第5.1話 光り輝く鰯の頭



 足を洗う、という。


 主に後ろ暗いところのある稼業から身を引く際に用いられる言葉だが、ならば逆に、そういった仕事を始める時はなんというのだろうか。


 いくら考えたところで彼女には見当もつかず、しかしそれでもどうにか無理くりにこじつけ、結局は新しい靴を買うことにした。


 足を洗うの逆、足に何かをつける。靴を履く。

 そこで閃きひとつ。

 こうして最初の日に新調した靴を――いつか『足を洗う』その時に、派手に燃やしてしまうのはどうだろうか。

 始まりの日に履いた靴を、お終いの日に燃やす。

 足を『洗う』を通り越し、一切合切を炎で浄化するというその発想は、なかなかの妙案に思えた。


 とはいえ、浮浪者も同然だった彼女の手持ちでは、ちゃんとした靴など買えよう筈もなく……どうにか用意できたのは、粗末で安価なサンダルもどきだった。


 約束の場所に現れた彼女を見た女衒ぜげんが「あのだせえブーツはどうした?」とからかったが「捨てた」とだけいった。


 ここから先、私物の類は全て没収されると踏んだ彼女は、いくつかの貴重品と大切な思い出が詰まったお気に入りの長靴を、余人では絶対に発見できないであろう場所にまとめて隠した。


 部族の宝を奪われるわけにはいかない。

 そんな当然の理由とは別にもうひとつ。

 守るものがあれば片手が塞がる。

 それではいざという時に、きちんと殺れない。


「まあそうカタくならず、ね? べつにお前さんだけじゃない。みんなやってる。よくある話なんよ、ここじゃーさ」


 そう、よくある話だ。


 行き場も寄る辺もなくした年頃の女が辿りつく終点。

 どこにでもある、色町に新たな住人が増えるというだけの、よくある話。


 安っぽいサンダルを引きずりながら「でいくつだっけ? そうトシ年。え、まじで。全然見えねーいやホント。オーナーには10コ下でいっときな。普通に通用するしその方がオレも有利に」ぺらぺらとよく喋る女衒の言葉を聞き流しつつも、彼女の内心は冷たく鋭く研ぎ澄まされてゆく。



 ――いつの日か必ず、皆の仇を。



 彼女以外は全員死んだ。

 先に逃げた筈の長老衆も預言者様も、結局は無残な骸を晒した。

 しかしどうしてか、彼女だけは生き残った。


 ならば仇討ちは、そんな己に課せられた使命だと、彼女は密かに宣言する。



 ――虐殺者よ。卑しき軍人どもよ。首を洗って待っていろ。このアカシャ最後の巫女が、貴様等をひとり残らず地獄の底へと叩き落してくれようぞ。



 娼館のオーナーと引き合わされ、女衒のアドバイス通りに10サバを読んだ自己紹介を終えた彼女は、これからに思いを馳せる。



 ――まずは情報を集める。標的を探し出し、調べ上げ、必ずや。



 そんな悲愴な決意はしかし、色町に来て半年が過ぎる頃には「うーん、まあ、正直どっちでもいいか」ぐらいまで下火になっていた。


 べつに挫けたわけでも、過酷な現実を前に諦めたわけでもない。

 単に、もうひらかれたのだ。

 ものを知らない世間知らず――いや、彼女の場合は意図してそうつくられていたのだから、尚のこと始末に負えない。



 たとえばこれ。



 部族の巫女たる彼女には、いくつか特別な教育が施されていた。

 その中のひとつに、神に侍る女の作法としてねやの教育があった。


「いやそれ、単に偉い爺たちが若い娘とやりたいだけじゃん。どうせ役割ごとに『教官』は何人もいるってパターンでしょ? あ、やっぱり? あー、ここにいるとロクでもない話はいくらでも聞くけどね、アンタの田舎、それかなりひどい方だよ。ンな所、さっさと出てきて正解だって」


 細部をぼかした話を聞いた姐さんのひとりが、アンタも苦労したんだねえ、と親身になってくれた。


 まあ正直彼女とて、うっすらとそんな気はしていた。

 教育期間が終わった後も『教えを忘れない為に』との名目で定期的に復習会のようなものがあったのも、まあ露骨といえば露骨だ。

 ただ当時は『歴代の巫女は皆こうしてきた』といわれれば、なるほどそうなのかと、微かな違和感などすぐに霧散していたのだが。



「では発表しよう。特別ボーナス上乗せ5倍! 今月の栄えある第1位は――」



 また、彼女がこの『新たな職場』で大成功を収めたのも、そういったもやもやに拍車をかけた。

 彼女が入った娼館は、互いに競わせることで怠惰を排除するという名目のもと、月毎に売れっ子トップ10を大々的に発表するという、殺し合い前提の殺伐としたシステムを採用する地獄の一丁目だった。


 その地獄のバトルロイヤルに放り込まれた彼女は、なぜか3ヶ月目には1位となっていた。

 神に対するを前提とした奉仕とは即ち、最上級の娼婦をも上回る物凄い何かだったのだ。


「あっはっは! いやお前、神さまって! そんなこと考えてエロ技磨いてきたとか、もうそれ、頭おかしい通り越して笑い話ぶぼっ!」


 大爆笑する姐さんのひとりに酒瓶をねじ込み、その夜は彼女も潰れるまで飲んだ。

 部族が全滅した時点で『それ』が単なるお題目でしかなかったことは明白だ。

 もし本当にそんなものが存在するのなら、誰も彼もが無残に殺されることはなかっただろう。



 ――そうだ。ちょっとあれな所のある部族だったが……実のところ、女衆にはやれ売女だのなんだのと陰口を叩かれて内心かなりきつかったが、それでも皆殺しにされるような咎はなかった筈だ。うん、ならばやはり、仇ぐらいは討ってもいいんじゃないんだろうか。



 そんな風に随分とふわふわしてきた頃、とどめとなる決定的な再会があった。



「あ、やべっ」



 部族内での経験から女衆に嫌われるのは致命的だと知っていた彼女は、1位に与えられるボーナスの殆どを同僚たちにばら撒いていた。

 形が残るものは不和の種。

 ならば無形のもので――つまりは飯を奢る酒を奢るといった方法で、さあ今夜も好きなだけ飲んで食えと繰り出した酒場で懐かしい顔を見た。


 月に1度は部族のもとに来ていた行商人の男。たしか名はロロイ。


 そのロロイが、彼女の顔を見た途端、猛ダッシュで酒場から逃げ出したのだ。


 反射的に彼女は追った。

 さっきの反応。奴は何かを知っている。絶対に逃がすものか。


 本気になった『巫女』の身体能力に、単なる行商人風情が太刀打ちできる筈もない。

 幼い頃から定期的に服用を義務付けられていた『神へ近づく秘薬』の効用か、これまで彼女は闘争や殺し合いで後れを取ったことはない。

 正式な訓練を受けたわけでもないのに、戦士より強く、獣よりも速い。

 まるで、特別な強化でも施されたかのようなその様は『神の恩寵』として彼女が巫女たる所以ゆえんとなっていた。


 路地裏で追いつき、掴み、引き倒し、制圧する。

 相手の背中に膝を当て、片手で両手首を固定した。


「よ、よう。い、生きてたんだな。また会えて嬉し――がっ」

「知っていることを全て話せ。真実の手形として耳を千切って欲しくば言い訳をしろ。2つまでならすぐさまくれてやる」

 部族に伝わる尋問方法だ。

 耳が千切れた程度なら、人は問題なく話せる。


「わ、わかった。し、知っていることは全部話す! なにを言えばいい!?」

「なぜ逃げた?」

「お、お前と……お前の部族と繋がりがあったことを知られると、オレは破滅だ!」

「どうして?」

「どうしてってお前、ヤクの販売ルートがオレ経由だとばれるだろうが! こっちまで始末されちまうのはまっぴらゴメンだ!」

「……そのヤクとはなんだ?」

「は? お前なにいって」

 片方を千切った。

 巫女たる身ではこんなもの、薄紙を引き裂くも同然だ。

「叫び声は最低の言い訳だと知れ。手形の次は『通貨』になる。現世と神界をつなぐ両の目。橋渡しの駄賃。差し押さえるには丁度いい」


 耳の次は目だ。考えて口を開け。

 男はがくがくと頷いた。


「……で、その薬とは?」

「お、お前がせっせと作ってた『神へ近づく秘薬』だよ。なんだよ、本当に知らないってのか?」

 先代が引退してからは、調薬も巫女たる彼女の仕事だった。

「でたらめを。私もあれを服用していたが、妙な効果などなかった」

「そりゃ濃度が1割未満なら単なる避妊薬だからな。けど3割を超えた時点からはまじで即ぶっとんで、もうホント凄ぇんだぜ? しかも副作用は一切なしの超ヘルシー仕様。そりゃ健康が気になるお金持ちの皆様にバカ売れするって」


 もう片方も千切った。

 ナメた口を利いた時点で行動しなければ、延々とナメられ続ける破目になる。


「ならば私のこの力はどう説明する? 少しでも御許へ近づけた証。神の恩寵という他あるまい」

「あ、ひ、し、知らない。それは本当にわからない。腐るほどいた愛好者の中から、急にすげえ力に目覚めた奴なんて聞いたことがない。た、たぶん、あんたが元々強かっただけじゃないのか」


