にちようびの真冬

サトウ サコ

にちようびの真冬

 天井のシミが真冬の気を引く。あんなシミ、あったっけ? や、あったなら気がつくはず。ワンルームの天井にしっかりついたシミ。

「雨漏り? 」

 ──でもないか。何も漏れて来てないし。そもそも液体って感じじゃ無さそう。得体の知れない、灰色のシミ。

 踏み台が無いことに気がついて、お風呂の椅子を代用する。毛の長いカーペットの上に着地させて、ローテーブルの上のモバイルを起動させる。

「Hey,siri.音楽かけて」

 かしこまりました、のあとに、ポップなヒップホップが流れてくる。誰の何て曲なのかはわからない。真冬の好みなのかもわからない。でも気にせず、真冬は台にのぼる。のぼって、シミに目を近付ける。

「本当になんだろう、これ」

 色は黒というより、白に近い。本棚から引きずり出した色の辞典が解説するに、スカイグレイという名前の色なのだという。

無味無臭。滲んでるって感じじゃない。あとからつけ足したっていうより、さも前々からずっとここにいましたけど、みたいな顔してる。つまり、模様に見えるということ。

缶酎ハイのタブを引く。カシュッと清涼感。

「酔った拍子になんかしちゃったかな? 」

 それか、友達がたばこの煙を噴き上げたか。でもどうだろ。友達には換気扇の下で吸わせてるから。それに、ヤニってこんな色になるっけ? もっとこう、茶色、というか、黄色、というか。もっとこう、もっと、無秩序な、無配慮な、無芸術な、そんな色になってる気がする。

 物置棚から管理会社の電話番号を引っ張り出して、やめた。意味ないだろ。「いちおう、見に行ってあげますが、きっと分からないだろうし、お客様がつけたシミってことになるだけですけど」って言われるに決まってる。

 ソファに身を投げ出して、しなしなになった板チョコの一列目を剥がす。ハイボールで一気に下す。スピーカーは三曲目に入る。ぼんやり灰色のシミを見上げる。

 五曲目はスキャットだった。かたちだけでも、とりあえず拭いてみよう。

思い立って、ぞうきんがないことに気がついた。

小学生のころは、あんなに毎日、ぞうきん洗って、何カ月に一回は、ぞうきんがボロボロになったってお母さんに縫ってもらってたのに。気にも留めないうちに真冬の人生からぞうきんは消えていた。習慣だったはずなのに、今の今まですっかり忘れ去っていたなんて。人類はもっとぞうきんに目を向けてやるべきだ。真冬はモバイルのリマインダーに「ぞうきん」と打ち込んで、閉じた。

 いくら成長の友を忘却していたことを懺悔しようとも過去は過去。しょうがないから、洗濯機にぶち込んだままのハンカチを拾って、濡らす。お風呂の椅子にまた立って、拭く。

 うーん、やっぱりっていうか……

「意味、ないよな、これ」

 もうすっかり乾ききってしまってるし(というか、そもそも濡れてた瞬間なんてあるのか? )、さっきも言ったように、汚れとかいうより、模様って感じに近い。ハンカチを裏返して見て、うん、ハンカチにも色は移ってない。よかった、これ、気に入ってたから。

 ピカン、と雷が鳴って、ド、と雨が降り出した。

 大切な日曜日を、大雨が潰してく。

 休日だからって、はりきって、朝から開いてた遮光カーテンも、この悪天じゃ顔を赤らめるだろう。うん、うん、けっきょく自然に勝てるものなんてないんだよね。

 電気を点けようとして、観葉植物が形成するジャングルの中をまさぐってると、

「どかん、」

「どかん、」

「どかん! 」

 三回轟いた。稲光が、背後の人影を点滅させた。ようやっとリモコンを見つけて、LEDを点火させた。玄関に映し出されたのは、「ありゃ、まあ」人ではなく、河原童子だった。

「いま、雷、なってたでしょ? 怖くてここにたどり着いたんだ」

 河原童子は言う。

「昔、父さんが言ってたんだよ。ドアの向こうには安心した隠れ家があるんだって。ここはさ、大きくてさ、ドアがたくさんあったよ。でも、どこも開かなくて、ここだけ開いたんだ」

