第19話 怒涛の離婚話

 心の準備が必要だったこともあり、土曜日はゆっくり休んだ。


 明くる日曜日。私は気を引き締めるために小さめの白いブラウスと黒のジーパンで身を固めた。


 そして、ついに夫に離婚話を持ち出した。


すぐる、離婚してください」


「は?」


 グレーのスウェットに身を包む夫は、目を見開いて黒いツーブロックマッシュをかき乱した。


「はい、離婚届」


 私は夫の自筆の署名以外の部分を埋めた離婚届を夫の眼前に突きつけた。


 夫はそれを手にすると、途中まで目を通して険しい顔を私に向けた。


「まあ待て。まずは理由を聞かせてくれ」


 次の瞬間には「悪いところがあれば直す」とでも言いそうだけれど、もうそういう次元にはない。

 心当たりがないか訊くようなまどろっこしいこともしない。お望みどおり、はっきりと言ってやる。


「理由はあなたの不倫よ。結婚前からずっと浮気していたでしょ?」


「不倫? いや、そんなことはしてない」


 夫は狡猾こうかつだから、少しでもシラを切り通せると思ったら徹底してそういう態度をとる。

 それを知っているからこそ、私は入念に証拠を集めてきたのだ。絶対に言い逃れはさせない。


「お相手は桃背ももせ恵奈えなさん。32歳、無職、独身。証拠の動画もあるわよ」


 私はUSBメモリを夫に渡した。

 会社のパソコンにもデータが入っているので、それを壊されても証拠は失われない。


「確認する」


 夫はそれだけ言って自分のノートPCにUSBメモリを差した。そして動画ファイルを開く。


「どうやってこんなに集めたんだ? 探偵を雇ったのか?」


「探偵からは桃背恵奈さんの情報をもらっただけ。その映像は私が自分で集めたの。知っているのよ。あなたが種無しだってことも。私は結婚前から子供が欲しいって言っていたのに、子供が作れないことを隠していたでしょう? あと……臭くて悪かったわね」


 夫の顔が青くなっている。どうせ慰謝料の心配でもしているのだろう。

 もうこうなると離婚はほぼ確定なので、謝罪の言葉で体裁をつくろおうともしてこない。


「恵奈がしゃべったんだな? あいつ、裏切りやがって!」


 夫がテーブルに激しく拳を打ちつけたので、私はビクッとなった。

 でも私の心境は変わらない。とにかく徹底的に夫を詰める。


「ハズレ。ぜんぜん違う。恵奈さんとは話したことないし、会ったこともないもの」


「嘘をつくな! そんなわけないだろ。恵奈にしか言ってないことをおまえが知っているってことは、それ以外考えられないだろうが。それとも何か? おまえは人の心が読めるとか、過去にタイムトラベルできるとでも言うのか?」


 少し吹き出しそうになった。現実主義のくせに、意外と鋭いところを突いてくる。


「私、タイムトラベルはできないけれど、タイムリープで過去に行けるのよ」


「馬鹿にしてんのか!」


「大真面目よ!」


 怒鳴り返されて夫は口をつぐんだ。

 たぶん混乱している。夫は困ったら黙り込むのだ。

 私がタイムリープなどとおかしなことを言うわりに本気で怒っているので、いまの状況を理解できないでいるに違いない。


「あなたの浮気に気づいたのは最近だけど、探偵を雇っても警戒心が強くて尻尾を出さないから、私はタイムリープで過去に行ってきたのよ。過去の警戒されていないころに尾行して、いつどこのホテルで不貞行為に及んだのかを確認して、現在に戻ってきて証拠を集めたの」


 夫は黙って首を横に振った。

 理解できないという意味か、冗談はやめろという意味か。どっちだろうと思っていたら、どちらでもなかった。


 夫は私を拒絶した。


「もうやめろ。この話はしない!」


「駄目です。絶対に離婚する」


 夫はノートPCをシャットダウンもせずにバンッと閉じた。そして、勢いよく立ち上がった。


「離婚はしない。どうしても離婚するというのなら弁護士を通して話す」


「その弁護士費用は私が稼いだ金で雇うんでしょ? 本当に最低ね!」


「結婚後に双方が稼いだ金は共有財産だ。俺は家事で主夫としての役目を果たしている」


「家事代行サービスのことも知っているんだからね!」


 夫は息を詰まらせた。


 ヤケになって暴力をふるわないか少し心配になったけれど、どこまでも狡猾で冷静な夫が立場を悪くするようなことをするはずがない。

 それがわかっているからこそ私も強気に出ているのだ。


「どうやって証拠を集めたのか。それをちゃんと説明できないってことは、集め方に問題があるんじゃないのか? 違法なやり方で集めたのなら、さっきの動画に証拠能力はない。弁護士がそれを証明してくれる」


 夫は自室に入り、着替えて出てきた。

 すれ違いざまに私をにらみつけ、ドシドシと足を踏み鳴らしながら外へ出ていった。



   ***



 朝に外出した夫が帰ってきたのは夜の10時を回ったころだった。


 普段なら外で何をしていたのか訊くところだけど、いまは顔も見たくない。

 一緒にいても気まずいし、いまなら不倫していてもいいから帰ってこないでほしいとさえ思っていた。


 きっと夫も私に憎しみの視線を向けてくるだろうと思っていたら、夫は意外にも冷静になっていた。


香織かおり。離婚の件だが、考える時間をくれ。離婚は前向きに考えようと思っている」


「え? あ、うん……」


 夫はいつも冷静だけど、さすがに今朝の離婚話のあとでここまで冷静なのには驚きを禁じ得ない。


 夫は歯を磨き、シャワーを浴びてすぐに寝室へ入っていった。


 私も明日は仕事なので寝ることにした。

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