 そこで彼女は大きく深呼吸をして、とにかく落ち着けと自身にいい聞かせた。

 こいつの話のおかしな所を追求しろ。

 嘘は必ずボロが出る。


「……もし貴様のいうことが事実だとしたら、長老衆は莫大な利益を得ていた筈だ。しかし部族の暮らしは必要最低限の質素なものだった。ならば一体、その稼ぎはどこへ消えていた?」

 男はしばらく言葉を選ぶように視線を彷徨わせてから、

「……あんたは今、あの部族の暮らしを『必要最低限の質素なもの』といったが、オレには、とてもそうとは思えなかったよ」


 言い逃れの罰として『通貨』を差し押さえようかとも思ったが、どうしてかもう、彼女の手は動かなかった。


「普通はよ、山間部や平原をうろうろしてる定住地なんてない部族連中の所には、便利で高価な魔導具なんてねえんだよ。夏は水汲みだけで1日の半分が潰れるとかはザラで、冬は暖を取る薪を集める為に凍えるとかいう、わけのわかんねえことばっかしてんのが普通なんだよ。けどあんたの居たあそこで、そんな苦労したことはねえだろ?」

「いや、私は修行の一環だとかいわれて、普通に毎年やっていたが」


 男はあちゃー、といった風にしばらく視線を彷徨わせてから、


「あー、まあ、あれだ、あんた以外の全員は、そんな普通の苦労とは無縁の、あの環境にしては破格の暮らしをしてたってワケだ」


 その身に恩寵を宿せし巫女たるお前は、他よりも優れた存在である。

 ゆえに脆弱な余人の身では到底かなわぬ、神の一部とされる山野に赴けるは至上の誉れと知れ。


 かつて長老のひとりが厳かに告げた巫女の特権が、滑稽な喜劇の一幕になりつつある。


 なのにどうしてか、いや、演目の趣旨に沿ってはいるのでべつにおかしくはないのか――つい彼女は笑ってしまった。


「他には? まだあるだろう?」

「あとオレが知ってんのは、神託院の建設計画ぐらいだ」

「聞かせろ」

「痛っ、う、動かさないでくれ、ちゃんと話すから! つまりは、あんたの後釜を育てようって話だ。一度は次代の巫女として指名した娘っ子がいたらしいが、次の日には家族ごと夜逃げしていたそうだ」


 彼女の家族は、まだ幼い頃に全員が病死していた。

 ひとりぼっちになった彼女に巫女の神託が降りてきたのは、まあそういうことか。 


「あの爺さん達はやりすぎちまったんだな。誰が見ても夜逃げした方がマシって思えるぐらいに、あんたに対し、やりすぎちまったんだ」


 周りから見ると、そうだったのか。

 少し考えてみる。今の彼女なら容易く客観視できる。


 便利な、性的にも使える奴隷。

 そんなもの、誰もなりたくない。


「ま、まあそんなワケで部族内じゃ巫女の後継者なんて絶対に出てこない状況をどうにかしようと知恵を絞った結果が『神託院』だ。平たくいっちまえば、各地から捨て子とか孤児を集めてきて、次代の巫女として育てましょうって計画だ」

「糞のような寝言だな」

「まあな。けど結局はここからケチがついた。ヤクの稼ぎで悪目立ちし始めていた所に、このあからさまな人と金の流れ。ばれちゃいけない連中にあっさりばれて、あえなくあのザマだ」


 もうこれ以上訊くこともないな。

 そう思った彼女は立ち上がろうとして、慌てて腰を下ろした。図らずも背骨に膝が入った男がぐえと呻く。

 すっかり忘れていた。もうどうでもよくなっていた。けどまあ、折角の機会だしと、完全に惰性で訊いた。


「やったのは誰だ? ばれちゃいけない連中とは、どこのどいつだ?」

「……あんただって見たんだろ? 部族の連中を襲ったのは山賊だったか? シマを荒らされたヤクザどもだったか?」

 違う。

 全てが寝静まったあの夜。部族を襲撃してきたのは、完全武装の軍隊だった。

 しかも巫女たる彼女が1対1でも押し切れぬという、まるで向こうにも神の恩寵があるかのような、破格の兵たちだった。

「そうさ。軍を動かせるのはお国だけ――といいたい所だが、たったひとつだけ例外があるのを、あんたは知っているか?」


 いくら世間知らずな彼女とはいえ、さすがにそれぐらいはわかる。


 旧王家。


 すでに王国は滅びた筈なのに、どうしてか中枢に居座り続けている、得体の知れない亡霊ども。


「なんでも今回の一件は、とあるお姫様の暴走らしい」

「……姫? いたか? そんなの」

「まだお披露目も済んでいない子供ガキだよ。そんなお子様が、独自に調査した結果、独自の手勢を率いて独自の判断で襲撃をかけたのが今回の全貌らしいぜ」

「なにを馬鹿な。そんな子供がいてたまるか」

「オレもそう思う。けど知ってるヤツはみんな知ってる。『恐ろしいローズさま』のな」


 彼女が膝を乗せる男の背骨の先。

 首から後頭部へと続くその一帯が、音もなく消えた。


 ……は?


 彼女の意識が追いつくよりも早く、断面から血が噴き出す。

 頭部という本来の行き先を失った血流が、ただ虚しく薄汚い路地裏へとぶちまけられてゆく。



「愛称で呼ぶのを許可した覚えはないわ」



 ずるずると伸びて行く血の絨毯の先に、それはいた。


 子供だ。

 薄汚い路地裏には場違い極まる、ふんだんにフリルをあしらった真っ黒いドレスを身に纏った、長い黒髪の、人形のような顔をした女児。



「けどまあ許してあげる。わたしが来るまで、ちゃんと足止めできたご褒美よ」



 恩寵を受けた彼女にはわかる。残滓がにおう。

 やったのは『これ』だ。


 ゆっくりと視線は逸らさないまま、彼女は立ち上がる。

 圧迫による塞き止めが消えた血流の勢いが、どぷ、と一瞬だけ激しくなる。


 許すといいながらも、男の首から上はなくなった。

 恩寵を受けていようがいまいが誰にでもわかる。

 殺して。許した。ご褒美よ。

 駄目だ。理屈が通じない。狂っている。とても正気ではないと。まともではないと。どんなに世間知らずだろうと、一瞬でわかる。

 今すぐに、ここから逃げなければ、


「そんなに怯えなくても大丈夫よ、アカシャの巫女。あなたを殺したりなんかしないわ。むしろできる限り長生きして欲しいと思ってるの。本当よ?」


 甘く優しく粘つくような声。


「ずっとあなたに会いたいと思っていたの。カビの生えた老人たちの玩具にして唯一の成功例。わたしたちとは違ったアプローチで同じゴールを目指したその成果物」


 彼女にはわかる。

 恩寵を受けたとか受けていない、などといった次元ではない。


 人の鋳型に押し込められた恩寵が、悪意をもって蠢いている。

 闇と呪を燃料に稼動する人型の化生。真っ白な肌の下に流れるおぞましい薄闇。どう見ても猛毒でしかないのに、それでもつい近づきたくなる酸の蜜。

 そんな、わけがわからない何か。


「いい子にしていれば、なにも怖いことなんてないわ。少しお話ししましょう。そしてお友達になりましょう。可愛そうな巫女さま」


 彼女は戦意を喪失する。

 戦わなくてもいいと、話すだけでいいと『これ』に提案され、断る蛮勇は彼女にはない。


「ねえ巫女さま。あなたはあの薬を、いつからどれぐらいのペースで飲み続けてきたの?」

「水と原液の割合は?」

「病気をしたことは?」

「出産の経験は?」

 矢継ぎ早に繰り出される質問に、死に物狂いで答えてゆく。

 嘘と死が一塊になっているとの実感が彼女を世界で一番誠実にする。


「じっとしてて。動いてはダメよ」


 そういって腹や背をぺたぺたと触られたが、彼女は抵抗しなかった。できなかった。


 やがて『それ』は残念そうな溜息を吐き、


「やっぱり経口摂取じゃお話にならないわね。20年以上続けても『3』止まりなんて、浸透が遅すぎて使い物にならない。素体へのダメージが軽微なのも、いずれ技術的に解決できる問題でしかない」


 早口で何かを呟いたが、彼女には聞き取れなかった。

 1秒でも早くここを去りたい彼女は、聞き返すような愚は犯さない。


「……ダメね。論外。ゴミ。けど一応――」


 しばらく何かを考えた後、もういいわ、と『それ』はくるりと背を向け去って行く。


「ねえ巫女さま。その薬、お仕事で使う分には見逃してあげる。濃度は8分から1割の間を遵守なさい。あの老いぼれたちと同じ失敗を繰り返えしちゃダメよ。こっちだって――」


