第5話 チャオ ソレッラ!



 どんどん、ばんばん、がんがん。

 うるさかった。やかましかった。耳障りだった。


 最初はどうにか無視して眠り続けようとしたが、こんなことを考えている時点でもう起きてるんだよなあと諦めた。


 ぱちりと開いた目に映るは星座の標本。季節を無視して集められたオールスター。

 ベッドの天蓋の裏側に施された、星と光と闇、遊び心と贅沢が混在した意匠。

 誰の趣味かは知らないが、率直に素敵だと思った。


 ふと耳に何かが触れる感触。首だけで左右を確認すると、両サイドに黒っぽい何かがいた。

 毛並みと質感から、たぶん猫かなと思いつつ上半身だけで起き上がると――ちょっと引くレベルの数がそこら中にいた。

 短毛だったり長毛だったり、シャープだったりふくよかだったり、その種類は様々だが、ベッドの上を全てを埋め尽くす勢いで、黒猫たちがひしめきあっていた。



 ――これ、大丈夫か? 雑菌とか感染症とかエキノコックスとか。



 最初によぎったのはその心配だった。


 そりゃそうだ。飼い猫にしては多すぎる。首輪もない。となれば野良だ。それはまずい。

 野生動物は人間に有害な雑菌まみれだ。奴らのタフネスは人の埒外にある。たとえ病気になろうとも、死ななきゃ安いで今日まで突っ走って来た猛き生命を野生と呼ぶのだ。


 経口感染を恐れたおれは、口呼吸を封じることにした。


 なんでこのベッドで集会してるのかはさっぱりだが、



「ようやく起きたか」



 不意にかけられた声に、死ぬほどびっくりしながら振り向く。

 意識して口を閉じていなければ「うひゃあ」とか情けない声が出るところだった。


「ふむ。その猫たち『には』驚かないのだな」

 いわれてみれば確かに。

「たぶん、猫を飼ってたんだと思う。起きたら顔の横にいるって、何回もあった気がする」

「たぶん? おまえ、はっきりと覚えていないのか?」

 しまった、口が滑った。寝起きの頭はゆるい。つい思ったままを口走ってしまう。気をつけ――うん?


 記憶に新しい、黒いボア付きの真っ赤なタイトドレスが、こちらに背を向けたまま何かの作業をしていた。

 少し屈むような体勢で、ドアの真ん中あたりに部屋の四隅から伸びた黒い紐をくくり付けたり引っ掛けたり、まるでなにかをそこに『固定』しているかのような。


 どんどん、ばんばん、がんがん。


「まったく喧しい。あれの邪魔をすれば何が起こるか予想できなかったからな。目覚めるまで待ってみれば、ほら、聞こえるだろう? 連中が来てしまったぞ」


 あれ?

 これなんか変じゃね?

 つうか、さっきから普通に喋ってるけど。


「私が誰かわかるか? それとも自己紹介が必要か?」


 いって彼女はこちらを振り向いた。

 どこかの地下で見た時とは違い、すっかり良くなった顔色に浮かぶ微笑と笑わない目が、なんかやべえ女感を醸し出している迫力ある系美人さん。

 一瞬で眠気が吹き飛んだ。

 ほとんど反射だけで返事をする。


「……ヒルデガルド」

「いかにも。正式にはもっと長い名があるが、己の墓標以外で使う機会はない。王族にはミドルネームもファミリーネームもなく、書類上の表記では、名のあとに国号が入る」


 やばい。

 これはまずい。本気でダメなやつだ。

 何の準備も覚悟もない内に、すでに始まってやがる。

 がっちがちに固めた筈の『補強』はとっくの昔に破られていて、普通に室内に侵入されている所からスタート。

 なんていえばいいのか、この生殺与奪を一度ぎゅっとされてから、狭いビニールプールに放流された感じ。

 

 いや。ポジティブに考えろ。殺されはしなかったと。



「次はそちらの番だ。――おまえは、誰だ? 名乗れ」



 めちゃくちゃ答え難いのがきた。


 当たり前の大前提として。

 真面目な状況において、名乗りに、嘘は厳禁だ。

 それをやってしまえば、お前とまともに付き合う気はないです。適当に利用して使い捨てます。私は詐欺師です。と宣言するも同義だからだ。


 殺るチャンスは幾らでもあったのに、今彼女はおれとの対話を試みている。

 そんなヒルデガルドの顔に唾を吐きかけるような真似だけはしてはいけない。


 かといって馬鹿正直に「実は何も覚えてませーん。めんごめんご。ノリとフィーリングだけでお前ン家の叔母さん本にして3人ほど殺人未遂ぶっこいちゃった、てへ」はない……よなあ。うん、いい方って大切。


 閉じるのは悪手だが全開もダメ。

 なら間を取るしかない。

 嘘はなく、軽さもなく、はぐらかすでもなく。


「わからない。なくしたか、最初からなかったか、そのどちらかだと思ってる」


 ただ事実を羅列しただけだが、なんかそれっぽく聞こえる不思議。

 まああれだ、すぐばれる嘘ついて自滅、だけは避けるべきだ。


「……なにも覚えていないのか?」

「あの玉座から先のことは、覚えているよ」

「それにしては、受け答えがしっかりしている。あそこから意識が始まった、何の教育を受けたこともない者の物言いではない」


 まあ、そうなるか。

 うーん、どこまで話すのが丁度いいだろうか。


玉座あそこに喚ばれる前は、もっと別の、まるで違う場所にいた。そこでの記憶はあったりなかったり、いろいろと曖昧だ。貴女のいう教育云々はそこからきてる」

「気付けば玉座に拘束されていたら、まずは皆殺しにしろという教育か。どこだかは知らぬが、地獄だな、そこは」


 いやいやいや。

 日本でも普通に過剰防衛で実刑くらうから。


 けどそう考えると、正しい現代日本人としては、あのまま何もせず助けが来るのを待って、そのまま地獄拷問エンジンの燃料になるのが正解になっちゃうな。

 もしくは、相手に深刻なダメージを与えない、きっと反撃で殺される抵抗をして、その通りに殺られるか。

 そうやって真面目に、ちゃんと真剣に考えるなら。


「いや、あれはわたしの趣味だよ」


 誰にも推奨されない『殺りに来るお前がくたばれや』の精神。

 実はそんなに特別でもない、ありふれた凡庸な考え。


「ふむ、趣味か。随分と素直に答えるのだな」


 そりゃ素直にもなるよ。


玉座あそこで目覚めてからここまで、わけのわからん兵器の燃料にしようとしたり、四肢を切断しようとしたり、そんな奴らばかりだった。こうして、まともに会話するのは、これが初めてなんだ」


 なので正直、少し嬉しい。

 自分に対しひとりの個人として向き合ってくれているこの状況を、どこか嬉しく感じてしまっている。


 ああーこれ、ストックホルムがシンドロームしてるぽいなー。いや吊橋だったか? まあなんかその辺のやつが発動してるっぽいな。DV男がたまにみせる優しさに惹かれる的なやつ。


「だからまずはありがとう。こうして話す機会をつくってくれて。いきなり殺すとか死ぬとかじゃなく、まずは話してみて、それでダメならそうしよう」


 こうして端々にちょい刺し要素を混ぜて『なめてたらやっちまうぞ』みたいな牽制をオートでやる辺り、おれという奴のしょぼさが垣間見える。


「貴女が『向こう側』に居たことは気にしていないから、そちらもそう思ってくれると嬉しい」


 けど、必要なんだよなあ、こういうのって。

 イ○スやガ○ジーが教科書に載っているのは、あんな聖人はまずいないからだ。


「いいだろう。ならまずは……おまえは現状をどこまで理解している?」

 どんどん、ばんばん、がんがん。

「さっきから喧しい『これ』が何なのか、把握しているか?」

「いや。さっぱり」

 寝起きでいきなりそんなの把握してたら、むしろ怖くね?

