愛のドームに囚われて

藤原くう

第1話

 空から落ちてくる巨大なワイングラスを想像してほしい。何言ってんだこいつ、みたいな顔をするより前に想像してほしい。


 ……できただろうか。


 オーケー。


 そいつがわたしを閉じ込めている。


 ちょっと待ってほしい。クスリでもやってんのかって思ってるだろう。生憎クスリなんかやっちゃいないし酔っぱらってもいない。しいていうなら、彼女とのはじめてのデートに向かう最中で、浮かれてはいたかもしれないが、それはさておき。


 わたしは待ち合わせ場所へと走っていた。昨夜は楽しみすぎてほとんど眠れなかったのだ。目が覚めたときには待ち合わせの時間まで一時間を切っていて、それで慌てて家を飛び出したのがついさっきのこと。


 で、ワイングラスみたいなやつに閉じ込められたってわけ。


「最悪だ……」


 スマホで時刻を確認すると待ち合わせ時間になっている。今から全力疾走しても一時間か二時間は遅れてしまいそう。脱出できたらの話だけど……。


 透明な壁に触れてみれば、つるりとした感触に熱を奪われるような感覚がする。透き通るような素材といいガラスのようだ。


 壁は頭上でくびれており、ワイングラスでいうところの持ち手みたいな感じになっていた。穴は見受けられない。


 壁に手をついて一周回ってみる。だいたい半径2mくらいだろうか。地面と接する部分には隙間はなく、アリンコ一匹だって逃げられはしないだろう。


「これってヤバくないか……?」


 理科の実験でやったことが頭をよぎる。


 火をお椀か何かで被せると、火が消えるって実験だ。あれと同じように、わたしの命の灯もまたフッと消えてしまうのではないか。


 そう考えると、体が勝手に動いていた。


 わたしは声の限りに叫び、ゆるやかにカーブした壁をドンドン叩く。だけど外を歩く人々は、スマホやら隣を歩く彼女やらを見るばかりでこっちなんか見やしない。


 腹立たしいことこの上なかったのでわたしは怨嗟の念を多分に送っても、誰もすっころびはしなかった。


 こぶしは痛いわ息は切れるわもう散々。わたしは壁に背を向けてもたれかかる。


 子どもに閉じ込められた虫みたいにこのまま死んでしまうんだろうか……。


 いや待て深呼吸だ。焦ったってしょうがない。この状況で酸素を無駄遣いするのはどうかと思ったが、生理的なものには逆らえなかった。


 そうやって少し休憩していたのだが、意外なことに息苦しさはない。どうやら、目には見えない微小な穴でも開いているのか。


 なーんだとホッとしたのも束の間。不意にスマホが鳴り始めた。




 いきなりのことでびっくりしたわたしは、飛び上がってスマホを確認する。画面に表示されていたのは、命先輩の名前であった。


 命先輩っていうのはわたしが所属しているサークルの先輩で、眉目秀麗・才色兼備を体現したかのような人である。智に働けど丸く情に棹を差しても流されず、むしろ大波でも起こさんばかりの女傑だ。当然、大学での人気は男女問わず高い。


 そんな命先輩は、平々凡々なわたしにも声をかけてくれる。よく遊びに誘われるし……今回もどっか遊びに行こうぜってことなのかもしれない。わたしがこんな状況じゃなかったらなあ。いやダメか。本当は彼女と遊びに行く予定だったんだし。


 わたしは電話に出た。


「もしもし」


「あーもしもし君のかわいい先輩、命ちゃんだけど」


「何の用ですか。僕はちょっと忙しくて」


「忙しいって、ああ、今日はデートの日だったか」


「どうして命先輩が知ってるんです?」


「そりゃあ、君がお酒の席で言ってたからさ。あの時は見ものだったね。古門君に抱きついてさあ、惚気てるんだもの」


 古門というのは彼女の名前である。


「うわあ……」


「まあまあ、もうサークル公認の仲じゃない。気にしない気にしない」


 そんなフォローの言葉をもらったって恥ずかしいものは恥ずかしい。それに、サークル内に広めたのは命先輩に他ならない。もっとも、そのおかげで今の彼女とは付き合えてるってのも事実なんだけども。


 命先輩は千のあだ名がある。その一つが恋のキューピットである。こちらの可憐なキューピットの類まれなる手腕によって、わたしは生まれてはじめて恋をしたというわけだった。


「どう? デートは楽しいかい」


「それが……」


 わたしの煮え切らない言葉に、およ、という声がやってくる。


 わたしを取り囲んでいるこの状況を話すべきなのかどうか迷った。言ったところで頭のおかしいやつ扱いされるだけな気がする。


 うーん。


 悩んでいると「どうしたの」という声がスピーカーから聞こえてくる。


 脳内を駆け巡るのは、命先輩との楽しい思い出。楽しかったは楽しかったけれども、先輩に巻き込まれていただけだったような。


「もしかして、彼女ちゃんにフラれちゃったとかー?」


「そうなっちゃうかもしれない……」


「あらら。どうしてそうなっちゃったのかおねーちゃんに教えてーな」


 そう聞かれると、わたしは断れない。というか先輩に頼まれたらたいていのことは断れないんだけどさ。まあとにかく、先輩にこれまでのいきさつを話すことにした。




「酔っぱらってる?」


「全然まったく」


「じゃあ近くにポピーに似た植物が植わってない?」


「あの、ケシも大麻も生えてないですから」


「ふうん。幻覚じゃないってことか」


「幻覚だと思いたいですよ……」


 わたしは透明な壁を叩く。コンっと音が響き、硬いものを叩いたという感触が返ってくる。幻覚にしては、はっきりとしすぎている気がする。


「君、どこにいるんだい?」


「駅前の通りです」


「大通りか。じゃあ人の数は多いだろう。叫んでみたらどうだい」


「もうしましたよ……でも返事はありません。そもそも反応を示さないみたいで」


 叫んでも叩いても反応がないことは先ほど確かめた通り。壁に顔を押し当て変顔をしても、噴き出す人はいない。そもそも視界に入ってないんちゃうか。


 そうやって道行く人々を見ていると、気づいたことがあった。


「みんな壁にぶつからないように避けてますね」


「見えてるってこと?」


「見えてるんなら、変顔にリアクションしてほしいんですけど」


「じゃあ、認識から抜け落ちてるってことかもね」


「どういう……?」


「盲点ってあるじゃない。あんな感じ」


 わたしとわたしを閉じ込めている透明の牢獄は、他者の認識の外にあるものらしい。脳が見ようとしていないから、見えやしないし声も届きはしないってことなんだろう。


「じゃあ、助けは期待できないってことじゃないですか!?」


「まあまあ落ち着きたまえ、少年」


「よー落ち着いてられますね!? 他人事だからでしょ!」


「確かに私からすれば他人事だけどさ、そうやってぎゃーぎゃー騒いでたら問題が解決されるの?」


「そりゃそうですけど」


「なあに? かまってほしいの?」


「ち、違いますっ!」


「それなら建設的な話をしましょ」


 その声音は嬉しそうで、わたしは困惑してしまった。呑気すぎやしないだろうか……。

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