僕とケット・シーの魔法学校物語

らる鳥

一章 ウィルダージェスト魔法学校

第1話


「キリク、キリク、起きなよキリク」

 僕の名前を呼ぶ声と共に、べちべちと、いや、ぐにぐにぷにぷにと、小さく柔らかな物が顔に押し付けられる。

 慣れ親しんだ感触に眠気を払い、夜の間中は仲が良かった上の瞼と下の瞼を破局させると、僕の顔を踏み付けている一匹の黒猫が視界に入った。

 彼の名前はシャム。

 僕の飼い猫……、ではなくて、幼馴染、或いは同じ乳を飲んだ、乳兄弟というやつだ。


「やっと起きたね。今日は何の日か覚えてるだろ。ほら、早く用意しなよ」

 身を起こそうとする僕の上からピョンと飛び降りたシャムは、美しいサファイアブルーの目を細めて、くしくしと顔を洗う。

 その仕草だけを見れば丸っきり単なる猫なのだけれど、当たり前だが、単なる猫は喋らないし、人間と乳兄弟になったりもしない。

 彼はそう、魔法の猫とか、妖精の猫とも呼ばれる、ケット・シーだ。

 今は本当に単なる猫にしか見えないように振る舞ってるけれど、その気になれば二本足で歩けるし、カップを掴んでお茶も飲める。

 尤も猫舌だから、思いっ切り冷まさないと飲めないけれども。


 そして僕は、まぁ、シャムがケット・シーである事に比べたら大した話じゃないけれど、そのケット・シーの村、隠れ里で育てられた人間だった。

 名前は、さっきシャムが呼んでたようにキリクで、十二歳。


「うんうん、覚えてる。エリンジ先生が何とかって学校に連れて行ってくれる日だったよね。でもほら、今日は雨が降りそうだし、明日で良くない?」

 のそのそとベッドから這い出して、サイドテーブルに置いた水差しと盥で、口を濯いで顔を洗う。

 冬はもう終わりが近いけれど、それでもやっぱり空気は冷たく、僕は一つ身震いする。

 しかし何時までもそのままじゃいられないから、寝間着を脱ぎ捨てて、そのなんとかって学校の制服に手を伸ばした。

 窓帷の隙間から入ってくる光から察するに、外は快晴の様子だが、きっと雨は降る筈だ。

 だってさっき、シャムが顔を洗ってたし。


「またそれ? ボクが手で顔を擦ったくらいで雨なんて降る訳ないでしょ。一体どこの迷信だよ。そんなので雨が降ったら、この村は年中雨じゃないか。それにエリンジ先生は魔法で連れて行って下さるから、雨でも別に関係ないって」

 呆れた様子のシャムに急かされて、僕はシャツに袖を通す。

 柔らかく、とても質のいいシャツだ。

 何で出来てるんだろう?

 生糸か、それとも僕が知らない素材だろうか。


 あぁ、そうそう、エリンジ先生というのは、ケット・シーの隠れ里に最近やって来た、偉い魔法使いだ。

 何でも魔法使いの才能がある子供を探して、国中を旅して回ってるらしい。

 その、魔法使いを養成する、何とかって学校に勧誘する為に。

 要するにその、魔法使いの才能がある子供というのが、僕の事だった。


 この世界には魔法が存在していて、僕には魔法の才能がある。

 実に魅力的な話だろう。

 しかし正直、その学校に通う事に、僕はあまり乗り気じゃない。

 だって、その学校は、全寮制だっていうし。

 確かに魔法は魅力的だけれど、ケット・シーの村での暮らし、つまりは大勢の猫に囲まれた暮らしを捨てる程の価値が、果たしてあるのか。


 本当に単なる猫ばかりだったら、言葉を交わせる人が欲しくなったりしたかもしれないが、ケット・シーは普通に言葉を交わせる。

 更に彼らは、人間の魔法とは別物だけれど、不思議な力も使えるのだ。

 別に僕が魔法を使えなくたって、十分に神秘的な何かには触れられた。

 僕は森に捨てられていたところを、ケット・シーに拾われてこの村にやって来たそうだけれど、捨てられた事に感謝さえしている。

 それくらいに、このケット・シーの村での暮らしは、僕にとって理想的なのに。


「いいじゃないか。人間の子供なら、誰もが魔法使いには憧れるんだよ? こんな何もない村で過ごすより、魔法学校は絶対に楽しいよ。それにキリクが駄々を捏ねるから、ボクが付いて行く事になったじゃないか。それでも不満なのかい?」

 ズボンをはいた僕の足を、シャムの前脚がぺしぺしと叩く。

 あぁ、もう、本当に、実に愛しい。

 猫への愛情と、乳兄弟という家族も同然の相手に対する愛情が乗算されて、思わず抱きしめたくなる。

 まぁ、そうしようとしたら逃げられるのはわかってるから、隙ができるまでグッと我慢だ。


 実際、僕が普通の子供だったら、シャムが言う通り、何もない村での暮らしよりも、魔法学校での生活に胸を躍らせていたのだろう。

 ただ僕には、生まれてこの方、ケット・シーの村を出た事がないにも拘らず、人間に囲まれて暮らした記憶があった。

 それは今の僕じゃなくて、それよりも以前の、このケット・シーって不思議な存在や、魔法も存在しなかった、別の世界に生きた記憶が。

 流石にその事は、シャムにも、他の村のケット・シーにも、誰にも話してないけれど。


 なので魔法はともかく、人間に囲まれて暮らすのは、面倒臭いなって思ってる。

 特に魔法使いが、誰もが憧れるような存在だったら、競争やら妬みやら、色んな事が付き纏うだろうし。


 でもシャムも、他のケット・シー達も、僕の将来を考えて、魔法学校に行くべきだと口を揃えて言う。

 ケット・シーの村に暮らしていても、僕はやっぱり人間だから、ちゃんと人間の暮らしを知るべきだとも。

 そしてその理屈は、間違いなく正しい。

 彼らは僕を愛してくれていて、だからこそ、外の世界に出そうとしていた。


 だったらもう、我儘を言わずに一度は体験してみよう。

 魔法に対しての憧れは、確かにある。

 それに何より、駄々を捏ねた成果として、シャムは付いて来てくれる事になったのだから。


 僕は複雑な刺繍が施されたケープを纏い、シャムに向かって手を伸ばす。

 するとシャムは、僕の腕を通り道に、肩の上へと駆け上がった。


 盥と、水差しの水を始末して、脱ぎ捨てた寝間着も片付けて、乱れたベッドを整えて、荷を詰めた鞄を肩から下げる。

 それから残ってたパンを半分ずつ、シャムと食べた。

 暫くは、ここに帰ってくる事はないから、後片付けは確実に。

 家の管理は、村のケット・シー達がしてくれるだろうけれど、余計な手間を掛けたくはない。


「よし、じゃあ、行くぞ。目指すはウィルダージェスト魔法学校だ!」

 実は僕よりも、ずっと魔法学校を楽しみにしてそうなシャムが、とても張り切った掛け声を発した。

 あぁ、そういえば、そんな名前の学校だったっけ。

 エリンジ先生が魔法で連れてってくれるなら、僕らが目指すって訳じゃないと思うけれど、野暮な事は言わないでおこう。

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