「今扉の向こうには、完全武装した親衛隊や使用人どもが押し寄せている。目的は私の捕縛、もしくは殺害。なぜこんなことになったかというと、連中の頭である叔母上ローゼガルドが再起不能になったことで、これまで横暴を極めていた自分たちが処断される恐怖に耐え切れなくなったからだ」


 あ、つまりおれのせいって、いいたいのね。

 それはまじでごめん。

 うん、事実は事実として認めよう。ちゃんとカウントしよう。

 お互いに。


「それって、あの化け物としか言い様のなかったローゼガルドが『なにもせずとも勝手に潰れた』っていう事実と『絶対に死んでも話さなかった事を、好きなだけ知れた』っていう事実を差し引いたら、どれぐらいのマイナスになる?」


 月給制のサラリーマンなら『申し訳ございません』の一本だろう。

 だが今やおれは自分の命をチップにしたフリーランスみたいなものだ。

 強引にでもこちらの分を主張しなきゃ、毟られて死ぬだけなんよ。


「……そうさな。最悪の魔女自身とその秘密。暴発した有象無象ども。計算する意味などない程に、桁が違うな」


 あ、凄い。認めた。素直に感心する。

 記憶の扉の向こうをそっと覗く。

 おれの知ってる、顔も覚えていない課長や部長なら、死ぬ気ではぐらかして絶対に認めなかった。もしくはよくわからん威圧でごり押しだった。


 ……ま、いうべきはいっておこう。


「だとしても、そちらの予定を大幅に狂わせてしまったのは事実だ。そこに関しては申し訳ない。そちらに害を与えようという意図はなかった」


 向こうからしたら『そんなの知らねぇよ』だろうな。


 けどまあ、区切りとしては丁度いいだろう。

 そろそろ、当初の予定通りに。


 と、そこでふと気付いた。

 真面目な話をしている間、どうにも手元が落ち着かなかったので、無意識に腰あたりにいた猫を撫でていた。

 すると他の場所にいた猫たちも手の方へと寄ってきて、両手の周辺が猫で埋もれて見えなくなっていた。

 たしかエキノコックスは狐と犬だったか? などとかすかに思い出しつつも、他にもやべー雑菌はいくらでもいるので、するりと手を抜き、素早くベッドから降りた。


「あまり無下にしてやるな。そやつらの献身はなかなかのものだった」


 ヒルデガルドが屈み、足元にいた猫を抱き上げようとするが――その手は猫の身体をすり抜け空を切った。


 え? なんで? ヨガでもやってんのかこの猫?


「こやつらに触れるのはおまえだけだろうよ」


 小動物の猫と『そうじゃない方の猫』について説明を受ける。

 ついで、ヒルデガルドがこの部屋に入った際に見た一部始終も。


「……そんな生贄みたいな真似されても」


 猫の列を辿り、ゆっくりと窓際へ進む。


「いったであろう。生物ではない。自然現象だ。その意味がわからぬおまえではあるまい」


 自然現象を味方につける超存在。

 まあ、どう考えてもピラミッドさんだよな。


「わたしは、そちらに、どう認識されている?」

「新たな邪神」


 うん、それ、どう考えてもピラミッドさんだよな。

 おれの立場はたぶん、下請けみたいなものだ。

 動けないから、お前がやれ。

 オーダー内容は要領を得なかったが、アフターケアは万全。死にそうになっても傘下のファントムキャッツがリカバーします。保障期間内は大丈夫。ただし期限は未公開。請求料金は弊ピラミッドの気分で決定されます。……なにそれ、まじで怖いんだけど。


「そんな大層なものじゃないよ。もっと小さく、しょぼいやつだよ、わたしは」

 ピラミッドさんについては秘密にしておく。

 きっとあれは、おれの切り札だ。


「あ! そっちか! ……ちょっと待て。今手が離せない。ああもう次から次へと有象無象どもめが」

 なんかいきなりぼろっと落ちたドアの一部を押さえ込み、ヒルデガルドが作業に戻る。


 それを横目に、開け放ったままの窓へと辿りつく。

 どうやら猫たちは、逃走用にセットしておいた、闇をこねこねねじねじしたロープもどきを伝って入室しているようだ。

 さらに窓から下を見ると、猫たちから10メートルほどの距離で数名の男たちが倒れていた。


 どうしてこちら側からは押し入って来ないのか不思議だったが、室内の床で寝てる、ハウザー、ヨランダ、プルメリアの3人と合わせて考えるに……理屈は不明だが、どうやらこの猫に近づくと『こう』なってしまうようだった。


 ちゃんとヒルデガルドの部下をしている筈の3人が、主だけを働かせてぐーすか寝ているのはありえない。

 なんか雑に転がってるし、寝るというよりは気絶だろうか。


 うん。やっぱり、当初の予定通りに行こう。


 わかってはいたが、やはり際立っている。


 今も扉前で何かの作業にかかりきりの、このヒルデガルドという存在の『やべえやつ度』は群を抜いている。


 意味不明だが超強力な猫スタンを無効化し、おれ渾身の『補強』をあっさりぶち破る、その実力暴力


 ここまではまだいい。

 いや、実はぜんぜんよくないんだけど、それでもまだなんとかなる範囲だと、希望を持つことはできる。



 けど、ここからが、まじで、どうしようもない。

 ことが実力暴力以外の話になると、もう本当に、どうしようもなくなってしまう。



 ローゼガルドを『読んで』知った、王国が崩壊してもなお生き残り、しかしいまだにある程度の影響力を保持し続けているという、ガチな王族の一員だという事実。


 崩壊を生き延びて、しかも一定の権勢を保ち続ける王族なんて、どう考えても対人関係スキルがカンストしてるモンスターたちだ。

 普通なら終わってるのに、なぜか終わっていない。

 暴力や権力での優位がひっくり返った筈なのに、なぜか滅びずに今日まで続いている。


 つまりそれは。

 下準備。立ち回り。交渉。

 この3つにおいて、他の追随を許さない、国内最強だったという証左に他ならない。


 で、問題のヒルデガルドさん。

 そんなガチ勢の現当主。

 ローゼガルドが面倒事を押し付けた、という側面も多分にあるだろうが、あのプライドの塊みたいなやつが、自分たち王族の価値を貶めるような差配を許すわけがない。

 実際に『ダメなら殺す』とか本気で考えていた。

 しかしそれら全部をクリアして今の地位にいるのがヒルデガルドさん。


 いや、無理だろ。


 中小企業の課長や部長相手に冷や汗かいてるおれが、どう逆立ちしたって、太刀打ちできる相手じゃない。


 やれ交渉だ取引だのいって席に着いた時点で、もう、どうやって負けるかの選択肢しかない次元だと考えて間違いない。


 だから当初の予定通りに行く。


 そう。

 

 逃げる。


 窓から逃げる。


 やべーやつらに関わってやべーことになる前に、とんずらかますのだ。


 さっきちょっとマイナスだ何だといって恩を着せたが、それも結局は『だから見逃して下さい』というアピールに過ぎない。

 最低限の手ごたえはあった。

 あとは「話せてよかったよ」とかそれっぽいことをいって素早く行こう。


 窓際の猫たちには「ありがとう、助かった。病気とか雑菌とかの心配がないなら、今度はサービスするぜ」とお帰り願い、逃走経路をクリアにする。

 すると、なぜかベッド上の猫達までもが全部一気に帰ったので、逃げる気満々なのが筒抜けになったと感じたおれは素早く別れの挨拶を繰り出した。


「話せて『ではふたつ目だ。おまえはその身体の危険性を、どこまで理解している?』――え?」


 やべ、めっちゃかぶった。

 どうする、このまま無視して行くか?

 けどなんか気になるワードが飛び出したんだよなあ。


「……期限が2月程度だということなら、もう解決してる」


 巻角野郎ゲオルギウスを『読んで』その辺りは知っている。

 この身が、金持ち向けの生体現実人形わりぃ、やっぱつれえわだということも、色々と思うところはあるが――まあ新品だから良し! で押し通す覚悟はできた。でろでろクリーチャーとかじゃないだけ上等上等。


「ほう。それはおめでとう。前座は既に片付いていたのだな」


 ファントムキャッツのおかげでな。

 ガワ以外は終わる一歩手前だったのが、今やすっかり元気一杯だ。この感じなら長寿記録に手が届く予感すらある。

 なので『前座』とかいう不吉な言葉は無視して、

 

「うん。ありがとう。では、こ」

「その身が、私の母上の複製だということは?」

 あ、そうなの?