 首だけで振り返り、もう彼女に興味がないのを隠そうともしない、ぞんざいな言葉を投げ捨てる。


「いちいち害虫駆除とかしているヒマはないの。わたしに余計な手間をかけさせないでね」


 彼女は黙って頷いた。


「いい子ね。……ハウザー。一応レシピだけは回収しておきなさい」

「は」


 不意に隣から聞こえた声に振り向くと、シックな準礼服を着込んだ青年がいた。

「余計なお喋りはナシよ。わかるわね?」

「は」

 いつの間に、と驚きつつも視線を戻すと、もうそこには『あれ』の姿はなかった。


「今、手元にありますか?」

 青年が問う。

 何が? 決まってる。

 神へ近づく秘薬のレシピ。

 つまり部族の宝は、お気に入りの長靴と共に余人では絶対に発見できないであろう場所にまとめて隠した。


「素直に渡しておきなさい。あの御方がこうも譲歩されることは、そうそうない。自覚はないだろうが貴女はいま、望外の幸運の只中にいる」


 とくに迷うことなく彼女は、青年に宝――と思い込んでいた単なる古ぼけたメモを渡した。

 そもそも内容などとうの昔に暗記済みなので、この紙切れには本当に何の価値もないなと、ひどく醒めた心地のまま彼女は青年と別れ帰路に就いた。


 そうしてそのままぼんやりと娼館の管理する宿舎へと帰り、ぼんやりと風呂に入りぼんやりと飯を食って、ぼんやりと私室の窓から外を眺めた。



 ――わたしたちとは違ったアプローチで同じゴールを目指したその成果物。



 ふと『あれ』の言葉が脳裏をよぎった。


 あのくそったれな部族がつくり出したのが彼女だとするなら。

 きっと『あれ』をつくり出したのは――旧王家。


 怖気が走る。

 かかわるべきではない。禍々しいなどといった次元ではない。まるで終わりの坩堝だ。

 だがまあ、レシピは渡したし、興味もなくしたようだったし、もう向こうも用などないだろう。


 そこでようやく危機が去ったと実感できた彼女は、ばふ、とベッドに飛び込んだ。

 あー怖かった。まさか生きて帰れるとは思わなかったラッキーついてる。よし酒飲んで寝よ。


 こうして、新たな生活を始め1年が過ぎる頃には、一族の仇などという、もはや意味不明の戯言でしかない雑音は、彼女の脳裏から消え去っていた。









※※※









 使命と思い込んでいた勘違いから開放された彼女は、しかし結局はそのまま娼館に残った。


 行くあてがなかったというのもそうだが、なにより、女衒ぜげんに連れて来られた際の契約において、がっつりと騙されていた。

 細かな文字と素人には解読不可能な書類のマジックによって、いくら稼ごうが借金が増え続けるという無限パターンにはめ込まれていたのだ。


 それを知った彼女は猛抗議し、当然のように無視され、しまいには「あのうるさい馬鹿女を黙らせろ」とオーナーから用心棒をけしかけられる始末。


 しかし巫女たる彼女が単なる乱暴者風情に遅れを取る筈もなく、全員のアゴと手足を砕いたところでオーナーは逃走。娼館の背後に君臨する非合法組織に彼女の殺害を依頼し、気がつけば彼女は追われる身となっていた。


 一口に『追われる』といっても、なにも怖くて逃げたわけではない。

 ただ同僚たちに迷惑がかかるのを避けただけだ。


 そうして己の身ひとつとなり、一息ついた所で。


 彼女は決めた。

 どうせもう使命も目的もない人生だ。

 ならばせめて、自身や同僚たちを食い物にする害獣を駆除して、さぱっと死のう。


 例の一件以来、どうにも惰性でだらだらと生きていた彼女にとって、その決断はひどく腑に落ちた。


 ハナからどこか違和感があった前回部族の件とは違い、今回の筋道には一切の曇りがない。淀みがない。遮るものが何もない。なら実力以外では決して止められない。過酷な山野で培われた冷酷な命の倫理は口先の屁理屈などではびくともしない。


 つまりはこの女、やると決めたらやる。


 かつて彼女は『あれ』を、理屈が通じない狂人と評した。

 ならば彼女は、理屈さえ通ってしまえばどこまでも行けてしまう彼女は、果たして何と評されるべきなのだろうか。



 そうして『あれ』が『3』と評した元アカシャの巫女は、人生最後の置き土産として、薄汚い人型の獣を駆除せんと全身全霊を尽くし闇夜を駆けた。




 結果。




 旧市街を牛耳る犯罪組織は壊滅した。


 死者、行方不明者158名。

 重軽傷者344名。


 その被害者の全てが犯罪組織の構成員および協力者であり、その他の一般市民や貧民、流民といった『彼女に敵対しなかった者』に直接的な被害はなし。

 つまりは、殺し合いの場において相手を選ぶという、ある種の『枷』をつけた状態でこの戦果。


 その事実はすぐさま国家の意思決定機関の知る所となり、事前に告げられていた「わたしのお友達の巫女さまは侵蝕深度フェーズ3なのよ」という情報と合わせて、強化措置の絶大な効果を明確な数値として証明した、初の実例となった。


 500対1で、1が勝つ。そんな馬鹿げた、輝かしい夢物語。

 果たしてどれだけの有力者が権力者が愛国者が、その光に目を焼かれずに済むだろうか。


 ただ当然ながら、彼女の方も無傷とはいかなかった。


 全身14箇所の骨折。

 大小12の切創。

 刺創6。

 咬傷2。

 打撲創、内臓破裂多数。


 通常ならもうとっくに死んでいてもおかしくないズタボロな姿で昏倒し続ける彼女の病室へ、女中服を着た女を先頭に数名の紳士たちが入室した。


「本日はお忙しいなかご足労いただき誠にありがとうございます。皆様方におかれましては――」

 長ったるい挨拶と社交辞令をたっぷりと済ませた後、ようやく女中は本題に入る。


「本日皆様に御覧いただきたいのは、強化措置における最大の利点。本案件に携わる誰もが口を揃えて『一線を画す』と太鼓判を押す最大の長所。つまりは、故障した際の整備性。即死せず身体の欠損さえなければ、極短期間で一切の後遺症なく戦線復帰が可能な『強くてタフな超兵』という当初のコンセプトを忠実に――」









※※※









 ぱちりと目が覚めた。

 場所は私室のベッドの上。

 染みや色褪せの位置が記憶通りの天井から、自分が今どこに居るのかを察した彼女はむくりと上体を起こした。

 どうやらつきっきりで看病をしてくれていたらしい同僚の歓声と「すぐ人を呼んで来るからじっとしてるんだよ!」という言葉に押され、ならもう一度眠ろうとかなと、最高の贅沢である2度寝をかまそうとしたところで、そのあり得ない異常事態に気がついた。


