 舌を噛んで喋れない筈なのに、変わらぬ調子で続ける声。

 やっぱあいつ囮だったか。

 と思うと同時に、大質量のなにかが叩きつけられた。突然上から落ちてきたそれは、最初からトップスピードでそのまま地にめり込んだ。一瞬遅れてドンと爆音が鳴る。

 それは演説台ごと――仮面男ごとグリゼルダの影分身子機を押し潰した。


 グリゼルダは無言だったが、めっちゃ痛そうな顔をしている。

 やっぱあれ、ダメージフィードバック率はゼロにできない感じなのね。

「あ、ちょっとじっとしてて」

 どろりと垂れた血が目に入りそうだったので、軽く手の包帯で拭ってから、 

「大丈夫? まだ走れる? ごめん、順番を間違った。とりあえずヨランダと合流して、出血だけでもどうにかしよう」

「……え? ええ、はい」


 とりあえず異変の進行は止まった。

 見える範囲に敵はいない。


 ……が、異様な『それ』は残り続けた。


 見慣れたものの色を変え、サイズを変更するだけでここまで気色悪くなるとは知らなかった。 

 走る足は止めず、視線だけを向ける。


 演説台があった位置には今、馬鹿でかい握り拳が鎮座していた。

 どこかで見た『伸びる白い手』に酷似したそれをさらに特大にし、五指を握り締め叩きつけた大質量によるシンプルな暴力。


「仮面男は?」

「そ、即死だと思います」


 仲間の命がくっそ軽い。

 ならこっちの命はもっと軽いに違いない。

 話し合いでどうにかなる相手じゃないなこりゃ。


「なあ再従弟妹はとこ殿。あれは、やっちまってもいいのかい?」

「たぶん暴れるから近づかない方がいい。まとにするのがおすすめ」

 影分身の法則から、あれにもダメージフィードバックがあるかもしれない。

「いいね。得意だよ、そういうの」


 そういって2階から、ミゲルとマナナがクロスボウでの射撃を開始した。

 矢が刺さる度に特大の白い手から血が噴き出す恐怖映像からそっと目を逸らし、さっさとヨランダと合流……がなぜかできない。


 1メートル進む前に2メートル遠ざかる。

 音もなく、これといった合図もなく、さっきまでとは比べ物にならない超スピードで場の変化が再開していた。


 全体の面積が爆発的に広がり続けるのと同時に、一段上がった最奥がさらに盛り上り、ちょっとした階段が生えてきた。その脇にはドス黒い薔薇が大量に飾られ、燭台には黒い炎が灯る。ぼろぼろの木目だった壁面や床が黒一色に塗り潰され、中学の時に遊びに行った先輩の部屋みたいになる。おい記憶の扉空気読め今そのエピソードはいらねーだろ。


「アマリリスさま、足、遅っ」

 しまった、という顔でグリゼルダが口を噤む。

 いや、まずいと思うならなんでいった? 

「……運べる?」

 すすっとグリゼルダの影分身子機が3体やって来て騎馬戦の馬をつくる。ぴょんと乗ってゴー。移動速度が3倍になった。


 とっくに駆けるおれたちに気づいていたヨランダも、こっちに向かって走っている。


 よし、ようやく合流できたと思った矢先、演説台を握り潰すように鎮座していた『白い手』の指がゆっくりと1本1本順番に開かれた。


 出て来たのは、傷ひとつない演説台に立つさっきとは違う男。

 真っ黒い超豪華な紋様付きローブを重ね着したような格好はなんか凄い偉そうである。

 しゅるりと『白い手』が男に吸い込まれたのを見るに、仮面男をやったのはこいつだ。


 男がなにかの宣誓のように右手を掲げる。きらりと指輪が光る。

 目の奥が鈍く痛む。視界が2重にずれたような違和感。片方が破棄され、片方がしゃしゃり出る。これにてすり替えは完了し、舞台の幕が上がる。なんだこれ?