「製作者が叔母上だということは?」

 うん?

「当時を知る者がいうには、生き写しだと。母娘だからな、当然、私とも似ている。そこの鏡で確認してみろ、どう贔屓目に見ても、他人では通らん程には同系統だ」


 え、じゃあローゼガルドは、自分でぶっ殺した姉貴のロリクローンを、せっせと造っては売りさばいてたの? どう考えてもロクなことには使わない、アレなやつらに?

 ……なんつーか、ヘドロみたいな感情が渦巻き過ぎてて、心底関わりたくない。


「おまえは叔母上――魔女ローゼガルドは、人々からどういった感情を向けられる存在だと思う? まあ予想はつくだろうが、それをさらに酷くして煮詰めたモノに100を掛けろ。それでようやく最小値だ」


「なにを、いってるんだ?」

 嫌な予感が背筋を這い上がる。

 きっと良くないことだ。それだけはわかる。


「端的にいうと、とんでもなく怨みをかっているということだ。粛清、処刑、謀殺をはじめ、思いつく限りのことは大体やっている。少数民族も2つほど消した。それでも今日まで叔母上は健在で思いのままに振舞って来られた。なぜだかわかるか?」


 いつの間にか作業を止め、こちらを見据えていたヒルデガルドが一歩踏み出す。

 あ、これはあれだな。


「怖かったからだ。地獄の底から来た怪物としか思えぬような非道や残虐を何の躊躇いもなくやってのけ、そうしてぶちまけた血や臓物を余さず己が利として掠め取る、まるでうじがたかるかのようなその手管が、ただただおぞましかったからだ」


 さらに一歩進む。

 これはあれだ、ちんぴらの標準装備。物理的な距離を詰めることで、圧迫感を与える系のやつ。

 揺れていた内心が落ち着きを取り戻し始める。


「そしてなにより、強かったからだ。悪辣極まる謀略を息を吐くように容易く生み出すその悪知恵が。古き血統でありながらも進んで受けた強化措置の結果、侵蝕深度フェーズの果てすら超越し、理解不能な次元にまで達した闇の暴力が。それらすべてを駆使し組み上げた、外道どもが連なる闇の人脈が、手下どもが、どうしようもない程に強かったのだ」


 いって、また一歩進む。

 ふむ。

 どうやらおれは、こういう詰める系のパワハラを随分とくらってきたらしい。

 それでびびったりムキになったりと、さんざん踊らされてきたっぽいな、これ。


「だが憎いものは憎い。いくら怖くとも、どれだけ強くとも、胸の内にくすぶる怨みには関係がない。表には出せないが、あるものはある。果たされるまでずっと、ずっとな」


 だから落ち着いてしまう。

 未知のやべーやつだったヒルデガルドが、しょーもない課長や部長やちんぴらと同じ行動を取ったことで、超絶スケールダウンしたように感じられてしまうのだ。


 ……もしかしてこの人、交渉担当じゃないのかも。


「おまえのその身は、我が母ダリアガルデの幼少のみぎりそのままだ。母とローゼガルドは同じ父母から生まれた実の姉妹だ。この意味がわかるな?」

「……つまりローゼガルドともそっくりで、見るやつが見れば、一発で縁者だとばれる。そうなると、まあ無事ではいられない」

「叔母上の身に不幸があったという事実もそれに拍車をかける。あの目立ちたがりが1月も公の場に姿を見せなければ、誰でもそうだと気付く。ならばもう魔女に怯える必要もない。躊躇う理由など、きっとどこにもありはしない」


 たとえ内心が落ち着きを取り戻しても、会話の内容はわりとどうしようもなかった。


「長きにわたり、魔女外道は蠢き続けてきた。怨みは全土にばらまかれている。復讐の鬼はそこかしこにいる。子供の身だからと、手心は期待しない方がいい。そんな次元はの昔に過ぎている。むしろ『今ならまだ容易たやすい』と、こぞっていきり立つ悪鬼どもだろうよ」


 つまりこれ、国内はもちろん、下手したら外国でも『この姿』で出歩くのは危険ってことになるよな。

 それこそ、即死できればラッキーってレベルのやばさで。



「ゆえにおまえがその身の安全を確保するには」


 そこで一度区切る。


「我々の庇護下に入るほか道はない」



 まあ、それが一番簡単確実だ。


 ……けどこれ、わりと露骨に視野を狭めにきてるよな。


 まだこっちに来たばかりで『ほか』を知らないおれに対し『我々の庇護下に入るほか道はない』とか断言しちゃってるもんな。

 うーん、なんだかなあ。



「だから降れ。私のもとに。なに、悪いようにはせん」



 まさに絶体絶命のどん詰まり。そんな時に差し出される、死ぬほど都合の良い救いの手!



 ……まあ普通に考えたら、そんなもん手に取っちゃうと、死ぬよりひでぇことになるよな。


 資金繰りで首が回らなくなった町工場に現れるサラ金業者とか、死神よりもえげつないネクロマンサーだよ。死体も余さず使います、みたいな。


 で、今回の場合予想できるのは。

 向こうが把握している要素――杭が飛ばせて人を本にできるぐらいしか取り得のないおれの使い道とは。


 殺し屋。脅し屋。指定された奴を本にして情報がっぽがぽ屋。

 降り庇護下に入ったおれに拒否権などあるはずもなく。

 嫌な奴から良い奴まで、子供から大人まで、満遍なく区別なく、いわれた所へゴー。

 この契約に期限はありません。行けるところまで行ってもらいます。


 うん、死ぬよりひでぇな、こりゃ。


 論外だ。

 当初のプランに戻ろう。目指すはできるだけ遠くの国。

 まあ普通に考えて、外国の王族の顔なんて、知ってるやつの方が少ないだろ。

 ならまずは、できるだけ穏便にここから離脱だ。


「ありがとう」


 なるべく刺激しないよう、柔らかく、やわらかく。


「手を差し伸べてくれたこと、嬉しく思うよ」


 最悪、この場で殺されるか。


「じゃあ、もう行くよ」


 構うものか。見せてやる。おれの、本気の逃げ足を。


 などと息巻いたものの、思っていたよりもずっと足が短く――というより、身体全体が小さく、窓枠に足をかけるのに、めちゃくちゃモタついてしまう。


「……なにが不満か?」

 あ、やっぱ黙って見逃してはくれないのね。

「殺し屋に、なりたいやつが、いるか?」

「そんなことはさせん」

「降って庇護下に入ったら、どうとでもなる。状況は変わるものだ、よ」

 硬っ! 身体硬っ! 柔軟性ゼロだこれ!

「ふむ。そうなるか。なるほど、思ったより厄介だな」

 もうこうなったら『黒い手』で自分を掴んでUFOにキャッチャーされる感じで運んだ方がいいかもしれない。


「ならこうしよう。おまえは魔女ローゼガルドが造りだした、我が母ダリアガルデの複製だ。その非道な扱いに堪えかね、血縁である私と共謀し見事魔女ローゼガルドを仕留めることに成功した。生まれはどうあれ、私はおまえを妹と認め、王族としての権利こそ与えられぬがさしたる義務もない身として、引き取ることと相成った」


 動きが止まる。

 ナニいってんだこいつ。

 いきなり胡散臭すぎる。

 それになにより、


「そんなことをして、そちらにどんな得がある?」

「表向きにはない。周囲には肉親の情、とでもいっておくさ」

「裏側は?」


 いつの間にか、問い返していた。

 背を向けて逃げ出す筈が、自然と相対していた。


「私の宿願を、手伝って欲しい」

「……本にしろとか殺せとか、その手のやつに、従う気はない」

「むしろ殺されては困る。というよりも、絶対に殺すな。私の目的は救うことだ」


 なんかどこかで聞いたような言葉が飛んできた。


「誰を?」

「友人を」

「どうやって?」

「まだそこまでは話せない」

「それは危険か?」

「上手くいっても失敗しても、どちらにせよ私自身は死ぬ。お世辞にも安全だとはいえぬな」


 表情、声の調子、共に大真面目。

 どうにも本気っぽい。


「どうして、そこまでする?」

「その為に私は生きているからだ。国も、血も、すべてはその為の手段に過ぎない。だが、たとえこのまますべてが予定通り順調に進んだとしても、おそらく、あと一歩届かぬ。最後の一押しが足りぬ。もしかしたらおまえは、その最後の一押しになるやも知れん。だから」


 私の宿願を、手伝って欲しい。


 そうヒルデガルドは繰り返した。


 それに対しおれは。



 ――ありか? これ、ありか?


