第9話 私たちと新しいお客様

 その日最初のお客さんが来たのは午前十時、開店から一時間ほど経った後です。

 ベルが鳴ると反射的に私はそちらを向くだけでしたが、ボスは即座に「いらっしゃいませ」と迎え入れました。私とボスの経験の差が出たようです。

 六月だというのに夏を感じさせるような強い日差しを背に、初老の男性がゆったりと入ってきました。彼は店内をぐるりと見渡し、迷うこと無くカウンター席へ座りました。

「普通の珈琲を一つ下さい」

「かしこまりました、アイスですか?」男性がボスの目の前の席に着いたので、そのままボスがオーダーを取りました。

「いや、まずはホットを」

 普段とは違う丁寧な応対をし、ボスは厨房へ向かいました。私もお冷やとおしぼりを取るためにボスの後に続きました。

「ありがとう」

 お冷やを慎重にテーブルへ運び、おしぼりを置きました。この後はどうするべきだったかと考えていると、男性の方から声を掛けてきました。

「ええと、メニュー表はどれかな」

「あ、すみません、こちらになります」

 カウンター席には等間隔に置かれたメニュー表があります。彼の席はそれが取りづらい位置なのです。

「いやいや、私が逸って注文してしまったから」

「とんでもないです」

 男性は見覚えの無い方でした。私がここに来てからご来店された方は決して多くはないのでお客さんの顔ぶれを記憶するのは容易でした。

「学生さんかね」

「そうです、この近くのK大学で」

「恐らくここで暮らす大学生なんて大方あの大学だよ。出身もここ?」

「いえ、地元はS県です。この辺のことはまだ詳しくなくて」

 そこでボスがにゅっと姿を現しました。

「はい、ホットコーヒーです」

「ありがとう。マスターはこの辺出身かね」

「ええ、まあ」

「大学は行ってた?」

「そうですね、この近くのK大学です」

 男性はほらねと言わんばかりに笑ってこちらに目配せしました。あそこがボスの母校だったとは知りませんでした。教えてくれても良かったのに。

「ああ、あとカレーも頂いて良いかな」メニュー表を凝視したまま、男性がそう注文しました。「かしこまりました。お待ちください」

 私も本来であれば厨房で手伝うべきなのですが、

「実は、娘もその大学だったんだ」

 男性が再び話し始めたので、私は聞くことに専念することにしました。後で話せばボスなら分かってくれるはずです。

 

 男性は樋口さんというらしく、樋口さんの一人娘は今、都会でアパレル会社に務めているそうです。

「もう向こうに行ってから五年くらいが経つ。もう慣れたと思っていたそんな折りに…」

 つい最近、奥さんに旅立たれた。つまり今樋口さんは一人きりで暮らしているのです。

「結婚したばかりの時は正直、一人の時間が欲しい時もあった。だけどいざそんな時が来たら…虚しくてしょうがない」

 一呼吸を取るように、彼は珈琲を啜りました。まだ身近な人が不幸に遭っていない私ですが、一人暮らしの寂しさは分かりかけている自負があります。安らげるはずの場所がまるで孤独な檻のような感覚。自由と孤独は結び付きやすくとも、一致してはいけないものなのです。

 デリカシーのないことだとも思いながら、私は聞いてしまいました。

「あの、どうして樋口さんはこの話を私に?」

 と、その時、

「奥さんが、うちの常連だったからでしょう」 私の問いに答えたのはカレーを片手に現れたボスでした。

「この頃来ないと思っていたお客さんがいたのですが、確かその方が樋口という名前だったはずです」

「良かった、やはりこの店だったか」

 そこからはボスもカウンター越しに話に加わりました。

「それだけじゃない、話した理由は三つあるんだ。ここが妻の行きつけだったことと、君がなんとなく娘に似ていたこと。そしてただ、孤独を紛らわせたかったから」

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