13:雨降らず地固まる

■■■付き合い方■■■


 認めよう。僕は図体ばかりデカくなったけど、大人としては欠けている部分が沢山ある。でも子供と名乗るには精神的に自分を納得させることが出来ない。何処までも中途半端で、言い訳もできないくらい弱い人間だ。


 悲観的になりそうだが、それでも、僕に残された道は愚直に前に進むこと以外にない。

 僕は常に弱さを受け入れてきた。人の心を思い遣れなかったこともそうだし、人に興味が湧かなかったのもそうだ。退廃的な日々の繰り返しを許容してその癖して人生を悲観する醜い精神構造だってそうだ。それらを良くしようと行動したことはあまりないけど、自分自身を誤魔化したことはない。これは全て僕の弱さである。


 受け入れるしかない。僕は大人でも子供でもない。27歳にもなって、言っていて恥ずかしくなるけど、僕はそういう人間なのだ。


 結局やることは変わらないなと苦笑する。徒凪さんを放って置くには僕は深入りしすぎたし、見過ごせるほど子供でも大人でもない。


 坪河さんから事情を聞いた後も、徒凪さんとの関係を僕は変えなかった。仲良くするなら勝手にしろと言っていた手前、坪河さんも特にそれについて何かを言ってくることは無かった。ただやはり時折忌まわし気な視線が飛んできたが、それは無視した。


 僕に何が出来るかを考える。

 二人の問題、それは確かなのだろう。異母姉妹という複雑な関係性が僕にはあまり想像できない。この世界ではスタンダードなことらしいが僕からすれば滅多にない話に思えてしまう。

 しかも殺人が絡む話だ。怨恨の深さも相当だろう。他人が口出しできるような領域を遥かに超えている。


 安易に関っていたつもりはなかったけど、今後は更に慎重に触れるべきだ。

 まずは事情を聞いてみるのが良い気がする。僕にはこの二人に何かすれ違いがあるようにしか思えない。

 徒凪さんの両親はどんな人だっただろう。坪河さんは父親のことを良い人と言っていた。しかし見方が変わればその評価も変わるかもしれない。徒凪さんの目にはその件の父親はどう映ったのか。それが気になった。


 会話を切り出す機会を見計らう。

 徒凪さんは随分と僕のことを信用してくれているように思える。それは嬉しい事だ。僕の人生でここまで友人みたいな人、しかも女の子はいなかった。とはいえ、親しい相手にも礼儀ありだ。何も脈略も無く父親のことを聞くことは出来ない。しかもただの父親じゃない、自分の母親が殺した父親だ。どれだけ徒凪さんが何事もないように取り繕っていようと、きっと彼女の足にも根は巻き付いている。


 しかし結局、僕はその日徒凪さんに話を振ることは出来なかった。でも構わない。慎重に機を見計らって、聞けそうなタイミングになったら聞けばいい。あくまで僕は他人だ。刑事の事情聴取みたいに強引に聞き出すのは身の丈に合わない行動でしかない。


 下校路、駅まで徒凪さんを見送る。そして沙矢と一緒に反対方向の自宅へ踵を返す。

 沙矢も沙矢で不思議だった。僕が駅まで徒凪さんを送ると必ずひょっこりと表れて、僕の手を引いて帰宅を促してくる、なんだかゲームの行動範囲を限定してくる舞台装置的役割を持ったキャラクターみたいな行動をこの一週間取り続けていた。先に帰ってていいと何度も言っているのにその度に頑なに首を振っては、お兄ちゃん危なっかしいんだから一人にさせられないって~、とか言われた。そんなに治安悪い土地じゃないはずなんだけどな、この周辺。


「どうかしたのお兄ちゃん。ムスッとしてる」

「別になにも無いよ。何でもない」

「怒ってる?」

「怒ってないよ」

「怒ってる!」


 小さな子供みたくキャッキャと楽しそうに沙矢は綺麗な笑い声を上げる。僕が怒ってないことを分かっていながら、今のやりとりが可笑しかったらしい。屈託の無い笑顔に釣られて心の中の文鎮が軽くなった気がした。何だろう、いいな妹。世の中の男が妹を望む理由の一端を知った気がする。癒しだ。アニマルセラピーならぬ妹セラピー。ただ現実ではそんな妹はそうそう居ないから、代用品として皆アニメなどの二次元で妹セラピーを摂取していたに違いない。何なら斯く言う僕も昔はその大勢の一名だった気がする。


