第91話 水面に月が浮かぶ泉で

 京さんには言葉では言い表せない何かが取り憑いているのではないか。


 気を失ってしまった京さんに近づくことさえできなかったわたしはほとんど叫び声で彼女の名前を呼んでいた。


 異変に気付いて慌てて駆け寄ってきた京さんのご両親が彼女の名を呼び抱き起こすのをただ黙って見ていた。


 わたしもずいぶん動揺していたようで、ウィルに支えられて用意してもらった部屋に戻った気がする。


 ウィルが何か言ってくれていたような気がするけど、耳には入ってこなかった。


 怖かった。


 本当に怖かった。


 人が人でなくなるような感覚だった。


 わたしはそのまま、眠ることができずにじっと天井を凝視している。


 今日はいろんなことがありすぎて絶対体を洗いたいと思っていたけど、教えてもらった先の水浴び所へいくのさえ躊躇われた。


 それでも海水を浴び、汗もかき、どろどろだ。


「ああ、もうっ!」


 やっぱり眠れなくて飛び起きる。


 今は怖いというよりも、考えても考えてもわからなくって煮詰まっている、そんな状況だ。このもやもやが解消されるまではどうも寝付けそうにない。


「ダメだ。このままじゃダメだわ」


 寝苦しい暑さが影響しているのかもしれない。


 わたしは着替えを片手に、京さんからおすすめされた水浴び場まで向かうことにした。


 裏から向かえばそう遠くないと昼間に案内してくれた京さんが言っていた。


 その泉は京さんのおうちの少し先の敷地内にあって、身を清めるために使われているそうだ。


 月明かりが道標になってくれた。


 ほとんど誰も来ないし、もしも誰かが来ても途中に仕掛けられた鈴がなるからすぐにわかるだろうとその鈴の位置も教えてもらっていた。


 ひかからないようにいくつか巻き付けられたトラップを超え、上った先に木々の間に浮かび上がるように存在する大きな泉が見えた。


 昼間見た光景とずいぶん雰囲気が違う。


 どこから流れてきているのか、場所によって色を変える水面には大きな月が写り、遠くの方までキラキラと輝いている。


 岩陰に移動し、衣服を重ねる。


 さっと流してさっと帰ろう。


 京さんから借りた布を片手に足をつける。


「ひゃっ!」


 ひんやりとしていて飛び上がったけど、徐々に体をつけていくとだんだんその冷たさにも慣れてきて心地よい。


 月夜の下をすいすい泳げたら素敵だろうな、と思いながらも泳ぐことができないわたしは足が届くぎりぎりのところまで歩いて行き、空を眺める。


 星が無数に広がり、本当に美しい光景だった。


(来てよかった)


 先程までの恐怖や不安感がちっぽけなものに感じられた。


 いや、全然ちっぽけでもなんでもないんだけど、今は心が和らいだことに感謝した。


 長い髪の毛が水面の光とともに揺れる。


 心地よさに瞳を閉じる。


 普段の怖がりなわたしなら、得体もしれない不気味な生物がいるかもしれない夜の泉になんて入ったりしないだろう。ふと思う。


 それでもここは、なんだか平気だった。


 それ以上にきれいな幻想的な景色に癒やされたのか、力がわいてきたようにも感じられる。


 足が届かないと移動は不可能だけど、この先がどうなっているのかと好奇心はある。


 不思議なものだった。


 少し先の方で、バサッという音が聞こえたのはその時だった。


 何かが水面から現れたように思えた。


(え……)


 金色に輝く光がまず目に入った。


 数メートル先の様子を唖然と見つめる。


 それが人の形をしていることに気づくまで、そう時間はかからなかった。


(ど!)


 どうしよう。


 思わず硬直する。


 というよりも存在を消さなければいけないという感情が本能的に生まれた。


 金色なのは髪の色で、そのシルエットがゆったり髪の毛をかきあげる動作をただじっと息を潜めて眺めていた。


 まばゆい金髪は太陽の光のようで、その下にはすっと伸びた長い手と引き締まった体つき……


(だ、男性だ!)


 気づいた時にはすでに遅く、動揺とともにバランスを崩した私は咄嗟に腕で水面を力いっぱいはたき、すさまじい音を立てた。


「誰だ?」


 その声に聞き覚えがあり、目と耳を疑う。


「ローズ……」


 その瞳もわたしと同じくらい大きく見開かれていた。


「なんでここに……」


 あなたこそ……そう言いたかった。


 でも、声にならなかった。


 だって、この月明かりの下ではその人は、わたしが見たこともない人に見えたのだから。 

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