第26話 風が強かっただけ



風はいつも、アタシを守ってくれる。

アタシの名前を冠した元素。

だからアタシは本当は、美しい風の妖精に違いないんだ。

透明で、儚くて、繊細で、脆くて、自由で。

目で見ることも手に取ることもできない。


アタシはそんな、風の妖精。


困ったときは、いつも風が助けてくれる。


嫌な声をかき消して。

悪魔の手さえも振り払って。


困ったときは、いつも風が、守ってくれる。


だけど、アタシの知らない風の動きがあったみたい。


なんで?

風はすべて、アタシのしもべでしょう?


思い通りに動かせなくちゃ、アタシの風にならないのに。


アタシの風にならなければ、天使の近くにいられない。


アタシは可憐な風の精。

アタシの風は、ふさわしくないものに罰をも与える。









「じゃあ、事故ってことにしちゃったんだ」

「あら、実際に事故なのだわ」

「でもさぁ……」

「風が強かっただけなのだわ」


ミユキは件の美術部員のことを許してしまった。

というかまったく気にも留めていない、どころか上機嫌ですらあった。

チョコレートのたくさん入った特大クッキー缶のおかげ……だけじゃない気がする。


「あの時ああなったことは不幸ではあるけれど、そうならなければ見えなかったものだって、あったはずなのだわ……今年の蝶みたいに」

「……まぼろしじゃ、なかったんだ」

「まぼろしなのだわ……まあ、そうとしか言いようがないのよね、いまのところは」

「そうだよね、だって私にも見えたし……たしかにミユキを、助けたんだよ」


ミユキはかわいらしくニコッと笑い、またひとつ、クッキーをつまんだ。

対するナギは複雑な心境だった。


「風が強かった、か……私達、変なとこが似ちゃったね」

「……似ちゃった?」

「私がこの腕、怪我した時も、強い風にあおられての事故だったんだよ」

「風が…………」


ミユキはぼぉっと虚空を見つめたまま動かなくなってしまった。

ああ、故障だろうか。電源を入れ直すにはどうすれば……。

とりあえずクッキーをひとつ放り込んでみると、さくさくと咀嚼した。

よかった、クッキーでミユキは動くみたいだった。

もひとつ、ベリーとナッツのクッキーを嚥下すると、ミユキは呟いた。


「風は……いつもわたしたちに困りごとを運んできてしまうわね」


どこか、何かに納得したような言い方だった。


「たしかにね、なんか……今年は特に、風の強い日が多い気がする」


病院の窓は様々な理由(あまり考えたくはないが)から丈夫にできているのだろう。

旧校舎のようにガタガタとは言わず、隣にある公園に植えられた木々の揺れ方だけが風の強さをナギたちに知らせていた。


「……ふしぎと、確信したことがあるの」

「なになに?」

「わたし、きっと、コンクールにも、文化祭にも、間に合うんだわ」


ミユキはずっと、夢みるような瞳のまま、ぼうっとしている。


「描きたくて描きたくてしかたないの」

「でも、まだ数日は入院しなくちゃ……だいじょうぶ、まだ時間はあるよ」

「だいじょうぶ……そうよね、でも、気が急いてしまうの」

「……今日も、夢につかまった?」


ミユキはゆるゆると首を振る。

さく、さく、さく。

片手でクッキーを大事そうに持ち上げて、ゆっくりと咀嚼しながら。

もう片方の手は指でシーツに絵を描くように動いていた。


「よしっ!画材、持ってくる!!」

「…………えっ?」

「あれ、患者さんたちでしょう?」


隣の公園を散歩する、入院着の人々と看護師たちや、患者の家族らしき人たち。

車椅子に乗ってる人や、杖をついている人、本を読んでいる人、様々だった。

もしかしたら、この病院の敷地なのかもしれなかった。


「起き上がれそうなら、画材持って、一緒に行こう!」

「…………行く!!すぐにでも!!」









ミユキは、すさまじい勢いでスケッチブックを消費していった。

忘れないように、でも忘れてもいいように。

頭からひとつもとりこぼしてしまわないように。

様々な意味での「終わり」という制限から、少しでも逃げようとでもいうように。


ナギは知り合いがいないのをいいことに、遠慮がちに歌っていた。

ほんとうは昨日の夜、歌いたくてしかたがなかった。

でも、そういう訳にもいかず、それでも気持ちが萎まず、いま、こうして。

歌いながらミユキにクッキーを放り込んで、その辺の木の枝と空き缶でぽんぽこりんのチロリロリンと音楽を奏でたりして。

はじめはこどもの患者たちが興味深そうに、そのうちお年寄りの患者たちまでもが集まってきて、ナギとミユキに色々なことをねだった。

ふたりとも、こどもを邪険にはできずに苦笑いしながら、でも嬉しそうに応えた。


世界が金木星のジャムの色に浸った頃、みんなは病院に戻り、わずかな人々だけが遺された。風は無風に近く、秋にしてはあたたかな陽射しだけを落とし込んでいる。


ミユキは今、病室に連れ戻そうとする看護師達から逃げている。

スケッチしながら走って、でも転ばずにひょいひょいと逃げ回っている。

注射を嫌がるこどもみたいに、わあわあ、やだやだ、騒ぎながら。


「ミユキちゃん、いままで見てきた中で、一番楽しそう」

「そうなんですか?ミユキ結構、何してても楽しそうだけど……」

「それはきっと、おともだちが一緒だからね」

「……ミユキ、結構頻繁に入院してたんですか?」

「小さい頃はね……あとはたまに倒れたり、風邪をこじらせたりしてちょくちょく」


なんとなく想像がつく。

あの青白い顔で、つまらなさそうに頬を膨らませていたのだろう。


「やりたいことができないって、相当なストレスだものね……小さい頃は、描きたいのに寝てなきゃいけないし、食べなきゃいけないし、検査しなきゃいけないし……それはもう、への字口を絵に描いたような子だったわ、聞き分けは良かったけど」

