第12話 私と常連さん達

 甘いコーヒーを肴に私は引き続き樋口さんのお話を聞きました。今度はボスも加わっています。

「じゃあ奥さんはウチのカレーをそんなに気に入ってくれてたんですね」

「恐らく。レシピを教えたりしたのかね?」

 ボスは首を左右に振りました。

「そこは企業秘密ってやつでして。再現できていたのならきっと奥さんの味覚が優れていたという事でしょう」

「確かに妻は料理が得意だったよ。だからこそ食べ残しを許せない性格だったんだろう」

 樋口さんが料理を綺麗に平らげるのもそこからきている、と彼は前に言っていました。今日もまるでお皿の隅から消しゴムを擦っているかのようにカレーが消えていきます。

「樋口さん、今は自炊をされたりは?」

「簡単なものはやるがカレーみたいなのはどうもね」

 確かに一人暮らしをしていると大量に作る前提の料理は憚ってしまいますし何より食べるのに何日もかけると衛生面の問題が生じます。冷凍保存という手段もあるにはありますが、そもそも一人だと調理に時間をかけるのも億劫になっていくものだとここに来て私は初めて知りました。つまりここでボスに腕を振るってもらうのが一番なのです。

「そうですか。あー、少々お待ちください」

 そう言うとボスは厨房、ではなく事務所の方へ消えていきました。それらバックヤードへの入り口は同じですが入ってすぐに右に向かったら厨房、左なら事務所です。

 因みにお手洗いはバックヤードとは反対側にあるのでそういう事ではないようです。

「どうしたんだろうか」

「うーん」

 残された私たち二人は互いに首を傾げました。 私は先ほどから樋口さんにあることを伝えるべきか悩んでいましたが、ボスが席を離れた今がチャンスかもしれません。

「樋口さん、えーと」

 彼はこちらを向き、「どうしたのかね」と言わんばかりの表情をしました。私は意を決して、出来るだけ小さな声で話しました。

「最初ににんにくと生姜でお肉を炒めて、煮込むときにコンソメを入れるんです」

 樋口さんが要領を得ないといった顔をされていたので慌てて「カレーの話です、ここの」と付け足しました。

「良かったら試してみてください、これさえやっておけばかなり近い味になると思います」

 彼は大きく目を開いた後、小さく笑いました。

「またここで食べようと思っていたのに、教えちゃっていいのかい?」

「それは…分かりません」

 ですが、と続けようとしたところでガララというベルの音が響きました。お客さんが来たようです。来客だというのに私は反射的に口を手で覆ってしまいました。

「こんにちは御嶋さん神尾さん。あら、今度は御嶋さんがいないわね」

 それは数ヶ月前にこの場所で会った猫マダム、山田さんでした。季節に沿って長袖に変わっていましたが、相変わらず派手な服を見事に着こなしています。

 私は残り少なくなっていたコーヒーを急いで飲み干し、片付けました。

「あ、はい、いらっしゃいませ」

 私が「お好きな席にどうぞ」と促すと、彼女は樋口さんから一つ空けた左の椅子に座りました。

「ボスは裏の方にいますので私が注文受けますよ」

「うふふ、神尾ちゃん久しぶりねえ」

「はい、お久しぶりです」私たちは微笑みあいました。

 山田さんからオーダーを受けた私はボスのいる事務所の方へと向かい、それを伝えました。

「ホットとショコラね、了解」

 事務所といっても元々はボス一人で切り盛りしていたお店なのでとても狭いです。部屋は恐らく二、三畳といったスペースで、備え付けの机の上には乱雑に書類が積まれており、逆に下にはプラスチックの抽斗があります。そしてその抽斗が私の私物入れになっています。

「あのボス、何か書いてたんです?」

 机上に筆記用具が転がっていたのでそう尋ねてみましたが、彼は「いや、まぁな」とはぐらかして厨房に行ってしまいました。

 私はお店の方に戻り、お客様の様子を見に戻ることにしました。なまじ近い席に座ったので気まずい空気になっているかもしれないと危惧していましたが、店内にはゆったりっとした曲だけが流れ、二人は長閑な空間と調和していました。杞憂だったようです。

 黙々とカレーを食す樋口さんかスマホとにらめっこしている山田さんかどちらのお相手をするべきか、それとも自分もこの閑静な空気に大人しく従うべきか、悩んだ末に私はカウンター下にあるグラスを手に取りそれを撫でるように拭きました。確かにこうしているとなんだか無性に気が紛れるようです。私もボスに一歩近づいたかもしれません。

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