「まもなく黒い薔薇によるミサを始める。冒涜の皮切りまで、悔恨のうちにてお待ちを」



 さっきからずっと聞こえていた野太い声が告げた。


 すると、ごちゃごちゃいう前に今度こそやっちまおうとしていたグリゼルダの影分身子機たちの足は止まり、狙いをつけていたミゲルとマナナのクロスボウは静かに下ろされ、上方を旋回していたノエミの鷹は主の肩へと戻った。


 あ、やべこれ。


 いつの間にか場は、まさに大聖堂と呼ぶに相応しい圧倒的な広さと、どこまでも抜けるように高い天井と、一面に広がる荘厳な壁画と各種装飾品をしつらえることによって、完璧に整えられていた。



「うむ、よろしい。ではただいまより、黒い薔薇によるミサを開始する。どうぞ、絶望に立ち竦んでいただきたい」



 次いでどこからともなく、野太い男たちの合唱が響き始める。

 なにをいっているのかさっぱりわからない歌だったが、ネガティブな内容だということだけはわかった。


 やべえ。

 なんか始まっちゃった。


 三つ目男の時は、やつが「下へ!」と叫べばその通りになった。

 あれはたぶん、殿様などの貴人が登場した際の『再現』だったのだと思う。

 何回もテレビや映画で見た場面だ。

 一喝と同時に波が広がるように次々と土下座していく印象的なシーンだ。


 ならこれは?

 よくわからん謎儀式が始まり、待てといわれたら全員が攻撃を止めた。

 たぶんなにかの『再現』はもう始まってる。

 させるな。

 させたら終わりだ。

 崩せ。


 そこで、視界が回った。


 次の瞬間、おれはなぜか屋根の上にいた。

 広大な大聖堂の屋根ではない。

 半分腐ったようなあばら家の、死にかけたあみだくじみたいなすかすかの屋根上だ。


 不意に、がしっと。


 馬鹿でかい白い手がおれを掴む。

 ぺいっと、たたみじょうほどのスペースへと放り投げられる。

 ここまで魔法とタメを張るレベルでおれの身を守ってきた最強の絶技、受け身が炸裂し事なきを得る。

 おれが放り投げられたのは、屋根のさらに上で浮いている、物理法則ガン無視の意味不明な『板』の上だった。おれ程度の重量が追加されたところでびくともしない抜群の安定感。視界の隅に映る黒い鎖。板の端っこに溶接されたように繋がるその出所を辿ると……さっきまで大聖堂にいた筈の、偉そうなゴージャスブラックローブ重ね着男がいた。手にはぐるぐる巻きにした鎖の終端。

 とっさに、


 ――ダメだ。こいつは本にできない。


 当然のように空中に浮いてる男が無言で出発する。

 スーパーヒーロー的な飛び方で男がかっ飛び、おれは板ごと引っ張られる。

 当然、抵抗の余地などない。

 むしろ落ちないようにしがみつくかたちだ。

 この高さから落ちれば、まず無事では済まない。


 つまりおれは……身動きを封じられ、拉致られた。

 他の皆とは現実改変系の最終奥義的なやつで分断されて、そんなの当然、助けに来れる筈なんてなくて、


 ――やば、これ、死、


「初めましてだな。わたしはアマリリス。君は?」


 怯える前に、とにかく口を開いた。

 声が震えなかったのは、ここ最近で1番のファインプレーだった。

 確信があった。

 きっとここで1度でもそれをして怯えてしまえば、もうあとはそれしかできなくなる。

 ちゃんと理解している。

 おれはそんなに、勇敢なやつじゃない。

 だからなんでもいいすくむ前に黙るな喋れ!


