第7話

 千里が写真のある一点を指差した。監禁されている男の後ろの壁、白い壁のようだが、左端の壁だけ鏡張りになっている。正面の光がその鏡に反射しており、はっきりとはしていない。しかし、そこの奥、暗闇になっている部分に、なにやら曲がりくねったオレンジ色に光る大きな線が見える。

「これ多分、ネオンサイン。形からして漢字だと思う」

千里は推測を述べた。

「わかりました。それも含めて調べてもらいます」

堀切が移動しようとノートパソコンを閉じる。

「あと、もうひとつ」

千里は声を落とし、堀切になにかを耳打ちした。

「了解です」

堀切は席を立ち、早速、鑑識課員のいるスペースへと向かった。

「子どもが入れないってことは、大人が行くような場所ってことだよな・・。そんなとこ、この街にはごまんとあるぞ。それに、今は入れるってのも気になるし・・・」

高円寺は思案顔で腰に手を置き、犯人の出したヒントの意味を探ろうと、頭を悩ませるのだった。


 解析結果を待っている間、千里は会議室の窓際に寄りかかり、タブレットをスワイプしながら、今までの事件のデータを見直していた。そこへ滝石がやって来る。

「あと二十三時間ですね」

滝石が腕時計を見て言うと、千里に訊いた。

「犯人はなんで急に殺害予告を配信したんでしょう?それまではメールだけだったのに」

無表情の千里は、タブレットの画面を見ながら端的に答える。

「クイズをクリアされた。また同じことしてもクリアされるかもしれない。だから次の段階に進んだ」

「次の段階?」

滝石が聞き返した。

「相手を監禁して、その場所を警察に当てさせること」

千里は語を継ぎ、私見を述べた。

「随分早く写真が送られてきたでしょ。多分あれ、昨日撮ったんだと思う。もしもクリアされた場合に備えて、策は講じてあった。それで殺すのを一度やめて、相手を拉致した」

愉快犯にしては犯行が緻密だ。きちんと構想が立てられている。千里はタブレットを操作する手を止め、呟いた。

「やっぱりゲーム感覚でやってない。ほかになにか目的がある。警察にさせたいことがある・・・」

思いを巡らす千里と、難しい顔つきをした滝石のもとに、諸星が話しかけてきた。

「さっきの配信、視聴者数がすごいことになってました。そのせいで、この署だけじゃなく、ほかの所轄署や本庁にも、質問やら抗議やらの電話がかかってきて、鳴り止まない状況になってます」

それを聞いて、滝石はあれこれと考察する。

「騒ぎを起こして警察を困らせたい。それが犯人の狙い・・。あるいは、その騒ぎに乗じて、別の犯行に及ぼうとしているのか・・。んー・・・」

滝石は眉間をいっそう寄せたが、その寄せた皺が離れた。ふと気になり、諸星に訊ねる。

「本庁はなんて言ってるんですか?」

諸星は浮かない表情で返答した。

「当然ながら、かなり迷惑してるみたいです。早くこの事態を収束させろと、この署の署長にせっついていたと聞いてます。担当の高円寺さんも責められているとかで、ほとほと困っている様子でした」

確かに、この情勢では無理もない。

「そりゃそうですよねえ」

中間管理職は苦労が多いと思いながら、滝石は周辺を見渡した。

「管理官、いませんね。ウチの署が大変だってのに。係長と同様、本庁で怒られてるんでしょうか」

滝石がごちると、諸星が「管理官」の言葉で思い出した。

「綿矢警視正、刑事部の参事官になるみたいですよ。すでに内定が出てるそうです。警視正に昇進させたのも、その布石だとか」

不意の報せに滝石はわずかに声を上げた。

「管理官がですか?」

諸星はうなずいた。

「ええ。今の参事官が別部署へ異動になるんです。警視正のことですから、これまでの功績が認められて、抜擢されたのかもしれませんね」

諸星の些細な話に、無言で聞いていた千里が横槍を入れた。

「そんなわけないでしょ。どうせ裏でなんかしたに決まってる」

千里の目が険しくなる。綿矢が出世しようがしまいが関係ない。あの男の顔が頭に浮かんだだけで、反吐が出るほど胸が悪くなる。不快感を覚えるのだ。だからこれ以上、綿矢について耳にしたくない。千里は持っていたタブレットを諸星の胸に押し付けるように手渡した。