 ばくばく餌に喰いついていた。


 上手くいっても失敗しても、どちらにせよヒルデガルドは死ぬとか、考えるまでもなく超危険な案件だ。

 だがここは、未知の危険で満ち溢れる人外魔境。

 さらにこの身は、自動的に致死量のヘイトを集める叔母上の愛の結晶わりぃ、やっぱつれえわだ。

 どう上手くやったとしても、1度や2度は命の危機が訪れてしまうだろう。ノーミスで行ける気なんて微塵もしない。つうか1、2度どころか3、4、いや、5、6度ぐらいはありそうな嫌な予感が、おれの背筋をサンドバッグと勘違いしてるレベルでぶっ叩いてやがる。冷凍肉を殴るロッキーでももうちょい遠慮してた。それぐらい切実な予感がある。


 が、しかし。


 もしそれを、ひとつに絞れるとすれば、どうだろうか?


 いつどこでいくつ襲いかかってくるのか不明なものと、その時その場所で、初めから決まっていたひとつと相対するのでは、果たしてどちらがくみやすいだろうか。


 その時が来るまでは、今も一定の力を保持し続けている権力者王族が身内扱いで面倒をみてくれるという。きっと権力という名の無敵バリアや最高レベルのセキュリティが、本番までおれの身を護ってくれるに違いない。結果として、注力点はひとつに絞られる。


 魅力的だ。

 当座の安全と危機が訪れるタイミングの把握。 

 自活の筋道をつけるまでのつなぎとしては、大いにありだ。


 さっき確認した。

 ヒルデガルドは本気だ。

 たぶん、つまらない嘘はないと思う。

 いや、もしあっても、当初の海外ルートに戻るだけか。


 決まりだ。

 行け。



「……王族の義務だとかいわれても、こたえられないよ?」

 中小企業の課長や部長相手に冷や汗かいてるおれが以下略だ。

「いわんよ。その手の人員は間に合っている。私がおまえに望むはだたひとつ」

 そこで小さく息を吸って、


「あの馬鹿を助ける際、全霊をもって私に協力せよ」


「わかった。そちらが裏切らない限り、約束する」

 チキンセーフティーがうなりを上げるも、ヒルデガルドは特に気にした風もなく「お互いにな」と笑い飛ばした。


「なら、これから貴女のことはどう呼べばいい?」

 ヒルデガルドやあなたでは違和感がある。

「まあ、下の姉妹なら『姉さま』『お姉さま』あたりか」


 ふむ。姉さま、は違和感なくいけるな。

 お姉さま、はタイが曲がりそうだからパスだ。


「では姉さま、これからよろしくお願いします」

「う、うむ。おまえ、微塵も躊躇いがないのだな」


 そりゃね。

 アレな上司相手の尊敬ロールプレイに比べれば、難易度が低すぎるぐらいだ。


「ならば……おまえに丁度いい名がある」

「な? ああ、名前ね」

 たしかに、いつまでも名なしの邪神(下請け)のままってわけにもいかんよね。

「そうだ。やはりこれしかあるまい」


 どうしてかその言葉には、ここまで一切なかった馴れ馴れしさ――いや、親しみが感じられた。


「アマリリス」

 たしか、なんか花の名前だったか。

「どんな由来が?」

「生まれて来ることができなかった、母の第2子。私の妹となる筈だった命の名だ」

 重っ!

 いや、重すぎるって!

「いや、それ、使っちゃダメじゃないか?」

「だから良いのだ。皆がそう考えるゆえに、容易く触れられん。幼き母と同じ姿でその名。まともな神経をしていれば、まず関わろうとは思わん」

 怖っ!

 このひと怖っ!

 使えるものは使うタイプだ。

「不服か?」

「ありがたく、頂戴するよ」

 ……おれと同じだな。


「それにな、その名を持つ者が叔母上ローゼガルドに引導を渡すのは、これ以上ない供養になる気がしてな。やはり、やられっぱなしでは口惜しかろう。せめて名だけでも、ここに並ばせてやりたいと思うのは、まあ私の感傷でしかないがな」

 次々と明かされる、これからおれが参入する一族の闇!

 しらんふりもあれなので、なかば義務で訊く。

「原因はローゼガルドだったの?」

「毒を盛ったと。母上を弱らせる策謀の一環だったそうだ。さっき『読んで』知った」


 うーんこれ、本にできるやつは片っ端からやっちゃっていいっぽいな。

 やって後悔することは、まずなさそう。


「そんな顔をするな。報いはもう、すぐそこまで来ている」

「それって、あれのこと?」

 さっきからずっと気にはなっていたぐるぐる巻きドアに眼をやる。なんつーか、めっちゃ禍々しい。

「そうだ。来いアマリリス、これを見よ」


 おそるおそる近づくおれに対し、じゃじゃーん、と効果音がつきそうなノリで提示されたのは、部屋の四方から伸びる黒い糸束でぐるぐる巻きにされ、ドアの半ばに固定されたドス赤い本。……うん、結構前からわかってたけど、ローゼガルドブックだよね、これ。


「仕掛けとしては単純だ。この扉が破壊されると同時に、これまで加えられた衝撃の全てが、まとめて一気に4本のワイヤーを引っ張る。ワイヤーの深度は8。鉄でも紙のように裂ける。さて、この悪趣味な本はどうなると思う?」


 4本の黒いワイヤーから分岐した線が、まるでメロンの網目のように本全体を万遍なく覆っている。

 鉄でも裂けるという鋭さに加え、四方から強力な力で引っ張られるとするなら。


「ばらばらになる。本が無数のサイコロ状に裁断される」

「そうだ。ならあとは再現だ。あの地下でおまえがやったことと同じ、しかしその規模はケタ違いの、どうしようもなくはた迷惑な悪あがきの」


 ローゼガルドの性格上、黙って死ぬなんてことは絶対にありえない。


魔王ゲオルギウスの時とは違い、下準備の時間は山ほどあった。如何な状況にあろうとも、あの叔母上が、誰かの足を引っ張る努力を怠ることは絶対にない」


 すげー嫌な信頼だな。納得しかない。


「どれぐらいの規模かな?」

「この館が丸ごと、跡形もなく吹き飛ぶだろうな」


 こいつならそれぐらいやるよなあ、とローゼガルドブックに眼をやり、そこでようやく気付いた。

 注意深く細部まで見ると、おれが切り貼りを繰り返し『補強』したドア(闇)に、さらに手が加えられていた。

 ドア(闇)の全体に渡り、植物の根のように、あるいは血管のように細い黒糸が隅々まで張り巡らされている。


「これ、本の固定だけじゃなくて、ドアが壊れないように調節もしてたんだ。崩れそうになったら、その糸を伝って補充して」


 糸の1本は窓から外へ出ている。夜空の補給路、闇に満ちた只中へ。

 糸というよりかは、実質ポンプか。吸い上げ続ける限り、このドアを維持する闇の補充リソースは供給され続ける。

 だからどれだけ頑張ってもこのドアは破れない。崩れる端から延々と修復され、果てはない。夜が明ける、その時までは。


 かといって壁をぶち破ろうにも、そこはおれ謹製の黒塗り補強でがっちがちだ。

 まだドアの方が手ごたえがある分『よしここを集中攻撃だ』となり、勝ち目のない根比べ――実際はただ無限の闇を殴り続ける荒行――に挑み続けるわけか。


 で、あとは好きなタイミングで糸を切るなりして補充を止めれば、ドアは破壊され本はばらばらになり、ローゼガルドボムが起爆すると。


 イレギュラーのおれに、予想外のローゼガルドブック。

 だからどうした。使えるものは全部使う。

 そんな思想が垣間見える、くっそエグい仕掛けだった。


「この『闇』関連の技術って、便利すぎない? そこら中が即死の罠だらけになりそう」


「ならんよ。闇を無制限で使用できるのは、もはやおまえと私ぐらいだ。おまえの力をどう使おうがおまえの勝手だが、私にもそれができるという事実は決して他に洩らすな。そこで寝ている3人にもだ」