「…………」


 しかし、続きが、出てこない。

 単純な疲労。味方ができた故の温度差による凍傷。純粋に高い所が怖い。どれでもいい。どうでもいい。今必要なのはそれじゃない。


 もしおれにはできないというのなら。

 できるやつの真似をしろ。

 ハイなグリゼルダと口の回るミゲル。

 おちょくる感じで、軽く、余裕を。


「――だんまりか。まあいい。それよりも君、さっき面白いことをしていたね? あの現実を塗り替えるやつ」


 ばたばたと風を受けた男のローブがはためく。背を向け、ただただおれの乗る板と繋がった鎖を手に飛び続ける男はこちらを一瞥すらしない。

 止まれといっても無意味だろう。

 下ろせといっても無意味だろう。

 なにをいったところで、こいつは自分のすることを変えないだろう。

 構わずおれは男の背に向かって口を開く。


「あれ、本物に比べたら、随分とお粗末だったよな?」

 じゃあおれはなぜ喋る?


「つぎはぎだらけというか、妙な間が空いたり、下準備の時間が長すぎたり」

 恐怖を誤魔化す為、だけではない。


「塗り替えるスピードも遅かった。途中何回か止まりすらした」

 そうか。なるほど。


「本来なら一瞬で済ませるものを、まるで亀みたいにのろのろと!」

 おれは、なにもできず、ただ黙って死ぬのが。


 ……悔しいのだ。


「――存外、よ」

「まずは名乗れよ。名乗りは大切だ。それはどこでも同じだろう?」


 しょぼい。

 しょぼすぎる。

 手も足も出なくて、それでも悔しくて、せめて悪口ぐらいはいってやろうだなんて。

 我ながらあっぱれなしょぼさだ。



「……ふむ。よかろう」



 ただこいつは、おれをどこかへ連れて行こうとしている。

 さっきの謎儀式を見るに、生贄の祭壇とかそんなのか?


 ならそこへ着くまで、おれは殺されない……筈だ。

 ならそこへ着くまでは、静かにめそめそ泣いてるのも、死ぬほど煽りまくってぶん殴られるのも、おれの勝手というわけだ。


 なら、やるか。


 しょぼくれて下を向いてぐずぐず鼻をすするよりは、そっちの方がおれ好みだ。


 それに。正直。

 おれを殺すやつがすっきり気分爽快! ってのが死ぬほど気に入らねえ。


「――魔術結社闇の薔薇、盟主代行副首領、イグナシオ。貴方を殺す男の名だ」

「そうか、短い間だろうがよろしくなイグナシオ」


 なんなら握手でもしてやろうと手を伸ばすも、がん、と透明の壁に当たる。

 なるほど、そりゃ飛び下り自殺でもされたら台無しだもんな。囲いぐらいはつけるか。


 落下の心配はないようなので、ゆったりと胡坐をかいてリラックス――してるフリを全力でする。

 ポーズってやつはバカにできない。

 中身は結構、外側に引っ張られる。


 お、実際なんだか息がし易くなってきた。

 ……おれは今まで、呼吸も満足にできてなかったのか。

 吸って、吐く。

 もう息はできる。


「そもそもイグナシオ。君たちはいつからあそこに居たんだ? ちっとも気づかなかった。悔しいが君たちは、コソ泥の天才だ」

「……貴方が眼を覚ます前には、既に罠は閉じていた」

 罠。設置するもの。きらりと光った指輪。透明になる仮面。

「道具か。それも飛び切りスロースタートなやつ。そういえば、マリアンジェラが弾け飛ぶ前までは、あんな目立つシンボルなんてなかったな。あれば嫌でも目に入る。少しずつゆっくりじっくり、つくりかえていたわけか」


 あ、そういやたしかマリアンジェラも裏じゃ『闇の薔薇』とやらの一員だったか。

 ……あいつ、見捨てられたっぽいな。


「マリアンジェラは残念だった。君たちが腰抜けじゃなければ、1歩踏み出す勇気さえあれば、彼女は弾け飛ばずに済んだかもしれなかった。……そんなに特別行動隊が怖かったか?」