「少し休んでくる」

そう言うと、千里は会議室から出ようと足早に歩き始めた。滝石と諸星は、その背中を呆然と眺めている。

「警部、嫌ってますよね。警視正のこと」

諸星がポツリと口にした。

「その原因、四年前にあるかもしれません」

滝石は真剣な面持ちで語を継いだ。

「以前、管理官から緋波さんの過去について知りました。そのあと、自分でも少し調べてみたんです。緋波さんは四年前、本庁の捜査一課に新設された特別捜査班のメンバーでした。班長は、発案者でもある綿矢管理官です」

それは諸星にも記憶があった。

「聞いたことあります。刑事部内で、選りすぐりの人材だけを集めた精鋭チームですよね」

「ええ。当時、一課の別の係にいた緋波さんを、綿矢管理官が特捜班にスカウトしたんです」

追憶するうち、諸星はつい首を傾げた。

「あれっ・・。でも・・、その特捜班って、もうなくなってますよね?」

諸星の問いに、滝石はうなずいた。

「はい。緋波さんが入院して三か月後、ほかの部署との軋轢あつれきもあってか、たった一年の活動期間で特捜班は解体され、綿矢管理官は班長の座を降りました」

滝石は聞き及んだことを続けて述べた。

「特捜班に在籍していた方に話を訊いたところ、管理官は特に、緋波さんに目をかけていたそうです。あの人の能力を高く評価していた。と言えば聞こえはいいですが、実際は利用していたんです。本来は緋波さんの功績であるものを、管理官はさも、自身の功績のように上層部に報告していたそうです。あるときは事件解決のために、緋波さんを本人が知らぬうちにおとりに使ったこともあるそうです。下手をすれば死んでいたかもしれない危険な状況だったと、その方はおっしゃっていました。おそらく、緋波さんはあとになって全てに気づいたんでしょう。ですが、それでも耐えていた。あの人は真面目だったそうですし、警察は上下関係が厳しいですから」

曇った表情になった滝石は言葉を重ねた。

「でも、妹さんの事件が起きて精神を壊し、入院を余儀なくされた。そのときに、抑えに抑えていた気持ちの糸が切れてしまったのでしょう。そこから、緋波さんは人が変わってしまったのかもしれません」

暗然たる様子の滝石に、諸星はなにも返せないでいた。


 七節署の仮眠室。千里はひとり、簡素なパイプベッドに両足を開いて座っている。左腕を膝に置き、前屈みになった状態で床の一点を見つめていた。右手にはバタフライナイフを持ち、耳元でカチャカチャと音を鳴らしながら、そのナイフを踊らせている。そうすることで、苛立った神経を静めていたのだった。


 午後を二時間ほど過ぎた頃、捜査本部では捜査会議が行われていた。四十代前後で頬骨が突き出た顔の男がタブレットを手に、進行席の中央にある大型モニターの傍らに立っている。警視庁刑事部鑑識課の主任、諏訪誉すわほまれであった。

「解析結果をご報告します」

同じ鑑識課の芳賀の部下でもある諏訪がタブレットを操作すると、それに連動してモニターに写真画像が映し出された。くだんの監禁された男の写真だ。進行席にいる高円寺、その前、縦三列に並べられた捜査員席の中間には諸星が、最後尾の席に千里や滝石が、そして、十数人の捜査員がモニターに視線を向ける。諏訪が説明を始めた。