「あんまり信用できないやつらなの?」

「たわけ。知っていれば『吐かせる』という価値が生じてしまう。もとより、貧乏くじを引かされた不運な者たちだ。これ以上、さらに背負わせるつもりはない。わかったか?」


 お、部下からの好感度は高そうだな。


「わかった。いわないよ。……もしこれが他に知られたらどうなる?」

「通常なら、便利な存在として方々でこき使われたあげく実験動物だろうが、王家所縁となれば『箔』にもなろう。せいぜいうまく使え」


 あー、つまり、王家に縁者として匿われている内は『すげー、流石っす!』だけど、野良になった途端『貴重な実験動物だ! 逃がすな捕らえろ!』になっちゃうと。


 はーい、逃走防止用の首輪入りましたー。


「ん? あれ? 王家の者って、まだそこそこ数がいるよな? それなのに『闇』を無制限で使えるのは2人だけって、なんで?」

「元々『古き血統』に連なる身であるが故だな。その血の濃さが災いして、強化措置など施そうものなら、おおよそ半分以上は死に目となる。進んでそんな自殺じみた真似をする狂人など、そうはおらんよ」


 いるんだよなあ、今おれの目の前に。



 ――国も、血も、すべてはその為の手段に過ぎない。



 わかっちゃいたけど、やっぱこのひと、ガチ勢なんだよな。


 つい黙り込んでしまう。

 そういえばいつの間にか、どんどん、ばんばん、がんがん、とうるさい騒音は消えていた。

 しかしよく観察してみると、ドアの向こうから微かな振動が伝わってくる。たぶん、まだ連中は頑張っている真っ最中なのだろう。

 けど現状はほぼ無音。最初おれは、あの騒音で目が覚めたというのに。


「これって、音も遮断できるの?」

「ああもうるさい中では、ろくに話もできまい」


 ミュートのオンオフは自由自在と。

 最初のあれは、おれを起こすアラームだったのか。


 思い出す。


 目が覚めれば、もうすでに始まっていた。

 おれはとっくに、着席していた。


 やれ交渉だ取引だのいって席に着いた時点で、もう、どうやって負けるかの選択肢しかない次元だと思しき相手の用意した椅子に。


 なかば固定された状態で、それに気付かず目覚めていた。


 いやこれ、地下ピラミッド玉座の時と何も変わってないんじゃ。


「この手の小技は、また改めて教えてやる。今はまず3人を起こすぞ。あまりねばり過ぎて、連中に諦められても困る」


 ……いまさらびびってもしょうがない。


 我がお姉さまは頼りになるなあ、ぐらいの気持ちで行こう。


 いや、もっとポジティブに、ヘイヘイ、そんな小細工してまでおれが欲しかったのかい、この欲しがりさんめ。ぐらいの気持ちで行こう。


 ただ。


 いつでも1人で気軽に海外旅行に行けるコネとルートは、早急に確保しておこうと思う。









※※※









「紹介しよう。こやつはアマリリス。我が妹だ」

「おはようみんな。アマリリスです。縁あって姉さまの姉妹きょうだいになったので、これからよろしく」


 寝起きの3人のリアクションは共通して『あ、はい』だった。


 ただ無言の内に、いやねーよ、なんでそうなるんだよ、みたいな意をびんびんに感じたが、ここはおれがとやかくいうより、責任者であるヒルデガルドに任せるべきだろう。


「まあそうなった。以降、よしなに」

 ひゅー、上意下達ぅ! 

 3人のリアクションは共通して『はい』だった。


 余計な手間がゼロって、やっぱ魅力的だよな。

 やられる方は堪ったもんじゃないだろうけど。

 などと思っていると、こちらを見つめるヨランダと、ばちっと眼が合った。


「……なあ、その、あんたはそれで、いいのか?」


 良いか、悪いか。


「もちろん良いさ、ヨランダ。今のこれがわたしという己だからね」


 本音だ。

 目覚めたらこの身体だった。

 中身だけ、魂だけが移動云々の話をするなら、たぶん元の身体はもう死んでる。

 もし本当に魂なんてものが存在するなら、抜け殻になった時点でアウトだろう。


「まだ少し違和感があるが、だんだん慣れてもきた」


 だからといって、おれまで死んでやるつもりはない。

 顔も名前も覚えていない誰かに付き添い、生きることを諦めてやるつもりなんて微塵もない。そもそもおれは、心中なんて無意味だと吐き捨てるタイプだ。名無しの誰かも、道連れなんて望みはしない。それだけは絶対だ。おれがいうんだから間違いない。


「だったら意地でも、生まれたからには生きてやる。本当に嫌なこと以外なら、大抵のことはやるんじゃないかな、わたしは」

「そっか。なら、あたしと同じだな」


 お、そうくるか。


「うん。じゃあよろしくな、アマリリス様。あたしは育ちが悪いから、生まれとか経歴とか、そのへん、わりと雑にいけるんだ」


 いいね。

 自分たちの中におれが入ることの、プラスのみを即受け取れる頭の速さ。

 きっと彼女は好きになれる。


「…………」


 だが、それとは対照的に。


「なあ、あの執事の爺さん、なんかすごい微妙な顔してない?」


 作業の手は止めず、こそっとヒルデガルドに耳打ちすると、


「……執事? 執事バトラーはアルベルトという禿頭の巨漢だ。そこのハウザーではないぞ?」

「……? あの手の服着てる男って、執事って呼ぶんじゃないの?」

「男でも女でも、とりあえずは使用人と呼んでおけ」


 まじでか。そんなん知らんぞ。


「おまえは境遇がロクでもないという設定だ。まともな教育を受けていないわりには聡明だ、程度を保てればそれでいいが、改善できる箇所は直していけ」

 だがまずはそれよりも、と手は動かし続けたまま器用におれを指す。

「とりあえず、その格好をどうにかしろ。プルメリア、ヨランダ、どこかに古着のひとつやふたつはある筈だ。何でもいいから、探して着せろ」


 いや、そんな都合よく子供服とかないでしょ、とか思っていたのだが、どうやらこの部屋には『できる限り当時のままにしておけ』という厳命があったらしく、意外にも2つほどそれっぽいものが出てきた。


「ほう、懐かしいな。母上はこれを取っておいたのか」

「時の経過を極限まで鈍化させるおまじないが施してありました。これはヒルデガルド様のお召し物ですか?」

 プルメリアが両手で広げたそれを見て、

「ああ。もはや随分と昔になってしまったがな」

 それは黒い細身のドレスで、着用するとたぶん、真っ黒なタコさんウインナーみたいなシルエットになるタイプのやつだった。

 いや、どこのちびっこディーヴァだよ。王族のセンスすげーな。


「ヒルデ様。これってミゲル様の所のやつですよね?」

 そういってヨランダが広げたのは、細い縞模様のパンツスーツっぽい上下と黒シャツのセットだった。

「ああ。確か頼んでもいないのに送って来たやつだったな。結局袖を通すことはなかったが」

 こっちだ。リトルディーヴァよりは断然アリだ。

 けどその前に。

「ミゲル様って?」

「あー、なんていいますか」


 そこで一度ヨランダはヒルデガルドに眼をやり、頷くの許可を確認してから続けた。


「ヒルデ様の親戚で、わかりやすくいうと、ヤクザの親分の息子です。この独特の紋入り縞模様の着用を許されるのは、直系か認められたごく一部の者だけです」

 なんか面倒そうないわくがついてるな。

 これなら、のど自慢ちびっこ歌姫路線の方が安全か? などと一瞬思ったが、そういえば、この姿の時点で安全なんてどこにもなかったわ。

「じゃ、こっちで」

 ヨランダの方へ行く。

「……これ、下手したら面倒な連中に絡まれますよ」

「いや、構わん。こんな状況だ。遅かれ早かれミゲルの一派とは協調する必要がある。いくつか手順を省けるやもしれん」

「またヒルデ様は、そうやってすぐ悪いことを考える」


 なんかハチミツ塗りたくって蜂の巣駆除に行かされる的なニュアンスを感じた気がするが、まあビッグボスが良しというのなら大丈夫だろう。


「けどさすがに下着類はないですね」

「……今よりかはましだろう。構わん。着せろ」


 一時おれの作業を中断し、されるがままに着替える。

 シャツの首元はネクタイではなく、金属紐のループタイだった。留め具部分には黒い宝石がはめ込まれており、どんなものかヒルデガルドに聞いてみたが『市場価値はさほどない』とのこと。


「靴は?」

「すんません、ないです」


 え? 邪神(下請け)なのに? 裸足なのは女神だぜ?