「貴方がサンチャゴを封じてからは、随分と皆の腰が軽くなった。最大の懸念材料を手負いにしてくれた功績は率直に称えよう」


 いや誰だよサンチャゴて。

 つーかこいつ、結構普通に会話に乗ってくるな。


 まあ、それもそうか。

 もうこいつからすれば、今のこの空中散歩はウイニングランみたいなもんか。

 手も足も出ない檻の中の生贄がさえずったところで、笑い話でしかないわけか。


「それと思い違いをしているようだが、同志マリアンジェラは立派に役目を果たしてくれた。彼女の死によって、一気に半分まで充填ができた。かかる時間は大幅に短縮された。とある『遺物』を参考に即席で組み上げた陣だったが、我ながら会心の出来だった」

「……どういうこと?」

「死なば飛散する幾分かを掻き集め再利用する陣だ。効率は本元の3割程度――死体をはじめ諸々の残留物を取りこぼす未完成品だが、それでも秘蹟の一端に手は掛かったと自負している」

「仲間の命を使って喜ぶなよ下種が。だから君たちは嫌われるんだ」

「貴方の命も使ってみせよう邪神よ。そして私たちは暁に笑うのだ」


 命を潰して再利用とか、もし本当ならこいつ、かなり凄いやつなんじゃね? こそこそ隠れてたくせにガチ勢すぎない?


 ……あ、そっかこいつら、こっちがもめてるのを見て、誰かが死ぬまでじっと待ってたのか。タダでリサイクルする為に。


「笑えないよイグナシオ。いくら会心の出来だからって、その為に仲間を潰してたら本末転倒だ。道具に振り回されてる。手段に使われてる。それは君たちの手には余る玩具だ」

「これは耳が痛い。やはり勝利には痛みが伴うな。しかして我らは左道の群れ。誰もが端から織り込み済みよ。その成果として今の貴方のその様があるのならば、同志キリアンも今頃、呵呵大笑していようとも」

「いや普通にキレてるんじゃないかな。同志キリアン、ステルス全開でこそこそ隠れて生き延びる気満々だったじゃないか。最初から死ぬつもりなら、どどんと派手に登場するだろ普通」


 するとイグナシオは、演説台に立って言霊を紡ぐことで加速する仕組み云々とか、ステルスが通用するかの実証だったとか、そもそも我らは決死隊だった等など、なんだかんだあれこれと説明を始めた。

 ようやくこいつの注意が完全に会話内容へと向いたのを確信したおれは、板のすみからそっと下の様子を覗き見た。


 喋っている内に気がついた。もし逃げ道があるとするなら、こっちしかないと。


 風。

 小さな地面。

 寒気。

 高い。わかってはいたが、めっちゃ高い。

 地表までの距離は、マンションの7、8階分ぐらいは余裕であるか。


 つまり、落ちれば死ぬ。


 ただ下に見える範囲には延々と民家――でいいのかあれ? なんか粗末な屋根がぐっちゃぐちゃに交わりまくってて意味不明なことになってる、東南アジアらへんの観光客が絶対に行っちゃダメなゾーンを思い出す感じの猥雑さに満ちた個性的な家屋? が溢れんばかりにひしめき合っていた。

 また無視できない特色として、なぜかそのどれもこれもが妙に背が高かった。物理法則にケンカを売るような違法建築のオンパレードだが、3階建てぐらいなら珍しくもない。中には4、5階相当の高さの、よくわからんでかい建物もある。地面が湿気ってて低いと不快だとかそんな土地柄か? それともただ単にそういう文化か?


 いや、理由なんてどうでもいい。

 今おれが見るべきなのは。



 これ、もしかして、行けるんじゃね?



 できる限り高い建物に落ちて、そっからうまい具合に家屋をクッションにばきばきばきって感じで落下して行けば――死にはしないんじゃね?