「へえ、そうですか」

 真冬は口をぽかりと開けたままうなずいた。

「戸締りはしっかりしとくもんですね」

「そうだね、キミ、少々無防備すぎるよ」

 河原童子は真冬の不注意をむっつりと叱って、ソファの向かいに腰を落とした。土産を持って来たらしい。

「ヒトん家に上がらしてもらう時は、手土産を持ってくのがマナーだからね。ちゃんと買ってきてるんだ」

 河原童子は自身の育ちのよさを誇っていた。

「ほへえ、雷門の人形焼ですか、センスが大変よいですね」

 真冬が褒めると、河原童子は「そんなそんな、詰まらないものですが」と、謙遜してきた。頭に不格好な皿なんか乗せてるくせに。そもそも河原童子のくせに一丁前に謙遜を覚えるなよ、と真冬は引っぱたきたくなったが、ぐっとこらえて、茶を沸かすことにした。

「やっぱり、日本の食べ物には、日本の茶ですからね」

 真冬はへへ、と笑って、河原童子はそうだそうだ、と真冬の気遣いを褒めたが、お互い笑顔だったのは寸の間だけだった。

 ジャスミン茶、しかない。

 ジャスミン茶しかなかったからだ。

 キッチンの引き出しを覗いて、かき回して、潜って……、どうしても、グリーンティーが見つからない。というか、記憶をたどってみても、グリーンティーを買った瞬間を思い出せない。真冬はここに越してきてもう二年経つけど、グリーンティーを買ったことがなかった。つまり、このワンルームはグリーンティーを知らぬまま、おしゃべりを覚えてしまったのだ。パパ、ママ、おねしょ等の拙い発音を器用に使いこなせるようになったのはいいけど、この子は「緑茶」を分からない。むしろ存在すらしてない。代わりにジャスミン茶がある。

 河原童子はそりゃもう、怒髪天を衝くを有言実行させたらこんな感じなんだ、って感じで怒り倒してたが、「や、押しかけてきたのはこちらだし」「善かれと思って人形焼を買ったのも自分だしな」と思い出して、急にしょぼんと正座を正した。

「ジャスミン茶も、合わないわけではないよ、たぶん」

 河原童子は真冬に頭を下げて、茶飲みから熱々のジャスミンを啜った。クチバシの隙間からたまにこぼれるから、その時は拭ってやらねばならなかった。

「や、失礼失礼」

 河原童子は口にティッシュを当てられながら、真冬に礼を言った。

「そいえば、なのですが」

 真冬が天井を指す。さっきかくにんしたシミがまだいた。

 LEDに照らされると、さらに存在感が増す。

「アレ、何ですか? 」

 何だって言われてもねえ。

「シミ、だろ? 」

 河原童子は見たまんまを答えた。

「灰色のシミだ。漏れてるのか? 」

「いえ、雨漏りじゃないっぽいんですよ。今朝は雨、降ってなかったじゃないですか。それに、漏れてるんなら、今がいちばん漏れてなきゃでしょ。豪雨なんですから」

「そりゃそうだね、失敬失敬」

 河原童子は真冬に断りなく新しいティッシュを抜き取って、口を拭き拭きした。鋭いツメのついた三本指が、薄紙をずたぼろにする。なるほど、河原童子に繊細な動きは無理、と。

「何なんだろうね、全く、不思議だ。色鉛筆で塗ったみたいなシミだな」

「まさに」

 真冬もうんうんとなる。

「スカイグレイって色らしいですよ」

 さっき得たばっかの知識をひけらかしてみる。

「色の種類なんて全くどうでもいいね。あれは灰色だよ。灰色で片付くの」

 が、河原童子からは全く否定されてしまった。

「でも、灰色って一括りにおっしゃっても、無限にあるじゃないですか。白っぽいのかとか、それとも黒っぽいのかとか、赤っぽい灰色もあるし、わたしは肌診断だとブルべの春ですが、わたしが似合わない灰色だってあるんですよ」