 などと場を和ませるジョークが飛び出しそうになったが、ヨランダが○'zを知っているわけもないので、ぐっと堪えた。


 そうして衣替えも終わり、そういやプルメリアはあんまり喋ってくれないなとか、ハウザーに至っては壁の置物に徹してるよな、とか考えている内に、全ての作業が完了した。


「よし、完成。じゃ、3人共これ被って」


 おれがコツコツと作り上げた、防護服という名のちゃちな布切れを渡す。


 脱出には例の『窓』を使う。

 それを通ってここまで来たおれやヒルデガルドは問題なく行けるが、ヨランダ、プルメリア、ハウザーの3人にとってあの窓は近づくだけで炎上必至。さらにその中に入って目的地まで歩くなど、ほぼ自殺行為に等しい拷問だろう。


 それをどうにかすべく、我が姉さまがずっと温めていた、たったひとつの冴えたやり方とは――防具で身を固めてごり押しすればいいじゃない、だった。


 イキりフルアーマー使用人(修正済)がダメだった実例を見ていたおれは、やんわりとその旨を伝えたが「あの程度の輩と一緒にしてやるな」と一蹴された。


 なんでも、ちゃんと準備さえすれば、今の3人なら『ちょっと熱い』ぐらいで行けるそうだ。

 だからさっさと用意するぞ、となり、闇を切り貼りするしかできないおれの技量が許す限りの最大限を駆使した結果、真っ黒いオ○Qのコスプレが完成したというわけだ。


 正直なところ、両目の穴を開けただけの、ぺらい布にしか見えない。

 が、実は幾重にも切り貼りを繰り返すことで高密度に闇を圧縮した、それなりに頑丈な布っぽい何かだったりする。


 それをひとりひとり被せ、足元を引きずらないギリギリでカット。多少のあそびはあるが、腕を外に出すのは危険なので止めましょう、と注意事項を伝える。

 その上からヒルデガルド謹製、養蜂場の職員さんが被ってる系の、首と顔を保護する垂れ網つきのハット(闇)を被せ、ずり落ちないよう固定。顎紐あごひもをしっかりと締め、動き回っても大丈夫だと確認が取れたなら出来上がり。


 どこに出しても恥ずかしくない、イカれたカルト系邪教徒の誕生だ。


「……見た目はあれだが、性能は本物だ。どこか不備はあるか?」

「いいえ。ありません。その、なぜかとても快適です。息がしやすいです」

「視界もめちゃくちゃ良いです。なんか後ろの方まで見えて気持ち悪いです」

「傷の痛みが、嘘のように消えました」


 週刊誌の最後らへんで通販してるパワーストーンのレビューみたいな感想が相次ぐ。

 こうも雑な仕上げでこの高評価。闇技術は可能性の塊だ。


「問題はなさそうだな。では始めるぞ」


 黒いヴェール付きの帽子を頭に乗せ、さらに黒い日傘を差し、自身も装備を固めたヒルデガルドが観音開きの『窓』を開く。

 いや、あれは窓を開くというより、べろりと切開した傷跡に闇を塗り固めて『治りを遅らせている』といった感じか。

 もっと機械的なものを想像していたが、思いのほか生物的な生々しさがある。


「あ、本当に、何も感じない。凄い」

 プルメリアと思しき邪教徒が歓声をあげる。身長と体型だけでもでわかるもんだな。


「むしろ心地良いって感じるのが、心底こわい」

 ヨランダとしか思えない邪教徒が賞賛の声をあげる。過ぎた快適さにおののくとは、つまりは最高評価だな。

 

 まあ何にせよ、ちゃんと機能しているようで一安心だ。



「総員傾注。最終確認だ。行き先は本国――ネグロニア」



 最初に『読んだ』時にも思ったけど、なんというか、悪そうな名前だよなあ。


「到着場所は旧離宮の中庭を想定している。こんな時間に誰もいないだろうが、万が一の場合は素早く治せ。手遅れなら『窓』の中に放り込んで、知らぬ存ぜぬで通せ。深夜の人気のない私有地に入り込んでいる時点で後ろ暗い所のある輩だ。問題にはなるまい」


 なんか悪いこといってるなあ。

 さすがはネグロニア王族。


「中は視界が悪く狭い。入って少し進めば、少しだけましな通路に出る。そこで一度、私のもとへ集まれ」


 ぷつ。

 ドアへ闇を供給していた糸をあっさり切ったヒルデガルドが、一瞬の躊躇いもなく中へ飛び込む。

 次いでハウザー、プルメリア、ヨランダの順で入り、最後におれ。


 これが事前に決めた順番。


 先導はヒルデガルドにしかできない。だとすると最後に『窓』を閉めるのはおれになる。


 微妙に狭い観音開きをくぐり振り返る。

 視界の先、今までいた部屋のドアにひびが入る。瞬間ごとに亀裂は増えていく。その行く末を見届けることなく、おれはそっと『窓』を閉じた。



 中は相変わらず、先が見えない真っ黒な空間だった。

 足元を見ると、いくつかの足跡が残っている。

 それらが3歩先で不意に途切れていたので、急な段差に足を取られることなく、えいやっと着地を決めることができた。


 出た先は少し開けた空間。

 2回目で多少は慣れたのか、前よりは視界が確保できている。

 ここは……来る時に延々と歩いた、そう広くないトンネル状の不思議空間だな。


「来たか。なにか問題は?」

「ない。最後まできちんと閉めた。けどあれ、閉めても『窓』は消えなかったけど、そういうもんなの?」

「消滅までの時間にはバラつきがある。最長で30分。最短で5秒。原因はまだ不明。これからの研究次第だ」

 なるほど。ヒルデガルドにとっても、この謎空間移動はまだ未知の領域が多いのか。

「窓が存在しても、あれを開けられる者が向こうにはいない。問題はあるまい」

「わかった。じゃ予定通り、一番後ろで皆を見てるよ」

 大人しく一列で待機している3邪教徒――並びはさっきと同じでハウザー、プルメリア、ヨランダの順だ――の後ろにつく。

 準備完了。いつでもおっけー。ピットクルー的なハンドサインを送ってみる。

 おれが来た瞬間に声をかけてきたってことは、きっとヒルデガルドには見えている筈だ。


「よし。では行くぞ。何かトラブルが起きれば、すぐ私に報せろ」


 そうして一列になったままゆっくりと進む。全方位が濃密な闇で埋め尽くされ視界はほぼゼロ。足を踏み出してはいるが、進んでいる実感は乏しい。

 しかし、半歩踏み出すタイミングが遅れるだけで前の人影を見失ってしまうので、動きがあるという事実だけは確認できる。


 いや待てよ。多少慣れてるおれですらなんだから、初めての3人は10センチ先すらも見えていないのでは。


「なあヨランダ。前の人って見えてる?」

 え? と振り向こうとしたので、前を向いたままで、と軽く押し出す。

「いえ、見えないです」

「じゃあどうやって前に続いてるの?」

「黒縄でつくった大きな細長い輪っかの中にいるんです。あたしが最後でヒルデ様が先頭の」

 電車ごっこかよ! とはいわないでおいた。

 視界10センチの状況下で、はぐれず集団で目的地に向かうには、これより良い手は思いつかない。

「アマリリス様も入りますか?」

「……ありがとね。わたしは見えてるからいいよ」


 前とは違い、一歩進むごとにブ厚い暗幕を押しのける作業は必要ない。

 それらは全て先頭のヒルデガルドがやってくれているので、ただ普通に歩くだけ。

 楽とか快適を通り越してヒマですらある。


「あのさヨランダ」

「はい?」

 いやだから振り向かなくていいってば。

「なにも異常ない?」

「ないです。なんなら手を外に出しても平気みたいです」

 オ○Qスーツの下からにゅっと手を出してひらひらさせる。

「うーん。やっぱりもう一重ぐらい巻いとく?」

 こうして見ていると、どうにも炎上した使用人たちを思い出してしまう。

 連中は『窓』に接近するだけでダメだった。

 で、今ここはその中。

 本当にこんなコスプレもどきで最後まで耐えられるのか、なんだか不安になってくる。

 目の前で急に「ぎゃー」とかいって焼死なんかされたらトラウマ待ったなしだ。


「いえ、遠慮しときます。ヒルデ様がいうには、どういう基準で『足されて』いるのか、はっきりしないらしくて」

 お、なんか謎ワードが。

「その『足されて』いるってのは?」

「……えー、ざっくりいうと、あたしとハウさんとプルメリアがなんかめっちゃパワーアップしているらしいです。で、その理由がアマリリス様があたしたちに何かを『足した』からだと聞いてます」