 楽観できる高さではない。

 普通に死ぬ確率の方が高いとは思う。


 ただおれは、夜まで生き延びれば、持ち直せる。

 実はもうサービスキャッツタイムは終了してて、そのまま普通に死ぬ可能性もある。


 だとしても。


 このまま進んで目的地に到着しちゃうと、おれは100パーセント殺される。

 本人も「貴方の命も使ってみせよう邪神よ」とかいってたしな。そこは間違いない。


 ……まいった。

 こんな高さとか、くっそ怖いのに。

 絶対に痛い思いをするのが確定しているのに。


 やらない理由が、ない。


 本にできない以上、おれの手持ちはひとつだけ。


 たぶん、この囲いは、崩せる。



「わかった、わかったよイグナシオ。君にとって仲間を潰したという事実は、とても大きな負い目で、内心むちゃくちゃ気にしてて、ちょっと触られるだけで100倍の言い訳説明が返ってくるのはよくわかったから、話を戻しても構わないかな?」


 狙い目は、この先にある白い塔みたいな謎の建築物。ここいらじゃ1番高く見えるのはあれだ。あそこのてっぺんに落ちる。


「わたしが最初にいってたやつだ。現実を塗り替えるその切欠。あそこで印象的にきらりと光った指輪。思うにあれが『タネ』なんじゃないか? 本当なら手が届く筈のない大それた改変を『させてくれた』大切な大切な宝物なんじゃないか?」


 その為に、イグナシオこいつが嫌がるであろう話題を振る。それで注意をひく。本命を隠す。手法としてはグリゼルダのパク――リスペクト!


 最も困るのは、冷静に対処されること。

 だからちょっとでも、冷静じゃなくなって貰うよう努力する。


 つはりは――そう。死ぬ気で、全身全霊をかけて、煽る。


「べつに当てずっぽうでいってるわけじゃない。それなりに根拠はある。だって考えてもみろよ、開会の宣言なんか毎日どこかで何百何千とされてる。けどその度に現実がつくりかえられたりはしないだろ? だからなにか特別があった筈だ。一体どれかなと考えた時、思い当たるのはあの指輪だ。あれだけが、違った」


 無言。返事なし。ばたばたとローブの裾が風になびく音のみが響く。

 ここまでの口振りからわかる。イグナシオこいつは己の魔法に自信を、誇りを持っているタイプだ。


「たぶん他の全ては、あの指輪に動力エネルギーを送る手段でしかなかったんじゃないか? ゆっくりゆっくりとしか立ち上がらない、呆れるほど燃費の悪いあれを完全に稼動させる。その一点のみに君たちの全行動は費やされていた。そう考えるのが、最も辻褄が合う」

「……全てが終わってから気づくのは、誰にでもできる。なにがいいたい?」


 よし今だ。おれの中のミゲルを解き放つ。陽気な感じで、札束の風呂で裸の女の肩に手を回している感じで!


「そう、誰にでもできるんだよ、あの指輪さえあれば! イグナシオきみにも、わたしにも、マナナにもノエミにも! 稼動するまでの時間稼ぎや充填の大半は勝手にこっちでやった。あとはいいタイミングで出てきて、残りの不足分を仲間潰して補填すればもうお終い! あっという間に現実改変の最終奥義発動ってな! いいな! 実に簡単だ! 惚れ惚れする!」


「――馬鹿に、しているのか?」


 あのなあ。

 なにをいっても、やっても、絶対に殺しに来るってわかってるやつが凄んだところで、今さらビビるわけがないだろうが。


「――見下しているんだよ、イグナシオ。あの場は君たちにとっても死地だった筈だ。とんでもなく危険な連中が闊歩する中、わたしを拉致しようと手勢を率いて乗り込んで来たんだろう? いいじゃないか。その意気や良し。君たちにとっても、不退転の一戦だった筈だ。まさに決戦というやつだ。――なのに」