 そんな馬鹿みたいなことを考えて、気分が少し上向きになった。ビール一杯引っかけてもここまで気が晴れるかどうか。凄いな妹セラピー。お礼に何か買ってあげよう。


「沙矢、何か欲しいものとかある? 良ければ買うよ」

「え、なになに唐突に。わたしを懐柔しようとしてる?」

「いや違うって。いつも世話になってるしね、良い機会かなと思ってみたんだけど」

「わたしはお兄ちゃんの側で満足だけど?」


 言いながらスッと右手を僕の脇下に差し込んで、まるで恋人みたいに互いに腕が絡み合っているような姿勢になる。柔らかいし何かいい香りがする。いやいやいや、待て待て待て。それは駄目だろ僕。倫理的によくない。冷静さカムバック。理知を取り戻すと僕は沙矢の腕を優しく解いた。


「はいはい。それで何かないの?」

「雑ぅ……」


 ボヤキながら機嫌を曲げた顔をした。目を合わせようとすると「ふんだっ」とあらぬ方向へ顔を背ける。大変だ。妹の気持ちが分からない。いつものことだけど、今日はまた機嫌がジェットコースターな気がする。


「どうせ大したもん用意できないんだからお兄ちゃんでいいって」

「否定は出来ないけど、身近なものなら流石に買えるよ。アイスとか」

「じゃあお兄ちゃん。身近じゃん」

「ものじゃないからね」

「なんで?」


 倫理的に。そう思ったが口には出さなかったのは沙矢が段々ヘソを曲げつつあることを察していたからだった。

 さっきまで機嫌が良さそうだったのに、その様は小学校の時に登らされた富士山の天気を思い出す。遥か昔の思い出だけど、晴天だったのがものの一時間で土砂降りになって山小屋に避難したから覚えてる。今と同じくらいに大変だった。徒凪さんの事情よりはマシかもしれない。そうだ。徒凪さんのことを忘れかけていた。どうやれば自然と事情に踏み込めるか考えなければ。相手に違和感を覚えさせず相手のプライベートな領域へ踏み込む方法を考えるのはさながら詐欺師みたいだと思ったが、それでも僕はやる必要がある。初志貫徹だ。なんでも中途半端は良くないよな、うん。


「……わたしなんか眼中にないって顔してる」


 徒凪さんと坪河さんの間に横たわる根深い問題に対してつい考察を深めていると、沙矢は拗ねた表情で僕を睨んでいた。睨むと言っても身長的に上目遣いになってしまうせいで迫力はない。


「そんなことはないよ」

「嘘だ」

「嘘じゃない」

「嘘だってお兄ちゃんのばーか」


 クラスメイトに鉈を振りかざす某少女を思い出したが、それより明らかに圧は軽かった。どうでもいい。

 ともあれ、なんか突然に面倒くさい。可愛いけど、徐々に面倒くさいぞ。


「馬鹿って言われてもなあ」

「外に全然出ないし勉強も出来ないじゃん」

「勉強は認めるけど外は関係ないだろ」

「お日様に当たらないから集中力が保てないんだよお兄ちゃん。あーあ、わたしに頭を下げれば幾らでも散歩連れて行ってあげるのに」


 僕はペットか。なんだ。なんなんだこの妹。ちょっとイライラしてきた。

 でも妹にイラつくのは素晴らしく大人げないと思った。まずは落ち着こう。深呼吸だ。ゆっくりと息を吸って吐いて冷静になる。なった。冷静になった頭で一つ閃いた。沙矢と対等に話そうとするから神経が逆撫でされるんだ。妹との付き合い方を改めるべきかもしれない。そう、子供と話すように丁寧に一つ一つ寄り添ってみよう。事実、高校生は子供だ。

 出来るだけ優しい声音を意識して出す。


「そうだね……じゃあ今度その好意に甘えていいかな?」

「絶対に嘘だ。行きたくないくせに。無理して行こうと思わないで良いよ、わたしも家事で忙しいし」

「そ、そっか」

「別にお兄ちゃんは何か銀色の髪したクラスメイトの人と仲いいもんね、その人に散歩してもらえばいいじゃん。お兄ちゃんがワンって鳴けば喜ぶんじゃないかな?」

「そんなことはないよ。徒凪さんは優しい人だ」

「優しいってどうせお兄ちゃんの前だけじゃないの? 男の人を前にした女ほど信用できないものはないんだよお兄ちゃん」


 果ては徒凪さんのことまで乏し始めた。何で唐突にこんな言われなきゃならないんだ僕は。沙矢に変なことを言ったつもりはないんだけどな。

 はあ……困った。こういう時にどうすればいいか分からない。僕の人生における対人経験が少ないからだと最初は思ったが、少し考えて、普通に妹がいたことがないから判断基準が存在しないのだと考えを改める。改めたところで何か思いつくわけでもないんだが。