「え、なにそれ。そんなの知らないんだけど」


 まじですか、ともらすヨランダに、続けてと先を促す。


「最初は『これで治せ』って渡された、あの命のこごりが原因って思ってたんですけど……ヒルデ様があの部屋に転がってた『治された3人』を確認したところ、特に変化はなかったそうなんです」

 もし本当におれがなにかをプラスしたとするなら。

「そりゃ、あいつらは味方じゃないんだから、いくら無意識の内にだろうと――いや、だからこそ余計に、パワーアップとか、させるわけないよ」

「まあ、そうですね」

 思い当たるフシは……ないな。わからん。

「じゃあヨランダたち3人は、そのパワーアップがあったから、そんなちゃち――ンン゛ッ! 即席の防護服でも大丈夫だってこと?」

「ぽいですね。きっと侵蝕深度4のままだったら、こんなな布切れじゃ耐え切れなくてぶっ倒れてたと思います」

 お。かましてきやがる。

 思えばこんな軽口、ここにきてから初めてだ。なんだか嬉しくなってしまい、ついつい勝手に口が回りだす。

「もっと豪華なドレスの方がよかった?」

「そうですね。高値がつく方が嬉しいです」

「あは」

 売るんかい。

 つい笑いがこぼれてしまう。

 なんだよ君、そんな返しされたら好きになっちゃうじゃないか。


「ヨランダ」

「す、すみません」

 最前列からヒルデガルドの声が飛んで来る。

 そりゃまあ聞こえてるよな。

「確かに布切れはちゃちだが、帽子の方は手間暇をかけている。一緒にしてくれるな」

「はい。最初からわかってます」

「ならばよし」


 思ったよりヒルデガルドと部下の距離は近いのかもしれない。

 いや、信頼関係の構築に成功しているとたたえるべきか。

 ま、それはそれとして、なにもなかったかのように続ける。


「けどさ、べつに『足される』分には良くない? パワーアップして困ることはないんじゃ?」

「いつあたしが破裂するかが、わからないんですよ。もっともっといけるかもしれませんし、次で『ボン!』かもしれません」

「うーん、そんなことにはならないと思うけどなあ」

 もし本当に、おれが『足して』いるのだとしたら、味方に被害を与えるなんて絶対にあり得ない。

 情や思いやりだけではなく、結局はまわりまわって自分も損をするという当然の帰結を理解しているからだ。

 無意識に損を求めるような、遠回りな破滅願望などおれにはない。

 だから気にせず行けることまでガンガン試してみよーぜ。

 が通るほどの信頼関係は築けていないよな、と静かに口を噤んだ。


 しばらく無言で後ろから、電車ごっこ(本気)を見守る。

 ん? なんか微妙に電車のかたちが歪んでいるような。


「ヨランダ」

 ヒルデガルドの呼びかけに、はいとヨランダがこたえる。

「可能な限りはやく、ミゲルと会談の場を設けたい」

「わかりました。下準備は必要ですか?」

「不要だ。妙なことは考えるな。平和的に業務委託について話し合うだけだ」

「ミゲル様がごねたら、どうしますか?」

「恩は売っておいた。否とはいうまい」

「了解です」


 そんなやりとりを聞いている間にも、やはり電車の歪みは大きくなっている気がする。

 ヨランダから先はぼんやりとしか見えないので、何がどうという具体性はないのだが。


「プルメリア」

 ヒルデガルドの呼びかけに、返事はなかった。

 最後尾のおれにまで届いている声が、プルメリアに聞こえていない筈がない。

 彼女が主の声を無視することもあり得ない。

 なら残るは。

 歪みの端が揺れた。


「ハウザー! プルメリアが倒れる、受けろ!」

「は!」


 キャッチに成功したかを確認すべく駆け寄ると、どうやら無事に上手くいったようだった。


 ゆっくり下ろせ、とヒルデガルドに指示されたハウザーがそっと横たえる。


「プルメリア。私の声が聞こえるか? 返事が無理なら瞬きを3回しろ」

 だらりと脱力したプルメリアの防護服の中に手を突っ込み、ヒルデガルドは何やらごそごそしている。

 今どうなってるんですか? とヨランダが聞くので、せめて見えるようにと、周囲の『暗幕』は全て取り払っておいた。


「申し訳、ございません、ヒルデガルド様」

「無理に喋るな。所詮、応急処置でしかない」

「いえ、随分と楽に」

 いやいや、素人目にも瀕死だぞおい。

「この異常な衰弱……プルメリアおまえ、なんだこれは? なにも『足されて』いないではないか。一体どういうことだ?」

「……これ以上、ばけものになるのは嫌だと思ったら、吐き出しちゃってました」


 え? おれ印のパワーアップ(条件不明強制オート)って、そんな、いらないからぺっします、とかできるもんなの?


「なぜ黙っていた」

「この方法が、最も確実に脱出できるからです。この身なら、あるいはこのままでも行けるかとも思いましたが、やっぱりそう上手くは、いきませごぼっ!」

「ああもう、だから無理に喋るなと」



「この身ならって、プルメリアには何かあるの?」

 落ち着きなくそわそわしているヨランダに聞いてみる。

「……あいつは最初から、初期施術が終わった瞬間から侵蝕深度フェーズ8だったんです」

「それって凄いの?」

「単なる友達ダチですよ」


 文脈はめちゃくちゃで何の繋がりもない返事だったが、いわんとすることは伝わった。



「ごほっ、捨て置いて、ください。そのつもりで、来ました。ヨランダちゃん。今ま」

 ヒルデガルドが額に指を当てると、即座にプルメリアは落ちた。

「寝てろ。着いたら起こしてやる」


 なんだかよくわからなかったが、大人しそうなプルメリアが実はガン決まり勢だったことだけはわかった。


「アマリリス、手を貸せ。まだ距離はあるが、多少強引にでも『開く』ぞ」

「わかった。なにをすれば?」

「まずはこれを手に取れ」


 いわれるままに、闇空間のささくれっぽいものを握らされる。

 空中に横向きでにゅっと生えた、カラオケのマイクぐらいある、まだ繋がったままのでっかいささくれじみた何か。

 うん、きしょいなこれ。


「全力で引いて裂け。裂け目が大きければ大きいほど、こちらの作業はやり易くなる」

「よしやってみる。せーの」

 堅っ! これめっちゃ堅っ! 南瓜かぼちゃの皮を素手でむく感じだこれ!

「ヨランダ! ちょっと向こうから押して! これかったいわ!」

 プルメリアを運ぶのでハウザーは手一杯だ。意識のない人間ってガチで重いからな。

「はい! それじゃいっせーの、で行きますよ!」


 せーの、せっ! ておい待て『の』で力んじゃだめだろ! え? この地域じゃそうなの?


