第25話 夜、星に、願わず



いちど、言ってみたかったせりふがあったの。


ここはどこ、わたしはだぁれ?って。


それまでをなにもかもわすれて、違う人間として生きられたら。

それはそれで、しあわせになれたのかもしれないもの。


でも、わたしはいつでもわたしという存在で。

わたしはいつでも、どう振舞おうとも、わたしでしかなかったのだわ。

ちがう誰かにはなれやしないの。


わたしひとりが熱を出して苦しい思いをしているのに、外を走る元気な誰か。

もしくは、わたしが元気なのに、ひとりで苦しい思いをしている誰か。

わたしひとりがものすごく悲しい思いをしているのに、笑顔でいられる誰か。

もしくは、わたしが笑顔でいる間に、こっそり涙を流している誰か。

わたしひとりがただのひとりぼっちでひとりきりなのに、誰かと共に在る誰か。

もしくは、わたしが人混みで困っている時、孤独に耐えられない誰か。

わたしみたいに絵に囚われずに、絵を描かなくても生きていける、誰か。


余計な苦しみを背負わず、余計な悲しみを背負わず、余計なモノを背負わず。

余分な幸福を与えられず、余分な恵みを与えられず、余分な使命を与えられず。


足りず、過ぎず、きっかりフツウの範疇でいられる誰かになりたかった。


そうなりたかった。


でも、生まれたアトでは遅すぎた。

生まれてからではなにものも変えられはしなかった。


なろうとしたことはあったのよ。たくさん、たくさん。

フツウの仮面を被って、役者のつもりでどこかの誰かを演じてみたりして。

でも、すぐにわたしが滲み出て、どんな仮面も同じ色に染まってしまうの。


ああ、わたしはなにをしているのかしら。

なんて、時間を無駄にしているのかしら。

こんなことをしているくらいなら。

こんなに苦しんでまで不完全なフツウを装うくらいなら。

わたしのままで絵を描いていた方が、ずっといいわ。



前置きが長くなってしまったわね。


わたしは、ね。

言ってみたかったせりふが叶いそうだったのに台無しにしてしまったのよ。







「そんなこと言ってる場合か!」

「ああ、ナギさんの久しぶりのツッコミ……帰ってきたのね、わたし!」

「いや、まだ病院だっての」

「いま、なんどきで?」

「ミユキさんや、焦ってる時くらいおふざけはよしましょうや」

「パニックになるとふざけずにはいられないのよ!」


がばっと起き上がり、痛みに顔を顰めるミユキ。

当たり前だ。当たり前なのである。


「幸い、深く切ったところはないけど、とにかく背面が細かい傷だらけ」

「まあ…………想定内ね?」

「そうかい、そうかい、死ぬほど焦って心配してたのは私だけ?」

「本当に申し訳なかったのだわ」

(素直に謝られるとそれはそれで立場がないというか……)


ちいさくあくびをするミユキに、まだ眠い?と問う。

ゆるゆると首をふりながら、でも再び横になった。

横向きで横になったので横横になったという具合だ。

よくわからないが。


「丸一日くらい、目を覚まさなかったんだよ」

「……夢にね、つかまっていたの」

「……夢につかまる?」

「あまりにいい夢だったので……体さんの方も……目を覚ますのが惜しかったのでしょうね……きっと……」

「…………まあ、悪い夢を見なかったなら、よかった」


最近までの疲れ切ったミユキではなくなっていた。

ナギが今まで見た中で、いちばん安らいだ表情の、素のミユキだった。


無表情だけどやわらかくほほえんでいる。

夜明け前だけど日が昇り始める海の色。

温まった体で滑り込む、冬のふわふわ毛布みたい。

まんまるい目が、あたたかい水を湛えたみたいにゆらめいている。

窓の外や室内をぼうっと見ているだけで、好奇心が抑えられないとでもいいたげな音が絶えず聞こえてくる。落ち着いていて、でもぽんぽんと踊るように。


(ああ、聞いたことのない音楽が、頭の中を這い回っている)


小鳥のさえずりや、魚のはねる音、木々のざわめきすら聞こえそうな。


(ミユキだけの音が、そこらじゅうで鳴り響いている)


この星でひとりぼっちだと泣いたミユキだから。

つまりはこの星のすべてを愛しているのだろう。

返されることのない愛情を、それでもいいのだと無尽蔵に注いで。


あなたはいったい、どこからきたの?