 取り敢えず名前を呼ぶ。


「沙矢」

「……なにお兄ちゃん」


 沙矢はびくりと耳を震わせる。怯えた小動物を連想させる仕草だった。


「僕のことはいいけど、徒凪さんを悪く言うのは止してくれないかな……言い過ぎだよ?」

「え……」


 途端に沙矢が傷付いた顔をした。目に涙を浮かべて、信じられないものを目にしたと言いたげに口を固く結び、不安そうに瞳が揺れる。


「その人はお兄ちゃんの大事な人なの……?」

「いや別にそう言う訳じゃ……でも好きじゃないクラスメイトと下校なんて出来ないと思う。常識的に」


 大事か大事じゃないかで人間を語ったことはないけど、理屈を踏まえて僕は答えた。好き嫌いの話なら好きで間違いない。

 沙矢は涙を拭うと、厳しい視線を向けつつ僕の脛を蹴り飛ばす。ローキックだ。痛い。またか。

 

「お兄ちゃんの馬鹿馬鹿アホー! どっか行っちゃえ!」


 大声で喚いて沙矢は駅構内へと走って行く。どっか行っちゃえとか言いながら自分がどっか行くんだな、なんて極めてしょうもない感想を僕は抱く。

 なんだなんだと周囲の視線を集めることになったが、その時の僕はそんな些細なことは気にならなかった。

 呆然としながらも思う。僕は何を間違えた。今の僕の言動のどこに地雷が埋まっていたんだ。どの発言も常識の範疇だろうに。妹が難しい。思春期だから難しい。女の子だから難しい。他人が難しい。


 ハッとする。何を理解するにしても、まずは沙矢を追いかけないと。

 僕は完全に見失う前に後を追うようにして駅構内へと足を速めた。

 






■■■兄と妹■■■


 僕の体力は学生時代からそう高くはない。27歳の頃より動けるもんだから調子に乗っていたが、改めて自分の身体的なスペックを自覚させられた。若いだけで体力はないんだった僕は。運動神経には人並みの自信があるけど、体力ばかりは普段より動かないのだから付きようもない。


 そう言うわけで、完全に沙矢を見失った。

 僕も走っていたはずだったんだけど、沙矢の足は僕なんかよりよっぽど早かった。以前は陸上部にでも入っていたんじゃないだろうかと疑うレベルですばしっこい。いや、多分違うな、僕の体力が低すぎた。流石に高校一年生の帰宅部女子の走りに置いてかれるのはどうかと思う。ちょっとくらいは鍛えた方が良いんだろうか、なんて我ながら似合わないことを足を止めながら考えてみたりする。でも、それを考えるのは今じゃない。今は沙矢を見つけねば。


 早々に乳酸が溜まった足を無理矢理動かす。歩くたびに動きにゼンマイを巻いたブリキ人形みたいなぎこちなさを感じる。どんだけ僕は体力がないんだ。流石にここまで無いこともなかったぞ。アレか。この世界の僕は家事すら碌にせず学校以外は引き籠っていたから学生時代の僕より低いのか。やっぱり鍛えよう。全てが終わったら簡単な運動くらいはしよう。じゃないと妹の元気さに付き合えない。


 決意を新たに、視野を広げながら頭を動かす。


 実のところ、僕は追いついたところで沙矢と何を話せばいいか分からなかった。怒っている理由が分からないから何を言えば良いのか見当もつかない。でも放っておくこともできないから考えなしに今こうして後を追いかけている。その傍らでずっと考えている。僕の至らない部分。沙矢の逆鱗に触れた部分。とても難解だ。現実は国語じゃないなと思う。センター現代文が解けたところで人の心は読めない。出来る人であれば国語力を人間関係に応用して人の気持ちを的確に読み取っては素晴らしい社交性を獲得しているのかもしれないが、生憎と僕は出来ない側の人間だ。自分の至らなさに腹が立つ。


 駅を通り越して反対側の出口へと来た。沙矢の影はどこにもない。どこへ行ったんだろう。

 こういう時、沙矢であればどこに向かうのか。5秒くらい考えてみて、諦める。情報が足りない。僕は沙矢の過去を知らない。沙矢の思い出の場所も、お気に入りスポットも分からない。兄妹としてはたった5日間の付き合いでしかないのだ、世にも奇妙なことに。


 沙矢のことを考えても仕方ない。なら沙矢を中心に予測を立てるのは一度辞めよう。アプローチの仕方を変える。人間はネガティブな感情に駆られた時にどういう場所に行きたいだろうか。こう考えてみる。一般論だ。

