1.1 優と澪
目覚まし時計の音がジリジリと部屋中に響き、それにより私の睡眠は妨げられる形となった。私を起こした犯人の顔が差している時刻を見てみると、いつも起きている時間より、幾分か早いことに気づく。何故かと思い動かない頭を必死に動かし考えていると、とある答えに行きつく。
「……そうか、今日、入学式だ」
その事実を知ると少し憂鬱な気分になりながら、私はベッドから体を起こそうとする。が、外界の空気に触れた途端、あまりの寒さに驚き、思わず毛布の中に隠れてしまう。
そんな状態が数十分続いた頃。何を思ったのか、ふと天井に手を伸ばす。もちろん天井に手は届かない。私と天井の距離が縮まることはなく、ただその位置関係が維持されたまま。まるで、今の私の状態を暗示しているようだった。
「……むう」
そんなことを考えた私に苛立ち、思いきって私はベッドの上に立ち上がり、天井を触れてみようとする。
……届かない。ジャンプをすれば届くのかもしれないけど、今の私にそんな気力はない。溜息を一つ吐くと、私はベッドの上から降り、リビングのある下の階へ歩いていく。
階段を下りていく中、私の中に残っている感情は、天井に届かなかった苛立ちではなく、安堵感だった。だって、あのままならいつか届くだろうから。私さえがんばれば、触れられるだろうから。……変化さえ、しなければ。
朝食と身支度を終えると、私はスリッパから置いてある靴に履き替え、扉を開き玄関を後にする。外は四月とは思えない程寒く、思わず口元に手を当て白い息を吐きながら、マフラーをきつく結び直す。
通学路となる道を歩みながら、私は辺りの景色に視線を送る。川の上にある歩道橋、何の変哲もない電灯など、普段なら何も感じない風景が、桜の花びらにより着飾られ美しい風景を生み出している。
ピンク色に道を染めていく、この春という季節。私はあまり、好きじゃない。何故なら、出会いと別れが同時に生まれ、変化を強要してくる季節だからだ。
今まで築き上げてきた友人関係が崩壊し、それを再度別の人間で構成し直す。これを強制的に求めてくるのが、春という季節だ。かといって一人でいることを選ぶと、白い目で見られたり異端扱いされてしまう。どちらを選んでも面倒くさいのが、これまた厄介だ。
そんなことを考えながら、桜の花びらを靴の裏に付け通学路を歩んでいる中。背中の方から、声が聞こえてくる。
「おーい、澪!」
一帯に響く大きな声が耳に届く。その声が私の中で反響すると、何故か体が暖かくなってくる。
私はそれに対し返すように、腰辺りに肘を付け小さく彼女に手を振る。そうしていると、彼女は私の隣まで来て、息を切らしながら青色の瞳を覗かせる。
「おはよう、澪」
「……うん、おはよう、優」
彼女の名前は立花優。私の唯一の友達ともいえる存在だ。中学三年生のときに、とあることをきっかけに関わるようになり、高校も偶然同じ場所に進学という形になった。……実際は偶然ではなく、私が意図的に選んだのだが。
自分の邪な感情による選択に若干気後れしていると、優が早歩きをして私の少し前を歩く。青みがかった長い黒髪が桜の色もあいまい、美しく揺れている。背中から見える姿ですら他の人とは違う彼女に対し、思わず頬が緩む。
「今日から高校生だね。なんか不思議な気分だよ」
「私も。あまり、実感ない」
住宅街とは少し離れた道を歩きながら、私たちはそんな他愛のない会話を交わしていく。そんな時間ですら、私にとってはキラキラと輝く、かけがえのないものだ。
そうして数十分歩き続け、少し会話の数が少なくなりながらも、心地の良い空間が広がっていたときのこと。ふと、目の前を歩く彼女の一部分に視線が注がれる。無防備な右手だった。
もし、私がここで、突然手を握ったら……。
不純な思考が過ったことに気づき、思わず頬を赤くする。優が私を見て不思議そうな表情を浮かべるも、平然な態度を取ることにより、事なきを得る。
そもそも、手を握ったところでどうなるんだ。私が彼女に触れて、何になるというんだ。頭ではそう言い訳しているけども、心は自らの欲望に従おうとしている。
別に、優に恋愛的な何かを向けているわけではない。好意はあるが、それは恋愛とは別物なのである。……そうでなければいけない。今の関係に不満を持ってるからアクションを起こしたいだけで、特段そういうものはない。
顎に指をつけながら思考を巡らせている中、もう一度前を歩いている優の右手を見る。先ほどと、全く同じであるはずのモノだった。だけど、その手にはさっきまではなかった見えない何かがあるような気がした。掴んだら、離れて行ってしまいそうで。けど掴まないと、何も起こらなそうで。
私は唾を飲み、ゆっくりと彼女の右手に左手を近づけていく。薄い空気の層を何枚も通り抜け、自問自答を繰り返す。
そして、ようやく手と手が触れ合おうとしたとき。そのギリギリの調和が崩される。
優が右手で前の方を指し、高揚感溢れる表情を浮かべながら、口を開いた。
「見て、澪! 私たちの学校だよ!」
太陽のような笑顔をこちらに見せながら、優はそういう。だが私にとってはそんなことどうでもよく、私の手が優に拒まれるような形になってしまった、という事実に少し苦しくなり、思わず掴めなかった左手の手のひらを見つめる。
「……大丈夫?」
そんな私を気遣ったのか、優は不安そうな表情をこちらに見せながら、私の顔を覗き込む。文字通り目と鼻の先まで顔を近づけてきた彼女に驚き、私は赤面し、普段見せないような速度で後退する。
「おっ、大丈夫そうだね」
「……うん、大丈夫。ありがとう」
そう返すと、またも彼女は笑顔を浮かべる。そうしてもう一度歩き始め、再度私たちは学校に向かって歩き始めた。彼女の手を掴めなかったという、私が勝手に生み出した事実を残しながら。
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