 ――いやいや。なぜ、生きているのか。しかもこれは。


 そんな馬鹿なと慌てて全身を確認するも、やはり間違いようもなく、どこにもなかった。


 傷が、ない。

 身体のどこにも、傷一つない。


 腱ごと抉られた左手も自在に動くし、全身満遍なくざくざく斬られたり刺されたりした痕跡が――いやよく見ると、薄っすらと、本当に薄っすらとだがある。

 まるで10年前の古傷のような、極限まで薄くなった微細な肌の違和感。

 あれは決して夢ではなかったと証明する痕跡たち。

 しかし彼女には、とてもうつつとは思えない。


 試しにとベッドから立ち上がり軽く突きや蹴りを放ってみるも、とくに異常はなし。


 こりゃ死んだわ、とそこそこの満足と共に意識を手放した筈なのに、目覚めたら全回復。

 いくら恩寵といえども、ここまでの奇跡は起こせない。

 けど実際に起きた。起きている。何かが

 条理を吹き飛ばせる埒外の力を持った何か。

 思い当たるフシなど……ひとつしかない。


「あまり動かない方がいい。今は何も感じないだろうが、しばらくするとこれまでのしわ寄せが一気にやって来る。我々は『初期反動』と呼んでいる」


 声の元を見れば、以前『あれ』に遭った際に古ぼけたゴミ一族の宝を渡した青年――たしかハウザーだったか――がいた。

 以前と同じ黒づくめの準礼服に身を包み、構えるでもなくだらけるでもなく、ただ自然体のまま彼女に相対している。


「ショキはん? それ、大丈夫なのか?」

「9割方はな」

「残りの1割は?」

「苦しみは、しなかった」

「あんた達も、ロクな扱いは受けてないみたいだねぇ」


 まあ『あれ』の下についている時点でお察しだろう。


「私を助けたのは『あれ』――あのお姫様かい?」

「そうだ」

「どうしてこんな罪人に、そこまでの手間を?」


 やくざ者ならいくら殺してもいいとはなるまい。

 原則、どんな集団においても殺しは御法度だ。


「罪人? 誰がだ?」

「私が。殺しの咎で」

「やり過ぎた反社会分子の粛清を兼ねた評価試験だったと聞いている」

「いや、そんなん知らんぞ。私がやりたいから、私がやった。それだけだ」

「だとしても、そうなった」

「……いや、さすがに通らんだろう、それは」

 城下の外れとはいえ、目を凝らせば旧王城が見えるぐらいにはお膝元なのだ。

 そこを用いて殺し合いで試験を行うとか、どう考えても頭がおかしい。

「……おそらくは貴女の言い分の方が正しいのだろうが、すでに。自分や貴女のは何ら事実に影響を及ぼさない」


 彼女は思い出す。

 そういや『あれ』頭おかしかったわ、と。


「だとしても解せない。私を助ける義理はなかったはず。邪魔者が消えたなら、思惑が成ったなら、そこで終いとなるだろうに」


 ――いちいち害虫駆除とかしているヒマはないの。わたしに余計な手間をかけさせないでね。


 彼女の脳裏に『あれ』の言葉が木霊する。

 瀕死の彼女を治すのは余計な手間ではないというのか。


「邪魔者が消えた穴は、上の方はこちらで埋める。下の方――現場の方は貴女が埋めろと仰せだ」


 一瞬、意味がわからなかった。

 現場の穴。文字通り潰した、ここいらを仕切るヤクザ者ども。

 代わりにおまえが埋めろと『あれ』がいった。


「……一介の娼婦に、なにいってんのさ」

「どうせ後釜に座る誰かも、娼館に対してのやり方に大差はない。同じようなことが延々と繰り返される。出口のない搾取。それを許容できる貴女か?」

 彼女は言葉に詰まる。

 できなかったから、こうなった。

「ならば貴女がやる他ない。そうあの御方は仰せだ。やるなら助力は惜しまないとも」

「いやまて。私ゃ集団の舵取りなんぞ、やったことはないぞ」

「無論、補佐はつける。数字と経営に強い専門家を」

「そういうことじゃない。つい昨日まで娼婦だった奴に、誰が従う?」


「単身で150名を殺害し、350名をぶちのめし『個』で『組織』を潰した。最後は瀕死だった筈なのに、3日後にはぴんぴんしてた。そんな奴に、一体誰が逆らえる?」


 彼女は言葉に詰まる。

 もしそんな奴がいたなら、逆らうとか従うではなく、絶対にかかわりたくない。


「今や貴女は力と恐怖の象徴だ」


 それはまるで『あれ』のような。


「……もし断ったら、どうなる?」

「我々は手を引く。後釜は勝手に湧き出て来るだろう。その後どうなるかは貴女次第だ」


 色々と可能性を考えることはできるが、そのどれもが、彼女とかかわりの深い娼館の皆にとって明るいものではなさそうだった。


「引き受けたら、どうなる?」

「組織の残党は4つの小集団にわかれている。それぞれに我々の方から『そこそこできる奴』を送り込み掌握させる。その後、全てのグループは貴女の傘下に入り、一定の秩序が完成する」

「……そんなことまでやってんのかい。旧王家ってやつは」

 青年は答えなかった。

 否定も肯定もしない。

 最悪『姫』の独断で済ませる手筈なのだろうか。

 本来、こういったはかりごとには疎い彼女にはわからない。

 だからもう、なんだか面倒だったので――というか、実際のところ選択肢なんてないも同然だったので、さぱっといった。


「わかった。あんたらの言う通りにしよう。ただ、私は娼館を第一に考え動くよ。もうあそこの皆は仲間だからね」

「旧市街は好きにしろ、とのことだ」

「いいのかい? 利益だとかそんな話は?」

「さっきもいっただろう。数字と経営に強い専門家をつけると。そういった話は、そいつとしてくれ」

「いやまて、私は頭に来ればきっとそいつを殺すぞ。とても正しい理屈で1から10まで埋められてしまえば、もうあとはそれしかないだろう? だから今こうなってる。たかが正しいぐらいでどうにかなると思うな。もしあんたらがそういったやり口で事を進めようとしているなら、やっぱり私は止めといた方がいい。お門違いだ」


 そんなことをすれば、今度こそ『あれ』に殺されるかもしれない。

 しかし、所詮この身は一代限りの巫女。

 死ぬ時は死ぬし、その時は自分で決める。


「……これは私見だが、きっとあの御方は旧市街ここには何も期待していない」

「さっきあんたがいってたじゃないか。に意味はないって。だから一度聞いてきてよ。気に入らなきゃ殺しますが、それでもよござんすかって」

「わかった。明日、また来る」


 彼女の予想に反して、青年はあっさりと了承し踵を返す。

 一瞬だけ迷ったものの、元来腹に溜め込む性分ではない彼女は構わず訊いた。


「ねぇハウザー。なにを考えているんだい? こうやって私がゴネた時の為に、あんたみたいな『どうにかできる奴』が使わされたんじゃないのかい?」


 恩寵の賜物か巫女としての勘か、あるいは経験からの予測か、嫌にはっきりとわかる。

 無手でこの間合いにおいて、こいつには絶対に勝てないと。


「そういった命は受けていない」

 そこで一度、背中が止まり。

「……ただオレは本来、あの御方の僕ではない。我が主に『忙しそうだから手伝ってやれ』と命じられただけに過ぎない。だから、言われてもいないことまで実行するつもりはない」


 あ、こいつハウザーも『あれ』のことは好きじゃないのか。


「あんたも大変だねえ」

「……次からはお前の役目になる。心から同情する」


 そうして彼女の要望は認められ、生殺与奪の権利まで与えられることとなった。

 しかし、この時の彼女は知らなかった。

 大きな権利には、もっと馬鹿でかい義務が付随することを。


 そうして絶妙にがんじがらめになったり、血みどろになったりしている内に月日は流れ、成長した『あれ』が『魔女』と呼ばれるようになる頃には。


 かつてのアカシャの巫女は、魔女の巫女と、そう呼ばれるようになっていた。









※※※









 旧市街の娼婦たちには、とある独特な風習がある。

 所属する組織や派閥は数あれど、そういった垣根を越えて、誰もが最初にそれをする。


 分類としては『模倣型』――過去の偉人や成功者の行動をなぞることで、自身にも同様の成果がもたらされんと望む一種の願掛け。それにひと匙の希望を組み込んだ、きっと明日は晴れるといった類のおまじない。


 やり方は簡単。

 同じ時に同じものを用意する。それだけで成立するというお手軽さも全体に普及した要因のひとつだろう。


 時とはいつか。

 最初に仕事を始める時。あるいは最初に娼館へと赴く時。


 用意するものとは何か。

 新しいサンダル。それを履く。


 それをどうするのか。

 保存しておき、この稼業から足を洗う時に燃やす。


 つまりはどういうことか。

 仕事始めに新調したサンダルに『全ての厄』を請け負って貰い、最後の最後で燃やすことで、なにもかも一切合切を清算するセレモニーとする。

 いわば、かつての邪神がもたらした異郷の文化のひとつ『厄除け人形』の廉価版だ。


 しかし侮ることなかれ。これはとても前向きで重要な、区切りの儀式の下準備でもある。


 最初に『あがり』を、明確な終わりを意識させることで、自暴自棄の防止や自殺率の低下に繋がる有効策だったりもするので、昨今では娼館の方から支給するケースもある。


 ただ現場の実情としては『仲間になる儀式』としての側面が強い。

 ここに来た。新しいサンダルを貰った。わたしの時と同じ。ならあなたも今日から仲間ね。


 ことの由来とか経営者側の都合など知ったこっちゃないというのは、べつにこの業界に限った話ではないだろう。


 ただ。


 今や経営者側に回った彼女からすれば、自分が若い頃にやった、バチバチに気取ったあれな行動を見せつけられるのは全身が痒くなる思いだったが……数十年も経つ頃には、もうどうでもよくなっていた。


 というか現場の娘たちには、もはやいつもの『新しい仲間を迎える儀式』でしかなく、わざわざその元となった話を知っている者など、


「ねーばあちゃん。あの始めに新品のサンダル用意するのって、ばあちゃんが最初って聞いたんだけど、それ本当?」


 まあ、たまにしかいない。


「……ああ本当だ。凄いだろう」

「いやダメじゃん。ばあちゃん、まだこんな所にいるじゃん。ぜんぜん燃やせてないじゃん」

「アホ抜かせ。とっくに燃やして現役引退しとるに決まっとろうが。あと手が止まっとる。喋りたきゃ動かせ」

 ごりごりすり鉢をこねる。

「あのねばあちゃん。これって単なる雑用だよね? アタシの仕事じゃないよね?」

「この娼館にかかわる全部がおまえの仕事だよ。クソな客ぶん殴るだけの楽な仕事なんて、ここにゃないよ」

 ごりごり、ごりごり。

「あのさ、もしかしてだけど、今アタシが作ってるのって、いつも姐さんたちが飲んでるあの薬じゃないよね?」

「そうだよ。いつも店の娘たちが飲んでる、副作用も身体の機能を損ねることも一切ない、うち秘伝の避妊薬だ。じわじわと人伝で評判が広がり、今や娼館の売り上げの半分に迫ろうかという特産品さ。おまえの給金の幾分かはこいつでできてる。心してつくりな」

「いやダメじゃん。ちょっと前にこれの利権で死ぬほどモメたヤツじゃん。そんなモンの作り方とか、アタシ知りたくないんだけど」

「心配ないさ。たしかに死ぬほどモメはしたが、いちゃもんつけてきた奴等は皆死んだ。次に湧いて来るまでは、まあいつもの周期なら10年ぐらいはある。それまでにおまえが、ナメたこと抜かすアホ共を潰せるぐらいになってりゃ問題ない。むしろ、努力の成果を披露する発表会みたいなもんさ」