思わずそう、聞いてしまいたくなる。


(家にいる時はこども振舞っていたんだろうな)


ミユキは、穏やかでちいさなため息ひとつ。

ぽつり、ぽつりと、歌うように呟いていく。


「眠ることと死んでいくこと、どこかよく似ていると思っていた」

「うん……」

「でも、夢みることと生きることのほうが、もっとよく似ていたわ」

「……うん」

「それで、眠ることと夢みることはくっついているでしょう?」

「うん?」


まあ、「理解」などはじめから諦めていて、期待すらしておらず。

そして、求めてなどいないのだろう。


「それならはじめから、似ているもなにも、ぜんぶくっついて生まれたのだわ」

「そうなんだ……?」


懐かしいものでも見るように、明かりの灯り始めた街を見下ろす。


「ここから見る景色は特別きれいなんだって、看護師さんがおっしゃっていたわ」

「……ずっと寝てなかった?」

「今回は、ね」

「……ああ、だから憧れの台詞をいえなかったのね」


いつかきっと、この大きな病院のこの場所に、いたことがあるのだろう。

いやに長く連れ回されたと思ったら、そういうことなのだ。


「……ナギさん、お時間はまだ大丈夫?」

「うん、親の車で来たし、明日休みだし」

「そう……そうね……そうだったわね……」


ねえ、知ってた?


ここ、夜になるとどこからかフクロウがやってくるのよ。


街灯りのきらめきに合わせて、ホウ、ホウ、って。


まるで、歌っているみたいに。



(……夢につかまるって、こんな気分なのかもしれないな)


ナギは泣きたくなるくらい、ここから帰りたくなかった。

まだここにいたくて、まだこの音色や空気の中にいたくて。

でもきっと、これは数時間後には霧散してしまうものなのだ。

刻一刻と違うものへ、違うものへと変化して、いつかすっかり、別物になる。


永遠であってほしい、永遠に続いてほしいと願いながら。

決して叶うことがないと、誰でも本当は知っているもの。


そこで初めて、ナギはミユキの言う「終わり」について悟ったことだろう。


「……これは、なんの涙だろう」


ミユキをこんな目に合わせた誰かへの怒りだろうか。

ミユキが変わらずいてくれることへの安堵だろうか。

ミユキがなにも失わず生きているという歓喜だろうか。

自分がいかに無力か思い知った悔しさによるものだろうか。

目の前の景色の美しさに対する感動だろうか。

悟ってしまった終わりと、叶うことのない永遠に対する悲しみだろうか。


「理由さんのない涙さんがあっても、よろしいのではなくて?」

「……いいのかなぁ、そんなんで」

「理由さんにだってお休みが必要な日もあるわ」


ナギはしばらく涙さんに身を任せた。


泣き止む頃には窓の外はすっかり真っ暗になり、ミユキが面会時間の終了を報せる。

様子を見に来た看護師にこの良き時間の終わりを告げられたらしい。

顔見知りらしいミユキが代わりにいくつかやり取りし、ナギに箱ティッシュを差し出す。今のこのぐしゃぐしゃの顔を見られるの、いやだなぁ……と思い、ミユキの方を向いたままそっと会釈をした。念の為ティッシュ数枚を握りしめて帰ることにする。


