海に沈んだ天使

海良いろ

第1話 ミユキってへんなやつ



「昔、家にネコのキッチンマットがあったの」

「ん?」

「なにがわからないの?昔?家?ネコ?キッチンマット?なにもかも?」

「いや、キッチンマットとミユキが絵を描く理由の関係性が」


ミユキが首を傾げ、いつも同じ長さに切り揃えられた黒髪も一緒に流れていく。

さらさらと何の引っ掛かりもなく流れていくのが少し羨ましい。


「話はさいごまで聞きなさいな」

「はい……」


別に友達ではないのだ。

見るからにお上品なミユキと、どう見ても普通なナギじゃ分かるだろうが。

教室で話をすることもないし、一緒にお弁当だって食べない。

この世に何も共通点なんてない気さえする。


「わたしは3歳くらいで、5ひき描かれていたネコのうち、白い子が大好きだった」

「ふんふん」

「どうしてもその子だけ取り出したくて、キッチンに行ってはひっかいてたの」


なんで、美術室にいるんだろう。

ナギは美術部員でもないし絵も描かないのに。

何の用事もないはずなのに。

そう思っているのに、放課後は気付けばここにいる。


「そしたら、好きな子の部分だけボロボロになった上、捨てられてしまったのよ」

「うん」

「わたしたちの世界にひっぱり出そうとしたばかりにあの子は死んでしまった」

(おおげさな……)

「だからわたしの方が向こうへいこうと思って描いてるってワケ」


ナギは大きくため息をついた。

ああ、これこそ自分が美術室にいることになった理由だろう、と。


「でも、出てきてるじゃん、絵が」

「そうなのよね」

「現実にさ」

「まことに遺憾である」


そう。


ミユキの描いた絵は、たまにキャンバスから抜け出してくるのだ。








いつの時代かはわからないけど、それなりに不便で希望に満ち溢れた時代のこと。


どこからどう見ても普通の高校生、黒潮くろしお なぎは目の前の光景に言葉を失っていた。ナギは普通の高校生なので、きっと言葉を失うのが普通の反応なのだ。だって、現に周りの級友たちもそうだったから。


「転校生の海淵かいえん 海雪ミユキさんです」

「よきにはからえ」


増設されていた隣の席に転校生が来ることくらいは想定していた。


ただ、それと自身の席はおろかナギの席まで絵の具だらけになっていることの関連性はさっぱりなだけで。

凄惨すぎて、誰もがはじめにペンキ缶の投身自殺を疑ったことだろう。

でもペンキ缶にいまのところ自我はない。魂が天に還ったとかではなく。

無機物だからそういうものなのだ。いまのところはね。

今後なにかペンキ缶などの魂が証明されたら話は別だが。


「美術部員になろうかと」

「だからってそれはおかしくね?私の席どうすんの?」

「いつものことなので」

「私にとってはいつものことじゃないんだけど!?」


それ(転校初日)以来、ナギとミユキが話すことはなくなった。


話すことはなくなったが、ミユキという存在はナギの視界に常に焼きついていた。

最後尾なのを良いことに授業中もキャンバスに向かって絵を描き続け、それでいて聞かれたことは正確に答えるという、周囲にとっては迷惑極まりない存在だったから。


だから、誰も放課後の美術室に近寄ろうだなんて思わなかったのだ。


「それじゃあ黒潮さん、頼んだわね」

「えぇ~……」


嗚呼、あわれなナギ。

担任に頼まれ事などしなければ、行かなくて済んだのに。


まあいいや、さっさと放って帰ろう、などと考えていたナギだったが、この後の光景により3年間、放課後の美術室に通い詰めることになる。



「おじゃましまー……」

「あら、となりのひと」


きれい、としか言いようがなかった。

美術室は海で満ち、窓から射し込む光が乱反射して、まるでアクアマリンの中に入り込んだような錯覚に陥るほど。


「ちょうどよかった、実は溺れていたところだったのよ」

「……え?」

「いままでこんなことなかったから、わたし、こうみえてとても困っている」

「え、うん」

「助けてくださる」

「ど、どうやって?そもそも溺れてるように見えないというか……ナニコレ?」




しばらくして。




「え~っと、つまりこの美術室で描いたものが現実に抜け出るようになったと」

「説明がお上手」

「アリガトー……」

「他の部員方はそういったことがないようで、狂人扱いされて悲しかったわ」

「充分狂人の奇行だと思うけど」

「まあ、心外」


ミユキはへんなやつだった。

本当に本当にへんなやつだった。


「これからも助けてくださると、わたしは嬉しい」


ただえさえへんなやつなのに、へんなパワーまで得てしまった。


ナギはその夜、これから先の高校生活を憂慮し、すこし泣いたとか。


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