 などとやりながらも、どうにか3メートルほどまで引き裂けた。

 手を離すと勝手に塞がって行くので、ぐっと押さえたままキープする。


「……思ったより重いな。ハウザー、ヨランダ、備えだけはしておけ。最悪、旧市街に出るやもしれん」

 裂け目に上半身をまるごと突っ込んだヒルデガルドから、声だけが届く。

「旧市街? なにか問題が?」

叔母上ローゼガルドの息がかかったやくざ者どもの巣窟だ」

 うん、行きたくないな、そんな所。

「けど、そいつらはまだ、ローゼガルドがどうなったかは知らないはず」

 なら適当に「お使いです」とかいえば「お疲れさん」で素通りできそう。

「だといいがな」




 そこで不意に爆ぜた。




 どこか遠くでなにかが破裂するような振動が空間全域を震わせた。


 心当たりはひとつしかない。

 とうとうローゼガルドボムが爆発したのだ。


 そう理解した次の瞬間。


 馬鹿げた出力によって生み出された衝撃の波が、狭いトンネル状の通路全体を押し出すように迫り来るのがわかった。理屈抜きで解のみを得る。接触まであと2秒。


 まさか『窓』の向こうにあるこの謎空間にまで影響を及ぼすような自爆ができるとは、微塵も考えていなかった。

 なかったから、貴重な1秒をただ固まることに浪費してしまう。


 最初に動いたのはハウザー。

 即座にプルメリアを置き、迷うことなく全員の盾となる位置で防御姿勢を取る。全衝撃の8割をその身で受け、当然の結果としてゴムボールみたいにぶっ飛ばされた。余波で浮かび上がったプルメリアに抱きつくヨランダを横目に、ここでようやくおれは動き始める。


 ほぼ視界がゼロな闇の只中。

 ここで見失うのはまずい。最悪、終わる。


 その事実に背を押されたおれは、反射的に『黒い手』でハウザーを掴み、ヒルデガルドが落ちていった裂け目に放り込んだ。


 そこで気付く。

 知りたくもない事実を把握してしまう。

 やはりこと闇に関しては、ピラミッドさんのおかげか、異常なまでに見通せる。


 今のはローゼガルドの自爆ではない。

 正確にはその下準備。

 効果的なポイントを探るソナーのような、ボクシングでいうジャブのような、本命を打ち込む為に対象の位置を測る、前フリでしかない。


 その本命が、遠くの窓から溢れ出した。


 腐った泥のような呪のような怨みのような殺意のような、おぞましい何かの濁流。

 一瞬で狭いトンネル内を満たし、飽和し、何もかもを台無しにする為だけに荒れ狂う最悪最低の悪あがき。


 ダメだ。

 あれはダメだ。

 どう足掻いてもダメだ、としかいいようがない。

 あれにのまれて助かる未来が想像できない。


 ふと。


 おれの目の前を、プルメリアが通り過ぎる。

 依然彼女は意識を失ったままだ。

 だからそれは、自発的な避難ではなく、ヨランダが放り投げた結果だ。


 ジャイアントスイングのように遠心力を駆使し、全身全霊を振り絞り、ヒルデガルドたちが落ちていった裂け目へと放り投げた結果だ。


 その反動でヨランダは派手にすっ転ぶ。

 受け身もなにもなく、べちゃりと痛そうな角度で地を舐める。


 小間物こまものが綺麗にすら思えてくる、終わりの底としかいいようのない腐った泥の波が、瞬間移動じみた速度で迫る。


 どれだけ『黒い手』を伸ばそうとしても、出した端から泥の方へと吸い込まれてしまう。杭も同様で、いうなれば闇を吸う泥。おれ対策は万全だ。その命を賭した嫌がらせに、太刀打ちする術がない。手も足も出せば即のまれる。


 死臭が鼻をつく。


 あれとの距離が縮まる。

 その事実だけで胃液が逆流し膝が笑う。

 生きることを諦めない全てが『1ミリでもいいからあれから離れろ』と全会一致で合唱する。


 わかってる。

 おれだけなら、まだ裂け目に飛び込める。

 けどヨランダを引っ張り上げて、走って、飛び込む時間はない。


 眼が合う。

 ヨランダの手が動く。

 ぶるぶる冗談みたいにブレる腕を、強引に、誤魔化すように、ぱぱっと外へ向け何度も払う。

 いやいやそんな、一目でわかるレベルでがくがく震えてるのに、なにやってんの。

 間違いようのないハンドサイン。

 さっさと行け。




「あは」




 つい笑みがこぼれてしまう。

 あのなあ君、そんなことされたら好きになっちゃうじゃないか。



 無駄は省こう。


 これはヨランダを味方につけるチャンスだとか、命の危機程度では揺らがない彼女の懐深くに入り込むまたとない好機だ、などという、誰にしているのかわからない糞以下の言い訳じみた無駄は全部カットして、根っこの本音だけを採用しよう。



 助ける。



 まだこの手には空間のささくれが握られたままだ。

 腕一本潰す覚悟があれば、南瓜かぼちゃの皮ぐらいどうにかなる。なる筈。なれ。やれ。いけ。行くぞ。


 ささくれを左手で握ったまま、押し出すように全力でダッシュ。

 予想通り腕全体がむちゃくちゃ痛いけど進めているから良し!

 がっと何かに詰まる感触に、水平方向は諦め垂直――下方向へとささくれを押し込む。

 するり、と何の手ごたえもなく裂け目が進む。

 横は重いが縦は軽い。

 そんな仕組み知るわけねーだろ!

 叫ぶ息を言葉に変える。

「ヨランダ!」

 勢い余って半回転したまま右手を差し出す。

 タイムラグなしで掴み返される。頭がはやくて良し!

 おれが腕を引いて、ヨランダが足で蹴って、だけどここで時間切れ。


 津波のような泥の第一波が、こちらの背に手をかける。


 たぶん、あれに触れるとヨランダは即死する。

 おれなら、即死さえしなけりゃ、たぶんファントムキャッツがどうにかしてくれる。……よな? 大丈夫だよな? 保障期間まだ切れてないよな? ヘイピラミッド! お望み通り助けてんぞ! だから手ぇ抜かないでね! ほんとお願いね!


 覆い被さるようにして、ヨランダを裂け目に押し込む。

 熱っ!

 なんか背中熱っ!


 そんな、懐かしのやくざ映画の刺されたやつみたいなことを思いながら、おれは裂け目にすぽんと落ちた。

 落下の感覚はないが、徐々に闇が明るくなり、夜空と同色にまでその明度を上げたところで、どちゃっと落ちた。


「う゛っ」


 痛――くはない。

 今の声はヨランダだ。ごめん。そしてナイスクッション。――あ。


 すぐさまその可能性に思い当たり、弾かれるように起き上がる。

 場所は夜の屋外。人気はなく、無人と思しき建物が延々と並んでいる一画。どう見ても人工の建築物なので、無人の野というわけではなさそうだが。


 とにかく今は頭上にある裂け目にかかる。

 塞ぐ。切り貼り切り貼りを繰り返し、とにかく大急ぎで塞ぐ。

 あの泥が流れ落ちてくるより早く、跡形もなくなるまで、夜空と完全に一体化するまで、とにかく塞いで塞ぎまくる。


 必死の努力の甲斐あって、頭上の星空を遮るものはなくなった。


 だがそうして一息ついてしまうと、急に背中の痛みが暴れ始める。

 おそるおそる手を伸ばしてみるも、なぜか服は溶けも破れもせずにそのまま。

 シャツの下に手を入れてみても、火傷やただれや出血はなし。


 疑問の前に答えがきた。


 足から力が抜け、膝から崩れ落ちる。うつ伏せに倒れる以外、何もできなくなる。

 なるほど、よくわかった。やっぱローゼガルドって糞だわ。


 傷が、外傷が、損傷箇所がないから『治しよう』がない。

 そもそも、痛んでいないものは癒せない。だから絶対に治ることなく死ね。

 きっとこれは、そういった殺害方法なのだろう。


 いや、その理屈はおかしい。

 どうしろってんだよこんなの。

 おれ以外だったら、絶対に死んでたぞまじで。


 目蓋が落ちる前に、降りてくる。

 なにも遮るものがなくなった星空から、星の数ほど降りてくる。


 頬を舐める黒猫のひげがくすぐったいな。

 そう思うと、すっと角度を変える謎のキャットマナーに感心しつつ、おれの意識は落ちた。


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