第6篇 葛西臨海公園駅:わたしたちの想い出

 「今度のお休みでどこかにお出かけでもしませんか」


 基樹くんからそうメッセージが来たのは、あり得ないほど続いた残暑がひと段落してやっと空気に金木犀の香りが漂うようになったころだった。


 やった!!!その通知を見たわたしは電車の中で口を綻ばせた。


 もうちょっとニタニタしてたらやばい人に思われるところだったのでマスクしててよかったかもしれない。


 「水族館とか行くのはどうでしょう?」


 まじ!?最高!!え!?デートじゃん!?


 ハロウィンで口裂け女のメイクと化してたら今頃表情筋緩みすぎてやばいことになってただろうから来週じゃなくてよかった。

 わたしはあふれ出るほくそ笑みを抑えられないまま「よろこんで!!!」と即レスしたのだった。



―――――――――――



 そうして迎えた11月の最初の三連休。晴れ女のわたしは今日も運がついていて、基樹くんとの待ち合わせも時間通りに行けたのだった。

 てか今日の彼すっとしてていい感じ。デート着のセンスいい。正面向いて喋れるかな。電車の中横並びでよかった。

 そんなことを思いながら降り立った海辺の駅は心地よいくらいの秋晴れだった。

 駅を出てまっすぐ行ったところにある水族園は祝日だということもあってまあまあごった返していたけれど、開園直後のラッシュを避けたうまい時間を彼が選んだみたいで案外すっと入れたのだった。

 

 ガラスのドームの中からエスカレーターを下っていくと、大きな水槽がばーんと目の前に飛び込んできた。エスカレーターが下るにつれて彼が上の空になっていったような気はしたけれど、そんな心配は悠々と泳ぐマグロを目にすると吹っ飛んでいってしまった。


「ねえ知ってた?マグロって泳ぎ続けないと死んじゃうんだって」

「ほんとだ、そうみたいですね」

 彼はわたしとマグロと時計を見比べながら言った。

「ちょっと基樹くんみたいなところあると思わない?」

 わたしは一匹のクロマグロを目で追いながら語りかけた。あ、あぶないよ。そこにはガラスあるからね。


「そうですか?」まるで心外だ、とも言わんばかりに彼の口調はそっけなかった。

「そうそう、何事にも一生懸命に突っ走るところがね」

 彼はそれには応えず、水槽から目を離してこう言った。

「あの、そろそろペンギンにえさをあげる時間みたいなので、見に行きませんか?」

 ぜひ!!!



 わたしたちは屋外に出た。するとちょうどよちよち歩きのかわいいフンボルトペンギンがわらわらと出てくるところで、飼育員さんからイワシぐらいの小さな魚をもらって器用に飲み込む姿は平和そのものだった。穏やかな秋の太陽のもと繰り広げられるほっこりした光景はいつまでも眺めていられそうだった。水族園の奥には海が広がり、横を見ると観覧車までもが日光を反射して輝いていた。遮るもののない空は東京であっても雄大に見えて、ペンギンとわたしたちはその中心にいる些細な存在に過ぎないのかな、なんて柄にもない考えに耽ってしまうくらいだった。


「ペンギンちゃんかわいい」これはほとんど独り言だったはずなのに、彼はこんな一言でも拾って最高の返しをしてくれるのだった。

「ほんとですね。楓さんもかわいいですよ」


 ほらまたそういうことを言う!嬉しくなっちゃうじゃん!


「ありがと。ずっと見てられそうじゃない?」


「でもこのエサやり、来年の1月からお休みになっちゃうみたいですけどね」

 ペンギンたちと景色をかわるがわる眺めていたわたしはその彼の一言でなんだか現実へと引き戻されたような気がした。


「ええー。いい空間なのにねー」

「改修工事するみたいです。何年か後にまた始めるらしいですよ」

「じゃあそのときまた見に来ようか」

 そういってわたしは彼の方を見て笑っていった。

 「そうしたいですね」

 彼もそう言って微笑をこぼし、さっきまでわたしが見ていた観覧車の方を向いた。

 でもその顔にはほんのちょっと暗い影がかかったような気がした。



「さっき観覧車見てませんでした?乗りたかったりします?」

 彼が尋ねてきた。

「いやこの空間すべてが好きだなーと思って眺めてただけだけど、確かに乗ってみたいかも」

「じゃあお昼食べた後にでも?」


 そうして数時間後わたしたちは観覧車の待ち列の一部を形成することになるのだった。

 でもわたしほどに彼が楽しそうでないような気がして、もしかして、と思ったわたしは待ち列から抜けることも片隅に入れて訊いてみることにした。

 


「ねえ、、、大丈夫?無理してない?」



 彼は少し気まずそうな顔をして俯きながら「はい」と言った。

「さては高いところ苦手なんでしょ。想像するだけでもダメなタイプの人いるもんね」


 わたしは空気が重くなるのを避けたくていたずらっぽく言った。天気だけは無駄にからっとしていた。


「ばれてましたか……」彼の声はかぼそかった。「すみません」


「ちょっと風にあたりにでも行こ。わたし飲み物とか買ってこれるけど?」

「そこまでは大丈夫です。風にあたるくらいで」



 わたしたちは川と海が交わる堤防のそばに移動して、遊歩道の脇にあるベンチに並んで腰を下ろした。

塩気を含んだ冷たい風はわたしたちのほほを気持ちよくさすっていった。


「大分ましになりました。ありがとうございます」

数分ぼーっと川の流れと時々飛び跳ねる魚を眺めていると基樹くんはそうつぶやいた。

「よかったー。それで、?」

わたしは今日であった時から仄かに感じていた違和感の正体を掴みにいこうとして尋ねた。

「なんでそんなに無理してるわけ?」



「……ごめんなさい。」彼の声はほとんど消え入りそうだった。



「いろいろ不安になっちゃって……ほら、あの……僕たちあんまりカップルっぽいデートとかもできてなくて、彼氏として頼りないというか面白くないと思われてないかな、って疑心暗鬼になってしまって……」