 普通に考えれば人気が少ない場所か、心休まる場所か。少なくとも遊園地だとか商業施設の一角のフードコートだとかではない。静かな場所、内省的になれる場所へ行くはず。


 そうなればこの町でも限られてくる。駅前はどこも放課後の学生で賑わいを見せているから無いだろう。一人になれるという意味ではネカフェも選択肢の範疇だが、まあ、沙矢は使わない気がする。あとお金だってそこまで持ってない。

 方角的に高校内にある図書室とかでもないはずだ。となると、必然的に択は絞られた。

 僕が知ってる通りの地図なら、この先1㎞くらい行った場所に公園がある。過疎った小さな公園で、特徴としてはまず遊具が無い。危険だからと大人の勝手な都合で撤去されてしまった。残ったのはベンチと木々だけだった。さらに木々で多少は隔てられているが隣に墓場があるために、いつ行ってもどこか湿やかな空気が流れている。そんな負の要素が重なって子供から大人まで敬遠して人気がないのだが、今の沙矢からすればうってつけなのではないだろうか。


 僕は逡巡もせず公園へ向かうことに決めた。それ以外思いつく候補もなかったからだ。


 歩いて向かう。途中のコンビニで適当に甘いお菓子も買った。シュークリームである。一つだとまた機嫌を損ねそうだから二つ。


 公園の入り口は陰鬱としている。誰も踏み入らないから足元の雑草も生え散らかり、あまり管理されていない様子が伺える。僕の記憶と同じだ。

 公園内のベンチで沙矢が座っているのを視認した。制服姿の美少女だから目立つ。そうじゃなくても目立つが。

 身を小さくして、深刻に思い悩んでいる様子だった。悩みの種の渦中は、まあ、僕だろうな。


「探したよ沙矢」


 自然に話しかけることを意識していたが、内心、僕は普通に緊張していた。ここからノープランだ。また怒らせてしまうかもしれない。ここからの云為は慎重を期せねば。そんな不安が中枢神経を麻痺させていた。


 しかし、怒ってくるかと思った沙矢は、意外にもそうでもない表情だった。落ち込んでいるところを見られて恥ずかしいと言って寂し気に笑いそうな顔だった。


「やっぱお兄ちゃんには分かっちゃうんだね……」


 代わりにポツリと沙矢はそんなことを言う。僕は以前にもここへ沙矢と来たことがあるのだろうか。当然知らないので、何も返答が出てこない。気まずい空気感の中、僕は右手に持つコンビニ袋の存在を思い出す。


「シュークリーム、食べようよ。あと隣、座って良いかな?」

「……うん」


 僕は沙矢の隣に座った。九月のセミが五月蠅い。でもその蝉時雨が今の僕と沙矢の微妙な距離感を中和してくれている気がした。


 シュークリームを渡す。包装をビリっと破って齧り付く。沙矢との間に会話は無かった。ただシュークリームは甘かった。


 食べ終えると、僕は沙矢の顔を見た。まだ思い詰めた表情を浮かべていて、口元にホイップクリームが付いている。ちょっと抵抗はあったが兄ならこれくらいやるだろうと思い、ポケットからハンカチを取り出してクリームを拭ってやった。驚くように目を開いたが、すぐに擽ったそう目を細める。


「わたしさ、まだ覚えてるんだ。ここでお兄ちゃんが言ったこと。……まあお兄ちゃんは忘れちゃってるのかもだけど」


 ポケットにハンカチをしまい込むと、不器用な切り出し方で沙矢は話し始める。


 忘れている、じゃなくて、知らない。だがそれを口にすることは出来なかった。ごめんと相槌だけ打つ。

 嘘つきの僕に沙矢は優しく語り掛ける。


「仕方ないよ、わたしは6歳でお兄ちゃんも7歳だったんだもん……忘れててもしょうがないよ。ううん。正直嫌だなって思ってる」

「それは……どうしてなのか聞いても」

「だって言ってくれたじゃん。結婚してやるって」


 昔懐かしそうに抒情的な顔をしてそう告げた。

 ……なるほど。なるほどとしか言えない。この世界の僕はそんなことを言ったのか。


「あの時は、本当はお兄ちゃんが思ってる以上に大変だったんだからね。わたしが引き取られて、引き取られた理由も今だから言えるけど……息子を近くから守るためとか、本当に何だかなぁって感じじゃない? それで環境が変わって、居場所が無くて、お兄ちゃんだけがいて、限界になって家出してこの公園に来たんだ」


