ep20 新人合同自主トレ
合同自主トレ初日の朝、
俺はコンコンコンと釘を打つ音で目が覚めた。
部屋から出てみると、脚立にのった業者さんが雨漏りの穴を塞いでいた。
朝早くから仕事なんて大変だなと俺は思い、「朝早くからご苦労さまです」と声をかけた。
朝食を食べに食堂に降りた。
大沢が既にご飯を食べていたので、向かいの席に座った。
俺はあまり食べられないので、ご飯は小盛りを注文した。おかずは何品もあり、食べ切れるのか心配だった。
俺もご飯を食べ始めた。
ご飯の間、俺は大沢としゃべっていた。
「三軍の施設がこんなにもボロいとは思わなかったぜ。やっぱり、プロとはいえ、三軍にお金をかける余裕はないのか」と俺が言った。
「それもあると思うけど、劣悪な環境に選手を置くことで、早く二軍や一軍に上がりたいと思わせたいんじゃないか」
いわゆる、ハングリー精神を養うってやつか。
ファン感のときのこととか、ユニフォームのこととかもそういう目的だったし、一理あるかも。
「なるほど。一軍と二軍と三軍で差をつけているわけだ」
「お前は野球について素人だから知らないかもしれないけど、プロ野球の世界のヒエラルキーは厳しいし、残酷だぞ」
俺は馬鹿だから、ヒエラルキーの意味がわからなかった。
「ヒエラルキーってどういう意味だ?」
「要するに序列のことだ。
プロで言えば、一軍のレギュラー、一軍の控え、一軍と二軍を行ったり来たりする選手、二軍のレギュラー、二軍の控え、二軍と三軍を行ったり来たりする選手、三軍のレギュラー、三軍の控えって細かく分類できる」
そんなに細かく分類されるのかぁ。
「その序列で具体的にどんな違いがあるんだ?」
二軍と三軍の違いは若干わかったけど、一軍や二軍の違いはどういったところがあるんだろう。
「わかりやすいところで言えば、遠征先への移動手段だ。
一軍は新幹線のグリーン車、二軍は新幹線の普通席、三軍はバス移動だ。
あと、宿泊先のホテルも、一軍は一流ホテルだけど、二軍三軍はビジネスホテルだぞ。
それと、道具に関しても違いがある。一軍の選手はグラブやバットを自分の好きな形に一から作ってもらえる。さらに、一軍のトップレベルのプレーヤーはアドバイザリー契約を結び、メーカーからお金がもらえる。
二軍の選手は既製品を支給してもらえる。
三軍は全部自腹で購入しなければならない」
なるほど、非常にわかりやすくて、はっきりした例えだ。
「一軍のレギュラー、一軍の控え、一軍と二軍を行ったり来たりする選手の違いはなんだ?」
「それはずばり、お金だな。
一軍のレギュラーは1億以上もらっている選手も多い。
控えは、それほどはもらえないけど、最低保証年俸と言って、一年間一軍に居続ければ1600万円もらえることが保証されている。
一軍と二軍を行ったり来たりする選手は自分の年俸が1600万円より低かった場合、1600万円引く自分の年俸額を一軍の年間試合数で割り、その数字に一軍登録された日数を掛けた金額がプラスでもらえるんだ」
そんな細かい取り決めまであるのか。
「確かに格差が激しいな」
「だからこそ、一つでも序列を上げようと、みんな必死に努力するんだよ」
このあとも一軍や二軍、三軍についての話などをした。
途中、大沢はご飯のおかわりに行った。帰ってきた大沢のお茶碗を見ると、漫画のようにご飯がてんこ盛りになっていた。
二杯目もそんなに食べるのかと俺が聞くと、大沢は、これで三杯目だと答えた。
とても恐ろしい事実だ。
身長もあんまりなく、小柄な大沢のどこに、こんな量が入るスペースがあるのだろうか。
周りのヤツを見てみると、次から次へと、ご飯をおかわりしていた。
ヤバい、食べる量で差をつけられている。
アスリートとして、しっかり食べることは重要だとわかっていてもなかなか食べられない。
午前10時
昨日の振り分けで、三軍行きを命じられた、俺を含めた8人の育成選手で、自主トレが始まった。
軽いアップなど、腕を使わないメニューをこなしたあと、俺は練習を外れ、別メニューを始めた。
三軍マネージャーの牧本さんに作ってもらった今日のメニューは、外野のライトポールとレフトボール間を全力で走るポール間走や、下半身の筋力トレーニング、ランニング、体幹トレーニング等だった。
俺はグラウンドの隅で体幹トレーニングをしながら、他の選手の練習を観察していた。
育成選手でもプロの選手だけあって、みんな上手かった。
もちろん、この間見学した秋季練習での一軍選手のプレーには遠く及ばないが、俺の高校の野球部の選手とは動きが全然違った。
守備では、一歩目の動き出しの早さが早かった。
ノックで、ノッカーがボールを打った瞬間に動き出していた。
ボールを取るとき、イレギュラーバウンドで打球方向が変化しても、簡単に対応していた。
一塁手への送球も軽く投げているのに、うちの高校の野球部の部員が全力で投げるのと同じくらいの速さだった。
打撃も一つ一つのスイングがとにかく速いし、芯で捉えている打球が圧倒的に多かった。
俺と同じピッチャーに目を向けてみると、やはり目立つのは球速の速さと、変化球の曲がりだった。
コントロールもストライクゾーン内に基本投げられていて、外れたとしても、ボール1個分外したとかだった。
俺は自分がこのチームの最底辺にいることをあらためて実感した。
練習を球団職員やコーチと思われる人が熱心に視察していた。
時折、ノートにメモを取りながら練習を見ていた。