「ばあちゃんってさ、いい歳こいてんのに、殺意高すぎるよね」


 さっきから『ばあちゃん』と呼ばれてはいるものの、べつにこの娘は彼女の孫というわけではない。


「あ、ばあちゃん、それ違う。7対3じゃなくて6対4になってる。……さっきからどうしたん? なんかやたらこぼすし配分とか間違うし。急にもーろくしたんか?」

「うるさいね。好きでやってるわけじゃないよ。そういうおまえこそ、今夜はよく喋るじゃないか。いつもは半日むっつり黙ってるとかザラなくせに」


 そう。どうしてか今夜は妙に落ち着かなかった。

 これまで何千回とやって来た作業にもかかわらず彼女は些細なミスを連発し、いつもは無口なこの娘がやたらと饒舌になっている。


 浮き足立つ。何かがざわめく。


 長年に渡る勘と経験から、危機や凶事のにおいはしない。

 ……のだが、かといって慶事かと問われると、なぜか素直に頷けない微妙な引っかかりが、

 そこでドアがノックされる。

「失礼します。支配人オーナー、少しよろしいでしょうか」

「おい。調薬中だと伝えたと思うが。それを踏まえた上でいってんだろうね?」

「はい。緊急事態と判断しました。外の様子を御覧いただきたく」


 この調薬室は機密保持の都合上、娼館の地下にある。

 なので当然、この部屋に窓なんてない。外の様子などわかるわけがない。


 作業を中断した彼女は、目の前の娘に「まずは店の皆を守るのが最優先だ。いいね?」と念押しすると、早足で地下室を後にした。

 緊急事態などという言葉が飛び出す時はいつも、ロクでもないことが起きる。

 だから『起きている』を前提で行動する。


 薄暗い階段を上り、とくに襲撃や事故もなく地上へ出て、べつに刺客が待ち構えているわけでもない正面大ホールを抜け、馬鹿みたいに豪華な見栄と威圧が同居する大扉の外へ。



 そこで見た。

 いつもと違う夜を見た。

 夜空をかける大河を見た。

 闇夜にかかる馬鹿げた規模の光の河を見せつけられた。


 先に出ていた店の娘たちが「すごい」だとか「きれい」だなどと騒ぎ立てていたが、いつしか潮が引くかのように、すうっと静かになっていった。

 最初は花火でも見ているつもりだったのだろう。

 だが、いつまでも終わらない天の河異常を見続けることで、これが現実に起きている、とても手に負えない『何か』だと理解してしまい、すっかり怖気づいてしまっていた。


 そこで彼女は妙なことに気付く。


 いくら深夜とはいえ、ここいら一帯は夜の店ばかりだ。

 当然どいつもこいつも宵っ張りであり、ならばこれ程の異常事態ともなれば、すぐさま万人の知るところとなる。

 彼女たちが外へ出て来た時には、すでに表通りは夜空を見上げる見物客で一杯になっていた。

 娼館の隣にある微妙な飯屋の店主。数少ない彼女より年長の煙草屋の主人。その他もろもろ、知っている顔は大体勢ぞろいしている。

 ただ。

 そのほとんどが、なぜか鼻をすすり涙を拭っていた。

 中には膝立ちになり、隠すことなく滂沱の涙を流している者さえいた。


 だが彼女を含めた娼館付きの娘たちは、誰ひとりとして『そう』はなっていない。

 ただ同じ娼館付きでも、用心棒や始末屋の男たちは皆こぞって落涙している。

 人相の悪いむくつけき男たちの本気泣きを、最初はどこか喜劇のようにはやし立てていた娘たちも――次第にこの場でいつも通りなのは自分たちだけだと気付き始め、戸惑うように彼女へと視線を向けた。


 すぐさま彼女は、娘たちに『嘘泣き』を指示した。

 自分たちが、異常の影響を受けない『異常』だと周囲へ知られることに、本能的な危機感を覚えたからだ。


 ここで疑問を挟むような愚図は最初にふるい落としている。

 すみやかに完璧な涙を落とし始める娘たちを横目に、彼女はうんざりとした気持ちのまま、夜空の河をにらみつけた。



 ――今さら『こんなもん』に来られても、迷惑だよ。



 これが何を意味するのかなど、誰にでもわかる。

 こんなの、どれほど鈍いやつだろうがすぐわかる。

 ここまで派手にやられると、わからないフリをするのは不可能だ。


 かつて部族の支配者どもが彼女をなぶる言い訳に使ったそれが、彼女にとって全ての規範となっていたそれが、実際にこの地に足をつけるなんて――正直どうすればいいのか、わからない。


 お前のせいであの時私は、と怒ればいいのか。

 よくぞ御出で下さいました、と歓迎すればいいのか。



「ねえばあちゃん。キレイだけど鳥肌が立つね。眩しいけど冷えるね。これは敵? それとも味方?」



 彼女は答えなかった。

 いくつかの知識はある。

 何もそういった教育の全てが性的なものだったわけではない。

 一見まともに思える記憶もいくつかはある。

 しかし族長連中の思惑を知った今となっては、そんなもの、どこまで信用できるかわかったものではない。

 むしろ、1から10まで出任せだったと考える方が自然だろう。


 そう思っていた。

 ついさっきまでは。


 そこで不意に、夜空の大河はある地点へ集束するように消えていった。


 その方角と大まかな距離を、脳裏に浮かべた地図上に当てはめると……該当するのは東の果ての離島群。思い当たるのは旧王家の直轄地。今も『あれ』が居を構える、魔女の館と呼ばれる拠点兼研究施設。この世で一番近づいてはいけない場所。言うこと聞かない悪い子は魔女の館に放り込むぞ、といえば大体の子供が大人しくなる、そんな次元の厄所。


 おそらくそこに降臨した。

 この世で一番やばい奴の所に、ここではないどこかから来た凄ぇやばい奴が降り立った。


 ――こりゃあ、かかわらないのが、上策だ。


「おまえたち。今夜はもう店仕舞いだ。まだ中にいる客にはお帰り願え。料金は全額返金し――いや、詫びの酒代として1割り増しで渡しておけ。それでもぐだぐだ抜かすなら叩き出せ」


 できれば共倒れになってくれないかなあと思いながら、彼女は最上階にある自室へと戻って「もう今日は休むから邪魔するな」と言いつけた。

 どいつもこいつも、なんだかごちゃごちゃいっていたが「神様相手に何ができる」と一喝すれば静かになった。


 そうして部屋でひとりになり、どうせ明日から色々と立て込むに決まっているのだから今夜ぐらいはゆっくり休むぞ、と思ったものの、当然ながら寝付けない。


 寝巻きに着替えていないのも、その理由のひとつだ。

 有事の際には、いつでも動ける格好でいること。

 そんな当たり前の心構えが、かかわらない、迷惑だと断じておきながら、まるで渦中にいると暗に自覚しているかのようで面白くない。

 だから、半ば意地で無理矢理にでも眠ってやろうとベッドの上でごろごろし、無駄に長い時間が過ぎた頃、不意に窓から光が差した。


 暗色のカーテンを突き抜け、ちらちらと彼女の目をからかう光の線。

 もう夜明けか、と思った彼女が、そんな馬鹿なと飛び起きる。

 眩しい朝日に目を焼かれるのを嫌う彼女は、沈む夕日が見える方位に窓をつくった。

 なのでこの窓から朝日が差し込むなど、絶対にあり得ない。

 ならこれは一体何なのかと、慌てて窓を開けるとそこには、



 光の河が降りていた。



 先程は確かに『魔女の館』へ降り立っていた筈のそれが、狂ったように踊る光の粒子たちが、この薄汚い旧市街の外れに舞い降りていた。


 一切の風を感じない猛吹雪の只中、とでもいえばいいのか。

 逆巻くは雪の結晶ではなく光の粉雪。

 距離が近いせいか、どうしてか、無数の猫の姿が見える。

 どいつもこいつも目を細め歯をむき出し大笑しながら飛び回っている。

 そのどうしようもない違和感で彼女は悟る。

 あっち自然現象の方の猫には顔がない。

 小動物の猫は空を駆けない。

 すでに条理が崩れている。

 見知った旧市街ここが、未知のどこかになりつつある。


 窓から身を乗り出し呆ける彼女の目の前を一匹の黒猫が通り過ぎる。つい反射的に手を伸ばすも、するりと突き抜けてゆく。やはり触れない。この世のものではない。それがこの数。尋常ではない。


「ばあちゃん!」


 ばんとドアを蹴破らんばかりの勢いで、予想通りの娘がやって来る。


「アタシも見たい! 端によって!」


 ぐいぐい押されて、半分ほどスペースを奪われる。無駄な注意で時間を浪費するのを彼女は省いた。


「何が見える?」

 線引きは間違えない。分は弁える。大雑把に全体像を把握する程度なら許容範囲だが、細部をまじまじと観察することなどできやしない。

「うーん、……遠くのほうにいる猫は色んな種類がいるんだけどさ、あの降りて来る場所の真上まで来たら、なんかみんな黒猫になっちゃうみたい。毛の長さとかくせっ毛とかはそのままで、色だけがしゅって黒くなる。猫の世界にも正装ってあるのかな? 全身まっくろなのが礼儀正しいです、とか?」

「んな馬鹿な話が」

「ばあちゃんに会いに来るおじさんたちと一緒じゃん。いつもはどぎつい趣味の悪ーい服着てるのに、ばあちゃんに用事がある時だけ全身まっくろ。ほら、そこの猫たちも一緒」


 いわれてみればそんな気もしてくるが……今ここで答えは出せないだろう。


「あ、なんかあちこちからガラの悪そうな奴らが集まって来てる。おお、すごいすごい! 砂糖にたかるアリみたい!」


 愚か。

 あれが宝にでも見えるのか。手に入れることなどできるものか。

 馬鹿どもの自殺を最後まで見届ける必要もあるまい。


「リリカ。今カルミネの坊やはどこにいる?」


 娼館の経営母体組織トップの男――要は『魔女』から派遣された見張り兼報告係だ――と話をつけてから動かなければ、いらぬ隙を晒すと考えた彼女がその所在を問うと、


「あ、それそれ。それ言いにきたんだよばあちゃん! ついさっき、なんかカルミー死んじゃったんだ! こういきなりぐえーって血ぶしゅーてなって、ぼんって即死! 周りにいっぱい飛び散って、もうすっげえ最低なの!」