 引き取られた……養子。なるほどなと思う。色々と凝り固まった大きな氷塊が溶けた気分だった。沙矢は養子だったのか。だから僕に妹なんていたのか。本当になるほどだ。僕は元来一人っ子であることは変わってなかったらしい。


 でも今は納得は後にして、沙矢の話を聞くことにした。沙矢は続きを話す。


「家出して、行く先なんて無かった。孤児院に戻ろうとも思わなかったから。そんなときにお兄ちゃんが現れたんだよ、この公園に」

「そっか……」

「お兄ちゃんは、じゃあ僕と結婚しよう、それで家事さえやっていればずっとこの家にいて良いから、誰にも文句は言わせないから。確かにそう言ったよ?」


 何も言えなかった。肯定すれば人の袴で相撲を取ることになってしまう。それは同一人物であると言え、この世界の僕に対する不義理である気がした。

 思い出していておかしくなったのか、沙矢は控えめながらコロコロと笑う。


「えへへ……今のお兄ちゃんからは考えられないね。あ、でも最近なら言いそう。まあいいや。それでお兄ちゃんは泣いてるわたしに最後に言ったんだ。だから僕が結婚してやる、って」

「……そうなんだ。そうだったのか」

「うん。お兄ちゃんにとっては大したことじゃなかったかもね……でもわたしは覚えてるよ。ずっと」


 寂しげに言った。言外に覚えていないことを責められている気がする。でも同時にそれは半分合っていて、半分間違っている気がした。責めているのに違いはないが、沙矢は怒ってはいない。迷子の子供みたいに瞳の奥が揺れていた。罪悪感が過る。この世界の僕なら、覚えていたのだろうか。

 

 沙矢は少しして首を振る。


「なんか、ごめんねお兄ちゃん。別に言質があるから結婚しろって言ってるわけじゃないから……ただその、お兄ちゃんが居なくなる気がしてさ……」


 何故か白状するように吐露した。僕の中で今回のことが漸く線で結ばれる。

 沙矢は、急速に僕と徒凪さんの仲が進展して不安だったんだ。今まで交友関係のこの字も無かった僕がクラスメイトの異性と接近して複雑な感情を抱いたのだろう。それで情緒が不安定になって、あんなヒステリックに怒り始めたと。……駄目だな僕は。沙矢が素直だから分かったけど、本当ならきっとこのくらいは慮るべきだった。結婚どうこうの話は知らなかったとはいえ、突然兄の交友関係が変化したら沙矢が不安に思うくらい僕の脳味噌でも予想が付けられただろうに。あまりにも僕は過去を軽視していた。馬鹿だ、僕は。


「僕こそごめん、沙矢。全然気持ちを分かってあげられなかった」

「謝られるようなことじゃないよ……だってわたしが悪いだもん」

「沙矢がそれでも、僕もそう感じてるんだ」

「じゃあお互い様だね」


 沙矢は微笑んだ。僕も笑い返す。本当に妹みたいだ。こうやって衝突もあったけど対話で分かり合えた。沙矢にも、きっと僕にも思いやりがあったから。この瞬間、この公園で、僕は漸く初めて沙矢のことを家族だと認識できたような気がする。


 僕は照れくさくなって頭を掻いた。顔を少し赤くして何もない斜め上をチラリと確認している沙矢も同じ気持ちなのだろう。

 隠すように僕は話題を転がす


「お詫びにじゃないけど、じゃあ今度水族館とか行こうか」

「あーいいじゃん。お兄ちゃんにしては分かってるね」

「兄だからね」

「さっきまで謝ってたくせにー」

「だからごめんって」


 揶揄うように棒読みで指摘されて、僕は半笑いでそれに返して───直ぐに何だアレはと目が点になった。


 視線をふと沙矢から外すと目の前に何かが居た。

 全身が黒くて、光を受け付けないような身体をした何か。木々の間からふらふらと体を揺らす不気味な二足歩行でこちらに近づいてきている。辛うじて生物なのは分かる。だが目も鼻も口も無い、全身がテクスチャーで張り付けたみたいにのっぺりとしていて、さながら出来の悪いメタバースの背景だ。アレはなんだ。


「お兄ちゃん……」


 沙矢も僕と同時に気付いたようだった。袖をギュッと握られる。沙矢からしても未知のものであるらしい。当然か。アレはどう考えても現実のものじゃない。あるとすれば妖怪とかクリーチャーとか、そういう類で……。いや、心当たりが一件だけあったな。


 今まで普通に生活出来ていたからこの世界は現代日本だと思っていた。だけど、情報だけなら僕も入手していたじゃないか。


 そうだ。多分あれは、怪人ってやつだ。

 

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