ジンライムの誘惑
惣山沙樹
01 ジンライム
コンビニバイトをクビになった。
俺は深夜帯に入っていたのだが、酔っぱらいの団体に難癖をつけられ、カウンター越しに客を突き飛ばしてしまった。
幸い警察沙汰にはならなかったものの、
金ならまだ余裕があった。祖母に無心すればいくらか送ってもらえるだろうし。次のバイトを探すのも億劫で、俺は夜毎に街へ繰り出し飲んだくれていた。
初めて入ったショットバーでのことだ。先客が一人居た。その男はふんわりとした茶髪で前髪をラフにおろしていて、二重まぶたの大きな目が印象的だった。
俺は男と一つ席を離して座った。注文はビール。一杯目はいつもそれと決めている。男がタバコに火をつけた。香りが狭いカウンターを満たした。
「ここは初めて?」
男に聞かれた。
「ええ、まあ……」
「そっか。見かけない顔だと思ったから。若いね。いくつ?」
「二十歳です」
「うわっ、本当に若いや」
そう言う男の方も二十代中盤のように見えたのだが、質の良さそうなスーツを着ている辺り、三十代なのかもしれない。男は席を詰めてきた。
「僕、クレハ」
「クレハさん?」
「呉に葉っぱの葉で
「
「へぇ、可愛い名前」
この名前は嫌いだった。女を作って出て行った父がつけたという。百八十センチ以上に育つことを想定していなかったのだろうか。女性と間違われることも多いし、面倒だった。呉葉さんが言った。
「この店、わかりにくい場所にあるでしょ。だから常連さんとしか普段出くわさないの」
「そうなんですね。俺は新しいバーに行ってみたくて」
「そっか。乾杯しよう」
俺のビールが出され、呉葉さんと乾杯した。彼は背の低いウイスキーグラスを持っていた。
「伊織くんは学生?」
「いえ。バイトをクビになったところで。無職です」
「ははっ、僕が仕事でも紹介してあげられるといいんだけどね。あいにくそんなツテはないや」
「……呉葉さんはどんなお仕事を?」
「株やってる。軌道に乗ったから勤め人はやめた」
呉葉さんは足を組み、俺の顔をのぞきこんできた。
「伊織くん、カッコいいね。モテるでしょ」
「呉葉さんこそ」
「まあ、僕も伊織くんくらいの時は色々あったよ」
俺の初恋があえなく散ったのは高校生のときだった。相手は幼馴染の男だった。彼に彼女ができて、やっぱりそうだよな、と距離を置いたのである。
それからも、惹かれてしまうのは男性だった。女性から言い寄られたことも何回かあるが、その気になれなかった。よって、今まで恋人ができたことはない。
そんな話を初対面の呉葉さんに言う気にはとてもなれず、俺は他の話題をふった。
「呉葉さんはこの辺に住んでいるんですか?」
「うん。歩いて帰れるよ。昼夜逆転生活だし、この店にはよくお世話になってる」
呉葉さんはタバコを灰皿になすりつけた。そして、もう一本取り出した。
「伊織くんも吸う?」
「吸ったことないんですよね」
「じゃあ試してみなよ」
俺はタバコを手渡された。銘柄はピース。火は呉葉さんにつけてもらった。
「……苦いっすね」
「それが病み付きになるんだよな」
俺はビールで口の中を潤した。一本吸いきるまで、けっこう時間がかかった。そして、どこかに勤めているわけではない呉葉さんがなぜスーツを着ているのか気にかかった。
「呉葉さんは何かの帰りですか?」
「ああ、セミナーやってきたとこ。講師もやってるんだよ。早期リタイアしたい会社員は大勢いてね。お客には困らない」
それから、株の仕組みなんかを説明されたが、そもそも金のことなんてよくわからない俺にはちんぷんかんぷんだった。途中からそれが通じたのか、呉葉さんは話を打ち切った。
「二杯目、飲む? 僕がおごるよ」
「いいんですか? じゃあ甘えます」
「お酒は指定させてもらうけど。すみません、ジンライムを二つ」
緑色が鮮やかなライムがふちに飾られたカクテルが出てきた。爽やかな香りが鼻腔をくすぐった。アルコール度数はけっこう高くて、俺はちびちびとそれを飲んだ。
「伊織くんは一人暮らし?」
「はい。高校卒業して田舎から出てきました。職は転々としてますね。続かなくて」
「そっか。僕も一人暮らし。子供がいてもおかしくない年頃なんだけどね。ははっ」
ということは、やはり三十代くらいなのだろう。しかし、肌にはハリがあり、人懐っこそうな幼い笑顔からは、とてもそうとは思えなかった。
お代は結局全て出してもらった。一緒にショットバーを出て、人気のない階段のところで、俺は呉葉さんに尻を撫でられた。
「……伊織くん、男しか無理でしょ」
「何でわかったんですか」
「僕もそうだから。男と付き合ったことある?」
「無い、です」
「ふぅん。試してみる? タバコと同じだよ」
ジンライムの酔いのせいか、呉葉さんの色香のせいか。俺はその誘いに乗ってしまった。彼の住むタワーマンションまで手を引かれながらついていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます