20「感謝してもしきれません」

「夏休みが終わる前に、一度私の家にいらしてくださいませんか」

 学校でヴェロニカが花壇の世話をしているとエリアスが言った。


「エリアスの家?」

「はい。両親と弟が、どうしてもヴェロニカ様にお礼を言いたいと申しておりまして」

「お礼なんていいのに……」

「そういう訳にはまいりません」

 エリアスは首を振った。

「そう? ……でもそうね、ご家族には会いたいわ」

「ありがとうございます。では急ですが、三日後はいかがでしょう」

「ええ、大丈夫よ」

「準備してお待ちいたしております」

 胸に手を当てエリアスは頭を下げた。


  *****


 ボーハイツ家は庭も建物の中も、ひと目見ただけでよく手入れがされていると分かるものだった。

(さすが執事の家ね……)

「ようこそお越しくださいました」

 ヴェロニカが感心しながら中へ入ると男性が出迎えた。

「ボーハイツ家の当主でございます。一族の恩人であるヴェロニカ・フォッケル様をお招きすることができ光栄にございます」

「……ありがとうございます」

 一族の恩人は大げさではと思ったが、それを口にせずヴェロニカは挨拶をした。


「こちらは妻と、次男のアントンでございます」

「初めてお目にかかります」

「初めまして」

 ボーハイツ子爵が示した先には、女性とエリアスを幼くしたような少年が立っていた。

(エリアスはお母様似なのね)

 黒髪は父親譲りだが、その顔立ちは母子でとてもよく似ていた。


 ヴェロニカが案内された応接室も、とても綺麗に手入れがされていた。

(なんだか空気も違うような……)

 チリ一つないというか影がないというか、部屋中が輝いているように見える。

「どうされましたか」

 不思議そうに室内を見回したヴェロニカにエリアスが声をかけた。

「部屋がとても綺麗で……空気まで違うみたいだなと思って」

「ヴェロニカ様をお招きするのに、我が家に伝わる技術を注ぎ込みましたからね」

 エリアスは微笑んだ。

「新築同様になるくらいに磨きました。普段はかえって落ち着かなくなると言われますので、特別な方をお招きする時だけここまで磨きます」

 エリアスの言葉を継いで子爵が説明した。

「なるほど……」

 外観から見ると築百年近くはたっていそうな家なのに、それがここまで綺麗になるとは。

 一流と呼ばれる技術はやはり違うのだとヴェロニカはつくづく実感した。


「どうぞ」

 イスに座るとヴェロニカの前にティーカップが置かれた。

 中には黄金色の液体が入っている。

「これは……見たことのない色ですね」

「私が以前お仕えしておりました主人から贈っていただいたもので、異国の珍しいお茶です」

 子爵が答えた。

「標高の高い山でしか育たない茶樹だとか」

「そうなのですね。いただきます」

 ヴェロニカはお茶をそっと口に含んだ。

「……とても美味しいです。濃厚というか……味がしっかりしているというか」

「はい。寒暖差が大きい場所ですと平地で育つよりもゆっくりと育つので、その分味が濃厚になるのです」

「そういえば、サロンで教わったことがあります」

 前に園芸サロンで茶葉の研究者から教わった時にそんな話を聞いていた。

 その時は実物が手に入らなかったというので飲むことができなかったが、実際に飲んでみるとその違いがよく分かる。

(そもそもお茶の淹れ方が上手だからとても美味しいんでしょうけれど)


