第4話 私とミステリアスなボス

「ごちそうさまでした。とてもおいしかったです」

「また来るぞ」

 食事を終えて、私たちは席を立ちました。もっと早く知りたかったと思うほど居心地が良く、おいしいお店で私はすっかり幸せな気分に包まれていました。しかも、

「金はいいよ、またな」

 なんと黒木さんはタダでいいと仰るのでした。流石に申し訳ないですが、手ぶらの私に出来ることなどありません。が、代わりにボスが抗議をして下さいました。

「いや、そうはいかん。払わせてくれ」

「好意は素直に受け取るべきだぞ御嶋。貸しを作ろうってんじゃない」

「どうしてそこまでしてくださるんです?」私は聞かずにはいられませんでした。

 すると黒木さんは思案顔になって押し黙った後、こう答えました。

「こいつには珈琲一杯じゃ返せないような貸しがあるんだ」

 ボスが自分の店を開いた理由を言わないように、黒木さんにも彼なりの事情があって深くは言えないのでしょう。

 その後、結局私たちは黒木さんのご厚意によってお腹も財布も膨れた状態でお店を後にしました。黒木さんは「またのご来店を」と仰ってくださったので次こそは財布と一緒に馳せ参じたいものです。そして、

「あれ、御嶋くん?」

 店を出てすぐのこと。ボスはすれ違った人に声を掛けられました。

「あ、鈴本さん」

 見るとこれまた美人さんでした。年はボスや黒木さんと同じくらいでしょうか。

「もう、今はもう鈴本じゃないって何回言わせるの」

「いや、頭では分かってても咄嗟に呼ぼうとするとついね。今更下の名前で呼ぶのは照れくさいし、黒木さんというのも変でしょう」

 つまり、この人が黒木さんの奥さんということでしょうか。綺麗な二人の顔を想像で並べるだけで理想の夫婦のように思えます。買い物袋を提げているところを見るにお買い物が終わって丁度帰られるところだったのでしょう。

「下の名前で構いませんってば。ところでお連れの女性は…」

 黒木さんの時と同じように奥さんも私のことを不思議そうな目で見つめてきたので、同じように不器用な自己紹介をしておきました。

 立ち話は少しで終わりましたが、別れ際に奥さんの方も「また来てね」と仰って下さったことが嬉しく、さっきよりも声高に返事をしました。

「黒木さんも奥さんもいい人そうでしたね」

 帰りのバスを待っていると、心地の良い風が頬を撫でるようにすれ違っていきました。昼間とは別に五月の夕暮れは丁度良い気温です。「まぁな、だからこそ今でも関係が続いてるんだ」ボスはうんうんと頷きながら言いました。

「お二人とはいつの頃からのお知り合いなのですか?」

「黒木とは中学の時で、鈴本…奥さんの方とは大学で知り合ったんだ」

 ボスが今いくつなのかは分かりませんが、今でも続く仲というのは、それだけで美しい友情に違いありません。やがてバスがやってきました。

「黒木さんのお父さんから修行を受けたと言うことは、以前はあの店で働かれてたんです?」

「まぁな。『Rコール』の内装が似てるのもそのせいかもしれん」

 隣の席に座るボスは遠くを見つめるような表情を浮かべていました。実際、バスの前方にある値段表を見つめていたのかもしれません。

「黒木とはずっと一緒だったよ。何をするにしても。想像つかないかもしれないがバンドを組んだ事だってある。鳴かず飛ばずだったけどな」

 余りに意外だったので私は思わず声を上げました。ボスはつくづくミステリアスです。

「黒木さんなら分かりますが…ボスがですか?」

「ああ、というか俺から誘ったんだぞ」

 ボス曰く、大学時代に少しだけの間ですが音楽活動をしていた時期があったそうです。

「作曲も演奏も楽しかったけど、しばらくすると別のことにハマっちゃったんだ」

 私が聞き返しても、その「別のこと」を教えてはくださいませんでした。

「またの機会に教えるさ」

 バスの窓越しに見える夕日が眩しく、私は目を細めました。いつの間にこんな時間になっていたのでしょう。そこでふと、あることに気がついたのです。

「偵察の収穫はありました?」

 私はきっと、ボスはまた有耶無耶な答えをするのみだとばかり思っていました。ですが彼は不思議な事を言うのでした。

「彼らがちゃんとやれているか見たかったんだが、あの調子なら大丈夫そうだな」

 心配されているのは私たちというよりボスだったような気がしますが、ボスにとってはそうではないのでしょうか。もちろん彼なりのジョークかもしれませんので、私はあまり真剣には受け止めませんでした。

 

「今日はもう上がって良いぞ。また明日頼む」『Rコール』に戻ったあと、ボスはそういい私の日報を書きました。小さく「偵察」と書いているのが見えました。

「はい、お疲れ様でした。ごちそうさまです」

「お礼は黒木にしてくれ」ボスは抽斗に日報をしまい込みました。

「いえ、お茶とバス代も貰いましたから」

 ボスは頭をボリボリと掻きました。

「そうだったそうだった。ま、働いて返してくれ」

「はい、ではまた明日。お疲れ様でした」

「ん、おつかれ。まっすぐ帰るんだぞ」

「私をいくつだと思ってるんですか」

 店を出ると日は落ち、空に浮かぶ星が目立ち始めていました。もし田んぼに足を崩したりしようものなら今日味わった幸せも一緒に泥まみれになるので、私は足下に気を配りながら帰路につきました。

 アパートと『Rコール』までは徒歩5分と少しと言ったところです。その間に寄り道出来そうなのはコンビニとスーパーが一軒ずつ、それに夜中には明かりが目立つコインランドリーと公園くらいのものです。後は本屋とカラオケさえあれば不自由を感じないのですが。

 そんなことを考えながら家々の間を練り歩いていると、猫の鳴き声が遠く響いている事に気づくのが遅れました。

 どうやら声の主はすぐ近く、公園の方から聞こえてきます。閑古鳥ではなく猫が鳴いているのでうちの店より賑わっているのかもと呑気に近寄ってみるとそれは二匹いることに気づきました。

 公園は昨今の寂れたそれよりは敷地も広く、遊具等が充実しているように思えます、独創的なデザインの滑り台や錆び付いたブランコと多少は清潔感のある公衆トイレとそれらを囲む背の高い広葉樹たち。その木々の間で猫ちゃん達が戯れていたのです。私は少し遠くからその様子を眺めることにしました。

 私の目を引いたのはそのうちの一匹で、よく手入れされた白い毛並みに首の下がもふもふしていて見てるだけで癒やされます。吸い込まれそうなエメラルドグリーンの瞳には上品さを受け、赤い首輪をしているところからも間違いなく飼い猫だと分かりました。

 しかしながら、私にできることなんてここで立ち尽くしてこの子がじゃれ合う姿を眺めることくらいで、飼い主のところに返してあげるのは極めて困難と言えるでしょう。もし仮に首輪に飼い主の名前が彫ってあったとしても、猫という人見知り動物には触れることはおろか半径1メートル以内に近づくことさえ無理です。残念ですがここは退くしかありません。

「…まっすぐ帰るんだぞ」

 私は別れを告げ、踵を返しました。

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