 実際に『やる』瞬間まで、視線でポイントの確認などはしない。

 不意に振り返ったイグナシオに狙いがバレる可能性なんてつくらない。

 確認するのは秒数だけ。


「なのに、そこで頼りにするのが、道具かよ。自分の魔法の腕じゃなく、知識じゃなく、経験でもなく、そこで玩具にすがるのかよ。なあイグナシオ。君はこれからの生涯、2度と魔法に誇りを持ってはいけないよ。土壇場でそっぽを向いたやつに、都合の良い時だけ擦り寄るような恥知らずな真似をしちゃあ、いけないよ」


 大体の速度から何秒後に『やれば』いいのか、目処はつけた。


「ああそうだイグナシオ。もしよければその指輪、是非わたしに譲ってくれないか。1度やってみたいんだ。お手軽にぽんと現実改変系の最終奥義ってやつを。君がどんな下らない誘惑に負けてその誇りプライドを糞溜めに沈めたのか、なんだか興味が出てきてさ。玩具で遊ぶ年齢でもないんだが、あんなに楽しそうにはしゃぐ君たちを見せられると、ついね」


 もうちょいだ。あとひと息。

 抜かりなく煽れ。口を回せ。ミゲルやグリゼルダお手本のように!


「けどよく考えると、そんな恥ずかしい玩具をタダで引き取ってやるのも割に合わないな。よしこうしよう。臆病風に吹かれて大切なものを見失ったどこかの盟主代行副首領の矜持1コで手を打ってやるよ。安くてお得だろう? もうなんの価値もないゴミとか、捨て値どころの話じゃないからな!」

「――いいだろう。その言葉、後悔」


 ――よし、今っ!


 最高にビキビキしているであろうイグナシオの返事を聞くことなくおれは『囲い』に触れようと身を乗り出して――さっきと同じ位置にある白い塔を見た。


 ――え? なんでまだそんな遠くにあるの?


 おれはいそいそと空飛ぶ板の中央へ戻り、そっとあぐらをかいた。


「なあイグナシオ。これなんで、前に進んでないんだ?」

 なんかぶつぶついいつつも、止まることなくスーパーヒーロー飛びをしているイグナシオの黒いローブの端は風を受けばたばたしている。つまり、風の抵抗は受けている。前に進む力は作用している。


「……ぬ? なに? これは」


 しかし、進行方向の下方にそびえ立つ白い塔との距離は縮まらない。

 物理法則が死んでる。

 さっきまでは普通に進んでた。

 いや、よくよく思い返せば、このごちゃごちゃなスラム街の上空が『長すぎた』ようにも思える。


「――『鳥殺し』か! しかし基石きせきは全て破壊した筈。ならばこんな真似ができるのは」


 まあ普通に考えると、こんなことができる存在はそうそういないだろう。

 おれが知る限りだと、ひとりぐらいしか。


「ただ独力のみで再展開せしめる存在――旧王家の正統か!」


 まあ、ヒルデガルド姉さまぐらいだよな。こんなことできるのって。


 おれもヨランダも暗黙の了解として、ヒルデガルド姉さまの所在については欠片も口にしなかった。

 どう考えても最重要人物であるヒルデガルド姉さまが、ここいらのどっか近くに『落ちて来ている』なんて情報は、絶対に広めない方がいいに決まってる。

 どっかの間抜けはエレクトリカルキャッツパレードで大々的にアピールして、今もそのツケを払い続けているらしいが……いやいや、そんな馬鹿いるわけないじゃないか、ハハッ!