「写真は夜に撮影された物で、監禁されているのは男性で違いありません。あと、端に写っているこの光った線」

その部分が拡大表示され、鮮明化する。諏訪は続けた。

「ご指摘のとおり、ネオンサインでした。我々と科捜研が解析したところ、『好』という文字だということがわかりました。七節町内でこの文字を使ったネオンサインは計三か所。全て中華料理店の看板です。そのうち一軒は改装中、もう一軒は故障で、ネオン自体が光らないとのことです」

「じゃあ、最後の一軒か?」

高円寺が訊くと、諏訪はうなずいた。

「はい。<好吃ハオチー飯店>という店です。科捜研の分析によると、そこの向かいにある建物、位置から推定して、その建物の四階にある一室で撮影されたのではないかと」

「なんの建物だ?」

さらに問う高円寺に、諏訪は答えた。

「<リーベ>というラブホテルですが、半年前に閉業しています。建物自体は残っており、現在、売り物件となっています」

諏訪はタブレットを操作した。モニターに写真画像が数枚表示される。

「これが、そのホテルの写真です」

まだ営業していた頃の写真であろう。ピンクのライトに彩られた外観のビルで、間接照明は派手だが、乱れのない整頓された部屋だった。そのなかで注視すべきは壁。その一部が鏡張りになっている。そして写真のひとつには、正方形の窓から例のネオンサインが覗いているものがあり、見える文字部分も同一であった。

「そこね」

千里が呟く。

「え?」

滝石が千里を見た。

「あのヒント」

千里の言葉に、滝石が思いかけず声を上げる。

「そうか!」

その声に気づいた高円寺が、遠くから呼びかけた。

「どうした?」

滝石はひとつ咳ばらいをすると、起立して話した。

「子どもはラブホテルに入れません。ですが、そこは潰れて営業していませんので、実状、子どもが入ることは可能です。犯人の出したヒントに当てはまります」

高円寺は再度、モニターに目を遣る。確かに滝石の言うとおりだ。ホテル内の部屋と、男が監禁されている部屋との一致点も多い。

「ここで間違いなさそうだな。管理官に報告しよう」

固定電話の受話器に手を伸ばした高円寺を見て、諏訪が言った。

「管理官には報告済みです」


 同じ頃、警視庁の大会議室。綿矢は手を後ろに組んで立ち、窓に映る景色を眺めている。その後ろには、捜査一課の麻木が萎縮した様子で椅子に座っていた。昨日、千里に食ってかかった男だ。

「警視正が監察に報告したんですか?」

麻木が口火を切った。

「そうだ」

綿矢は正面を向いたまま語を継いだ。

「きみは、本庁で保管されている捜査費を着服していたね。一度だけではない。ここ一年間で数回繰り返していた。立派な横領だ。すでに証拠は提出してある」

弁解の余地はなさそうだ。けれども、話さなければならない。麻木はそう思い至った。

「聞いてください。決して、遊びのために使ったのではありません」

麻木は真剣な顔つきで、その事情を述べた。

「妻が重い難病を患っています。国内の医療では治せません。ですが、海外で治療を受ければ完治が見込めるかもしれないと、担当の医師が言っていました。とはいえ、その費用が高額で、保険を適用したとしても、一旦は現地で費用の全額を自己負担することになります。私や妻の貯金だけでは賄いきれません。土地なんて持ってませんし、辞めて退職金をもらったとしても足りないんです。だから・・、仕方なく・・・」

綿矢は背を向けて黙している。麻木は理解してもらおうと説きつけた。

「でも、なんとか費用の目途が立ちそうなんです。だけど、そのためには現職であることが必須で・・・」

途端に麻木は席を離れ、綿矢の前で土下座をした。床に頭を付け、目を強く閉じ、痛切に頼み込む。

「あと三か月、三か月だけ待ってください。妻は今、いつ死んでもおかしくないほどに病状が悪化しています。私はどうなっても構いません。当然のことをしました。ですからお願いします。妻だけは助けてあげてくれませんか」

麻木の妻、冴子さえこが病に伏しているのは事実だ。綿矢は調査の過程で知っていた。しかし、この男に哀れみという心はない。

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