一本炙り穴子ひと皿

紫鳥コウ

第1話

 お寿司屋さんにひとりで入る分には、財布とができるのだけれど、それがふたりになると――遠慮をしらない「特別な人」と行くと、出費がどれくらいになるのかは分からない。水嵩みずかさの知れない川に踏み込むような賭博的な勇気が必要になる。


 でもさ、その色の皿が「720円」の皿だということは、メニュー表を見てるんだから、分かってるよね?

「だから、なんですの?」

「ここは、ぼくが払うことになっているのですが……」

「払うといっても、たてかえてもらうだけですわ。あとで、お父様がちゃんと返しますから」


 これだけの額をたてかえるだけのお金が、ぼくにあると思っているのか!

 おい、大トロばかり食べるな。コーンとツナの軍艦を食べろ。うまいぞ。

 うん! これぞ、ぼくが子どものころから親しんだ味だ!


「おまちどおさま。大丈夫、持てるかい?」

「大丈夫ですわっ……あっ」


 身体を持ち上げて皿を受けとり、彼女の前に置く。一本炙り穴子……「600円」もするじゃないか。

「……なに物欲しそうに見ているんですの? 食べたいんですの?」


 箸で少しずつ切り分けて食べているお嬢様。皿からはみ出るくらいの炙り穴子だからな……。おいしいのだろうか。頼んだ(頼めた)ことがないから分からん。


「さあ、お食べなさい」


 お箸の持ち方は綺麗だな。上品だ。いま思うとなんで、最初はバッテンみたいになっちゃうんだろうな。

 それはともかく、衆目の前で、「お口を開けなさい」じゃないんだよ。


 向こうのカウンターの人たちが、じろじろと見てるぞ。

 部活帰りのジャージ姿の女子高生(たぶん)が、いまにも「きゃーっ」という声をあげそうにしているし、子どもが「あれなにしてるのー」と聞いているぞ。ご両親は、「見てはいけません」とか言いながら、ちらちらこちらを気にしているぞ。


「わたくしが差しだしたものに、口をつけられないと言いますの?」

「滅相もございません……が、ご遠慮致しますで御座候ござそうろう

 ――いろんなタイプの丁寧な言葉を並び立てて断る。


「ふーん。あっ、そう」

 やばい。お嬢様のご機嫌が悪くなってきた。


 鷹の群れに身をまれるのを待つより、虎の口に潔く飛び込むべし――という父の教えはともかく、ここは、皆様の視線とヒソヒソ声で編まれた針のむしろに座る気持ちで、差しだされた炙り穴子の端の部分を頂戴することにしよう。


「おいしいでしょう?」

「……はい、とても」


 阿鼻叫喚地獄あびきょうかんじごくならぬ、無言歓声地獄むごんかんせいじごくだな。「良い物をみた」という視線を感じる。子どもが母親の服の袖をひっぱり「ねえねえ、あれやって」とお願いしているが、きみもこの年になれば分かるよ。


 ――恋い焦がれているひとに、こういうことをされちゃうと、生きててよかったって思うんだよ。


「その箸……使うんですか」

「えっ? なにか問題でも?」

「いえ……なにも」


 それ、一応、ぼくの口に入っているんですよ? でも、それを指摘するときっと、


「たとえあなたが、口をつけた箸だったとしても、わたくしはまったく気にならない……わけないでしょう、はやくいいなさいよ、このヘンタイ。お父様に言いつけてやる。この煩悩外道ぼんのうげどう。炎熱地獄に真っ逆さまに落ちなさい。お釈迦様に蜘蛛の糸も垂らしてもらえないほどの大罪人は、インヘルノの業火にあえぎながら――」


 などと、言われるに違いない。

 お嬢様は、素行が悪いわけではないが、悪口のレパートリーが豊富だから。


 学業優先の家訓を遵守じゅんしゅし、休日授業もしっかりと受けてから、お父様たちがいる別荘へと向かう。


 お嬢様の運転手をしている親父が腰痛を患った一カ月前から、ぼくが変わりにハンドルを握っている。


 フリーターを続けているぼくを見かねて、お嬢様のお宅で雇われたらどうかと言ってくることもあるけど、ぼくには、ぼくの夢があるのだ。


 でも、こうしてお嬢様とふたりきりでいると、そうした気持ちも揺らいでくる。

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