 まあとにかく、無事だろうとは思っていたけど、なんか空中の法則変えるぐらい元気みたいでなによりだ。





 5秒。




 

 昼間の、日が昇っている間のおれには、死角まで見通せるような超視界はない。




 4秒。




 ピラミッドさんのおかげか、こと闇に関しては異常なまでに見通せる超感覚も、日が昇っている内はどうにも鈍い。



 3秒。



 そんな、普通の視界と感覚しかないと思っていた昼間のおれにも、たったひとつだけ例外があったのを今知った。


 2秒。


 それは、おれが手ずからつくったもの。

 具体的には、ヨランダのメイド服の下に本当にあった謎ガーターに固定されていた、おれ産の黒杭。

 1秒。

 それが下から一直線におれへと飛来し、あと何秒でどういった軌道でおれへと接触するか。

 それら全てが、気持ち悪いぐらいはっきりと把握できた。



 ――あはっ。



 ヨランダが最高すぎる。

 手も足も出なかったおれに、こうして武器を届けてくれるとか、もう最高すぎて大好きになっちゃうだろこんなの!


 消極的な自殺しかできない状況から一気に『ぶちかませる』となったおれのテンションは、アホみたいにガン上がりした。


 だが。

 おれはすっかり忘れていた。


 たとえヨランダが最高だったとしても、それを受け取るおれはど素人だという事実を。


 下方から超スピードで飛来するおれ産の黒杭をキャッチしようと立ち上がり、予想ポイントに手を添えて、


 ゼロ。


 ばぎんと。

 おれが乗せられていた『浮かぶ板』を貫通し、把握していた予定通りのポイントへ黒杭は到達した。


 だがそこにおれの手はない。

 ちょっと考えてみれば、まあそうなるよな、としかいいようがなかった。


 下方から飛来するのは『足場』をぶち抜く威力を秘めた、おれの腕半分ぐらいの大きさはある黒杭ロケット弾だ。

 そんなものが下から直撃した瞬間に、重心を低くくして踏ん張るでもなく、板の端にしがみつくでもなく、さあやってやるぞとうっきうきで棒立ちになっている子供サイズの軽量ボディなど、果たしてどうなるだろうか。


 バランスを取る、衝撃に備える、などといった思考は欠片も存在しない。

 下から来るのだから当然、まずは今いる足場にがつんと来るよな、という当たり前の順序がまるで頭にない。


 つまるところ、間抜け。

 そんなやつ、いとも簡単に、空中へ放り出される。


 本来なら、そういった落下事故を防ぐ目的で張られていた『囲い』も、回収予定ポイントを素通りしてさらに空高くへとかっ飛んで行った黒杭がぶち破った。


 どうやら板を中心にドーム状に張られていたらしい『囲い』が、埒外の一撃により瞬時に四散、おれが自由落下を始める頃にはもう影も形もなくなっていた。


 落ちる。

 背中から落下する。

 寒気。

 ダメだ、これは。


 ――死ぬ。


 間違いない。

 ヨランダは、最高だった。


 ただおれが、間抜けすぎた。

 だが間違いなく、ヨランダは最高だった。


 だからせめて、ヨランダまで間抜けにならないように。

 余計なことをしておれを殺した間抜けだと、後ろ指をさされない為に。

 彼女のおかげで、最後にせめて一矢報いたと、正しく事実を伝える為に。

 こんなおれにも、ごく普通に接してくれたあなたが、無意味に責められたりしない為に。




 ――イグナシオ。お前はここで、おれと一緒に死ね。




 驚愕を顔一杯に張りつけおれを見下ろすイグナシオ。

 その背後のさらに上方、天へとかっ飛んでゆく黒杭が、イグナシオを挟んで、おれと一直線で結ばれた。


 おれ産の黒杭。

 おれの一部。

 来い。……来い! いいから! こっちに! そいつぶち抜いて! 飛んで来いっ! 


