然様なら。

みーこ

お邪魔します

 ───遠いところお疲れでしょう。それはさておき、貴方はどうしていらしたの?そう。みんな言うのよ。足元に気をつけてね。いらっしゃい。


 先の夕立ちのおかげか、さっと涼しい微舗装の道を抜けるとこじんまりと佇む三角屋根の建物が見えた。彼女の仕事場にしてはいささか広すぎるし、住居にしては手狭である。さらにいえば住居にはなり得ないだろうとも思った。電線が一本も、この建物には向かっていないからだ。

「履き物は持って中へどうぞ。」

 まだしっとり濡れた道をそれなりに歩いた自分の靴を持ち上げて、心地悪い温さを指に感じながら廊下を軋ませ進む。ギギギと鳴く床に、お前の上を何人が通っていったのだろうとくだらない疑問が浮かんだ。その数分後には、彼女にも同じ疑問を抱くのである。


 手招く彼女を追いかけて、青竹色の扉に入った。期待と緊張が手を取り駆け抜けていく。


 あの、と口に出す前に、腰を捕まえられ力が抜ける。彼女と横並びに座る形になった。彼女の爪の先が手に触れた気がした。間もなく視界は影で暗くなり、微かと香る彼女の香水の爽やかな甘さを受け止めた。

「香水はね、好きじゃないの。」二つある唇の、上にいる方がクスリと笑いながら答えた。思っていたことが口から出てしまったのか、彼女が心を読んだのかは知らないが、確かに答えた唇はまた閉じて、もう言葉はいらないとのことだった。


 男女のそれというのは、始まりにルールはない。ただないだけで、世間的に求められるマニュアルはもちろんあるとして。どうにもそれが苦手だったのだ。

 合図に電気を消せば顔を近寄せる、抱き寄せる時はこうだ、男から誘うもんだ、付き合ってからするもんだ、講釈染みたその行為には魅力のひとつも欲情のかけらも芽生えはしない。マナーも行儀のよさも、はたまた相手との関係値さえ不要だった。幾度も幾度も相手の前で情けなくしおれた分身を呪い、こんなものさえなければ苦しむこともなかったと心を刺してきた。それが今はどうだろうか。

 痛い程、とは本当に、まさしくであった。




 裾をぐっと持ちさげながら彼女が発した言葉は、今後一生、救いとも枷ともなるほどだった。


 ───貴方だけの所為なんてものは、この世にひとつもないのよ。


 ───さようなら。


 ここに着いた頃に残っていた夕暮れはとうになく、靴も道路もすっかりと渇いていた。ぬるりと湿度を帯びた下半身を引き摺り、来た道を戻りながら「仕事場、という感じでもなさそうだったな。」と冷静な感想を浮かべられる振りをし、なんとなく可笑しくなった。彼女と交えたからには、もう此処へ来ることは二度とないのだと、それは確信として持ち帰ることにした。


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