第31話 君のいる丘の上

「やっぱりここにいた」



 文吾が項垂うなだれているところに、明るい声をかけてきたのは彼女の友梨恵であった。


 校舎の裏の丘。文吾は、何か困ったことがあるとここに足を運ぶ癖があった。人工島だというのに、そう感じさせない土で盛られた小高い丘。天気のいいときは海の奥まで見渡せる。夜になれば、空の星がきれいで、静かな孤島にぽつねんと取り残されたような、そんな別世界な雰囲気を味わえる。心をリセットするには最適な場所で、文吾のお気に入りであった。


 そういえば、友梨恵に告白をしたのもこの場所だった。


 あのときは、どうしてここを選んだのだろう。無意識に、彼女にこの好きな場所を見せたいと思ったのかもしれない。自分がいちばん素敵だと思う場所で、いちばん素敵な人に好きだと伝えたかった。


 今は、そんな殊勝な気持ちはない。ただ、逃げ込んだだけ。にっちもさっちもいかなくなってリセットしに来た。そこに友梨恵がいてくれたことが、文吾は単純にうれしかった。



「また浮気しているのかと思っちゃった」


「だから浮気なんてしてないって言ったじゃん」


「でも、最近、汐先輩と一緒にいることが多かったしなぁ」


「あれは恋愛税に対抗するために仕方なく」


「本当ぉ?」


「なんかいちゃいちゃしてなかった?」


「してないよ」


「先週とか、私より汐先輩といた時間の方が長った気がするな、絶対。彼女以外の女子と、彼女より長く一緒にいるってどうなのかなぁ」


「ごめんってば。俺だって本当は友梨恵ちゃんと一緒にいたいんだけど、今だけ仕方なくってさ」


「私、付き合ったばっかりなのに捨てられちゃったのかと思って心配だったなぁ」


「そんなわけないじゃん。俺には友梨恵ちゃんしかいないんだから」


「うふふ。なんか文吾くんが珍しく落ち込んでいるといじめたくなっちゃうよね」


「友梨恵ちゃん、けっこうSだよね」


「えー、そんなことないよぉ」



 微笑んでから、友梨恵は隣に座った。彼女は歩く度に良い匂いを振りまく。まるで花畑にいるかのようで、すさんだ心が少しだけ晴れた。



「うまくいってないの?」


「うん。万策尽きたってかんじ。そもそも僕に政治は無理だった」


「文吾くんはサッカー選手だもんね」


「サッカーだったら、どんなに相手が強くても対策が思いつく。努力次第で勝ちをイメージすることができる。でも、政治は無理だ。勝ちのイメージが湧かない」


「何が違うんだろう?」


「サッカーはフィールド上にすべてがあるんだ。敵も味方とボールが一つ。戦術は無限にあるけれど、そこはフェア。だけど、政治は違う。敵も味方も見えないし、味方だった人が平気で敵にまわる。いわば八百長試合。フィールドにあがったときにはもう試合が終わっている。僕はあくまでプレイヤーだ。フィールドの上では負けないけれど、フィールドの外では無力だ」