「だからと言って、スカイグレイなんて言わないよね? そもそもパッと言われて想像できないでしょスカイグレイなんてさ! ぼくはよく、こうして、さ、違う、こうしてよく見てるから」キミのせいで文法がめちゃくちゃだよ! 「こうしてね、見てるから、ああ、あれがスカイグレイなんだ、へえ、ってなるけど、普通のヒト分かる? キミだって知らなかったでしょ? 普通のヒトがパッと想像できないこと言っちゃ駄目だよ! キミも小説家の端くれなんだから! 」

 確かにそうかも知れないけどさあ、と真冬は眉を顰める。でもさ、ほら、色ってのはよく表現したいじゃない? 目の前がパッとひらけるようなさ。ああ、色彩を感じられるなんて幸せだなあ、色を綺麗だって思える心があるなんて、にんげんに生まれてよかったよなあって。そういう感動をさ、わたしだって与えたいわけなんですわ。ええ、大変へたくそなんですがね。

 真冬は地団駄踏みたい気持ちを懸命に堪えた。だって、真冬の部屋は三階建てアパートの最上階だからだ。その代わり、きっちりと断っておかなくては、と口を開く。

「わたしは小説家じゃないです! 」

「小説家じゃないの? 」

「ええ、違いますよ」

「ほへえ」

 真冬の言葉に、河原童子は目を白黒させた。立派な本棚がそこにあったもんだったから。小説読んでる人間は、みんな小説家になりたい愚か者なんだと思ってたんだよ。や、すまない。

「やあ、この歳になっても、知らないことの方が多いねえ」

「いくつなんですか? 」

「今年で三百歳」

「わあ、すごい! 」

 真冬から、思わず拍手がこぼれた。

「今から三百年前というと、清の皇帝が入れ替わった年ですよ」

「清? 」

「はい」

「清? って」

「中国の昔の王朝です」

「王朝? 」

「王朝ですか? 」

「はあ、王朝って」

「カペー朝ですか? 」

「え? 」

「へ? 」

真冬が首を捻ると、河原童子は、

「ごめん、勉学はあんまり得意じゃなかったから」

 と、申し訳なさそうに皿をかいた。

「あ」

 シン、と会話が途絶えた。ふたりでもっふもっふと人形焼を啄む。ジャスミン茶と微妙に仲が悪いのが、何とも風流に思えた。雨はまだ攻撃的なままだ。

「本を読むのが好きなのかな? 」

 沈黙に堪えられない河原童子が言った。

「うーん、好きって言っていいのやら。読んだり読まなかったりします」

「でも最近は、読んだり読まなかったりすらしない若者がふえてきてるんでしょ? 」

「や、そうでもないですよ」

 真冬は答えて、「あ」と会話の終了を察した。

「うーん、そうなのかも知れません。わたしの周りじゃめっきり」

「やっぱりそうだよね」

 河原童子は真冬の答えが気に入ったようだ。

「いまどき本を読むなんて、たいへん粋なことだよ」

「粋、ですかね」

「そうだよ」

「はあ、」

 また雨音だけになった。が、河原童子が口を開くことは無かった。真冬も、天井のシミを見上げたままでいた。

「世話になったね」

 ビニール傘を広げて、河原童子は言った。

「いえいえ、またいつでもいらしてください」

「やや、ありがとう」

 言って、河原童子は砂利にできた水溜まりをスイスイ縫って行った。

 緑色の細長いのがコンクリートを上ってゆくのを、連絡通路からしばらく眺めていた真冬だったが、雨がしとしとになっているのに気がついて、手を伸ばした。分厚い雲の切れ目から、黄金が溢れ出している。こういう時、ちょっとした郷愁に浸れるのだ。

 真冬の故郷は長野の奥地だった。線路もバスもなくて、高校生の時分になると、否が応でもスクーターの免許を取らざるを得なかった。そうでないと学校にたどり着けないからだ。何割かが親もとを離れて、都市部へ越してった。真冬の行動圏内に頭の良い高校なんてなかったし、都市部に行けば、電車がある。新幹線があって、東京へなら、一時間もあれば出れる。だから真冬もさ、と言われて、真冬は首を縦にふれるほど、勇敢ではなかった。簡単に言うと、怖気づいたのだ。