 全力で引く。意味があるかはわからない。ただなにがなんでも絶対にこっちに飛んで来いと、心底からありったけを引き絞った。


 耳のすぐ横を黒杭が通過した。

 ひゅ、と風切り音。


 イグナシオが弾かれ、きりもみ回転しながら落ちて行く。


 ……外した。

 当たったのは肩だった。


 野郎、ぎりぎりで避けやがった。


 空を飛べるあいつは、あれで死ぬことはない。

 空を飛べないおれは、これで死ぬ以外はない。


 ……泣き言は、やめよう。

 そんなのは趣味じゃない。

 どうせならボジティブだ。

 たとえばそう。

 あんなにも最高にできるヨランダは、きっとこういうケースも考えてた。

 最悪、おれが撃ち落されても大丈夫だという確信があったから、おれに向け黒杭ロケットをぶっ放した。


 こっちの方向には、、まあ死にはしないだろうと、そう確信したからヨランダは行動に出た。


 なんて、そんなこ――衝撃。

 下ではなく横へ。なにかがぶつかった。不思議と痛みはない。

 身体の動きに首が、視界がついていけず、さらに衝撃。なにかが砕ける音とへし折れる音と「オーナーちぎれる!」という若い女の叫び声を最後に、意味不明の破砕音しか聞こえなくなる。反射的に目を守ろうときつく目蓋を閉じる。両手は顔の前で交差。


 叩きつけられてぶん殴られてを全身で味わう最低なツアーを2週ほどしたところで、ようやく全てが止まった。


 ……最初に気がついたのは、息ができない、という異常事態。


 わけがわからずパニックになりかけるが、この感覚には覚えがあった。

 これはあれだ、ガチの黒帯のやつに加減を間違われて、思いがけず最高の背負い投げを喰らってしまった時と同じやつだ。だからおれいったよなあ柔道部はトーナメントから省こうって勝負になるわけねーじゃん体育の授業だぞバカ!


 記憶の扉がそっと閉まると同時に、激しくむせる。

 吸い込む空気に混じる、独特のにおい。

 おれが知っているものよりずっと濃くて、なんだか薬草っぽくて、けれども間違いないと断言できる煙草のにおい。より正確にいえば、煙草の葉のにおい。


 自分の血で張り付いた目蓋を拭いつつ、ゆっくりと目を開ける。


 そこは荒れ果てた室内だった。


 家具や調度品の類は軒並みばきばきに破損し、今もそこらに細かい木屑を撒き散らしている。それに混じって、さっき感じたにおいの元であろう煙草の葉らしきものが、ふわふわと大量に宙を漂っていた。


 この量と種類からして、個人の嗜好品というわけではないだろう。

 どことなく店構えのようにも見える一角もあることから、きっとここは煙草屋だ。

 工場の大量生産品を仕入れて売るのではなく、職人が1本1本手巻きするハンドメイドの煙草屋。

 たぶん、おれが突っ込んで来たからぐっちゃぐっちゃになってしまった、地元の店。


 その奥で倒れている爺さんの姿を見つけたおれは、思わず駆け寄ろうとして……危うく、足下で寝転がっているもうひとりを踏んでしまいそうになった。


 こっちは婆さんだった。意識はないようで、静かに目を閉じている。

 さっきちらっと見た『魔女の巫女』が着ていたような、占い師とカンフー道着を足して2で割ったような服の重ね着派手派手バージョンみたいな格好をしている。

 たぶんこれが、この地方の女性が着る一般的なデザインの服なのだろう。

 方向性としては、アオザイとかあっちの方か?


 などと考えつつも、とりあえず起こそうと側にしゃがみ込み……その足を見てしまった。


 派手な格好をした婆さんの右足、靴が脱げて裾が破れたすねから、折れた骨が飛び出していた。

 ……本気の重傷だ。


 やってしまった。

 これはダメだ。

 本気でダメだ。


 全然関係のない爺さんと婆さんを、巻き込んでしまった。


 きっとイグナシオは、すぐにまた来る。

 手負いとなり死に物狂いのあいつが、


 目眩。

 膝をつき、立ち上がれなくなる。

 吐き気と同時にばたばたっと、大粒の雨みたいな血が落ちる。


 あ、やべこれ。


 おれも、本気の重傷っぽい。



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