「なんとなく想像つきますね」

「夜に起きていたいのにって、起きる時間に寝るとこわい夢をみるからって……」

「ドラキュラみたいですね」

「少ぉしずつ……人とちがうことが、ひとつひとつは少しずつでも、数が多くなればそれほど苦しいと思ってしまうのよね……」


忍者のように逃げ回るミユキを眺めながら、らしい看護師さんと話し込む。


「『やだ』って言えるようになって、よかったなぁって思ってたところなのよ!」

「……うん、それはそうですね」

「それに、あれだけ走れるなら思ったより早い退院になりそうね」

「よかったぁ……!」

「ミユキちゃーん!それ以上走ると入院が延びるわよー!!」

「やーだーぁー!!」

「うお、こっち来た!」

「げんき、わたし、すごい、げんき」


あっという間に捕獲されたミユキは、病室へと連れ戻され、もりもりごはんを食べた。早く退院するのだと、たくさんたくさん、描きたいのだと。









「な、ナギ……ミユキの病院、行くの……?」

「…………なんで?」


いつからノワキはミユキをも呼び捨てにするようになったんだろう、などと思ったが、あまり関わりたくないのでそれだけ返しておいた。


「あ、アタシ……病院、どこの病院なのか教えてもらってないし……お見舞い、いってあげたいのに……」

「ミユキはノワキが来るの、望んでないと思うよ」

「な、なんでさぁ……ナギはいつもアタシが傷つくこと言うの……?」

「ノワキ、気付いてないみたいだからはっきり言うね」


真っ直ぐに向き直る。

これで真っ直ぐに受け取ってもらえないなら、それまでだ。


「私の方が先に、ノワキの言うことでいっぱい傷つけられてきたよ」

「…………」

「怪我した腕をたくさん叩かれたことも、まだ一回も謝ってもらってないし」

「………………でも、でも、だって、それは……」

「私はそういう、無意識にでも暴力をふるう子は怖いから一緒にいたくないし、ミユキにも、他の友達にも近づけたくない」


静寂が耳に滲みた。

少しだけ緊張していた心臓の鼓動が、向こうに聞こえないように祈った。


「……ナギって……いっつも上からだよね」

「上から?そんなつもりないけど」

「だって、頼んでもないのに勝手に手を差し伸べておいて、手を差し伸べる側に立ったつもりになって、でも、ほんとうには助けてくれないじゃん……」

「……ごめん、何を言ってるのかわからないんだけど」


ノワキは暗く淀んだ目でナギを睨みつけた。

最初に会った頃の、ヘビみたいな、泥みたいな、どこか嫌悪感を抱く目。


「ほんとうは……アタシの方が先にミユキと知り合ってたのに……アタシの方が先にともだちになってたのに……!!ミユキはアタシの親友だったのに!!!!」

「…………はい??」

「ナギとだって、アタシの方が絶対先に会ってたのに……!!」

「何言ってんの?」


誰かに助けを求めようにも、誰もいないし、誰もノワキの言うことを理解などできないだろう。剰え、説明なんて特に、だ。

片方の口の端だけを不自然に釣り上げて、もごもごと、ぶつぶつと。


「アタシがもめてた時、助けてくれたじゃん、上からさ、さも自分が上みたい、上に立ったみたいにさ、助けるのが当たり前みたいに、アタシが、もめてるだけなのに、アタシがいじめられてる側だって決めつけてさ、大丈夫?とかいって、お菓子なんて、おし、お、押し付けてさ……あ、あた、アタシがそんなに惨めに見えた?」

「…………アンタまさか、あの時の……」


絶望のヘッドライトがフラッシュバックする。


風が強かっただけ。

風が強かっただけ。


ほんとうに?

本当に、風は吹いていた?

様々な楽器をやるためにつけていた筋力で、引き締まっていたはずの、重みのある身体が煽られるほど、強い風なんか吹いていた?


雨は降っていた。

雨は、強く降っていた。

真上からボツボツと叩きつけて。


ああ、風なんて吹いてなかったのに。


「アタシは風の妖精なの……儚くて、可憐で、特別な存在で……いつか天使に、楽園に連れて行ってもらうの……悪魔に邪魔されてる暇なんか、ないのに……」

「ひとごろし」

「アタシは誰も殺してないし、誰にも手を下してないモン……アタシのしもべである風がアタシのことを好きすぎてやっただけだモン……」


救いようのない、豚だ。


目の前の生物とも呼べないソレが醜くて、気持ち悪くて、仕方がない。

見ているだけで、存在を認識しているだけで吐き気がこみ上げてくる。


同じ人間のはずなのに、ミユキとは別ベクトルで規格外すぎた。


ソレの中身には泥が詰まっている。

もっと汚くて、悍ましくて、気持ちの悪いものかもしれない。


いつか見た流れ星に願えば良かった、と後悔する。


このヒトとも呼べない化物が、はやくしにますように。

本物の天罰が下って、できるだけ長くたくさん苦しんで、自分が奪ってきたように、欲した何もかもを奪われて、希望という希望すべてが潰えて。


はやく死んでしまいますように。


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海に沈んだ天使 海良いろ @999_rosa

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