「わたしの親も若くないし、姉ちゃんは高校で家出てっちゃったでしょ? 姉ちゃんが引っ越すってなってさ、お母さん、娘を独り立ちできるまで育てられましたって、肩の荷が下りただなんて。わたしにさ、真冬も姉ちゃんみたいに、すぐに立派に独り立ちして頂戴ね、なんて言ってたけど、姉ちゃんが引っ越す時にさ、誰よりも泣いてたんだよ。県から出るわけでもなけりゃ、今生の別れでもないのに。わんわん泣いてたの」

 だから、わたしは、もうちょっと一緒にいたいなってなった。

 家族で越す正月は大好き。お母さんにギャンギャン言われながらやる夏休みの宿題も乙だし、盆の送り火をただひたすらシーンと眺めるの。テレビ越しで見る渋谷のハロウィンを、物知り顔で批判して、クリスマスは本来家族と過ごすものだからって、当たり前にケーキを囲む。

「でも、姉ちゃんが引っ越してから、わたしたち家族の日常は、眩しいくらい懐かしい思い出に変わった。うん、思い出だけになっちゃった」

 あの日、姉ちゃんと真冬で喧嘩してたよね、どっちがケーキのチョコを食べるかって。サンタのお菓子はまずいからヤダって押し付け合って。年越しそば、姉ちゃんが本格的なモノが食べたいって言うから、わざわざお蕎麦屋さんから卸してもらったのに、結局食べないまま寝ちゃって、そのまま年越したよね。ハロウィンは悪魔を払う、ケルトの祭りだよって言っても、姉ちゃんは、でもここは日本よ、って聞かなかった。姉ちゃんは宿題終わらせられなくて、いつも真冬に白い目で見られてたよね。

「全部が遠い思い出になった。姉ちゃんはそのまま東京に行って、気がついたら彼氏がいて、結婚してて、こどもをつくって、いつの間にか、年賀状でしか顔を見ない存在になってた」

 姉ちゃんがわたしの姉ちゃんだったってことが、とんでもなく信じられないことみたいに思える。わたしは姉ちゃんとたくさん喧嘩して、姉ちゃんにたくさん怒られて、姉ちゃんをたくさん叱って。

姉ちゃんが失恋して泣きながら帰ってきたのを、わたしが連れだして散歩したのも覚えてる。街灯のない、点々とした星空の下だった。

「真冬は案外、サクッと結婚しちゃうんだろうな」

 姉ちゃんは言った。

「ねえ、真冬知ってる? 妹が先に結婚した場合、姉ちゃんは黄色い薔薇を贈るんだって」

「黄色い薔薇? どうして? 」

「どうしてだろ」

 姉ちゃんの頬は涙のあとで灰色に煤けていて、でもわたしは、姉ちゃんを世界一綺麗だと思った。

「わたしはどこにもいけないよ、きっと」

「ううん。真冬を好いてくれる人は、きっとどこかにいるよ」

 短パンのポケットを探ると、デコポンくらいの玉が出てきた。檸檬によく似た色の、ガラスでできたまあるい玉だ。

「尻子玉? 」

 真冬は、げ、と玉を掲げた。

「わたしんじゃなさそう」

 じゃあ、誰の?

 河原童子の置き土産だろうか。知らない人間の尻子玉を尻ポケットにねじ込むだなんて、なんて趣味の悪い。というか、「尻子玉って、こんなにデカかったんだ」。人間の腹の中の容量を考えたら、結構な割合、尻子玉なのでは? 真冬は寒気に憑りつかれた。 

とりあえず、大切に扱ってやろう。いつ元の持ち主が現れるか分からないんだから。なくさないように、きちんとした箱に入れて、きちんと管理してやろう。真冬は部屋に戻った。

 尻子玉は駅前でばら撒かれてた号外の布団につつまれて、百円ショップのヒノキの箱に寝かされた。それから毛糸で几帳面に蝶々結びをされ、飾られて、玄関横のシューズボックスに収められた。

『この箱安易に開くことを禁ずる。』

メモ用紙にガラスペンで書き、セロハンテープで側に貼りつけた。

「でもこれ」

 ただの、なんでもない、ガラス玉だったらどうしよう。

「もしそうだったら、なんかわたし、馬鹿みたいじゃん」

 真冬はそれでも、扉を閉めた。

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