「そろそろ帰るね……ねえ、明日も来るよ、私……迷惑じゃなければ、だけど」

「もちろんうれしいわ、だって、入院って、ほんとうはさみしいもの」

「何か要る物ある?私に用意できる範囲でなら持ってくるよ……あ、でもお家の人がやってくれるかな……」

「そうねぇ……それじゃあひとつ、わがままをいってもよろしい?」


ゴミ箱にティッシュを詰めながら、一つと言わず、と頷く。


「前に作ってくださったクッキーが、また食べたいわ」

「……そんなことでいいの?」

「すごく、とても、べりぃ」


手のリハビリ代わりにやるようになっていたお菓子作り。

それがこうして喜んでもらえるのなら、よかった。


「チョコレートのやつがたくさんだと、わたしは殊更うれしく思うのだわ……ナギさんの手さん方も、よろしくお願いするのだわ」

「お願いされました!じゃあまたね、ゆっくり休むんだよ!」


ゆるゆると手を振りながらまぶたを閉じるミユキを見送り、駐車場で待つ父親の元へゆっくりと向かうナギ。泣き腫らした顔を見て、案の定笑われて、握りしめたくしゃくしゃのティッシュを見て、また笑われてしまった。

いつもなら腹立たしいが、こんな時だけはあたたかい気持ちになる。


「ファミレスでも寄ってくか?母さんには内緒だぞ~」

「……唐揚げ頼むなら半分こだからね」

「だから母さんには内緒なんだろぉ?」

「……あ、流れ星」


すこし考えて、願いごとを言うのをやめた。


「願いごとしたか?」

「ううん……だって、変な叶い方したら、嫌だもん」

「そうか、そうか」


少しずつ、ほんの少しずつでもいいから。

自分でがんばって叶える方がいいな、と思った。







「そろそろ電気を消す時間ね?」


わくわくと、眠る前の読み聞かせや子守唄をねだるこどものようだ。

でも、ミユキが望むのはただひとつ。

真っ暗闇に包まれて、遠くの街灯りをこっそり眺めること。

こっそり、の割には看護師たちにはすっかりバレてはいるのだが。


「あらあら、相変わらず夜が好きなのね」

「でも今日はちゃんと早めに寝るわ、昔とはちがうもの」

「あら、そう?体重はあまり変わってないみたいだったけど」

「嘘、やだっ、またお父様にお叱りを受けるのだわ!」

「冗談はさておき」

「ほんとうに冗談でしょうね?ほんとうに?」

「それで、どうして今日は早寝ちゃんの気分になったの?」


明日絶対に体重を量ることを心に決めながら、ミユキは少しだけはにかんで布団に潜り込んだ(痛みにちょっとばかり呻きながら)。


「……ともだちが、お見舞いにきてくださるの」

「まあ!ちゃんと実在する子?」

「それがびっくり、実在するのよ」

「幽霊でもなく?」

「生き生きなさった人間の方なのよ」


看護師はまだ片眉を上げて怪しんでいたが、やがてほーっと息を吐いた。


「…………よかったわねぇ……ほんとうに、よかった……」

「さっきいらしていた子よ」

「……ああ、泣いてたからてっきりまた加害者の子かと!」

「わたしみたいなののためにも、ああして涙してくれる方なのよ」


目の前のあなたみたいに。


「ああ、もう、眠くなってきちゃったわ……もうすこしだけ、ナギさんの話をしたかったのに……」

「ミユキちゃんのともだち、もっとちゃんと会ってみたかったけど……」

「…………きょうはわたしが、お話してもよろしい?」

「まあ、またヘンてこりんなお話かしら?」

「いいえ、きれいなきれいな、空の国のおはなし……」


ページをゆっくりめくるように、おはなしは進む。

まどろみながら、輝きをまといながら。


消えゆく誰かを、また、みおくりながら。


「さようなら……わたしをずっと心配してくださって……ありがとう」

「あら?ミユキちゃんはまた誰かとお話?電気消していい?」

「ええ、どうぞ……お見送りが、ちょうど終わったところだから」

「今日は誰とお話してたの?」


かつてここで、あなたと共に働いていた方よ、とは言わなかった。

ミユキを心配して知り合いの見送り話だなんて。


ちょっとだけ、野暮な気がして。


「あ、流れ星……」

「うそっ!ミユキちゃん、願いごとした!?」

「うーん……しなくていいの」

「どうして?」

「じぶんでがんばって叶えた方が、ずっと……楽しいはずだもの」


灯りが消え、ミユキは眠りに落ちていく。

今日はどんな夢だろうか。


どんな夢でも構わないけれど、つかまってしまいたくはないものだ。


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