第2話 参内

 いよいよ参内する日。事前に湯浴みをさせられ、隅々まで清められた。

 早朝、「女御さまからのお迎えの使者が参られておりますよ」という浮草の声で起こされた私はせっせと着替えさせられた。

 幾重にも重ねられた単の上に裳を重ねて女房装束を身にまとう。裳着をして以来の正装だから慣れなくて、長い裾を踏んでつんのめった所に、「お気をつけくださいまし、ちい姫さま」と浮草に皮肉付きで注意された。浮草のああいう皮肉屋なところ、嫌いだわ。

 女房としては一番の理解者なのだけれど。

「姫さま、重たくはないですか?」

 私より少し背の小さいささらが、心配そうにきいてきた。

「大丈夫よ、ささら。これくらい着こなせないと、立派な女性にはなれないわ」

 先ほど躓いていたのはどこのどなたさま、と浮草の皮肉を待ち構えていたが、どうやら彼女は姉さまが遣いでよこされた女房と話しているようだった。こちらを見ては何かを話している。

「きっと姫さまを案じて、大事がないようにとお願いしているのですよ」

 私の表情で察したささらが、にこりと笑った。この子は本当にいい子で困る。将来、誰かに騙されないか心配ね。

「では姫さま、お気をつけて行ってらっしゃいまし」

「お土産話、楽しみにしていますね」

 浮草とささら、他の女房らに見送られて、私は牛車に乗り込んだ。招待された身としては自分の女房はつれていけないため、身ひとつで参内しないといけない。実際そうなると、少々の不安がよぎった。

 

 がらがらと牛車は走り出し、牛飼い童の元気な声が外から聞こえた。

 牛車の中には、姉さまからの使者であろう女房が一人座っている。十八の浮草より年嵩で大人っぽい。落ち着きを身にまとって、さすが後宮に出仕しているだけはあると思わせる気品があった。

 そんな彼女と目が合ったので、急なことに私は肩を弾ませた。相手はゆっくりと頭を下げる。

「申し遅れました。お初にお目にかかります、わたくし登華殿の女御さまにお仕えしております松風まつかぜと申します」

「は、初めまして、よろしくお願いします」

「今回わたくしが二の姫さまを先導致しますゆえ、どうかお気をゆるめて、ご安心下さいまし」

「……ありがとう、松風」

 私が緊張しているのを見抜かれていたようだ。松風の気遣い溢れる対応に、少しだけ緊張が解れて楽になる。

 ふと、外の様子が気になって牛車の物見から顔を覗かせる。

 揺られている牛車の近くには、忙しなく行き交う人々。かちで歩く商人や馬に乗っている人など様々。外の景色はすっかり紅葉に色づいていて秋めいている。

 素敵だわ。

「珍しいですか」

「ええ、あまり外に出ないものだから」

「それはようございました。内裏には四半刻ほどでつきますので、しばらくご見物されたらよいかと」

 松風はさり気なく私に扇を開いて渡す。

 間違っても物見から顔を見られてしまわないように、との配慮だとすぐに分かった。浮草だったら顔を隠すどころか、外を見ないようにと促すわね。そこがこの女房との違いだわ。

 それにしても、外を眺めていたらいたるところに人相書きのようなものがある。歩いている人たちも、どこか怯えているようで。私は首を傾げた。

「ねぇ松風。このあたりで、何かあった…?」

「……昨晩、盗賊が出たようですよ」

「盗賊……!」

 あまり聞いたことのない綴りに、私は目を丸くする。松風も不安そうな顔で、話を続けた。

「この盗賊は乱暴で、狙いは貴族の牛車なのだそうです。被害にあった公達などは、酷いときには殺されてしまうそうなのですよ。誠に恐ろしいお話で、二の姫さまのお耳を汚したくはなかったのですけれど……」

 私のことを気遣ってくれる松風に、私は首を横に振った。

「そんなことはないわ。恐ろしい話だけれど、知っておいて損はないもの」

「そうでございますか……。姫さまは女御さまに似てお強いお方なのですね」

「そうかしら。まぁ、普通の姫なら怖がるでしょうけれど」

「ふふ、そうでございますね」

 盗賊なんて、そうそう出会うものでもないし。

 私はそう片付けて、松風との話に花を咲かせているうちに、牛車の速度が緩やかになり止まった。外から供人の「着きました」という声がかかる。それを聞いた途端、私の体は自然と強張ってしまった。姉さまに会うのは楽しみだけれど、後宮は初めて訪れる場所。忘れていた緊張が蘇ってくる。

 もう降りても大丈夫ですよ、という声に立ち上がったけれど、まだ揺られている感覚が残っているのか、体が傾いてしまう。先に牛車を降りていた松風が肩を貸してくれた。

「ここは……」

弘徽殿こきでんです。今は賜っている女御さまがおりませんので、こちらに車を止めさせて頂きました。登華殿の女御さまがお待ちですので、ご先導致します」

「ありがとう」

 私はお礼を言うと、松風に従う。迎えの女房たちもそれに続いたので、松風の態度やふるまいからしてどうやら彼女は登華殿の女房頭のようだった。

 松風に導かれて歩く後宮は新鮮そのもの。もちろん広いことは確かだし、目につく調度品はどれも煌びやかで高級そうなもの。すれ違う女房達は、後宮に出仕するだけあって誰もが美しく、行動に無駄がない。そんな場所を歩いている私は、一人だけ場違いな気がして仕方なかった。自然と背筋が伸びるけれど、動きがぎこちなくなってしまう。