あのノートには選手の評価とかが書いてあるのかな? と思った。
だとしたら、練習に参加できない俺は論外だなと落胆した。
昼ご飯をはさみ、午後の練習が始まってから、1時間ほどすると、俺は牧本さんが作ったメニューをすべて消化した。
もっとトレーニングしなきゃ、他の選手との差がさらに開いていくと思い、追加のメニューを頼んだ。
俺は懇願したが、頑として牧本さんは首を縦に振らなかった。
「今、君は人生の岐路にたっている。
リハビリ期間である今の過ごし方が、選手生命を決めることになるかもしれない。
もし焦ってオーバーワークをして、他の箇所も怪我したら、リハビリ期間が更に伸びて、取り戻せないくらい他の子との差がつくんだよ」
俺はハッとした。
そうだ、焦って怪我をしたら今度こそ選手としてやっていけなくなる。
俺の頭には熱心に口説いてくれた佐藤さんの顔が浮かんだ。
「君が今できることは他にもある」
そう言って牧本さんは大量の資料や書籍を出してきた。
「君は野球素人だ。
だから野球の基礎から学ばなければならない。
そのために、資料を用意した。
このあとはこれでしっかり勉強しなさい」
俺は牧本さんがくれた資料を使って、野球のルールやセオリー、そして練習方法など多岐にわたることを座学で学ぶことにした。
夕方になり俺は勉強を終えた。
時刻が午後7時を過ぎたので、夕食を食べに食堂に向かった。
その前にお腹が急に痛くなったので、トイレの個室に駆け込んだ。
俺がトイレをしていると、二人の会話する声が聞こえてきた。
まだ、他の選手のことを把握しきれてなかった俺は、誰が入ってきたのかわからなかった。
けれども、なんとなく会話の内容が気になって、耳をそばだてた。
「なぁお前、アイツのことどう思う」
「アイツって誰だよ」
「育成最下位で入ってきた、身長が2mを超えてる、ヒョロガリだよ。名前は確か…… 思い出せねえや」
二人の話題は俺のようだ。
「スカウトに裏金渡して、コネで入ってきたってやつだろ? 名前は岬だよ。 俺の周りのやつはコネと岬を掛けて、コネサキって呼んでいるよ」
俺は裏金を渡してなんかいないし、コネでもないわ!
「そうそうそいつだよ。入寮する前から怪我してるとかマジで馬鹿だよな。おまけに、怪我の理由はバドミントンらしいぞ」と一人の選手が笑った。
「まじかよ。プロ意識の欠片もねえな。そうだ、あいつがいつ音を上げて、辞めるか掛けようぜ」
人が辞めるのを掛けの対象にすんなよ。
「おもしれえな、それ。のった。俺はキャンプで耐えられなくなって辞めると思うぞ。一万かける」
「よし、一万だな。俺はこの自主トレの間に辞めると思うぞ。普通なら自分の場違い感に耐えられないだろ」
二人はそう話しながら、出ていった。
俺は心底腹がたった。
俺をばかにするのも腹が立つが、何より許せないのは、佐藤さんが裏金をもらってコネで入団させたってところだ。
あんなに熱心でいい人の佐藤さんを侮辱するなんて!
俺は意地でも3年間の間にコイツらより上にいってやると誓った。
夕食を終えて、俺はトレーニングルームに向かった。
牧本さんから夜のトレーニングは許可されていたからだ。
トレーニングルームでは一人の選手がトレーニングをしていた。
俺はその人の顔を見て、びっくりした。
その人は朝、雨漏りの修理をしていた人だったからだ。
業者さんだと思っていたら、なんと選手だったのだ。
「お疲れさまです。朝、雨漏りの修理をしていた人ですよね。てっきり業者さんだと思いました」と声をかけた。
「お前は確か、育成最下位指名の岬だよな。俺は育成9年目の村川だ。よろしく」
選手の指名順と名前を覚えているなんて、なんてしっかりした人なんだ。
「よろしくお願いします。それにしても何で選手なのに寮の修理をしているんですか」
「これが俺の生き残る唯一の道だからだよ。
育成を9年もしてるってことは、つまり、俺は野球が下手だ。
育成は芽が出なかったら、長くても6年で切られる。
俺はとにかく野球が好きなんだ。だから、野球をやることで給料がもらえるこの仕事は天職なんだ。たとえ育成だとしても。
そして、長く選手を続けるために、俺はこの道を選んだ。
後輩の面倒をみたり、寮の修理をしたり、いわば便利屋だ。
球団にとって都合のいい存在になることで、クビにならずに、選手を続けさせてもらってるんだ」
こんな人も育成にはいるんだな。
この後も村川さんと色々話した。
村川さんは俺と同じ左投げのピッチャーで、大きく負けている展開になったら、試合に出してもらえるそうだ。
こんな起用方法をされて、しかも便利屋になってまで野球を続けるなんて、よっぽど野球が好きなんだ。
最後に村川さんは言った。
「お前は佐藤さんが見つけてきた選手だ。
あの人の目に狂いはない。
お前は絶対に俺みたいにはなるなよ」
次の日は朝から、球団と契約しているスポーツ医の先生に怪我の治りを診てもらうために、松山に出かけた。
怪我の治りは想定よりも順調で、3月のはじめくらいには腕を使った練習もできるかもしれないそうだ。
俺は喜んだ。
けれども、「焦りは禁物で、オーバーワークは絶対にダメだ」と釘を差された。
自主トレの期間中は昼過ぎまでトレーニングをして、その後は座学で勉強をするという日々を送った。
こうして新人合同自主トレは終わっていった。
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