第10話 私と難しい話
「奥さんからこの店の事を聞いていたんですか?」
ボスはカウンターの棚から取り出したグラスを丁寧に拭きながら樋口さんの話を聞いています。使ってもいないグラスを何故、と思いましたが、こういった時、仕事をしている風を出す為にここに置いてあった物かもしれません。
「何となくだけどね。いつか一緒に行こうなんて言われたが、それは叶えてやれなかった」
樋口さんの方は美味しそうにカレーを食べています。私だけ手持ち無沙汰に駆られてどうしたものかと考えていると、
「神尾、お前も珈琲飲むか?」
「ボス、ありがとうございます!」
「ちゃんと給料からは引いておくから礼はいらんぞ」
「うげげ…アイスで」
「なら私にもアイスをもらえるかな」
「もちろん。少々お待ちください」
厨房に消えていくボスをただ見送っていると、このままでは私も従業員ではなく常連客に成り果てるような気がしました。ですがそれも悪くないかもしれません。
「神尾さん、でいいのかな。君は妻に会ったことがあるかね」
常連と聞いて思い浮かぶ人は片手で数えるほどいます。その中で女性と言えば、
「ええと、酔っ払いの?」
「酔っ払い?」
「ハシゴの」
「ハシゴ?」樋口さんは首を傾げました。
「いえ、なんでも」
常連の一人に、泥酔時にハシゴ先としてこの店を選ぶお姉様がいます。お酒に呑まれたどころか飲んだことさえない私には想像がつきませんが、ハシゴは行きつけの場所に限る、という条件だけが優先され飲み屋か喫茶店かさえの区別もつかなくなくなってしまうのでしょう。
「ええと、眼鏡を掛けてました?」
「いいや」
「なら違いますね」
そもそも彼女は樋口さんよりずっと若そうな方ですので、見当違いも良いところでしょう。しかし喫茶店の一握りの常客が酒乱とはなんとも憂慮すべき事態です。
「私まだここに来て一ヶ月くらいなんです。その、奥さんはいつ頃…?」
「ああ、そうだったのか。亡くなったのも丁度一ヶ月前くらいだよ」
樋口さん曰く、元々患っていた病気の急な再燃が原因でした。病名は聞いてもよく分かりませんでしたが、突然自宅で倒れた奥様は病院に運ばれ、それから亡くなるまでずっと入院生活だったそうです。恐らく最後にここに来たのは少なくとも三ヶ月以上は前なのでしょう。
「一人暮らしなんて何十年ぶりかってね。あの時よりも家がだだっ広いから、持て余してるったらない」
随分難しい話になってきました。私のような若造に、この人の傷を癒やすような言葉はまるで見当たりません。
助け船と呼ぶべきか、漸くボスが珈琲を三つ携えてやって来ました。どうやら自分の分も淹れたようです。ボスは樋口さんが綺麗に完食されたカレーの器と私とを交互に見て言いました。「コラ神尾、空いたお皿は下げるんだ」
「あ、そうでしたすみません」
私は失礼しますとお皿を回収し、厨房に運びました。ボスは口では叱っているようでしたが恐らく言葉に窮していた私を慮ってくれたのでしょう。
「申し訳ない、私がつい話し込んでしまったから」
「お気になさらず、こちらアイスコーヒーです」
ボスはまたカウンターの下からグラスを取り出し、布巾で撫でる仕草を始めました。もしかしたら、一種の癖なのかもしれません。
「あなたの奥さんはいい人でした。何度も店に来て、いつも米一粒さえ残さず食べて下さってね。丁度さっきのカレーみたいに」
樋口さんは表情を緩めました。
「ああ、それは彼女の薫陶を受けたんだよ。付き合って間もない頃、食べ物を残すとは何事かってね。当時はなんとしてでも嫌われまいと思っていたから、米一粒にさえ目敏くなったもんだ」
「いつの間にか習慣になっていたんですね」
私も幼い頃、母にそう教わったものです。おかげで今の今までバチが当たったことは一度もありません。
「奥さんとはあまり話したことはありませんが、確かに気の強そうな雰囲気ではありましたね」
ボスも笑みを浮かべて、思い出話に花を咲かせています。二人の口ぶりから察するに、きっと奥さん強かで優しい女性だったに違いありません。
「ありがとう、マスターに神尾さんも。今日はもうおいとまするよ」
「ボス、私がお会計やりますね」
気づいたら一時間近く経っていました。人の身の上話を聞くのは好きですが、時間があれよあれよという間に過ぎていくのは頂けません。 席を立ち財布の口を広げる樋口さんに、ボスが最後にこう尋ねました。
「カレーをご注文されたのも、奥さんから聞いたんです?」
「どうしてかね」
「あなたの奥さんもよくカレーを頼んでいたものですから。オススメされていたのかと」
樋口さんは一瞬、紙幣を取り出す手を止めました。
「そうか、そうだったか…ありがとう、また来るよ」
そう言いながらお釣りを受け取って、彼は一人納得したように店を後にしました。
彼の、まるで丸めた紙のようにしわくちゃな手が印象的でした。使い倒された事が見て取れるそれは一抹の哀愁を漂わせていました。
「またのお越しを」
私とボスは同時にそう言って見送りました。
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