 松風がこちらを振り向き、おどおどしている私に向かって「大丈夫ですよ」と声をかけてくれた。


 暫く歩いて、とある廂の間に案内された。先導していた松風が、御簾の前で恭しく平伏したので、私も続いて腰を下ろした。

「女御さま、妹姫さまをお連れ致しました」

 その声掛けに御簾内に姉さまがいるのだとはっとする。御簾で見えないけれど、うっすらと人影があるのが分かるから。そこから聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「ご苦労さまです、松風。早く妹の顔を見せてちょうだい」

 姉さまの声は変わらない。私はそこに姉さまがいるというだけで、安心できた。

 松風が姉さまに答えるように立ち上がり、長い御簾を巻き上げて私を中に入るようにと促す。そこには女御となって入内した時以来、初めて会う姉さまの姿があった。

 感動の対面、なのかしら。

「ああ……っ! 羽衣ういちゃん、羽衣ちゃん……!」

  私の顔を見るなり姉さまは顔を歪ませて、はしたなくも勢い良く抱き付いてきた。姉さまの黒く長い真っ直ぐな髪は乱れ、綺麗な襲目かさねめの袿は四方に翻っている。

 姉さまのお美しいお顔は今にも泣きそう。忘れていたわ。姉さまはお父さまよりも、私が大好きなのだった。

「羽衣ちゃん、久しぶりね……! 姉さまは、羽衣ちゃんに会いたかったわ」

「姉さま、相変わらずで何よりです」

「もう、ちい姫は姉さまに会いたくなかったの? 笑ってくれないわ」

「ちい姫って……もう呼ばないなら笑いますわ、姉さま」

 誰もかれも、私のことをちい姫と呼ぶ。暫く振りの姉さまもその呼び名を覚えていたみたいだから、私は拗ねたように口を尖らせた。そしたら姉さまは見るからに慌てて羽衣ちゃん、と言い直してくれる。

 溺愛されている自覚があるから、そこは利用しないといけないわね。

「お久しぶりです、姉さま」

 言い直してくれたので、私は姉さまに笑ってみせる。

 私も会えて嬉しいから、姉さまに向けた笑顔は本物。

「その笑顔こそ、わたくしの可愛い羽衣ちゃんだわ!」

 姉さまも満足そうに笑った。姉さまは私を解放して、元いた場所の上座に座る。あたりを見渡せば、普通の姫に侍るには多い女房が、姉さまの周りに集っている。その筆頭に松風。姉さまは後宮の女御さまなのだと改めて思わされた。この世で一番輝いている女性。今はそれが姉さまなのかもしれない。

 私が姉さまに面と向かうように座り直すと、すかさず周りにいた女房たちが私の裳を曲がらないように丁寧に皺を伸ばしてくれる。私がありがとう、と言って姉さまに向き直ると、姉さまは脇息に肘をついて頬杖をついていた。

「入内して暫くたってから、帝……主上おかみにね、羽衣ちゃんをこちらへ呼んで良いかとお訊きしたの」

「主上にわたくしのことを話したのですか?」

「そうよ。わたくしの妹はとても可愛くて、笑うと抱きしめたくなるの、って」

 それは主上が気の毒だっただろう。顔も見たことのない、女御の妹姫の話を聞くよりも帝自身を相手して貰いたかったに違いない。姉さまは私に目がなくて天然だから、主上の気持ちなど考えていなかったのだろうけど。そんな姉さまがよく帝のご寵愛を得られたものだわ……。

「主上は仰ったわ。羽衣ちゃんを参内させるなって。わたくしはだだをこねたけど、暫くは許してくれなかったの。どうしてだか分かる?」

 姉さまが私の方へ身を乗り出した。私は答えずに首を傾げる。

「わたくしが羽衣ちゃんを帰そうとしなくなりそうだって、主上が仰ったのよ」

 有り得るわ……。大いに有り得る。

「そんなの当たり前じゃない。主上よりも羽衣ちゃんと一緒に眠りたいもの」

「姉さま……それはあまりにも主上がお可哀想です……」

「流石にわたくしも少しは分を弁えてるから、主上の言うことを聞いたわ。だからすぐに羽衣ちゃんを呼べなかったの。凄く寂しかったわ……」

 憂いを帯びた姉さまの顔が、脇息の上にある腕に戻る。わがままな姉さまがご寵愛を受ける理由は何なのだろう。この世には不可思議なこともあるものだと思ってしまった。

「しばらくは泊まってくれるのでしょう? 羽衣ちゃん」

「数日で帰る予定です」

「なんてこと……!」

「お父さまにそうするようにと仰せつかったのですわ、姉さま」

「お父さまったら、お父さまなんて嫌いよと文を書いてしまおうかしら」

「そのようなことをしたら、お父さまは死んでしまいます」

 家族愛が強いのが我が大納言家らしい。

 二人とも好きだけど、たまに大げさになってしまう時がある。そんな時が困りものだった。





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