「弱気だね。びっくり」


「自分でもびっくりだよ。こんなに何もできないなんて思わなかった」


「ふーん。政治って難しいんだね」


「難しいよ。っていうか、気持ち悪い。知ってたんだけどな、そういう世界だって。ずっと家から離れていたから忘れてたよ」


「文吾くんのお父さんって、政治家さんなんだっけ?」


「うん。爺ちゃんの代からの世襲議員だよ。いつか兄貴が父さんを継ぐ」


「そっか。だからお兄さんが生徒会長やっているんだね」


「兄貴はすげぇ嫌な奴だけど、すげぇ奴なんだよ。僕は兄貴に勝てたことなんて何もない」


「そんなことないよ。サッカーだったら文吾くんが一番じゃん」


「どうかな。僕が勝つ前に、兄貴はサッカー辞めちゃったし」



 一矢報いたかった、と文吾は続ける。



「恋愛税なんて馬鹿げている、って思ったのが最初だけど、これなら兄貴に勝てるんじゃないかって思ったんだ。そんなにあまいわけなかったけど」


「お兄さんのこと尊敬しているんだね」


「尊敬はしていない。まったく。ただ能力があることを知っているだけだ」


「私はお兄さんのことは知らないけれど、文吾くんがすごいことは知っているよ」


「すごくないよ。僕は負けたんだ」


「そうかな。私にはまだ勝負もしていないように見えるけど」


「どういう意味?」


「だって、さっき言っていたじゃん。フィールドに上がる前だって。じゃ、フィールドに上がっちゃえばいいんだよ」


「いや、それはもののたとえで」


「私の知っている文吾くんは、正直で一生懸命でがんばりやさんで優しくて、まじめな人。だから、駆け引きとか、そういうのは向いてない」


「向いてないって」


「向いてないよ。文吾くんにはそんなことできない。だけど、それでいいんだよ。だって、それが文吾くんなんだもん」


「それって、褒めているの? それともディスっている?」


「うーん、どっちも? 私との恋はもう少し駆け引きしてほしいな。キスしたいって言うんじゃなくて、そういう空気を作ってほしい」


「あ、それはごめん。僕も初めてだったから」


「でも、文吾くんはそれでいいよ。それでサッカーも勝ってきたんでしょ? 政治だってきっとそう。文吾くんがやりたいやり方で、文吾くんのフィールドで勝負すればいいんだよ。そうしたら、文吾くんが勝つに決まっているんだから」



 たぶん根拠はない。けれども、根拠なく全幅の信頼を寄せてくれる友梨恵の気持ちが、ただ純粋にうれしかった。


 そして気づかされる。自分にできることに。自分の戦い方に。兄貴のようにできるわけがないことに。そうしないために浜部家と距離をとったことに。


 今までどうやって勝ってきたかを、思い出す。



「ごめん。友梨恵。僕、行かないと」


「うん。がんばってね」


「あぁ。友梨恵のおかげで自分のやるべきことがわかったよ」


「浮気しちゃだめだよ」


「安心して。僕は友梨恵一筋だから!」



 文吾は走った。今まででいちばん足が軽いかもしれない。フィールドの上であるかのように、地面に足が吸い付く。多賀根学園の夜、遠くでは大通りの明かりがきらきらと瞬いている。そこから外れた裏路地を抜けていく。


 落ち込んだとき、疲れたとき、部屋に一人にはなりたくない。それは文吾の考えだが、きっと彼女も同じ。そんな気がしていた。初めて会った時、どうして彼女をすぐに信用できたのか。それは、彼女のまっすぐな瞳と思想が、自分に似ていると思っていたからだ。


 きっと君はそこにいる。裏路地を抜けた先にあるのは喫茶店マドレード。


 からんと鈴の音を鳴らして店内に入る。閉店間際、奥のテーブルに一人、この世の終わりのように俯いて座っている女子が一人。



「もう、会いたくないと言いましたよね」



 汐は、ぶっきらぼうな声で言い放った。しかし、彼女の泣き言にもう耳を貸す気はない。いや、彼女の沈んだ気持ちごとキャリーしてやろう。たった一ヵ月の付き合いではあるが、彼女とはチームメイト。見捨てたりはしない。



「汐さん、協力してほしい」


「はぁ、話を聞かない人ですね」


「それはお互い様だ。でも、僕たちはチームだ。僕が諦めないかぎり、君には付き合ってもらう」


「……でも、もう私は」


「やってほしいのは一つだけだ。それだけでいい。もう小細工はなしにしよう。初めから僕達にそんなものは必要なかった」



 文吾がブレのない口調で告げると、汐はやっと顔をあげてこちらを見た。だから、彼女に向けて、伝えたいたった一つのことを告げた。



「僕を生徒総会に出させてくれ!」

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