「お茶に合うお菓子も用意いたしました。よかったらお召し上がりください」

 夫人がムースの載ったガラス皿を差し出した。

「ありがとうございます」

 スプーンですくって口へ運ぶ。

 ひんやりとして滑らかな舌触りが心地よく、クリームの甘みとのバランスもよくとても美味しかった。


「ヴェロニカ様には本当に、感謝してもしきれません」

 夫人が言った。

「あの場にいらして下さらなかったら、この子達はどうなっていたか……。アントン、貴方からもお礼を言いなさい」

 そう言って、夫人は隣に座る少年を促した。

「ヴェロニカ様。私たち兄弟を助けていただきありがとうございました。このご恩は決して忘れません」

 真っ直ぐにヴェロニカを見つめてアントンが言った。


「息子たちのせいでヴェロニカ様にはとてもご苦労をおかけしてしまいました」

 子爵がヴェロニカに向かって深く頭を下げた。

「申し訳ございませんでした」

「あの、もうそのお話は……謝罪はもう、十分いただきましたから」

 感謝の気持ちはうれしいが、こう何度も謝罪されるのは正直重い。

「こうしてご家族皆様とお会いして、お気持ちは十分いただきましたので。謝罪していただくのはもうこれで最後ということにしてください」


「……かしこまりました」

 子爵は頭を下げた。

「ヴェロニカ様は、息子から聞いていたようにとても心が広い方なのですね」

 夫人は少し涙ぐみながら言った。

「いえ、そんなことは……」

「ヴェロニカ様は本当に素晴らしい方です」

 エリアスが笑顔で答えた。


 それからひとしきり、エリアスはいかにヴェロニカが素晴らしいかを本人の前で語り始めた。

 ヴェロニカは顔から火が出そうなくらい恥ずかしかったが――エリアスの家族が皆、その話を楽しそうに聞いているので遮るのも悪く、話が終わるのをただ耐えるしかなかった。



「本日はありがとうございました」

 帰る馬車の中でエリアスが言った。

「家族皆喜んでおります」

「私もお会いできて良かったわ。素敵なご家族ね」

「ありがとうございます」

 ボーハイツ家の家族は仲が良く、幸せそうに見えた。

(本当に……もしも今世でも、あの事故でエリアスが怪我をしていたら、幸せではなかったのよね)

 嫡男が怪我をして家を継ぐことができず、さらに死ぬかもしれないなんて。

 それはとても不幸なことだろう。


「ヴェロニカ様。私は本当に、貴女と出会えて幸福です」

 エリアスはヴェロニカを見つめた。

「私は生涯、ヴェロニカ様のお側でお仕えさせていただきたく存じます」

「……ええ、ありがとう」

 ヴェロニカがうなずくと、エリアスはうれしそうに顔をほころばせた。

 クールな顔立ちのエリアスが心から喜ぶその顔に、ヴェロニカも心がじんわりと温かくなるのを感じた。


  *****


「ヴェロニカ! 久しぶり!」

 九月。夏休み最終日。

 ヴェロニカが寮に戻ると、前日に帰ってきたというルイーザが出迎えた。


「久しぶりね。ご家族は元気だった?」

「元気よ。はいお土産」

 ルイーザは紙袋を手渡した。

「お母様から。例の糸だって」

「ありがとう!」

 ヴェロニカは紙袋を受け取ると早速それを開けはじめた。

「刺繍糸なんて、王都にもあるんじゃないの?」

「でもこの糸は生産量がとても少なくて、王都で仕入れているお店がないんですって」


 ルイーザが持ってきたのは、彼女の家があるバンニンク伯爵領で作られている刺繍糸だ。

 以前ルイーザの母親にもらったもので、光沢があって発色がとても綺麗なのだ。

 山間にある小さな集落で作られているこの糸は、その土地だけで採れる植物で染めているのだという。

「ふふ、何を刺繍しようかしら」

「……いいわね、ヴェロニカは。刺繍や読書ならどこででもできるものね」

 刺繍糸を見つめながら口元を緩めているヴェロニカを横目で見て、ルイーザは小さくため息をついた。


「……何かあったの?」

 友人の表情が暗いのに気づいてヴェロニカは首をかしげた。


「お見合いさせられたの」

「お見合い? え、本当?」

 ヴェロニカは目を丸くした。

「お相手はどんな方なの?」

「五歳年上の子爵家嫡男で、大きな商会を持っているの」

「それって、いいお話じゃないの?」

 ルイーザには兄と姉がいる。

 家から出ていかなければならないルイーザにとってはいい縁談のように思えた。


「そうね……でも、私は王都に残りたいの」

 ルイーザは言った。

「パーティの時に先生たちの模範演技を見たでしょう? あんなふうにダンスを極めたいの」

「……そうだったの」

「その人と結婚したら地方に住むことになるし、ダンスをする機会なんて商会関係のパーティくらいだわ。……私はもっと、沢山色々なダンスを覚えたいし腕を磨きたいの」


(本当に……ルイーザはダンスが好きなのね)

 確かに社交の場でダンスは必須なものだ。

 けれど多くの貴族にとっては最低限の技術と知識を身につければ良いもので、ルイーザのように技を極めたいと思うならば教師など専門職に就くことになるだろう。


「じゃあ、お断りするの?」

「私からは断れないわよ」

 ルイーザはもう一度ため息をついた。

「まあ、一度会っただけだし。どうなるか分からないけど……自分で相手を選べないのはつらいわね」

「……そうね」

 貴族の結婚は当人の意思よりも、家同士の約束で決まることが多い。

 ルイーザの場合も相手の家との結びつきを考えて選ばれたのだろう。


「ヴェロニカは? 婚約者選びは進んでいるの?」

「私はお婿さんに来てもらう予定なの。まだ候補はいないけれど……」

 フィンセントから婚約者候補だと告げられたと父親に報告した時に言われたのだ。

 侯爵家に婿入りするのだから少なくとも貴族でなければならないが、ヴェロニカの意志を一番尊重するとも。

(私は恵まれているけれど……今のところ、お相手なんていないのよね)

「私も相手探しをしないとならないかしら」

 早く婚約者を見つければ、フィンセントも諦めるだろう。

「ヴェロニカは自分から探さなくても大丈夫よ、きっと」

 ポン、とルイーザはヴェロニカの肩を叩いた。

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