 彼は風にかき消されるか聞こえるかぎりぎりの声で、でも真剣な目つきをして話し始めた。


「それで定番のデートコースとか回ってみて完璧にエスコートとかできたらカッコいいかな、って……思ったんです。一番は僕があなたを楽しませたかった、ってのはもちろんですけど」



「そういうことだったのね」わたしは彼との距離が近くなるように座りなおしてしゃべり始めた。


「言ってくれてありがと。でもね、」わたしはいったん言葉を切って、でもまだわたしのターンだ、という雰囲気をつくったまま続けた。



「何が一番わたしにとって楽しいか知ってる?」



 彼はえっ、という顔をしてわたしの方を向いた。なのでわたしはそのまま言ってやることにした。


「基樹くんがわたしと同じくらい楽しんでることなんだけど」


 彼がはっとした顔をしてこちらを向いてきたけど、なんと言うべきかわからなさそうだったのでわたしはもうちょっと続けさせてもらった。


「もちろん水族館デートだってしたいし、観覧車とか乗れたらドキドキするし、ロマンチックなところとか二人で行ってみたいよ。でもさ、それだけじゃないじゃん。わたしたち二人が楽しめて思い出になる、わたしたちらしさみたいなのを見つける方がわたしとしては二人の関係性を構築していくにあたって大事なことなんじゃないかな?って思うんだよね」


 まあシリアスすぎる展開になるのはちょっと勘弁だったので語末をちょっとおどけた口調にしたけど。


「本当にごめんなさい」ストレートを投げたわたしに彼はまっすぐな視線で返してきて、わたしたちは目を合わせた。

 あ、これマジだ。この真剣でカッコいい目つき。

 いや別に怒ってるわけじゃないんだけども。なのでわたしは一言付け加えることにした。




「でもそうやって努力してくれる君のことは好きだけどね」



 ……待って。いまわたしさらっとこそばゆいこと言っちゃった?なんだか彼の方を向くのが恥ずかしくなってきたので正面の川の流れの方を向かせてもらって、でも代わりに彼の方へと寄りかかってみたのだった。

「ありがとうございます」思ったより返事はクールだった。というかいろんなことを考えていそうではあったけれどもわたしは顔をみていなかったので真相はわからない。

 そしてわたしたちの間には少しの間沈黙が訪れたのだった。でも決して気まずい間ではなかったとわたしは思うし、2人をふんわりと包み込む潮風は午後の太陽に照らされて暖かかった。なんだか落ち着いた気分がしたので、わたしは彼の肩に頭をもたれかけて、「ここいいところだね。なんかすっきりする感じしない?」とつぶやいた。



 すると体調的にもメンタル的にも少し元気になったのか彼が不意に面白そうなことを語り始めた。


「実は中学のころウォーキングの行事でここ歩いたことがあるんです」


「なにそれ」わたしは頭を持ち上げて会話をする姿勢になった。

「川沿いを30㎞歩かされる意味不明なイベントだったんですけど、その時のゴールがここだったんです」

「そうなんだ、楽しかった?」

「案外お喋りしてるといけちゃいました」


 よし、やるか。わたしは腹が定まったような気がした。


「ねえ、わたしたちでもそれやらない?」


「えっ」


「なんだかおもしろそうじゃん。基樹くんの経験の追体験もしてみたいし、わたしもお散歩は好きだからね」


「ふふっ、いいですね」

 彼の顔に笑みが戻って、それは今日初めての心からの微笑みであるような気がした。

 そしてわたしは思い出したのだった。この笑顔にやられたんだってことを。



「さすがに30㎞はあれですけど」

「そこまではわたしも嫌よ」

「じゃあ少しさかのぼると地下鉄が通ってて駅があるのでとりあえずそこ目指しましょうか」

 彼が地理感覚の強さを発揮してきた。よし、回復したみたいだ。


「よっしゃ、準備いい?」



 わたしは半分自分自身にも向けてこう言葉を発すると、彼の方を向いて、心なしか明るくなったほほに軽く口づけをしたのだった。してしまったのだった!!!



「!?」立ち上がろうとしていた彼は言葉を失ってこっちを向きかけた。

 でもわたしはその視線を受け止めることができるとは到底思えなかったので、川の方を向いたまますっと立ち上がって、「さっ、行こうか」とだけ言った。



 不意打ちを食らった基樹くんは立ち上がるのが一拍遅れたけれども、それでもわたしの手を引いて、「まいりましょう、楓さん」といつもよりちょっとだけかっこよく口にした。

 そうしてわたしたちはわたしたちだけの想い出を作りに、果てしない空のもと遊歩道を歩きだしたのだった。


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