 この娘リリカが彼女に虚偽を報告することはあり得ない。もしそんなまともな情緒があるのなら、とっくの昔に放り出している。

 つまりは最悪の状況。

 異変が起きた途端に繋ぎ役が変死するとか、まるで謀反の狼煙ではないか。


「……誰がやったか、見当はつくか?」

「うん。魔女のおばさんだね。あれだけぷんぷん臭えば、アタシじゃなくたってわかるよ」

 この娘リリカが彼女に虚偽を報告することはあり得ない。

「……現場に案内しな」

「こっち、ついて来て。場所は2階の――」


 なぜ魔女が自分でつけた見張りを己の手で殺すのか。

 そんな当然の疑問を抱きつつも彼女は、ほぼ原型を留めていなかったカルミネの残骸を調べた。


 カルミネは頭と胸の2箇所が『内側から』破裂していた。

 残骸や周囲にこびり付く、ドブのような恩寵の悪臭は間違いなく魔女のものだ。余人に偽装できるような『濃さ』ではないので、これは彼奴の仕業と考えて間違いあるまい。


 複数の目撃証言から、何の前触れもなくいきなり苦しみ出してそのままどん、だったらしい。

 素直に考えるなら、カルミネは魔女によって始末された、とみるべきだろう。


 しかし彼女が知る限り、カルミネに裏切りや火遊びの兆候はなかった。仮にもし奴が小細工の天才だったとしても、なぜこのタイミングで? という不自然さは拭えない。


 そう、きっと今向こう――魔女の館は、かつてないほどに立て込んでいる筈だ。

 最悪の客が訪れて、これまでの最悪が毎秒ごとに更新され続けているであろう真っ最中に、どうしてわざわざ、遠方の部下を爆死させる必要が、


「あ」


 その可能性に思い当たった彼女が「他に同じような死に方をしている奴がいないか確認してこい」と街中に男衆を走らせる。

 それから、そっとリリカに耳打ちし、その後を追わせた。


「ねえオーナー、結局これってさ、どういうことなの?」


 残った後片付け班のひとり、娼館の中でも古株の、それなりに修羅場を潜ってきたジルベルタが作業の片手間に訊いてくる。

 事態が急変しているのはわかるが、何がどうなっているのかは理解できない。

 そんな状況のまま放っておくと、余計な事故が起きかねないと危惧した彼女は、手早く共有しておくことにした。

 カルミネの側近どもは残らず外へ走らせた後だ。今ここには身内しかいない。言葉を選ぶ必要もない。


「カルミネの坊やと魔女の間に、信頼関係はあったと思うか?」

「え? なんだい突然。そんなもん、ないでしょうよ」

「信用ならない相手が裏切った時、すぐさま対応できる仕組みとは何か、わかるか?」


 飛び散ったあれやこれやを箒とちり取りで拾い集めているジルベルタが、うんざりしたようにいった。


「このザマを見るに、魔女おばさんは爆弾でも仕掛けてたとか?」

「たぶんね。どんな仕組みかは知らないが、裏切ったら即どん、って始末できるように整えていたんだろうさ」

「……自分でいっといて何だけど、できるの? そんなこと」

「アイツならできるしやるよ。魔法だか闇だかをこねくり回して、大抵なんでもやってのける。万能の毒婦、魔女の名は伊達じゃないさ」

「じゃあカルミー、内職でもしてたの?」

「声だけ大きな小心者に魔女を裏切るなんて大それた真似、できやしないよ。だからこれは、単なるとばっちりだろうね」


「あのさー、オーナーとジル姐さん、なんか難しい話するつもりでしょ。そういうのよくわかんないからさ、ずぱっと結論いってくんない? カルミー死んじゃってさ、どう考えてもやばいじゃん。うちらは何をどうすればいいわけ?」

 残った後片付け班内の、勢いだけで生きている派の数名が早々に見切りをつけた。

 これもある意味合理性だと彼女は認める。なのでずぱっと要点だけいった。


「どうにも、急に降って来た神様が魔女をぶち殺したみたいだ。もうダメだって自棄になった魔女の自爆にカルミネは巻き込まれた。で、糞だったが強大でもあった魔女という後ろ盾を失った私達はきっとこれから苦労するだろうから覚悟決めとけって話さ」


「おっけー。やるじゃん神さま」

「あのさオーナー。倉庫街の方がめっちゃ光ってるのって、今ここに来てるってことだよね、その神さま。行ったら会えるんじゃない? 行ってみたくない?」

「絶対にやめとけ。たぶん今頃、そこらのロクデナシどもがこぞって奪いあったり殺しあったりしてる真っ最中だ。……あれは、いたずらに手を伸ばすもんじゃない」


 巫女たる彼女は知っている。

 決してそれは便利な道具などではないということを。


「ふーん。まあその方がいっか。神さまとか潔癖っぽいし、なんか説教とかされそう」

「勝手に決めつけるのも止めとけ。それは人が、なにかを都合よく使おうとする第一歩だ。使おうなどと思うな。思ったと、相手に勘違いさせるな」


 うんはいわかった。口々に返事する。

 真剣な声音に異を挟まれない程度の関係値は築けている。


「あ、そうだオーナー、ずっと聞きたかったんだけどさ、あのキラキラ星見てた時、なんでみんな泣いてたの? つうか、あたしら以外全泣きだったよね? あれなに?」


 一瞬、彼女は言葉に詰まる。

 仮説――いや、益体もない妄想といった方がいいか――があるにはある。



 笑い話の類だとは思う。

 妄言の類だとも思う。

 それは、


 かつて『神へ近づく秘薬』と呼ばれていた滅びた部族アカシャの宝。

 今や高性能な避妊薬として金や安全を生み出しているそれは、実のところ、の代物だったのではないか。


 いちいち近づくだけで泣き崩れていては、御許にはべるなどできやしない。巫女としての務めを果たせない。

 それを成す為の、文字通り、神へ近づく為の秘薬。


 ――なにを馬鹿な戯言を。阿呆らしい。


 そんな妄想を彼女は一笑に付す。

 もしそうならば、この娼館の娘たちは、その全員が天翔あまかける大河の巫女となってしまう。

 やはり笑い話の域を出ない。



「さあね。私だって全部を知っているワケじゃない。ただ私達だけが『何もなかった』ってのは絶対に黙っておきな。他とは違うってのは、場合によっちゃリンチの理由になる。今みたいに、誰も彼もが不安になってる時なんかはとくに危ない」

「う、うん。わかった。絶対にいわない」

 少し脅かし過ぎたかもしれない。

 目に見えて萎れた娘たちを見て、彼女は軌道修正を試みる。


「なに、そう怯えることもない。私が昔、クソみたいな少数民族の巫女をやってたって話は覚えているかい?」

「いや、オーナーさ、酔う度に同じ話するから、たぶんもう本人よりみんなの方が詳しいよ」

「だったら話は早い。巫女たる私は、神様の扱いなんてお手の物さ。その下についてるおまえたちは、いってみりゃ巫女の助勤。ちょいと妖しいところもあるが、きっと今回のは邪神の類だ。存外、上手くやれるかもしれないよ」

「おおー。凄い説得力」


 そうこうしている内に、ひと通りの後片付けは終わり、もういい時間なので朝食にするかと提案した彼女だったが「これやった直後に食事とか、オーナー基準で考えないで」などといわれてしまい「そんな繊細なおまえたちには巫女修行のなかでもとくに過酷だった屍骸の」あたりで待ち人が帰ってきた。


「ただいま、ばあちゃん。言われた通りに見てきたよ」

 ナイスタイミングと大歓迎を受けたのは、外に走らせたリリカと男衆だ。

「おかえり、リリカ。戻って来たのはおまえたちだけか?」

「うん。やっぱカルミーの側近さんたち、そのままどっか行っちゃった」

「まあ、居座られても邪魔だし、お互いにその方がいいさ。で、どうだった?」


 そうして各自の報告をまとめると、旧市街にある4つの主要な組織の頭が全員、カルミネと同様の死に方をしていた。

 彼ら4人は魔女が派遣した直属の配下だ。幾度か代替わりこそしているものの、数十年前に彼女が『向こう』の提案を呑んだ時から、旧市街の支配体制はとくに変わることなく今日まで続いていた。

 ……つい、さっきまでは。


「――てなわけだ。どうやら他の4人にも、カルミネと同様の仕込みがあったみたいだね」

「ほんとスゲーな魔女さま。ガチでかかわりたくねえ」

「おまえが生まれる前から、皆そういってるよ」


 今や一番の腹心などといわれる彼女からすれば、ちっとも笑えない実話だ。


「いやアタシとしてはさ、そんな仕掛けがあるなら、なんでばあちゃんが弾け飛んでないのかすっごい不思議なんだけど」

「そりゃおまえ、私は魔女に何か振舞われる度に、帰ってから全部根こそぎ吐き出してたからね。あの性悪がにこにこと勧めてくるとか、何か妙なモンが入っているに決まってるだろうが」

