ちい姫さまの恋事情
南 亜月
ちい姫さまの恋事情 本編
上の巻
第1話 ちい姫
平安の世。
このご時世の恋愛は、好きなようには出来なかった。
親が決めた相手と文を交わし、それだけで相手が自分にふさわしいか判断する。
顔も性格も分からないまま結婚させられる。
だから、好きなように恋愛なんてできるものではなかった。
私だって、いつかはそうなるって漠然と思っていた。
知らなかった。
恋をすることが、こんなにも人を惑わすことが出来るなんて。
恋をすることが、こんなにも苦しいなんて。
こんなにも、溺れてしまうなんて。
この時の私はまだ知らない――……。
「うい、うい、
初老の男性の陽気な声が、御簾の中にいる私を呼んだ。
「お父さま!」
「おお羽衣子。今日も我が姫は可愛いの」
お父さまは機嫌よく、御簾越しに私の前に座った。私も慌ててそれに向き合う。
「お父さま、そのようにご機嫌で、どうなさいましたの?」
「あぁ、登華殿の女御さまから、そなたが参内するのを歓迎して下さる文が届いた。そなた、行きたがっていただろう?」
「姉さまがお許しに?」
「いつでも参内なさいと仰せだ。すぐにでも参内して、私にも翠子の様子を教えておくれ」
「喜んで行かせていただきます!」
かねてからの願いであったため、私に否定する言葉は持ち合わせていなかった。
お父さまも嬉しそうに笑う。
「翠子が入内してから寂しそうにしていたからの。そなたの喜ぶ顔が見れて良かった」
「御簾越しでもお見えになるの?」
「どうしてこんなに早く裳着をすませてしまったのかと悔やまれるのだよ」
「お父さまったら」
裳着を済ますと女性は成人とみなされるため、実の親であっても男に顔は見せられない。私を溺愛しているお父さまが悔しそうなのが、御簾越しでも目に見えて分かった。
私の名前は
兄弟は一年前に入内した姉と、
「姉さまはお元気そうですね。安心しました」
「そなたは翠子が好きだな」
「お父様に言われる筋合いはございませんわ」
「そうかそうか」
父は頭を掻くように笑い、扇を仰いだ。その風でぱたぱた、と御簾も仰がれる。
「後宮とはどのような場所なのかしら……。わたくしでも入れるの?」
「お父さまは羽衣子まで主上に差し上げるつもりはないぞ」
「わたくしは姉さまを悲しませることはしたくありません。お父さまったら」
「だからそんなつもりはないと言うに。羽衣子は冗談も分からぬちい姫だな」
背が小さいのは分かるけれど、いつまでもちい姫呼ばわりされるのは嫌。ちい姫なんて、赤子が呼ばれるものなのよ? 私ってまだ、お父さまにとってはちい姫なのかしら。
「お父さま。わたくしはもう裳着も済んだ立派な女です。いつまでもちい姫ちい姫と呼ばないでくださいまし」
「そう怒るな。私の可愛いちい姫や」
「……分かっていないようですね。お父さまを嫌いになってもいいのですか?」
「そりゃ、冗談がきついなぁ」
「ならば分かってくださいね」
「努力はしよう」
お父さまが返事をしながら立ち上がると御簾越しの影が大きくなる。ぱちん、と扇を鳴らす音が聞こえた。
「近々
「かしこまりました、殿」
私の付き女房、浮草がお父さまに向かって深々と頭を下げる。そしてそのまま見送りに行ってしまった。
「ようございましたね、姫さま! 参内できるのですね」
「ささら……」
「ささらに姫さまのお
「ささらにはまだ早いわよ」
つり目の女房が優雅な身のこなしをして、部屋に入ってきた。
「浮草さん……」
浮草が言ったことにささらがうなだれてしまったので、私が宥めるように髪を撫でてあげるけれど、浮草は気にせず言葉を続ける。
「お髪を清めるのには労力と根気と時間がいるわ。姫さまのお髪には少し癖がおありだから、尚更」
「悪かったわね、癖があって」
「姫さま。何も癖があるからと言って姫さまを愚弄したわけではございません。殿方は真っ直ぐなお髪を好まれますから」
「真っ直ぐにするのが大変って言いたいのよね」
女は顔より髪が命の国風は、少しだけ面倒くさい。だってどんなに気になってもそう簡単には髪が洗えないんだもの。今日も日が悪いから洗えそうにないわね。
「何はともあれ今日はお清めできないから、ささらは姫さまのお髪を丁寧に
「分かりました」
もの分かりの良いささらは、髪箱から櫛を取り出して作業を開始した。作業なんて大げさだけど、髪が身長よりも長いのだから仕方ないわ。
「参内はしたかったのだけど、改めて準備するのは大変ね」
「翠子さまは主上のご寵愛が一身に注がれているお方です。その妹姫が後宮に参内して何か噂を立てられては、翠子さまがお困りになられますのよ、姫さま」
「それはそうだけど……わたくしが何かしでかすような言い方ね」
「そのようなことは言っておりませぬ。姫さまはお可愛らしい方ですので、くれぐれもと申しているだけでございます」
どうやら浮草の私への愛情は斜め上から注がれているようだった。
「姫さまのお髪、私は好きです。ふわふわしてて」
ささらの幼い声が、背後から聞こえた。私の髪を撫でる手が心地いい。
「わたくしのような髪を猫っ毛というのよささら。殿方は真っ直ぐが良いんですって」
「ささらは姫さまのお髪も充分に美しいと思います」
「ありがとうささら。こんなこと言ってくれるのはささらだけだわ」
「まぁ姫さま。わたくしはいつも姫さまにお美しいと申しているではありませんか」
「浮草は皮肉があるから伝わりにくいのよ」
確かに、と私の言葉にささらが頷く。浮草は小さくため息をついて、日頃はつり上がっている目尻を和らげた。
「後宮で何事もなければよいのですが……」
「何よ浮草。わたくしを信じていないの?」
「もちろん信じておりますわ。我が姫は賢くあらせられますから」
「やっぱり皮肉たっぷりじゃない……」
この時の私は、この参内により人生最大の転機が二度も訪れるなんて知る由もなかった。
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