あたしがふたり
詩希 彩
①アイシングをする「あたし」
日も沈んで、すっかり暗くなった高校のグラウンド。野球部が使っている照明も届かないくらい離れた倉庫の傍にある水飲み場にあたしたち二人はいて、アイシング用の大バケツに水を注いでいた。
ランニングシューズを脱いで、揺れる水面に火照った足を触れさせて温度を確かめる。今のところは心地良い。でも、踏み込めばたちまち冷たい地獄があたしを出迎えてくれるであろうことは明らかだった。
眩しすぎる太陽はとっくに地平線の向こう側に沈んでいるというのに、残された熱気とじめじめとした空気だけが居場所を求めて抱き着いてくる。おかげでユニフォームの半袖シャツは肌に張り付くし、流れる汗が睫毛を乗り越えて目に入ってしみる。
そんな息苦しい暑さの中で、水がたっぷり入った大バケツだけが冷え切っていた。
「美羽、おそーい」
同級生の晴峰――ハルミネがだるそうに欠伸をして、大バケツを脱いだばかりの靴下で叩いた。汗で湿った靴下は重くて、バケツを叩くとドラムみたいな音がする。
ハルミネはまさにドラムを叩くのが似合いそうな、ボーイッシュな女子だ。髪は短く切られていて、それが癖毛のおかげで少しハンサムな印象を与えてくれる。
「だって意味分かんないくらい冷たいじゃん、これ。どうせアイシングするならプールに入りたいよ」
「あんま遅くなると先生がうるさいんだから、文句言ってないで早くゴーゴー」
「確かにそうだけどさ。……慣れないなぁ」
急かされてもなお、あたしはつま先で水面をかき混ぜながら躊躇していたわけだけど、ハルミネは「はーやーくー」と待ちかねて、今にも背中を押されてしまいそう。中学の頃、教科書で見た絵踏みみたいだ。あたしが隠れキリシタンで、ハルミネは役人。膝を持ち上げたまま固まるあたしに、早く踏み抜けとがなり立ててくる。
彼女を悪い役人にしてしまうのは気が引けるから、いい加減に観念することにした。
「膝、膝上までだけだから……」
情けない呪文を唱えて自分を勇気づけ、濡れないようにショートパンツをたくし上げる。
あごの先に溜まった汗をシャツの袖で拭きながら、水鏡に映る自分の顔を見る。水面が揺れているからか、よっぽどアイシングに怯えているのか、酷く歪んだ表情をしていた。褐色とは言えない程度の健康的な小麦色はいかにもスポーティーで、幼さを主張する。競技場に行くと似通った雰囲気の子をよく見かけて、少し面白い。
一つ息を吐いて、えいと片脚を突っ込んで水を踏み抜く。
「冷た!」
「短距離組、アイシング長いぞ!」
あたしの叫びに顧問の怒鳴り声が被った。グラウンドから離れた水飲み場にも顧問のメガホン越しの声はやたら響いて、思わず背筋が伸びる。水の冷たさも忘れてしまうくらい。うるさいなぁとは思うけど、もうすっかり慣れてしまって、あたしたちは二人して「はぁい! 」と適当に返事をしてみせた。
バケツに突っ込んだ片脚をずらしてハルミネのスペースを空けると、彼女は平気な顔で脚を突っ込んだ。毎度おっかなびっくりアイシングをしている自分が恥ずかしくなる。
顧問への小さな恨みを込めて、二人で顔を合わせてあっかんべをした。
並んで、バケツの中で脚を揺らす。冷水のたっぷり入った大バケツに片脚五分ずつ入れて、練習後の筋肉のこわばりを軽減するのだとか。最初は冷たいけど、五分経つ頃には慣れて気持ち良いくらいの加減になる。だから、アイシング自体は嫌いではなかった。
「そういえばさ、期末のテス勉どう?」
両脚を冷やし切ってバケツの水を捨てていると、ハルミネが靴下を履きながら話しかけてきた。背を向けていて表情は見えないけど、牽制するような、おずおずとした口調がにじんでいる。
「うーん、ぼちぼち、かなぁ」
濡れた脚をタオルで拭きながら、曖昧に返した。嘘ではない。曖昧で、ぼちぼち、それがいつものあたしだ。
「またまたー。美羽は冗談が好きだね」
信じていない様子。
ハルミネとは高校入学当初……というか、陸上部に入ってから2年の付き合いだけど、彼女はどうやらあまり勉強が得意ではないようだった。特に理数がてんで駄目で、テスト週間になるとわざわざあたしに教わりに来る。だからか、彼女はあたしを勉強がそつなく熟せる凄い人だと思い込んでいるところがあった。
全然、そんなことないんだけどなぁ。
思い込みを否定したいとは思うけど、わざわざそれを口にして空気を悪くするのも嫌で、あたしは喉元まで昇ってきていた言葉を飲み込んだ。
「そんなに自信がないならまた勉強会する?」
「やるならファミレスが良いなー」
「ファミレスだとハルミネの手がポテトで塞がるでしょ!」
教室では集中が出来ないとかスマホを触れないとか言い訳を並べて口を尖らせるハルミネを見て、笑みがこぼれた。肺に溜まった重たい霧が晴れて、楽しい気分が戻って来た。
あたしも靴下を履いて、二人でバケツを持って走り出した。また顧問に怒鳴られるのは勘弁だ。
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