「ええー。そんな魔法とか闇とかいうやつに、いらないからぺっします、が通用するの?」

「しなきゃ死ぬだろうから、死ぬ気で吐いたさ。念には念をと特性の下し薬も」

「あーもう詳細はいいから」


 状況は良くない。

 いや、率直にいって悪い。

 これまで旧市街を支配してきた魔女とその走狗が、図らずも一掃されてしまった。

 残るは『魔女の巫女』たる彼女のみ。


 当たり前の大前提として、魔女は好かれるタイプの統治者ではなかった。

 稀に、各組織に私兵の真似事のような仕事が割り振られることがあったが、その生還率は平均して3割ちょいだったと記憶している。つまりはほぼ捨て駒。まあ当然恨まれる。


 一応は魔女の方も、一致団結しての反乱を防ぐ為、各組織間で憎み合うよう不安定化工作を行ってはいたようだが……その大元たる魔女が没した今、過去の恨みつらみは一旦忘れて残りの老いぼれ潰そうぜ、となりそうな嫌な予感が彼女を捕らえて離さない。


「……ねえばあちゃん。倉庫街、行ってみない?」

「行ってどうする? 魔女を喰らう邪神を便利な道具だと勘違いしている阿呆どもの、馬鹿げた争奪戦に参加したいか?」

「あ、それは大丈夫。なんかみんなぶっ倒れてたよ」

 どうやらリリカは、勝手にそちらの様子も見てきたらしい。

「おまえ、自分がどれだけ危険なことをしたか、わかってるのかい? 一歩間違えば、おまえもそいつらみたいにおっ死んで」

「誰も死んでなかったよ。みんな寝てるだけっぽかった。あんなごつごつの地面でさ、あれ起きたら背中痛いやつだよ絶対」

「……どうしておまえは帰って来れた? なぜ邪神はおまえを見逃した?」

「たぶん、ちらっと見てすぐ逃げたからだと思う。なんか声が聞こえそうになってさ『あ、これやばい』ってなって即逃げした」

「見たのか。御姿を」

「本当にちらっとだけね。なんか寝てたっぽい。こう、黒猫がめっちゃ集まってベッドみたいになってる所の中心にさ、小柄な女の子っぽいのと、変な布みたいなの被ったよくわかんないのが寝てた。あれが神さまだったのかな?」

「寝てた? 地べたにか? あの小汚い倉庫街の?」

「うん。わざわざあんな汚い場所で。だからこれってさ『寝てた』んじゃなくて『ぶっ倒れてた』んじゃないかって思うんだけど、どうかな?」


 その可能性は考えていなかった。

 命を賭した魔女の自爆。自身はおろか、周囲や他者の全てを巻き込んででも殺ってやるという全身全霊の悪あがき。

 よもやそれが、功を奏しているなどとは。


「……それ、魔女おばさんの自爆がばっちり決まって、神さまにダメージ入ってるってことじゃないの」

「やっぱジル姐もそう思う? だからアタシはこれ、チャンスだと思うの! 今なら傷ついた神さま助けて恩売って、いい感じにうまいこと転がせば、魔女さんの代わりにバックについて貰えると思うんだ!」


 この馬鹿娘は何をいっているのか。

 彼女は深く溜息を吐いた。


「あのねリリカ。なんでそんな危険な橋を渡る必要があるんだい。あの魔女が自爆するしかなかったような相手だよ。かかわらないのが一番さ」

「けどこのままじゃ、みんな死んじゃう」


 稀にこの娘リリカは正鵠を射る。

 とくに身内の命が脅かされる際には、抜群の冴えを見せる。


「……死ぬのは私だけさ。まさか連中も、金になる娼館最大手を丸ごと皆殺しにはしないよ」

「だとしても、遅いか早いか、の話でしかないよ。きっとみんな『今までさんざん良い思いしてきやがって』とかいわれて、まともな扱いはされないと思う。たぶん、そう長くはもたないんじゃないかな」


 いわれてみると、それ以外の未来はないように思えた。


「……ならあれだ、私が最後に、できるだけアレな奴らを道連れに」


 自分でいって、思わず笑いそうになってしまう。

 この発想、いつの間にやら『魔女の巫女』が板についている。


「アタシとばあちゃんの2人がかりでも、全部はムリだよ。ばあちゃんが若かった時とは違って、今は『強化』された奴も結構いるんだよ? ていうか、ちょっとは自分の歳考えなよ。幾つだと思ってんの」

「いや、まだおまえに教えていない毒がた」

「ねえばあちゃん。お願い。手伝って。みんなを助けるの。神さまに詳しいばあちゃんがいなきゃ、きっとうまく行かない」

「わたしからもお願いするよ、オーナー。すり潰されて死ぬなんて、まっぴらごめんだ」

「オーナーお願い」

「オーナーならできるって」

「わたしたちも一緒に行くから」

「わたくしの力が必要でしたら如何様にも」

「やったりましょう」


 こうなってはもう、どうしようもなかった。









 ※※※









 倉庫街。


 ここは旧王国時代の末期に破棄された一区画であり、誰も住む者が居なくなった民家を勝手に占有、改造したやくざ者たちが、これまた勝手に大規模な物資保管所として使うようになったことから、いつしかそう呼ばれるようになった『立ち入り禁止区画』だ。


 通常なら、土地の所有者である国家が何らかの対策を講じて不法占拠者たちの排除に乗り出すところなのだが、なぜかこれまで一度もそういった動きが見られないことから、何らかの政治的問題を孕んだ『とてもデリケート』な場所であると、したり顔の識者からは推測されている。


 まあ実際のところは、そのやくざ者たちのトップのさらに上に『とある筋』の存在があるが故の不可侵なのだが、余計なことを知ろうとした者はもれなく行方不明になるので、いつしか知ろうとする者はいなくなった。

 というより『魔女の巫女』の名を知る者からすれば、どこの誰がかかわっているかなどいちいち探るまでもないので、ただ秩序が完成しただけともいえる。


 つまり彼女からすれば倉庫街ここは、勝手知ったる『魔女のがらくた置き場』でしかない。


「あの魔女は妙に用心深いところのあるヤツだからね。本当にやばい物はちゃんとバレない場所に隠してる。ここにあるのは基本どうでもいい物ばかりさ」


 徐々に夜が溶けつつある、明け方の薄闇の中。

 いつもなら、灯りがなければ常人には歩くことすらままならない筈の他人行儀な闇が、今ここでだけはなりを潜め一歩下がる。


 夜空から降りてきた大河が、まるで巨大な篝火のように周囲を照らし出していた。

 その終点へと向かうにつれ、当然ながら光量は増してゆく。


「ねえばあちゃん。とどめ刺しとく?」

「おまえがそうしたいなら、好きにしな」

「……めんどいから、いいや」


 きっと大規模な争いがあったのだろう。

 血みどろで倒れて動かない不審者の数もまた増してゆく。


 今も光が降り続ける倉庫街の東端、5番区画への道すがら、彼女は最後の確認をする。


「私たちが『お迎え』に参る。おまえたちは邪魔してくるであろう馬鹿どもを潰す。なにか質問は?」


 周囲を漂う猫の一匹が、すう、と彼女の肩に乗る。

 試しに指先で喉をくすぐるも、手応えはない。やはり幻影の類だ。


「オーナー。殺しはアリ? ナシ?」

「どっちでもいい。ただし死ぬのは許さない」


 ここへ連れて来たのは、元兵士、狩人、暗殺者などの最低限は動ける娘たちと、いつも荒事をこなしている男衆だけだ。

 全員が同行を申し出たが、どんなに上手く行っても一度は殺し合いが発生するであろうこの場に、非戦闘員を連れて来るわけにはいかなかった。


「よし。箱の配置は以前のまま。変更はなしだ。ほら行きな」


 うず高く積み上げられた木箱の群れを目印に、各々が散開を始める。

 事前に行った地図を用いた作戦会議で、各員の持ち場は決めていた。


 正面から行くのは、彼女とリリカと元暗殺者のマリエッタの3人。

 囮と本命を兼任できるのは、やはりこの3人になる。


「重っ。この木箱、中身は何です?」


 馬鹿でかい木箱がいくつも乱雑に積み重ねられ、ちょっとした迷路と化している一帯を進む。


「黒い粘土がみっしり詰まってる。たしか呪の廃棄物だったか」

「倉庫街ってか魔女のゴミ捨て場じゃん」

「基本そうだが、こいつはゴミじゃなくて壁だよ。中の黒土を動かすことで木箱を操り道順を組み替える、可動式の壁さ」

「じゃあ動かして1本道にしたら、こんな回り道しなくていいんじゃないの?」

「私はそういう、闇の操作だの何だのいうのは不得手なんだよ。それにここで急に視界が開けてみろ、下手すりゃ一瞬で終わっちまう」


 リリカの証言から、直接対象を見るのは危険だと知れている。

 光の終点との距離はもうほとんどない。

 さて何か試しに使えそうな物はと視線を巡らせた先に、


「おや、いいモンが落ちてるじゃないか」


 木箱迷路のカーブを曲がる途中で、男が倒れていた。

 さっきまでとは違い衣服も身体も綺麗で出血もない。

 おそらくこれは、木箱の角に身を隠し、まずはちらりと様子を窺って、そのまま倒れ込んだのだろう。


 つまりは、この角を少しでも曲がればもう危険範囲内ということだ。

 

 ならまずは。


 彼女は倒れる男の足首を掴み、ずるずると引き寄せひっくり返した。


「知っている顔かい?」


 ふたりそろって首を振る。ならば最悪、殺してもいいか。

 彼女は寝ている男の胸倉を掴み上げ、起きるよう頬を張る。


「……なんで意識のない成人男性が、軽く片手で持ち上がるの? どう見てもオーナーより大きいわよあれ」

「ばあちゃん、侵蝕深度フェーズ5に腕相撲で勝つから、気にしちゃダメだよ」


 そうして彼女は目を覚ました男に、命と情報の取引を持ちかける。ふたつ返事で快諾してくれる。見た目によらずいい男だ。


「な、なんか黒いの被った奴が寝てて、耳のすぐ横で声が聞こえたんだ。たしか『ケンショー』とか「ツニ」とかよくわかんねえこと言ってた。そんで気付いたら今で、オレより先に行ったやつらも、みんなすぐそこでぶっ倒れてて」


 これ以上は何も出て来ないと判断した彼女は、角の向こうへ男を放り投げた。

 どす、と男が背中から落ちる音。慌てて立ち上がり1秒の沈黙。おそらくは振り向いて『対象』を見た。ざりと地を踏みしめる音。どしゃ、と崩れ落ちる音。

 一連の所要時間はおよそ5秒。

 直視してこれなら、思ったより『利く』までが長い。


「ばあちゃん的には、命が無事だから約束は守られているんだよマリエッタ」

「わたしは何もいってませんわ」

「人食い鬼を見た顔してた」


 鼻で笑った彼女は、ふたりに持たせていた長いロープをほどくよう言いつける。

 その間に懐から鉤縄を取り出し、自分の腰にひと巻きし、端をロープの先端に結び付けた。


「なにそれ? ゴリ押し作戦?」

「下手を打っても死にゃしないってわかったんだ。ならとりあえずやってみるに限るさ」

「だったらアタシが」

「やめとけ。たぶんおまえじゃ、連中と同じオチがつく」

 反論の隙を与えず続ける。こういうのは、歳が上から順にやるのが道理だ。

「前進が3分停止したなら、きっと落ちているだろうから全力で引け。いいね?」


 そういって彼女は、とくに気負うことなく角を曲がった。

 こういうのはうだうだと引き伸ばしたところで時間のムダにしかならない。


 光源へと身体を向けた彼女は視線を下げ、頭を下げ、姿勢を下げ、平に伏した。

 意識しての動きではない。

 骨髄に刻まれた、アカシャの巫女としての『流れ』が、状況に反応したというべきか。


 件の『声』とやらは聞こえない。

 何が正解で何が不正解なのか、ちっともわからない。

 そもそも『正解』など存在するのかも不明。

 ならばせめて、でき得る限りの礼をもって当たるほかなかった。


 伏した身体を僅かに起こす。当然目は伏せたまま。 

 リリカや男の話を聞くまでもなく、当たり前の大前提として。


 貴人――いや、それ以上の相手に対して、ぶしつけな視線をぶつけるなどといった無礼は厳禁だ。

 眼を合わせるということは、たとえ一時であろうとも、同じ位置に立つという意味を持つ。


 ここへ足を踏み入れた者どもは、目指す標的はどこかと、真っ先に探し見つけぶつけた筈。

 微塵の遠慮も躊躇いもなく、その目にとらえようと、きっと意味もわからず視線をぶつけた。

 巫女たる彼女からすれば、その時点でもうそいつは、己もまた神であると喧伝しているも同義だ。

 不遜を通り越して、狂的ですらある。


 さすがの彼女も、そこまで恥知らずにはなれない。


 そんなことを思いつつ、姿勢を低くしたままじりじりと10歩ほど進んだ時だ。

 不意に、ここまで引きずって来た、腰に巻いたロープの重さが増した。まるで重石でも乗せたかのように、急にずしりと来た。

 首のひねりと視線だけで後ろを確認すると……地を這うロープの上に猫が乗っていた。

 彼女と眼が合った黒猫が、やおら前足を引く。ぷつりとロープは切れた。


 ――どうして重さを感じる? なぜ切れる? 幻影の類ではなかったのか?


 そんな驚きと交代で湧き上がって来たのは……羞恥、だった。


 他人を恥知らずと嘲笑った後だけに、なおさら際立った。

 まるで『ずる』を咎められたかのような。

 そういうお前のこれは何だと、指摘されたかのような。

 その様で何を抜かすと横面をはたかれたような。


 冷える。


 まるで冷や水をぶっかけられたように、彼女の頭は急激に冷えた。

 やはりどこかのぼせていたのだろう。あり得ない降臨を目の当たりにし、陰ながらに浮ついていたのだろう。

 視線は切れたロープを伝い腰元へ。今の己の姿を改めて見直せば、何だこれはと恥じずにはいられなかった。


 腰に縄をつけ、まるで罪人だ。


 自分はこんな姿で、やれ礼や無礼などと吐き出していたのか。

 これでは、できの悪い寓話の道化ではないか。

 言い逃れの余地もない、無様。


 この感覚には覚えがあった。


 かつて若かりし頃、過酷な山野にて行に耽る度に味わっていた、あの感覚。

 何か大きなものと向き合っていた筈なのに、いつの間にか己と対話し羞恥に焦がされていた、あの感覚だ。



 ――どうか。



 声が聞こえた。

 彼女は理解する。

 失敗したのだと。

 ダメだったのだと。


 このまま自分は意識を失い、助けに来た2人も同じ憂き目に遭い、魔女の巫女は討たれ、その手中にあった娼館は見せしめじみた蹂躙を受けるのだと、これから起きる現実を理解――なんてできるわけがなかった。


 ここで意識を失うわけにはいかない。

 せめて続く2人の通る道ぐらいは拓かなければ。


 彼女は一度たりとも視線を上げてはいない。その御姿を見てはいない。

 にもかかわらず、こうもはっきりと聞こえてくるのだから、目を閉じ耳を塞いだところでどうにかなる現象ではないのだろう。


 ならば。



 周囲の、自身の中の、全ての音を消しつつ、近くに寄るほか道はない。



 近しい経験はある。彼女はそれを知っている。

 かしこみ、奉りつつも、一切を省みない極限の只中。


 荒行の果てに幾度か陥ったことのある、酩酊を煮詰めたようなただ1本の細い線。

 長老衆が『かみががり』などとご大層に飾りつけていた、単なる忘我。


 つまりは極度の集中状態。


 本当に、もう本当に、前へ進む以外の全てを削ぎ落とし、前進全霊をかけてそれのみに注力すれば――声の聞こえる余地などありはしない筈。




 ――どうかご、

 ――かけまくもかしこき大神在りし御山に、




 どうしてか、かつて何千何万と諳んじた祝詞のりとが、自然と彼女の口からもれ出していた。

 しかし、もう彼女は知っている。

 きっとこの言葉の羅列に、大した意味などないと。



 ――幸えなればいともかしこし、



 これは下卑た老人たちが好き勝手に振舞う為に用いた道具でしかない。

 その事実はもうとっくの昔に認めている。



 ――かむながら、守り給いて、



 ならばなぜ、この局面でこんな無意味な言葉を放つのか。

 どうしてここで、こんなものに縋りつくのか。



 ――とおかみえみため、



 余計なことを考えるな。

 巫女の教えとは、結局はその一言に集約される。

 畏みもうせ、奉れ。

 あの醜悪な老人たちにとって、それはさぞ都合の良い文言だったろう。

 だが。



 ――――。



 聞こえない。

 それでも祝詞は止めない。

 聞こえるとか聞こえないといった些事にはかかわらず、ただ続ける。余計なことは考えずに、ただただ続ける。


 無意味な教えに無意味な言葉。

 それはもう知っている。百も承知だ。


 だが。

 だが夜空の大河あんなものを見せられてしまえば。

 ああも派手にやられてしまえば、見てみぬフリをするのは不可能だった。

 とっくの昔に消えたと思っていたものが、実はまだそこにあったと自覚するのは時間の問題だった。


 つまるところ彼女は。


 きっとまだ、心のどこかで、信じていたのだ。


 数々の逸話が全て長老衆の創作だったとは思えない。

 きっと何か、元になったものがあった筈だ。

 連中が下種だったからといって、勝手に使われたであろう大元まで同類だと断ずることはできなかった。

 もうすっかり彼女の中に根付いていたそれが、実は1から10まであまねく全てゴミだとはどうしても思えなかった。


 だから彼女の中にほんのひと欠片だけでも、それは残った。

 そして今。



 こん。



 彼女の足先に、何かがぶつかる。

 少しだけ視線を上げると、何十とひしめき合う黒猫たち、その全てと眼が合った。

 それをじっと見たまま、彼女は告げる。


「お迎えに、参りました」


 滲む。

 猫たちの輪郭が滲んで掠れる。


 小汚い倉庫街に朝日が差し込む。夜が明ける。


 するとそこには、妙な格好をした男か女かもわからない小柄な誰かと、幼い頃の魔女によく似た少女が、寄り添うようにして眠っていた。

 胸は上下している。呼吸はある。生きている。ここに居る。




 嘘が、本当になった。




「おーいばあちゃん無事? ケガとかしてない? ってなんで泣いてんの!?」

「……騙された馬鹿女に、意味が生まれたんだよ」

「ふーん、オメデトウ! で、どっちが神さまなの?」

「え?」



 …………どっちだ?




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